心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年09月26日(水) 二番底

底付きとは、酒をやめる気になる瞬間でしょう。
(ひいらぎ的解釈では、やめたい気持ちが飲みたい気持ちを上回る瞬間だと思います)。
それまでは、アルコール依存症という病気で苦しくて、助けて欲しかったとしても、酒をやめる手助けが欲しいわけじゃなく、酒をうまく飲ませてくれる手助けを探しているのです。うまく酒を飲むとは、酒を飲んでトラブルが起きないことです。

やがて、どうやってもうまく飲めないことに気が付き、さらに自分では酒をやめられない(また飲んでしまう)ことに気づき、酒をやめる手助けを求め始めます。求める相手は、家族だったり病院だったり、自助グループ(AAや断酒会)だったり。

そこで酒が止まり、生きるのが楽になっていきます。

心の「ある部分」は酒をやめただけでは回復しません。しかし、酒は止まって生きるのも楽にはなっていますから、ことさら回復していない部分に光を当てて、その部分の回復の手助けを受けようとは、なかなか思わないものです。

しかしいつかは、その「ある部分」こそが生きていく上での苦しさそのものだと気が付く時が来るのでしょう。その時にAAメンバーであれば、ステップという手助けを求めるのだと思います。それが二番底、生き方の底付き、本当の底付きです。
AAに来ない人が、どういう二番底を経験するのかは知りません。
酒をやめる底付きと、生き方の底付きと、同時に経験する人もいれば、何年も離れる人もいるし、死ぬまで最初の底付きしかない人もいるでしょう。

本当の底付きを経験すれば、本気でステップを「やりたくなる」ものだと思います。つまり「ステップ使って楽になりたい」気持ちが「このままでいいや、ステップ面倒だし」という気持ちを上回る時が来るんだと思います。

どちらの底付きも、めでたいことには違いないと思います。


2007年09月25日(火) 回復の順番

心は体の内側にある、というのは何となく理解できる気がします。
心をくるんでいるのが体である、とも言えます。

AAでは依存症を、身体的・精神的・霊的な病気と表現します。霊的な部分とは、心のさらに内側、人間の中核にあるものです。

回復の順番は、霊性→精神→身体の順だとされます。ちょっと見には、身体(禁断症状が取れる)→精神(心の憂鬱が取れる)→霊性(生きがいが感じられる)という順番だと思ってしまいがちですが、あくまで霊的なもの、心、体の順番だそうです。

250人のガン患者の生活歴を調べた研究では、まず子供時代に緊張した人間関係があり、成人後は充実した仕事や人間関係で生きがいを感じ、やがてそれを失って絶望したところにガンになった、というパターンが多かったそうです。
これをもってして、霊的な部分が脆い場合、外部との関係で生きがいが与えられても、それを失って再び孤独と絶望がやってきたときに、体も心も病み始めてしまう・・、と考えるのは早計でしょうか。つまり、病は人間の内部からやってくるという考え方です。

昔の人は、病は気から、と言ったものですが、気(心)のさらに奥の魂の部分の病みを取り除くのが、健康への道ではないかと思います。

ステップを使って一番奥の霊的な部分が回復すると、次に心が回復し、そして体が健康になる。そうすると体の外部との関係から緊張が取れて、金銭とか人間関係においても回復していく、というのがAAの回復モデルです。

経済的回復は、霊的回復より先には来ない、というのも、この線に沿って考えると分かりやすいと思います。


2007年09月24日(月) 間違う権利を保障する

2000年アメリカ・カナダ評議会報告書より
ロイス・F GSO退職にあたっての言葉からごく一部を抜粋

1977年にGSOのスタッフになったとき、当時の所長のボブ・ヒッチンスにこう尋ねたことを思い出します。AAにとっての将来の不安材料は何か、それについて彼はどう考えているかと。ボブは“厳格になること”をおおいに心配していると答えました。また、1986年の評議会で、元所長のボブ・ピアソンが話したお別れの言葉のなかでも、彼はAAの中で“厳格さ”が増すと、つまりつまらぬあら探しのような質問に対して、かんぺきな回答が要求されるような事態が増えたら増えただけ、AAは大きな危険にさらされるようになると話していました。

もちろん私たちは12の伝統、概念、順守事項に要約されたAAの原理にしっかりとしがみついていく必要があるのは当然のことです。けれども、その“厳格さ”は、自分は間違っていないという一人よがりの思い込みに乗じてはいないだろうかということです。新しく来た人がミーティングで自分のことをどういう病気だと言ったからとか、抗鬱剤を服用しているメンバーはバースデイを祝うのにふさわしいかどうか、などということが問題として取り上げられるとき、私たちは自分の手で、命を救われたAAの集まりからアルコホーリクを追い払っているのではないでしょうか。

GSOに対してAAの伝統をもっと“強要”するようにと要求してくる人が増えています。ビルだったら一体どう対応しただろうかと思うのです。彼をよく知っていた人たちによれば、ビルは心が広く、寛大で、寛容だったといいます。そして彼のお得意のせりふは「どのグループにも間違う権利があるんだ」というものだったと。AAの中での間違いは、おのずとそのなかで修正されていくのだという強い信念をビルは持っていたのです。

(略)今、AAのプログラムとAAに対する私の中の信頼感はかつてないほど強力なものです。20年前、当時引退したGSO所長のボブ・ヒッチンスが彼の40年のバースデイで私たちのグループで話をしてくれました。(ボブが酒をやめたのは1940年で、ビルの死後6年間GSOの所長をしていました)。その中で、その40年間にAAそのものはほとんど、それどころか、まったく、変わらなかったという印象があると話していました。
それは今も同じだと私は信じています。ステップ、伝統、順守事項、概念、これらのものは65年前にさかのぼっても、いつの時代も、現在と同じように、貴重で、分かりやすく、実践に役立つものです。それらのものはすべてが、ミルトン・マックスウェルが強調したように、一つの霊的な織物の一部なのです。たとえメンバーやグループがその文章を一字一句暗唱していなかったとしても、それらの原理は、理解され、意識されています。

(略)評議会メンバーである私たち――評議員、常任理事、スタッフは、――アルコホーリクス・アノニマスの中できわめて重大なリーダーシップ的役割を取っています。けれど私たち評議会メンバーが道に迷い、AAのメッセージを運ぶ私たちの活動の中にいつも溢れる、簡潔さ、人を排除しないこと、共通感、愛情といったものを見失うようなことがあったとしても、その評議会メンバーに“AAという船を沈める”力などありません。そんなことができる力のある人間はどこにもいないのです。AAの集まりそのものが私たちを正しい道に引き戻してくれるか、あるいは私たち評議会メンバーが無視されるかのどちらかでしょう。

(以下略)

〜AA日本ニューズレター85号掲載の文章より


2007年09月23日(日) 近況

ソフトバンク携帯は、バッグの中に放り込まれたまま、全く使われていない無駄な状態です。とはいうものの、26ヶ月は契約し続けねばならない縛り付きです。トホホ。

テレビ到着しました。
パネルの画素数は1,366×768ですから、フルハイビジョンはおろか、普通のHD放送すらドット・バイ・ドットでは映りません。パソコンのモニターではなく、テレビですからそこは気になりません。てゆーか、アンテナ繋いで見るまで、地上波デジタル放送がHD放送(1440×1080i)だなんて知りませんでした。640×480だとばっかり思っていたのです。

稲刈り終了しました。
自家消費分だけ天日干しにしています。自然乾燥のほうがお米が美味しいから、という理由ではなく、コンバインによる収穫(と乾燥)を頼むと高いからです。

関係ないですが、相手が死んでいるから、二度と会えないから、ステップ9の埋め合わせができない、とは思いません。「会おうにも会えない相手も人もいるだろうが、そういう相手には正直な手紙を書く(p120)」。
たとえば死んでしまった人に手紙を書くことに、何の意味があるのか? ステップ9は相手に許してもらうためにするのではなく、自分の回復のためにするのですから、相手が読んでくれるかどうかは関係ないはずです。
したがって、「埋め合わせのできない相手」なんてのは存在しないことになります。会えないという理由をつけて先延ばししているだけです。

といっても、僕はまだ死んだ父に手紙を書けていません。だから強いことは言えません。まあ、スポンサーになると、自分がやってないことでも、やらせなきゃならない時も出てくるんでしょう(で、後であわててやると)。


2007年09月22日(土) 「リスク上等!」でないとねえ

恋愛相談に乗るほど経験豊富なわけじゃありませんが・・・。

恋愛の告白って「好き」って言えば済むだけの話じゃないですか。難しいことはないと思いますが。

気持ちを自分の心の中だけに秘めているときは、何のリスクもありませんが、言葉に出してしまうとある種のリスクは避けられません。たとえば僕が誰かを口説いたとして、その女性が、

「私、ひいらぎに口説かれたのよ。あの男、あんな変な顔をして、いったい何考えてんだろうね!わはは」

などと吹聴して回られたら、結構凹みますな。仮に首尾良く恋愛関係に持ち込めたとしても、物事には終わりがありますから、こっぴどい別れ方をしようものなら、腹いせ(?)にどこで何を言われるか分かったものじゃありません。

結婚というゴールがあっても、その先に夫婦げんかが待っています。「友達に相談」という名目で、いろんなことが家庭の外に漏れていきますし、ことによるとブログで全世界に向けて発信されちゃったりします。「夫婦げんかは犬も食わない」と言いますが、対岸の火事ってやつですから。

一人でいれば、そういう傷つき方は避けられるのでしょう。でも、納得して一人でいるんだったら、それも良いのですが、傷つくことが怖いから避けているだけなら、やはり淋しいのじゃないでしょうか。

何もしなくても、いつか可愛くて心優しい女性が目の前に現れて「あなたが好き」と言ってくれるという、実現性皆無の夢を見ているうちに、着実に年を取っていってしまうものです。年を取ると落ち着くなんて言いますが、体も心も衰えて、好きになるのが億劫になるだけでしょう。そうなったら遅いですよ。

ともかく、自分だけ安全圏に隠れていて、恋愛の美味しいところだけ食べようなんて、無理な話です。どーんと告白して、ばっさり断られて、経験値を積んだらよいのじゃないでしょうか。

え? 全然勇気づけてない? 否定的なことばっかり言ってる? ま、がんばんなさい。

「結婚する前は両目を開けて、結婚したら片目を閉じて」相手を見ろ、なんて言いますが、酔っぱらっているときは両のまなこが酒で曇っているわけで・・・。なまじ素面になってしまうと、いろいろ見えすぎて誰とも結婚できなくなる例もあるみたいですから、何が幸いなのかは分かりません。

ひょっとすると女のほうも、ぼーっとしていても、急に目の前に甲斐性のあるいい男が現れて「好きじゃー」などと言ってくれるのを待っているのかも知れませんね。女になったことはないので、分かりませんが・・・。


2007年09月21日(金) 領収書

ソブラエティ1年目に「金がない」という悩みをAAスポンサーに相談したら、返ってきた答えは「家計簿をつけろ」でした。
ステップ4・5と同じだというのです。まず自分の状態をしっかり把握しないと、修正もできないから、なんとなく金を使って、なんとなく足りないと言っているようではダメだと。
というわけで、家計簿をつけ、公共料金の請求書・領収書のたぐいはパンチ穴を開けてファイルしました。

その後、多少経済状態が改善すると、もう家計簿はつけなくなってしまったのですが、領収書のファイリングだけは続けていました。

一度、過剰請求を見つけて、何ヶ月分かさかのぼって返してもらったことがあります。

電子メールが普及する前は、AAメンバーとのやりとりは電話か手紙でした。郵便箱を開けて手紙が入っているのを見つけるのは、実に嬉しいものでした。それがないときは、JSOやセントラルオフィスからの書類でも、NTTや携帯電話の領収書と同封のパンフでも、ないよりマシでした。

最近のメンバー同士のやりとりはメールが主ですし、届く郵便物は「片づけねばならないこと」の類なので、郵便受けを開ける楽しみは、以前ほどではありません。

何のために領収書をファイリングしているのかも、意味不明になってきました。若干の資源節約のために、領収書や明細はWebで参照するサービスの申し込みをしました。


2007年09月20日(木) あなたのスポンサーではないのだが

目の前で起きていることが、どうしても納得できない、という気持ちは分かります。
もし神様がいるなら、どうしてこの人に罰を与えないのだろう、と思ったりするわけですね。「配慮に欠けていた」ってのも含めて、自分に落ち度はないし、相手が悪いとしか思えなくて・・。いつかこの人は罰が当たるだろう、いや当たって欲しいと思ったりして・・。

でもそれは「私は間違っていない」、「もし神様がいれば私に賛成してくれるはずだ」という思い上がりですよ。

もっと言えば、「私は正しいのだから、神様は私の判断に従うべきだ。だから早くあの人に罰を下しなさい」と思っているわけです。
いつの間にか、自分が神様より偉くなって、命令を下したがっています。AA流の言葉で言えば「神の役を演じて」います。自分=神になっています。

世間において「自分は神だ」と主張する人間は、一般にキチガイと呼ばれます。それが「自分の古い考え」の狂気です。これにつける薬はステップ2。健康な心に戻してくれると書いてあるでしょう。

自分がアル中だと気がつかない人は、酒をやめようとは思いません。同じように、自分の考えの狂気に気がつかない人は、正気に戻してもらおうとは思いません。だから、自分の考えで苦しむのはひとまず良いことです。きっとたぶんね。

自分の考えでは、どうにも間違いとしか思えないことでも、神様の視点で見れば実は正しいことなのかも知れません。僕らは神のように全知全能ではないので、目の前で起きていることの正しさが理解できなくても、しかたないことです。諦めましょう。

それよりも神様はすべて良くしてくださると信じ、今日起きたことにもきっと何か意味があると信じ、罰をあてて欲しい人に頭の中を占領させるのはやめて、今夜はぐっすり寝ようではありませんか。

いくらミーティングに出続けていても、そういう考え方は意識して努力しないと身に付きません。3年後にはきっと自分が変わっていると信じて続けていきましょう。そうすれば自分のことだけで十分忙しいはずですよ。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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