心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年12月11日(火) 「飲酒欲求がない」だって!?

「飲酒欲求がない」という人がいます。
その言葉を微笑んで聞くしかありますまい。

僕がある程度飲まないでいた後でスリップ(再飲酒)したときの気持ちを振り返ってみると、自己破壊的な衝動で飲んだことはありません。いつでも、もう少し幸せを感じたいとか、辛いから少しでも楽になりたいという「幸せを希求する気持ち」から最初の一杯に手を出していたのです。
時には、「くそー、俺をこんな風に粗末に扱いやがって。俺が飲んだらどんなに困るか思い知らせてやる」という気持ちから飲んだこともありましたが、それですら「きっと胸がすっとするに違いない」というある種の幸福感を求めてでした。
どの場合でも、飲んだ結果は悲惨でしたから、「幸せを求めて酒を飲む」のは長期的展望を欠いた短慮に過ぎなかったのは明らかです。しかし、幸せを求める行為そのものは悪くはありません。悪い心(悪意)で酒を飲んだのではなく、良い心(善意)から飲み始めたのであります(ただ狂っていたけど)。

「飲酒欲求がない」という話は、おそらく「次の酒を求める肉体的な渇望が消えた」と言っているに過ぎません。飲み出せば止まらない病気であり、次の一杯を求める渇望はあまりに強力です。「お酒は次第に遠ざかります」とスポンサーから言われたように、酒をやめ続ければ、肉体的な渇望は次第に静まっていきます。

しかし「あれだけ痛い目を見てせっかくやめたのに、また飲み出してしまう」という精神的とらわれのほうも、実は一生ものです。その狂気は最初の一杯を飲ませようと、手ぐすね引いて待っています。それは飲酒欲求というほど強く感じられる欲望ではないかもしれませんが、飲酒欲求には違いありません。
「幸せを求めて酒を飲む」という論理は、深く脳に刻まれてしまったために、もう消えることはありません。僕らはそのぶり返しに対して無力です。

だから、幸せになりたいアルコホーリクには、例外なく飲酒欲求が潜んでいるのだと、僕は思っています。

アルコホーリクは自分をごまかすのが上手ですから、飲みたいという気持ちすら、うまくごまかして「ないこと」にしてしまいます。だから、毎朝粕漬けの魚を焼いて「俺は飲みたいんだぞー」とアピールするのは、実に自分に正直な態度です。家族にも危険度がよく分かりますから。

「飲酒欲求がない」と言っている人は、何に対して無力なのか分かっていない困ったちゃんであります。


2007年12月10日(月) 10 years ago (19) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (19) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

その入院ではいろいろな人たちと知り合いました。そして、そのつきあいが、退院後も細いながらもずっと続いていったのが、その前の入院と違っていました。

ロビーでタバコを吸っていると、Sさんというおじさんが声をかけてくれました。若い奴が入ってきたので面倒を見てやろう・・と思ったのかどうか知りませんが、まさこんな生意気なヤツだとは思いもしなかったでしょう。
「明日保護室から出たら、部屋の隣のベッドが空いているから来いよ」と言ってくれましたが、一介の患者に過ぎない彼にそんな権限があるのかどうか・・ところが彼は、翌日になると保護室からぼくの荷物を勝手にそのベッドに持って行ってしまい、それを既成事実として看護婦さんたちに認めさせてしまったのです。
そんなわけで、2ヶ月の入院期間中、わりと多くの時間をSさんと過ごすことになりました。

入院したのは県立の古い病院でした。病棟は二つの建物があり、一方には痴呆の老人ばかり、もう一方は統合失調の人ばかりで、そちらの3階にアルコールの人々が集められていました。2ヶ月入っていた間にアルコールの人は増減しましたが、少ないときで5人ほど、多きときで12〜3人ほどでした。そして、アルコールのプログラムも、特に充実しているわけではありませんでした。

だから、というわけではありませんが、ぼくは猛然と「こんな所にいてはいけない、何の役にも立たない」という焦りに襲われました。入院早々、僕は退院したくてたまらなくなりました。

担当医は毎日病棟まで上がってきては、ナースステーションで患者のカルテを見て、必要であれば患者を呼び出して面談していく習慣でした。患者のほうから医者に話をしたいときは、朝の点呼の時に「面談希望」と伝えておけば、その時に呼んでくれます。

僕は毎朝「面談希望」を出し、毎日担当医に「僕がここにいてはいけない理由」を並べ立てました。医者も「あなたは自分の希望でここに入院してきたのにねぇ」と苦笑いしていました。いてもたってもいられない焦燥感は、単なるアルコールの禁断症状に過ぎなかったのでしょうが、先生もわかっていながら丁寧に付き合ってくれたと感心します。

「自分は仕事と家庭を放り出して来たのです。すぐにでも退院して、その面倒を見なくてはいけないんです」

などと言っても、そんな状態で退院してこられても皆が困っちゃうだけなんでしょうが、それが分からないのが断酒初期というものです。

最初の数日は、病棟内禁足で、外に散歩にも出られません。そのうち、昼間だけ敷地内を散歩してもいいよということになりました(夜間は施錠されるので外出不可)。

入院して初めての日曜日は、AAの病院メッセージというのがある日でした。その日に病院を訪れるのは、入院以前に1年間に僕が断続的に通ったAAグループのメンバーでした。そのメンバーには、スリップしたのがとても恥ずかしくて、顔を合わせられない気持ちもありましたが、同時に僕の焦る気持ちを分かってもらえるのも、その仲間だけだという確信もありました。

そしてその日曜日・・・。


2007年12月09日(日) 恵まれている

「恵み」という話とちょっと違って、「恵まれている」という話。

僕が初めてAAのミーティングに出たのは、勤務先がある市内のクリニックの3階でした。それはAAグループのないその地方のために、県内の他の地方のメンバーが月1回やっていた「出前ミーティング」でした。

住んでいたのは車で二十数キロ離れた田舎町で、そちらでは仕事がなかったので、ほぼ1時間かけて自動車通勤していました。だから家の近くにAAミーティングがあったわけでもありません。けれど、通い慣れた街にあっただけでも助かりました。
その出前ミーティングをやっていた人に、うちのグループへおいでよと誘われて行ったのが最初のホームグループでした。自動車免許を取ってようやく初心者マークがとれた僕が、地図を片手に峠を越えて見知らぬ街へ行ったのでした。自宅から50〜60キロぐらいでしたでしょうか。夕方に仕事が終わったらAAに行き、帰りは高速道路を使っても帰宅が10時過ぎ。夕食を食べるのが11時ころでした。
当時は一週間に一回それをやるだけでも、ずいぶんしんどく感じられました。
でも「恵まれていた」んですね。行けるところに会場があったのですから。それでも遠いと文句を言っていたら、じゃあ自分ちの近くに自分で会場を作りなさいと言われました。自給自足であります。作りなさいと言われること自体が「恵まれていた」と思います。

通っているうちにKさんという人が現れました。その人は、僕の初めてのホームグループ(諏訪)が出来る前からAAにいた人でした。住んでいたのは伊那のあたり。そこから、当時県内にあったAA会場へ通ったのだそうです。更埴、上田、小諸、佐久。高速は金がかかるから国道で。仕事もしながら大変だったでしょうと訪ねると、だってそれしかなかったんだから、と笑っておられました。

また別に、メールで伺った話ですが、一番近いAA会場まで特急電車で2時間という環境の人もいるわけです。それでもあるだけ「恵まれている」んでしょうね。

まあ、普通に恵まれているだけではだめで、仕事も家族も失って、施設へ行って1日3回のミーティングという「チョー恵まれた環境」でないと回復できない人もいるわけですけど。


2007年12月08日(土) 10 years ago (18) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (18) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

ひととおり僕と妻と話を聞いた後、精神科医はこう尋ねました。
「で、どうしたいのですか?」
妻がしゃべる始めるのを制して、医者はさらに尋ねました。
「いや、ご本人がどうしたいかです」
僕の答えは、「入院させてください」でした。

妻は入院して欲しくなかったようですが、医者の「本人がそう言っているのだから」という言葉に押しとどめられました。入院先として、神奈川のK病院、東京のM病院などが挙げられましたが、僕が「遠すぎるから無理」というので、群馬のA病院か、どうしてもと言うなら県内の県立K病院にするか、という選択肢になりました。それで、一番近いところを選んだだけの話です。

医者はその場で病院に電話をかけ、ベッドを確保してくれました。入院の前日、僕はコンビニでハイネケンの缶ビールを二本買いました。あまりにも肝臓が弱っていたため、体調が悪く、その日はビールを一本開けたものの、飲みきることができませんでした。翌日病院へと出発する前に、その気の抜けたビールを飲み干し、ついでに残った一本も飲み干しました。今のところ、それが僕の最後の酒になっています。

事情を聞いて駆けつけてくれた母と、妻と、僕の三人で、僕の車に乗って出かけました。運転していたのは妻でしたが、道行きずっと泣きながら運転していました。後日母に聞いた話では、帰りも泣いていたそうです。

待合室で待っている時間が、ひたすら長く感じられました。診察そのものは5分もかかりませんでした。そして、入院のためのインテイクがまた長く感じられました。「どうしてこの病院を選んだのですか?」という質問に、僕は「ほかの病院の治療成績は2割がせいぜいだそうですが、ここは3割だと聞いたからです」と答えました。もちろん口からでまかせであります。

入院直前は、もう肝臓が弱っていたために、缶ビール1本か2本で泥酔する状態でした。あまり量を多く飲めない状態になっていたので(つまり末期的ということですが)、「保護室が必要というわけではないが、酒臭いのでほかの患者さんに迷惑だから」という理由で、鍵をかけないという条件で保護室に一晩泊まることになりました。

夕食は重湯にしてもらったのですが、それも満足に食べられませんでした。点滴が終わったので、保護室を抜け出してロビーへたばこを吸いに行きました。そこにいるのは見知らぬ人ばかり、そして窓の外の風景も、まるで見知らぬ景色でした。それを見て、非常に切ない孤独感を感じたのですが、ともかく「これで酒を飲む毎日からは脱出できたはずだ」と少し安心しました。
けれど、それで出口が見つかったわけではありません。

さて、今日は何日だろうと思いました。一月に出した一ヶ月の診断書の期限が切れたのだから、二月の中旬ぐらいか・・。いや、飲んでいると日付の感覚が狂うから、二月の下旬ぐらいかも知れないな。そう思ったのですが、実はもう翌月で、3月の6日になっていました。

それが何か特別な意味を持った入院だったのか・・と聞かれても、それほど特別な要素は見あたりません。でも、ターニングポイントとなった入院でありました。

考えてみれば、その半年前に細かなスリップを繰り返している段階で入院しておけばよかった、そうすればこんなに酷い状態にならずに済んだのに・・とまあ、後からするからこそ後悔というのでありますが。

(またそのうち続く)


2007年12月07日(金) 10 years ago (17) 〜 手遅れだと言われても、口笛...

10 years ago (17) 〜 手遅れだと言われても、口笛で答えていたあの頃

新年早々、妻の職場の親睦会でボウリング大会がありました。夫婦での参加が前提であります。酒の飲み過ぎで唇が紫色になっているような状態で、ボウリングができるものか・・・不思議なもので、それが優勝してしまうのでした。
優勝賞品は、誰のアイデアなのか、缶ビール2ダース入りの箱でした。家に着くと同時に、妻はその箱をどこかに捨てにいってしまったので、僕の口には入りませんでしたが。

一月中旬ぐらいから、僕は会社に行くのを止めてしまいました。無断欠勤でした。そもそも妻の出勤時間の方が30分ほど早かったのです。妻が、「今日は仕事に行くんだよ。もし休むんだったら会社にちゃんと電話して」ときつく言い残して出かけていくのですが、妻の車が出ると同時に、僕はアパートのどこかに隠しておいた酒を取り出して飲み始め、そのまま布団に潜り込んでしまうのが常でした。
9時になると、今日も出てこないからと職場から電話がかかってきますが、それには出ません。すると昼休みに、上司が妻の職場に電話をかけまして、「今日も出てこない」と言われた妻が、僕に電話をかけてくる・・・。一日に何度も電話が鳴るのですが、僕はそれを完全に無視して飲み続けるばかり、という日々でした。

不思議と飲酒運転はしませんでした。直近の酒屋は、歩いて片道30分ほどのコンビニでした。さすがに面倒なので、妻に「酒を買ってきてくれ」「車に乗っけていってくれ」と頼んだりしましたが、むろん完全に無視されました。真冬の夜中2時、3時に、歩きながら星座を見上げ、酒をラッパ飲みし、そして「ああ俺は何でこんな生活をしているんだろう」と思うのですが、その生活からの出口がまったく見つかりませんでした。

あんまり会社がうるさいので、精神科医に「一ヶ月の休養を要する」という診断書を書いてもらい、こいつはもうダメだと見放されて、プロジェクトから外されました。その仕事は同僚に回りました。結婚だ病気だと理由をつけて、散々遅らせた仕事を押しつけたのですから、すんげぇ迷惑な話であります。

だがそんな状況でありながら、当時秋葉原でも品薄で入手困難だった機材を手に入れ、ISDN回線を引いてインターネット接続業者と契約までしている・・・よくまあ、そんなことだけはできたんだねぇ、と自分でも感心するのですが、話を戻します。

そんな生活を一ヶ月も続けると、さすがに妻も体調を崩し始め、昼間僕が酒を飲んで寝ている布団の隣で寝ているようになりました。結婚前に実家にいた数年間は、僕が飲んでいようといまいと、母が家事を続けていましたから、僕は家の中のことなど心配せず、ある意味安心して酒を飲み続けることができました。
しかし、結婚して二人になり、(どうみても僕のせいで)妻が倒れてしまうと、とたんに家の中のことが回らなくなってしまいました。

ようやくそこに至って、僕は「この生活をいつまでも続けることはできないんだ」という、当たり前の事実を認識したのでした。自分で酒を切れない以上、入院しかありません。いずれにしせよ、一ヶ月の診断書の期限は切れています。というわけで、妻と一緒に精神科医の診察を受けに行きました。

(そのうち続く)


2007年12月06日(木) われをすくいし

ミーティングも残業もなく、とっとと帰るつもりだったのですが、自宅に電話しても「ご飯がないよ」ということだったので、喫茶店に立ち寄って夕食にしました。パスタと珈琲のセットで1,600円というのは、一人で食べる夕食にしては豪華すぎましたが、たまにはのんびり珈琲でもすすりながら本を読みたいのであります。

店内ではピアノの生演奏をしていて、手元に曲のリクエスト用紙もありました。けれど何でもいいというわけでもなく、いくつかの曲から選ぶ仕組みでした。店内の人はあまり熱心に聞いている様子でもなく、拍手があったのはリクエストに応じてハッピー・バースディの曲が終わったときだけでした(たぶんピアノへの拍手ではなかったのでしょう)。
曲目の中には「アメージング・グレース」もあり、別にリクエストしなくても待っている間にその曲になりました。なにせ初めて入った店なので、ピアノの生演奏が「12月だから」なのか、木曜日だからなのか、年中やっていることなのかは知りません。

それにしても、投げたブーメランがとんでもない方角から帰ってきたものです。1月14日は代々木にいるつもりですが、イグナチオにも行かないとダメですかねぇ。え? 朝から来い?

 アメージング グレース
 何と美しい響きであろうか
 私のような者までも救ってくださる
 道を踏み外しさまよっていた私を
 神は救い上げてくださり
 今まで見えなかった神の恵みを
 今は見出すことができる

賛美歌として歌われていますが、AAでは宗教とは関係なく信仰の歌として、国際コンベンションなどで歌われているそうです。この前の福岡でも使われたはず。


2007年12月05日(水) AV

「どうして殿方はアダルトビデオが好きなのか?」

えーと、詳しいことは忘れましたが、要は男は頭でセックスするからだそうです。だから、想像ですることもできるわけです。

じゃあ、女性はああいうビデオは好きなのかどうか? 私はああいうのは絶対見ない、と頑なな人もいます。男と一緒なら見るという人もいます。いや一人でも見るという人もいますが、これは少数派でしょう(たぶん)。
ちなみに妻はスカパーのPPV枠をたっぷり使ってくれたことがあります。
まあ、それはともかく、特定分野を除けば、ほとんどのアダルト映像商品は、男性によって消費されているのは間違いありません。

ただ男性でも、映像が無料で手にはいるのと、有料なのでは、消費行動にずいぶん違いがあるようですが、今回はそっちの話ではありません。

1980年代に、ホームビデオの普及を、アダルトビデオが牽引したのは間違いありません。それまでは8ミリフィルムで「ブルーフィルム」などという手間のかかるものしか存在しなかったのですから。

VHSとβの規格競争でVHSが勝利したのには、様々な理由が言われていますが、一番大きい理由は「VHSのみで発売されたアダルトビデオが多かったため」でしょう。だから、当時βのビデオデッキしか所有していないというのは、男としてかなり潔い態度でした(いや、アニメしか見ない危ない人たちだったのかも)。

家庭用ゲーム機も、ファミコンの時代にはアダルトが結構ありました。市場が立ち上がったスーファミ以降はアダルト禁止になってしまいましたけど。

DVDの普及もアダルトあってこそでしょう。パソコンのハードディスクの大容量化だって、ビデオ映像以外何を入れるんですか何百ギガも。光ファイバーだって、大容量高精細のビデオファイルの伝送に使ってるのじゃないんですか? 液晶画面の色再現性だって、どうしてそんなに人肌にこだわるんですか?

それにしても、ハイビジョンのテレビを見ながら思うのは、なぜ次世代DVDでアダルトが出てこないのか、という疑問です。次世代DVDがなかなか普及しない・・と、ハードメーカーも、コンテンツホルダーも悩んでいます。Blu-rayとHD-DVDと、どちらの陣営が勝利するか・・なんて報道されていますが、先にアダルト解禁した方が勝ちなんじゃないんですか?

やっぱハイビジョンだよねー。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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