心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」

たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2007年09月03日(月) ハンドルうんちく

パソコンを電話回線で結んでネットワークを作り、文字を使ってコミュニケーションをすることが始まったのは1980年前後でした。それはちょうど完成品としてのパソコンが市場に出回り始めた時代でもありました。
それまでのパソコン(マイコン)というのは、回路設計からプログラムまで自作が必要な「敷居の高いホビー」でした。同じような趣味である「無線」から流れ込んできた人が多くいました。おかげで、初期のパソコン通信の世界は、無線を趣味とする人の文化がたくさん流れ込んできていました。

その例の一つが「ハンドル」です。handle を辞書で引くと「名前」あるいは「ニックネーム」という意味があります。

無線で交信する際に、本名では長くてわずらわしいし、識別信号では憶えにくい、そこで短いニックネームを使ってお互いを識別するようにしたのです。パソコンでの掲示板やチャットにも、ハンドルが使われるようになりました。

ハンドルについて何かルールのようなものがあるわけではありません。しかし「識別」を目的とする以上、いくつかの暗黙の了解があります。

・ハンドルは自分で名乗る
  →他の人が勝手にあだ名をつけるわけにはいかない。
・同じ場所では他の人と重複しない
  →別人と間違えては周りが困惑する。
・ころころとハンドルを変えない
  →別人だと勘違いすれば周りが困惑する。

これを逆手に取ることもできるわけで、たとえば他の人と同じハンドルを使って混乱させる(なりすまし)、複数のハンドルを使い分けて意見を誘導する(自作自演)、頻繁にハンドルを変えて別人を装う、などなど周りを困らせれば嫌われる原因になります。

ハンドルといえども、同じものを長く使い続ければ、その人と固く結びついてもはや匿名とは呼べなくなります(コテハン)。どんどんハンドルを使い捨てて匿名を維持するやり方もあります(捨てハン)。そもそも名前を使わないのが普通の巨大匿名掲示板もあります。

現実の世界でも、まじめな雰囲気の場所と、くだけた雰囲気の場所があって、それぞれに暗黙の了解も違うように、ネットの世界でも、場所によってふさわしい行動が変わってくるでしょう。


2007年09月02日(日) できることをする

とあるメーリングリスト(ML)で、メールによるオンラインミーティングが行われています。そのチェアを一年間担当して、先月末で任期が切れたところです。

今日は地元のAA地区のセミナーに、朝から参加していました。以前はAAのセミナーと言えば、廊下の喫煙スペースに人だかりができ、そのまま廊下で雑談にふける人が参加者の1/3ぐらいいた気がします。健康ナントカ法ができて、公共施設の館内でたばこが吸えなくなると、部屋の中で真面目に話を聞いている人の割合が増えた気がします。

さて本題。

回復とは人に何かを与えられるようになる過程だと思います。
飲んでいるアルコホーリクは、自分の渇望を満たすことが最優先になっています。回復とは、自分が「欲しい、欲しい」を連発するのをやめて、人に何かをあげられるようになることではないでしょうか。そして人に差し出すものの中で、物とか金というのは(実は)それほど惜しくないもので、時間とか愛情のほうが分け与えにくいものです。

何にせよ、人に何かを与えれば、自分の取り分は少なくなります。だからこそ、その行為を「自己犠牲」と呼ぶのでしょう。一見それは損に思えるものの、実は取り分を確保して手放さなかった場合より、(他のところで)補ってあまりある恵みが回ってくるわけです。このことはあまり難しく考えず、「情けは人のためならず」という言葉どおりで良いと思います。

しかし、なんでも自己犠牲ばかりしていれば良いわけではありません。
いつも誰かのわがままを無理に我慢して受け入れ、時間や愛情を与え続けたあげく、最後になって「もう我慢できない」と爆発して何もかも投げ出してしまうようでは、相手のわがままと大差が無くなってしまいます。もちろん、愛情とは我慢比べではありません。

ハビエル・ガラルダという人の 『自己愛とエゴイズム』 という本の中に、それを解決するのは自己主張だと書かれています。

それは「自分の水差しを葡萄酒で一杯に満たす事だ」と書かれていますが、酒が飲みたくなるといけないので「きれいな水で一杯に満たすこと」と言い換えましょうか。

自分の水差しから、皆のコップに水を注いであげる親切をして回ったあげく、最後になって自分の飲む分がないと恨み言を言い出すのは回復ではありません。水差しを満たす行為が自己主張です。

AAの先ゆく仲間を見ていれば、(自己犠牲の精神がある一方で)言いたいことを言い、やりたいことをやっている姿に気がつきます。それは一見わがままに見え、回復が足りないという誤解を生む事もありますが、まさに水差しを満たす行為を続けている姿です。

しかし、時には自己犠牲と自己主張が自分の中でぶつかり合うジレンマに陥ってしまうこともあります。その時は、良心の声に従えばよいのだそうです。ですから、僕らは自己犠牲・自己主張という表面に現れる「行動」のステージに留まらず、もう一段深い「良心」というステージでの回復を求める必要がでてきます。


2007年09月01日(土) ハイオク(その3)

JISの決まりでは、ハイオクガソリンのオクタン価(RON値)は96以上と定められています。エンジン側にも多少のマージンがあるようで、95以上なら良さそうです。実際に販売されているハイオクガソリンは、オクタン価98〜100程度だとか。

一方、レギュラーは89以上と定められていて、実際に売られているのは90〜93ぐらい。

さて、ここでハイオク50:レギュラー50の比率でガソリンを混ぜたら、どうなるでしょうか。仮にオクタン価がそれぞれ98と92だった場合、混ぜた結果は95になるはずです。うまくすると、エンジンはこれもハイオクガソリンだと思ってくれるかもしれません。
そうすれば、点火時期が変わることもなく、燃費が落ちることもなく、若干ガソリン代が節約できるのではないか・・・。

実際これを行動に移そうとしても、有人のガソリンスタンドしかなかった時代に実行するには、かなり顔の皮を厚くしないといけません。いくら僕でも、スタンドの店員に「満タンで。ただし半分ハイオク、半分レギュラーでね」とは頼めません。

しかし今やセルフのスタンド全盛です。そしてセルフのスタンドでは、どれだけ給油するか1リットル単位で指定できる店も珍しくありません。素知らぬふりをして半分レギュラーを入れることも可能かも知れません。

よし、これは「半分レギュラーガソリン代節約計画」を実行に移す条件がそろったのではないか・・・。ふふふ。そう思っているわけですよ。満タン法で燃費の推移を見守るにしても、実験の結果が出るには半年は条件を変えながら続けないといけないでしょうが。

最後に、ハイオク指定の車にレギュラーガソリンを入れても、走ることは走ります。しかし、ノッキングしやすさは、気温・水温・負荷によってころころと変わりますから、いくらノッキングセンサーをつけてアンチノック制御をしていても、ノッキングは起きてしまうでしょう。それに、5度以上も進角遅角を制御するには時間もかかります。エンジンの耐久性を考えるなら、ハイオク指定車に100%レギュラーを入れるのはやめたほうが無難だと思います。

レギュラー50%でも、それなりのリスクを背負った実験ですから、同じことを試すにしても自己責任でお願いします。

(この項おしまい)


2007年08月31日(金) ハイオク(その2)

このようにハイオクガソリンは、高圧縮エンジン専用のガソリンです。ハイオクを使うことを前提として設計されたエンジンは、たいてい高出力エンジンであるのは確かです。けれど、ガソリンそのもののエネルギーが違うわけではありません。
だから、レギュラーガソリン用に設計された自動車に、ハイオクガソリンを使っても、性能が上がるわけではなく、単なるお金の無駄遣いに過ぎません。

では逆に、ハイオク指定の自動車に、レギュラーガソリンを入れたらどうなるでしょうか?
「マジでハイオク専用ね」というごく一部の車を除けば、故障せずに走るでしょう。でもそれは非常事態用です。ど田舎のガソリンスタンドだと、ハイオクは置いてないところもあります。そんな時でも、ガス欠の車を押して帰らなくても済むように、レギュラーでも走るように対策はされています。

この場合にはレギュラーガソリンでもノッキングしないように、点火時期を遅らせる(リタード)制御をします。もちろん、そんなことをすればエンジンの出力は落ちます。なのでレギュラーを入れるとがっくりとパワーが落ちる結果となります。「レギュラーよりハイオクのほうが高性能なガソリン」という誤解が生まれたのは、このせいでしょう。
出力が落ちた分だけ、燃費も下がります。それでもノッキングは起きるときは起きてしまいます。

最近のようにガソリン価格が高止まりすると、レギュラーとハイオクの価格差も大きくなってきます。1リットルあたり10円違うと、50Lで500円です。僕は月に最低4回は給油するので、月に二千円の差となります。
しかし、そこで節約のためにレギュラーガソリンを入れても、価格差以上に燃費が悪くなって、結局出費増になるのがオチです。エンジンを常に「非常事態」で使うのも、耐久性の面ではどうかと思います。

それにしてもガソリンは高い・・なんとか節約できないものか。

(さらに続きます)


2007年08月30日(木) ハイオク

熱いお風呂にはいると、最初はとても熱く感じられますが、しばらくするとあまり熱さが気にならなくなります。これは体が熱さに順応した・・・のではなく、冷えた体が周囲のお湯を冷やして、皮膚の上にぬるいお湯が薄い層を作っているのです。
この薄い層を境界層と呼びます。水には粘性があるため、境界層はなかなか破られませんが、お湯をかき混ぜると層が破れ、熱いお湯が皮膚に接するのでまた熱く感じられます。どこぞの温泉では、客が熱いお湯に我慢して入っているのに、わざわざお湯をかき混ぜるサービスをしてくれるのだとか・・。

パソコンの熱くなった部品の周囲にも、熱い空気の境界層ができて、冷却の妨げになります。イオン風によって境界層を破壊して冷やす という技術も発明されつつあるようです。

ガソリンエンジンの燃焼気は、温度が2000℃にもなります。この温度が伝わったら、金属でできているピストンやシリンダーはすぐに溶けてしまいます。ここでも金属表面に境界層ができ、それがせいぜい200℃ぐらいまでしか上がらないので、エンジンが守られています。

さて、ガソリンエンジンの性能を上げるには、圧縮比を上げるという手段があります。目一杯空気(と燃料)を圧縮してから爆発させれば、膨張するときのエネルギーは大きくなります。しかし、気化したガソリンには悪い癖があって、圧縮しすぎると、スパークプラグで点火しなくても自己着火で勝手に爆発を始めてしまいます。

スパークプラグで着火して燃焼室内を燃え広がっていく正常な燃焼と、その反対側で自己着火して広がってくる異常燃焼がぶつかると、衝撃波が発生します。この衝撃波が大変なエネルギーで・・・ってことはなくて、ただエンジンからガガガと音がするだけです。これがノッキング(ノックする)という現象です。

でも、そのぶつかり合う衝撃のおかげで、金属表面の境界層が破られ、2000℃の熱に触れたエンジンが溶け出してしまいます。お湯をかき混ぜられて、熱い熱いと言うはめになるのと同じです。

これを防ぐために、高出力(=高圧縮)のエンジンには、自己着火しにくい燃料を使います。着火しにくさをオクタン価と言い、高オクタン価=ハイオクのガソリンが売られています。ハイオクガソリンは、添加物でオクタン価を高めている分だけ、ふつうのガソリンより高価になっています。

(長くなったので続きます)。


2007年08月29日(水) グループビジネス

AAのホームグループでビジネスミーティングがあり、役割の輪番を回す相談をしました。半年やらせてもらった会計係を降り、これから半年水曜日の会場係をやらせてもらうことになりました。

この半年間に、会計係でのトラブルが二つありました。ひとつは、ミーティング会場で回覧した出納帳を、そのまま忘れてきてしまい、ずっと使ってきた出納帳と領収書貼り付けノートを行方不明にしてしまったことです。これは新しいものを用意して使うことになりました。
もう一つは、僕が他の会場に用があったり、週末のイベントに出かけて、二回連続でミーティングを休み、献金箱から現金を回収しなかった間に、中身を誰かに持って行かれたことです。たぶん三千円ぐらいは入っていたのではないかと思います。教会は夜は鍵がかかりますが、昼間は出入り自由ですから。
そのことについて、グループメンバーが「必要な人が必要だから持って行ったんだよ」と言ったのが印象に残りました。ここは教会だから、その倫理観に従おうかという気分になりました。

水曜日の会場係は、仕事の都合もあって毎回来れるとは限らないのですが、それを言い出すと何もできなくなるので、思い切って引き受けることにしました。きっとなんとかなるでしょう。でも、おそらく半年の任期は全うできないとは思います(来年のことを言うと鬼が・・・)。

何年かぶりにこのグループに戻ってきた自分が、どういうスタンスでグループとつきあっていくか、ずいぶん迷いました。今ではその迷いもなくなって、まるでずっとこのグループにいたかのような顔をして座っていますけどね。
でも、その間ずっとこのグループを維持してきてくれたのは、ここの仲間たちなのだという事実を常に忘れず、そのことに敬意を持って行きたいものです。

土曜であれ日曜であれ、週末のAA会場を維持するのには特有の苦労があります。AAイベントが行われるのは主に週末ですが、なかなか出席もかないません。家族(特に子供)相手のことにも制約を受けます。それで愚痴を聞いたこともありません。頭が下がります。

いろいろ一区切りついた、という気がしたビジネスミーティングでした。


2007年08月28日(火) ありのまま

親父の小言 に「人に馬鹿にされていよ」というのがあります。

バカにされまいと思うからこそ、本当の自分より良く見せようと背伸びをしてしまいます。背伸びをして歩けば疲れるし、転んで痛い目にあうこともあります。そして、もっとイタイことは、背伸びをしていることは周りの人にモロバレなのです。
バレていないと思っているのは本人だけです。うすうすバレていることに気がついても、もう背伸びはやめられない。自分に正直になれていないのです。

そりゃまあ、この世の中には競争がありますから、時には自分を大きく見せなければならないときもあるでしょう。でも毎日それを続けていたら疲れます。ウツにもなるでしょう。無理する力は、いざって時のためにとって置いたほうが役に立ちます。

本当の自分を見せればバカにされるのではないか、嫌われるのではないか、という恐れは誰にでもあるでしょう。でもそう言う自分だって、虚勢を張る人はバカに見えるし、知ったかぶりをする人は嫌いでしょう。人は自分を映す鏡ですから。

虚勢を張らなければつきあえない友人なら、そんな友人とは別れた方が良いのです。恋人でも、夫婦でもそれは同じです。そんなつきあいを何年続けてみても、安心できる関係にはならないでしょう。あなたが愛しているのは「大きく見せている自分」であって、「本当の自分では愛されない」という不安と緊張が続くからです。

それはAAの中でも同じで、バカにされまいと肩肘張っている人は辛そうです。先ゆく仲間を見れば、回復が足りないと言われようが、バカにされようが、俺は俺だもんねという「ありのままの自分」で生きている姿勢が見えてくるはずです。

バカになるのは、その時だけ辛いだけです。虚勢を張り続ければ一生辛いですよ。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


My追加