心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年10月27日(土) 新浦と野茂

仲間に「五つの小さい章からなる自叙伝」で検索すれば見つかるよ・・・と言ったものの、帰ってから自分で検索すると見つかりません。うーん、「5つの短い章からなる自叙伝」でした。
僕がこの詩を知ったのは、このサイトを始めたころ atsuko さんという方のサイトに掲載されていたのを読んででした。同じ穴に落ち続ける、落ちないように別の行動を選んでいると思いながらも、実はやっていることは変わらなくて、やっぱり同じ穴に落ちてしまう、そういうアルコホーリクの癖に、うまく当てはまる気がします。

さて、雑記用のメモに「新浦と野茂」とだけ書かれていました。
いったいこれをメモしたときに、僕は何を考えていたのか・・・。

メジャーリーグをクビになった野茂英雄が、ベネズエラのウィンターリーグに参加したものの、やはりそこでも打ち込まれているというニュースがありました。スポーツ選手は、キャリアの絶頂期に引退してしまえば、格好良くやめられるのでしょう。新庄とか、定岡みたいに。でも、僕はあまりそれが格好良く思えません。ぼろぼろになっても燃え尽きるまで続けていく選手を応援したいと思います。

新浦壽夫は巨人の速球派投手でしたが、肘を痛めて解雇されました。普通ならそのまま引退なのでしょうが、彼はできたばかりの韓国プロ野球リーグへと移籍し、技巧派投手として成功します。3年後に日本球界に復帰し、大洋で活躍した後、1992年にはヤクルトへと移籍します。当時ヤクルトファンだった僕には強く印象に残っている選手です。同じ年には角盈男もキャリアの最終年をヤクルトで過ごしていました。

もはや速い球が投げられない投手が、コントロールと配球でアウトを取っていくのは、野球のおもしろさの一つだと思います。三振をぶんぶん取る投手もいいのですが、やはり技巧派、遅い球でも巧みにバットの芯を外して内野ゴロの山を築き、走者が出ればダブルプレーで切り抜ける・・というタイプが見ていて面白いのです。

のんびりテレビで野球中継をまるまる一試合見れるような、そんなのんびりした生活を送りたい・・・と思うこともあるのですが、実はテレビ中継は30分も見ていると飽きちゃったりするのです。のんびりしていちゃいけないような、そんな強迫観念に取りつかれているのです。絶頂期に引退する選手を好きになれないのも、そういう心理が影響しているのかも知れません。


2007年10月26日(金) 信用(その2)

(その1から続く)

彼は最初のころは毎日ミーティングに出ている人でした(当時の長野県でですよ)。ソーバー3年近くたった当時も、週に4〜5回出ていたでしょう。スポンサーもいたし、ステップ4・5の棚卸しもしていました。毎月県外のAAイベントに出かけていて、知り合いも多いようでした。とんでもない遠くのAAの話を聞かせてくれたりしました。ともかくAAの活動に熱心で、来年からは東京での地域委員会にも行くんだと言っていました。
僕にとって彼は、回復の見本でした。ここまでやれば誰でも回復できるという、AAの回復の体現者だと思っていました。逆に言えば、自分はそこまで活発に活動できないのがコンプレックスでした。いや、コンプレックスではあるものの、いざ自分も追いつめられる時があったなら、彼のようにAAを熱心にやれば、自分がどんなにひどい状態でも助かるに違いない・・と信じる対象でした。

その彼がスリップ(再飲酒)してしまったのです。一体僕は何を信じればいいのか? どんなメンバーを信頼して、アテにしていけばいいのか? ちょうどそのころ、ミーティング会場にメンバーが増え始め、また県内でサービス委員会を作るという話が出てきて、それまで飲まないだけで精一杯だった自分が、AAで他のメンバーとより深く関わる必要が出てきました。その時誰を信用していけばいいのか?

冒頭のシーンは、そこから発せられた疑問でした。

「信用できるメンバー、できないメンバーを、どう見わけたらいいのか」

という質問に対し、その経験の深い仲間は、こう答えました。

「自分の力で酒をやめている人は信用できない」

なるほど、僕は饒舌になって自分の考えを言いました。「つまり、ミーティングにたくさん出て、仲間と一緒にいて、それで力をもらって・・・」
しかし、その人の答えは意外でした。

「お酒は神様がとめてくれるんです。神様のないメンバーは信用できない」

普段は、神だとかハイヤー・パワーだとか言わない人ですし、人一倍仲間との交流に熱心な人ですから、その人の口から「神」なんて言葉が飛び出してきて、びっくりしました。同時に、神様のない自分は、まだこの人に信用されていないんだなと、少し動揺しました。

とはいえ、僕がハイヤー・パワーの存在を願うのは、もっと後のことです。

(この項終わり)


2007年10月25日(木) 信用(その1)

ソーバー2年目の時でした。あるAAの集まりの帰りに、ソーバー10年以上のAAメンバーを車で送っていく事になりました。
その人とは何度もミーティングを一緒にやっているものの、それほど親しい間柄でもなく、車中の会話は途切れがちでした。当時、AAのサービスという得体の知れない物に関わるようになった僕は、そこで抱えるようになったひとつの大きな疑問を、この先輩にぶつけてみることにしました。

「信用できるAAメンバーと、信用できないAAメンバーって、どうやって見わけたらいいんですか?」

・ ・ ・

そのことと時期は前後しますが、こんな事がありました。
毎年夏になるとAAメンバーが集まってバーベキューをしていたのですが、僕はその夏の準備部隊の一員に選ばれました。難しいことではなく、買い出しと、現場の準備をするだけです。でも、僕はそれまでバーベキューをほとんどやったことがありませんでした。だから、何をどう準備すればいいのか、買い物も肉は一人何グラム? 野菜はどれをどんだけ? 焼きそばとかどうするの? 飲み物の量は? 燃料は? 油は? 調味料は? 道具は? と分からないことだらけでした。
幸いなことに、僕より1年半ソーバーの長いメンバーがいて、「俺は経験があるから任せておけ」というので、僕はほっと胸をなで下ろしました。彼はAAでの活動が活発でしたから、信用し大丈夫だと判断していたのです。
ところが、いざ買い出しに行くと雲行きが怪しくなりました。肉をどれだけ買うのかも決まりません。そもそも今日何人集まるかも分かりません。二人でうーんと唸っているだけ。結局、ろくに買い物もできないままにバーベキューサイトに戻りました。

AAでは仲間の失敗は許してくれます。準備ができてないことで、その後大もめにもめることもなく、管理人さんに頭を下げたり、皆で追加の買い出しに行ったりして、なんとかそろった物でバーベキューをやりました。誰も文句は言いませんでしたが、僕の経験の中で最も悲惨なバーベキューでした。責められはしなかったものの、準備部隊の一員として、どうしてこうなったのか考える必要があると思いました。

数週間後、彼が行方不明になり、さらにその後再飲酒で入院したと聞きました。思うに、あのバーベキューの時にはもう飲み始めていたのでしょう。

(続く)


2007年10月24日(水) 長い話と体重計

ホームグループの会場係を別のメンバーにお願いして、自分は他のグループのミーティングに出かけてきました。そのことにどんな意味があったのか、それは自分では分かりません。

僕は初めてAAにやってきた時、「AAはお酒をやめるところで、そのためにお互い手助けをするところだ」と教えられましたし、ミーティングハンドブック先頭の序文にもそんなことが書いてありました。けれど、ミーティングで話されることは、過去の飲酒のひどさであったり、小難しいステップの話しであったりして、ちっとも酒のやめ方を教えてくれないじゃないか、と僕は不満でした。ステップと酒をやめることに何の関係があるんだ? って感じです。
しかし時間をかけて理解したことは、ステップこそがAA流の酒のやめ方であり、その経験を分かち合うことこそが「お互い手助けをする」最大のことだということです。

そんな話をしようと思ったのですが、飲んでいた頃の話も含めて枝葉が多くなり、12分ぐらいしゃべっていました。最近どうも話し出すと10分を超えてしまいます。せいぜい5〜6分にならないかと思うのですが、話が下手でいけません。

そちらのミーティング会場に寄った後は、実家の母のところに寄るのが通例ですが、旅行大好きな母は旅の空の下なので、夜の安曇野を走り抜け、ラーメン屋で食事して帰ってきました。

お腹を下していたはずなのに、体重が1Kg増えてしまいました。これは不思議なことではなくて、硬軟どちらでも(便秘でも下痢でも)腸の働きが鈍っていることに違いはなく、蠕動運動が鈍って腸内に滞留する質量が増えれば、それが体重計に反映される理屈だと思います。
普段でも体重計に乗りながら、最近どんどん増えるのは夜食?に柿ピーとコーラを楽しんでいるのがいけなかったか・・などと反省したりしています。これも日々の棚卸しかもしれませんね。

自分の精神状態も体重計みたいに簡単に計れればいいんですけどね。


2007年10月22日(月) 続・腹が痛い、トイレと仲良し

AAの集まりで本名を使ってはいけないとか、フルネームを使ってはいけないという決まりがあるわけではありません。あくまでも世間に公表するときには、つまりメディアに載るときには、本名を伏せて顔も出さないという原則があるだけです。

だから、グループの中ではフルネームを名乗ってもちっともかまいません。でも、別にそうする必要も感じないので、僕はニックネームである「ひいらぎ」を使っています。AA用の名刺には本名もちゃんと書いてあります。

先日、とある仲間から、その本名が「マンガの登場人物みたい」と言われました。そう言われてみれば、そうかも知れません。姓(名字)のほうは難しい字ではないものの、世間では珍しい姓のようで、親戚や近在以外に同姓の人を知りません。作家のペンネームでこの姓を使っている人がいますが、本名ではないようです。旅館や料亭の名前に使われていたりします。

婿養子なので男のくせに旧姓もあり、そちらは珍しい姓ではなく、サッカー選手やマラソン選手、女優や政治家などに見あたります。マラソン選手は同郷人です。

いずれにせよ、本名は生まれたときに決まってしまい、本人の選択の余地がないわけです。結婚するときに姓だけ変えられたとしても、名前で相手を選ぶわけじゃありませんので。まあ「読み間違いがない」という点は気に入っています。

ミーティングで話していて、依存するということは、依存対象に支配されるに等しいという考えが浮かびました。アルコールに依存すればアルコールに支配され、ギャンブルに依存すればギャンブルが日常を支配します。共依存というのは、その相手に支配されてしまうのでしょうか。

というあたりまで考えたのですが、本日は朝からゲリピー気味で、何事にも集中できない状態でしたので、考えるのもそこまででした。毒素が体全体に回ったのか、そこらじゅう痛くてたまりません。明日はお休みかも知れません。こういうときは正露丸で正解でしょうか。


2007年10月21日(日) 腹が痛い、トイレと仲良し

はっきり約束をした憶えはなかったのですが、朝9時に起こされて「そば祭りに行こう」と連れ出されました。今回はジジババとセットであります。5人乗りの車に6人で乗っていきました。ジジの理屈だと「子供二人で一人分だから大丈夫」なんだそうですが、教習所で習った理屈では「子供3人を大人2人とカウントする」ルールだったような気もします。

この週末は、ともかく「生産的なことは何もしない」つもりでいました。頼まれているあれやこれやを放り出して、ゴロゴロ寝て、本を読んだりビデオを見たり・・。結局それすらしなかったのです。

さて、AAミーティングにも「波」があると思います。たとえば人数の波です。20人以上集まっていた会場が、3ヶ月後には7〜8人まで減っていたりしますし、その逆もあります。そこに参加する個々人にも、気分や都合の波があって、おそらくはその重なり合いが会場の波を形作っているのでしょう。
会場のいい雰囲気が気に入っている人は、雰囲気が変わると去っていったります。それはその人の目的が「いい雰囲気」なんだから仕方ないことです。そういう人に限って「以前は良かった、今の悪い雰囲気を誰か何とかしてくれ」と解決は他人任せだったりするんですが、それは別の話としましょう。
最近あそこの会場は雰囲気が良い、という評判が立てば人が集まり、暗いとかギスギスしていると言われれば来る人は減ります。
おそらく、「酒をやめたい」という純粋な願いだけで全員が集まっていれば、波は小さくて済むのでしょうが、自分だってそんなに純粋な気持ちでミーティング通いを続けているわけでもありませんから、人に文句を言えた義理じゃありません。
同じことは、ネットの掲示板やメーリングリストにも言えます。

自分の評判にも波があります。行いが悪ければ評判が落ち、善ければ評判が上がる・・・とは限りません。そこが難しいところです。「あの時、あんなに褒められるほど善いことをしたとも思えないが、今こんなに悪し様に言われるほど悪いことをしたとも思えない」と嘆いた経験はないでしょうか。
良い評判をもらえば自信がつき、自信がつけば気持ちに張りが出て、生きていくのが楽しくなる・・・それはそうなのですが、評判の善し悪しは自分がコントロールできないものである以上、良い評判を目的にすると、他者の視線ばかりが気になって、かえって辛く感じられるものです。それゆえ評判から自由になることは大切だと思います。
とはいうものの、頑張って仕事したのに、給料が上がらなくてやる気をなくしたりなどなど、人はなかなか評判から自由になれないものです。

たとえ他者が努力を認めてくれなくても、その人の中の神さまは、必ずその人の努力を認め、褒め讃えてくれるのは確かだと思います。


2007年10月20日(土) 安心して病む

午前中から家族で買い物に出ました。
僕が欲しかったのは、ワイシャツ1枚だけで、ついでに100円ショップでボールペンでも買ってこれれば十分でした。その用件だけ済ませるなら、自分一人で行動した方がず〜〜っと早いのです。
なんで女の買い物は、こんなに長いのか?
子供の服を買って、100円ショップによって、ソフトクリームを食べて、本屋によって、食料品を買って帰ると、もうすでに2時間経過していました。買い物だけでぐったりと疲れてしまいましたが、それに付き合うことになんか意味があるのでしょう、きっと、たぶん。

さて、妻はうつ病であります。
最近彼女はゴロゴロ寝てばかりですが、以前は元気でした。でも、病気は結婚前からのもののようです。結婚前後、僕が飲んでいた頃、そして酒をやめた後の数年は、妻は元気で、僕は彼女がうつだなんて気が付きもしませんでした。だがそれは仮の姿で、酒飲みの亭主と結婚し、旦那を「何とかする」ためには、自分が「一生懸命頑張らねば」と、元気を必死で演じていたようです。

やがて、その緊張の糸がぷつんぷつんと切れだしたらしく、次第にうつで寝込まれるようになりました。僕は自分の健康に自信がないだけに、健康な女性と結婚したつもりだったのに、すっかり当てが外れてしまいました。二人とも病気のことは正面から話さずに結婚したので、そりゃもうお互い様なんですが。

困ったなあと言いながら生活しているときに、ある人からこんな事を言われました。要するに、ある程度旦那の酒が止まり続ける見通しが立って、彼女も安心してうつを病んでいられるようになったのではないか、ということです。僕が酒をやめているから、社会で暮らしているから回復しているというわけでもなく、安心して病気を病むこともできない、緊張が続く生活を強いてきたのだと考えると、妻の病気を恨む気持ちも薄らぎました。
おそらく、僕が酒を飲んだりすれば、妻の鬱なんて吹っ飛んで消えるでしょう。妻が元気なときは、こちらの状態が良くないサインであります。

主婦に寝込まれると外食が多くなって、経済的にも、栄養的にも大変ですが、ともかく家族が餓死せずに暮らしているのですから、安心して病んで欲しい・・と生暖かく(?)見守っております。

それにしても・・・、東京のカウンセラーに行くって話は、またどこかへ行っちゃったのか? なんだかんだ言っても、アラノンに行ってもらうのが良いと思うのですが、思うようにはならないのであります。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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