心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年10月01日(月) リタリン

なんか久しぶりに雑記を書いている気がします。

遷延性うつ病の友人で、リタリンを頓服で飲むことで、なんとか仕事を続けているという人がいます。この人はたぶんリタリンがなければ生活保護で暮らすしかないんじゃないかと(素人判断で)思います。
僕の主治医は「うちのクリニックにはリタリンを置いてないですから、処方できません」とはっきり言います。実際リタリンをまったく処方しない主義の医者は少なくありません。その理由は依存症が怖いからだそうです。リタリンを飲まないと働けないようなら、生活保護で入院して働けなくてもやむを得ない、とまで割り切っての話なら納得できます。

そのリタリンも、製造元がうつ病への健康保険適用を取り下げる動きがあるようです。現在は遷延性うつ病とナルコレプシーの両方に適用になっています。ナルコレプシーが脳波を計ることで診断できるのに対し、うつ病が遷延性(難治性)なのかどうかという判断は、医者の経験に任されています。つまり曖昧なのです。
リタリンを処方するのに慎重な医者でも、「前のクリニックでは出してもらっていた」と患者が言えば、わりとすんなりと処方してしまう・・なんて話もありました。前の医者に判断の下駄を預けてしまいたいほど、難しい判断なのかもしれません。
適用の対象からうつ病が外されてしまえば、うつ病者がリタリンを処方してもらうには保険外の自費診療しかありません。部分的な自費診療が許されていない以上、診察全体の10割負担ということになりゃしませんか?
遷延性の人の中には、リタリン以外の薬が効かない人も多い以上、いずれジェネリック医薬品によって代替されそうな気がします。

そういった話をしていて思い出すのは、頭痛薬セデスGの廃止のことです。一般薬として薬局で売られている新セデスとは違う処方用の薬で、頭痛を含む痛み止めとして一般的に使われていました(顆粒)。しかし、大量服用者が肝機能障害を起こして死亡という理由で製薬会社が売るのをやめてしまいました。僕も当時セデスGにやっかいになっていたので、肝臓大丈夫でしょうかと医者に尋ねたのですが、「あなたの50倍ぐらい使っている人の話です」という答えでした。
今では代替品としてロキソニンというピンク色の錠剤が使われていますが、「セデスのほうが良く効いたよね」という話もちらほらあったりします。

いずれも一部の処方薬依存者の乱用によって、多くの善良なる使用者が迷惑するという事態になっているわけです。僕はリタリンは飲んだ経験がありませんし、鎮痛剤もたまに使うだけです。個人的には影響がないニュースではあったものの、膨大な処方薬依存の全体のうち、たまたま表に出てきた部分だけ、トカゲの尻尾のようにちょんと切ってお終いにする話には暗い気分にならざるを得ませんでした。

一部のアル中のアルコール乱用の結果として、日本が禁酒国になるというのと同じ類の話でありますから。


2007年09月29日(土) 静かな喜び

パシフィックリーグを日本ハムが二年連続で制し、テレビでビールかけの様子やダルビッシュ投手のインタビューが放映される夜、楽天イーグルスファンも静かな喜びを噛みしめていました。

現在65勝72敗(勝率.474)で4位、最下位のオリックスバファローズとは3ゲーム差。楽天が残り5試合に全敗すると65勝77敗で勝率.458、一方オリックスが全勝しても63勝76敗で.453と、楽天を上回る可能性がなくなりました。
今日イーグルスが勝ち、バファローズが負けたことで、<球団創設3年目にして初めて、最下位脱出が決まった>のです。一年目が38勝97敗、二年目が47勝85敗でしたからね。

今年はフェルナンデスもよく打ったし、山崎武は38歳にして本塁打・打点のトップにいます。草野も活躍したし、何より投手田中まーくんの加入が大きかった。いろいろな選手を語れるということはファンとして喜びです。

そういえば野村監督はヤクルト時代、1年目が5位、2年目が3位、3年目が優勝でした。今年は3位にはもうなれませんが、来年はなんとかAクラス入りし、ポストシーズンを勝ち抜いて日本シリーズに出て欲しい・・・などと妄想を広げています。

妄想といえば、眠れずに横になっているときは妄想が広がります。男子高校生のような健全な(?)妄想の世界が展開しているときは、概ねにおいて精神状態は良好であると思われます。調子が悪いときは、暗くてじめじめした囚われがあります。

ホームグループのミーティングに遠来の仲間あり。終了後に皆で食事をしました。
土曜日のミーティング出席も、おそらく今年いっぱいになるでしょう。


2007年09月26日(水) 二番底

底付きとは、酒をやめる気になる瞬間でしょう。
(ひいらぎ的解釈では、やめたい気持ちが飲みたい気持ちを上回る瞬間だと思います)。
それまでは、アルコール依存症という病気で苦しくて、助けて欲しかったとしても、酒をやめる手助けが欲しいわけじゃなく、酒をうまく飲ませてくれる手助けを探しているのです。うまく酒を飲むとは、酒を飲んでトラブルが起きないことです。

やがて、どうやってもうまく飲めないことに気が付き、さらに自分では酒をやめられない(また飲んでしまう)ことに気づき、酒をやめる手助けを求め始めます。求める相手は、家族だったり病院だったり、自助グループ(AAや断酒会)だったり。

そこで酒が止まり、生きるのが楽になっていきます。

心の「ある部分」は酒をやめただけでは回復しません。しかし、酒は止まって生きるのも楽にはなっていますから、ことさら回復していない部分に光を当てて、その部分の回復の手助けを受けようとは、なかなか思わないものです。

しかしいつかは、その「ある部分」こそが生きていく上での苦しさそのものだと気が付く時が来るのでしょう。その時にAAメンバーであれば、ステップという手助けを求めるのだと思います。それが二番底、生き方の底付き、本当の底付きです。
AAに来ない人が、どういう二番底を経験するのかは知りません。
酒をやめる底付きと、生き方の底付きと、同時に経験する人もいれば、何年も離れる人もいるし、死ぬまで最初の底付きしかない人もいるでしょう。

本当の底付きを経験すれば、本気でステップを「やりたくなる」ものだと思います。つまり「ステップ使って楽になりたい」気持ちが「このままでいいや、ステップ面倒だし」という気持ちを上回る時が来るんだと思います。

どちらの底付きも、めでたいことには違いないと思います。


2007年09月25日(火) 回復の順番

心は体の内側にある、というのは何となく理解できる気がします。
心をくるんでいるのが体である、とも言えます。

AAでは依存症を、身体的・精神的・霊的な病気と表現します。霊的な部分とは、心のさらに内側、人間の中核にあるものです。

回復の順番は、霊性→精神→身体の順だとされます。ちょっと見には、身体(禁断症状が取れる)→精神(心の憂鬱が取れる)→霊性(生きがいが感じられる)という順番だと思ってしまいがちですが、あくまで霊的なもの、心、体の順番だそうです。

250人のガン患者の生活歴を調べた研究では、まず子供時代に緊張した人間関係があり、成人後は充実した仕事や人間関係で生きがいを感じ、やがてそれを失って絶望したところにガンになった、というパターンが多かったそうです。
これをもってして、霊的な部分が脆い場合、外部との関係で生きがいが与えられても、それを失って再び孤独と絶望がやってきたときに、体も心も病み始めてしまう・・、と考えるのは早計でしょうか。つまり、病は人間の内部からやってくるという考え方です。

昔の人は、病は気から、と言ったものですが、気(心)のさらに奥の魂の部分の病みを取り除くのが、健康への道ではないかと思います。

ステップを使って一番奥の霊的な部分が回復すると、次に心が回復し、そして体が健康になる。そうすると体の外部との関係から緊張が取れて、金銭とか人間関係においても回復していく、というのがAAの回復モデルです。

経済的回復は、霊的回復より先には来ない、というのも、この線に沿って考えると分かりやすいと思います。


2007年09月24日(月) 間違う権利を保障する

2000年アメリカ・カナダ評議会報告書より
ロイス・F GSO退職にあたっての言葉からごく一部を抜粋

1977年にGSOのスタッフになったとき、当時の所長のボブ・ヒッチンスにこう尋ねたことを思い出します。AAにとっての将来の不安材料は何か、それについて彼はどう考えているかと。ボブは“厳格になること”をおおいに心配していると答えました。また、1986年の評議会で、元所長のボブ・ピアソンが話したお別れの言葉のなかでも、彼はAAの中で“厳格さ”が増すと、つまりつまらぬあら探しのような質問に対して、かんぺきな回答が要求されるような事態が増えたら増えただけ、AAは大きな危険にさらされるようになると話していました。

もちろん私たちは12の伝統、概念、順守事項に要約されたAAの原理にしっかりとしがみついていく必要があるのは当然のことです。けれども、その“厳格さ”は、自分は間違っていないという一人よがりの思い込みに乗じてはいないだろうかということです。新しく来た人がミーティングで自分のことをどういう病気だと言ったからとか、抗鬱剤を服用しているメンバーはバースデイを祝うのにふさわしいかどうか、などということが問題として取り上げられるとき、私たちは自分の手で、命を救われたAAの集まりからアルコホーリクを追い払っているのではないでしょうか。

GSOに対してAAの伝統をもっと“強要”するようにと要求してくる人が増えています。ビルだったら一体どう対応しただろうかと思うのです。彼をよく知っていた人たちによれば、ビルは心が広く、寛大で、寛容だったといいます。そして彼のお得意のせりふは「どのグループにも間違う権利があるんだ」というものだったと。AAの中での間違いは、おのずとそのなかで修正されていくのだという強い信念をビルは持っていたのです。

(略)今、AAのプログラムとAAに対する私の中の信頼感はかつてないほど強力なものです。20年前、当時引退したGSO所長のボブ・ヒッチンスが彼の40年のバースデイで私たちのグループで話をしてくれました。(ボブが酒をやめたのは1940年で、ビルの死後6年間GSOの所長をしていました)。その中で、その40年間にAAそのものはほとんど、それどころか、まったく、変わらなかったという印象があると話していました。
それは今も同じだと私は信じています。ステップ、伝統、順守事項、概念、これらのものは65年前にさかのぼっても、いつの時代も、現在と同じように、貴重で、分かりやすく、実践に役立つものです。それらのものはすべてが、ミルトン・マックスウェルが強調したように、一つの霊的な織物の一部なのです。たとえメンバーやグループがその文章を一字一句暗唱していなかったとしても、それらの原理は、理解され、意識されています。

(略)評議会メンバーである私たち――評議員、常任理事、スタッフは、――アルコホーリクス・アノニマスの中できわめて重大なリーダーシップ的役割を取っています。けれど私たち評議会メンバーが道に迷い、AAのメッセージを運ぶ私たちの活動の中にいつも溢れる、簡潔さ、人を排除しないこと、共通感、愛情といったものを見失うようなことがあったとしても、その評議会メンバーに“AAという船を沈める”力などありません。そんなことができる力のある人間はどこにもいないのです。AAの集まりそのものが私たちを正しい道に引き戻してくれるか、あるいは私たち評議会メンバーが無視されるかのどちらかでしょう。

(以下略)

〜AA日本ニューズレター85号掲載の文章より


2007年09月23日(日) 近況

ソフトバンク携帯は、バッグの中に放り込まれたまま、全く使われていない無駄な状態です。とはいうものの、26ヶ月は契約し続けねばならない縛り付きです。トホホ。

テレビ到着しました。
パネルの画素数は1,366×768ですから、フルハイビジョンはおろか、普通のHD放送すらドット・バイ・ドットでは映りません。パソコンのモニターではなく、テレビですからそこは気になりません。てゆーか、アンテナ繋いで見るまで、地上波デジタル放送がHD放送(1440×1080i)だなんて知りませんでした。640×480だとばっかり思っていたのです。

稲刈り終了しました。
自家消費分だけ天日干しにしています。自然乾燥のほうがお米が美味しいから、という理由ではなく、コンバインによる収穫(と乾燥)を頼むと高いからです。

関係ないですが、相手が死んでいるから、二度と会えないから、ステップ9の埋め合わせができない、とは思いません。「会おうにも会えない相手も人もいるだろうが、そういう相手には正直な手紙を書く(p120)」。
たとえば死んでしまった人に手紙を書くことに、何の意味があるのか? ステップ9は相手に許してもらうためにするのではなく、自分の回復のためにするのですから、相手が読んでくれるかどうかは関係ないはずです。
したがって、「埋め合わせのできない相手」なんてのは存在しないことになります。会えないという理由をつけて先延ばししているだけです。

といっても、僕はまだ死んだ父に手紙を書けていません。だから強いことは言えません。まあ、スポンサーになると、自分がやってないことでも、やらせなきゃならない時も出てくるんでしょう(で、後であわててやると)。


2007年09月22日(土) 「リスク上等!」でないとねえ

恋愛相談に乗るほど経験豊富なわけじゃありませんが・・・。

恋愛の告白って「好き」って言えば済むだけの話じゃないですか。難しいことはないと思いますが。

気持ちを自分の心の中だけに秘めているときは、何のリスクもありませんが、言葉に出してしまうとある種のリスクは避けられません。たとえば僕が誰かを口説いたとして、その女性が、

「私、ひいらぎに口説かれたのよ。あの男、あんな変な顔をして、いったい何考えてんだろうね!わはは」

などと吹聴して回られたら、結構凹みますな。仮に首尾良く恋愛関係に持ち込めたとしても、物事には終わりがありますから、こっぴどい別れ方をしようものなら、腹いせ(?)にどこで何を言われるか分かったものじゃありません。

結婚というゴールがあっても、その先に夫婦げんかが待っています。「友達に相談」という名目で、いろんなことが家庭の外に漏れていきますし、ことによるとブログで全世界に向けて発信されちゃったりします。「夫婦げんかは犬も食わない」と言いますが、対岸の火事ってやつですから。

一人でいれば、そういう傷つき方は避けられるのでしょう。でも、納得して一人でいるんだったら、それも良いのですが、傷つくことが怖いから避けているだけなら、やはり淋しいのじゃないでしょうか。

何もしなくても、いつか可愛くて心優しい女性が目の前に現れて「あなたが好き」と言ってくれるという、実現性皆無の夢を見ているうちに、着実に年を取っていってしまうものです。年を取ると落ち着くなんて言いますが、体も心も衰えて、好きになるのが億劫になるだけでしょう。そうなったら遅いですよ。

ともかく、自分だけ安全圏に隠れていて、恋愛の美味しいところだけ食べようなんて、無理な話です。どーんと告白して、ばっさり断られて、経験値を積んだらよいのじゃないでしょうか。

え? 全然勇気づけてない? 否定的なことばっかり言ってる? ま、がんばんなさい。

「結婚する前は両目を開けて、結婚したら片目を閉じて」相手を見ろ、なんて言いますが、酔っぱらっているときは両のまなこが酒で曇っているわけで・・・。なまじ素面になってしまうと、いろいろ見えすぎて誰とも結婚できなくなる例もあるみたいですから、何が幸いなのかは分かりません。

ひょっとすると女のほうも、ぼーっとしていても、急に目の前に甲斐性のあるいい男が現れて「好きじゃー」などと言ってくれるのを待っているのかも知れませんね。女になったことはないので、分かりませんが・・・。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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