心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年08月02日(木) Acceptance 受け入れる

Suggested Topics #1, Acceptance 受け入れる

「もしあなたが、私たちのような深刻なアルコホーリクなら、もはや中途半端な解決方法はない。私たちは、自分の人生が自分の手に負えなくなった状況まで、人間の意志では決して戻れないところにまで踏み込んでしまっていた。残された道は二つしかなかった。耐えられない状況に目をつぶって行き着くところまで突き進むのか、それとも霊的な助けを受け入れるかだった。私たちは受け入れた」 P39

4回目の精神病院の入院の時には、僕は自分の将来の人生がおおむね予測できました。多くの人たちが、僕と同じ人生行路を歩いていました。つまり、依存症がひどくなって精神病院に入院し、もうここへは戻ってこないと自分に言い聞かせるのですが、遠からず病気がぶり返して病院に戻ってくるというサイクルを繰り返している人たちです。

先を歩いている人も、後から付いてくる人も、たくさんいました。なかには病院内で飲酒して保護室行きなんて人もいましたが、たいていの人は入院中はマトモな人のふりができているようでした。朝退院して、その日の夕方再入院してくる人がいる一方で、入院と入院の間隔が何年も、十何年もあく人もいました。でも、サイクルがどうであれ、世間で暮らし続けることができない人たち、という点ではまったく同じでした。

僕はもはや「もう同じ過ちは繰り返さない」と自分をだますこともできなくなっていました。どこかに、まだ自分の知らない素晴らしい解決方法がある、という盲目的な期待も失っていました。

僕にできるせめてもの抵抗は、ベッドに横たわってヘッドホンで音楽を聴き、古本屋で買ってきたマンガを読むことぐらいでした。つまり「耐えられない状況に目をつぶる」ことです。

この先も、退院したり入院したりを繰り返して生きていくしかないのか?

もう病院から退院できなくなってしまった人たちも、ずいぶんいました。
「退院できなくなる」という言葉を使ったら、誰かが混ぜ返しました。「人は皆、入院すれば必ず退院する。ただ、その時生きているか死んでいるかの違いがあるだけだ」と。

なにも、そんなに悪くなるまで意地を張らなくても良かったのですが、僕はAAの霊的ってやつが嫌いだったのです。神も、ハイヤー・パワーも、祈りも黙想も、ついでに言えば棚卸しも埋め合わせも、毎週毎週同じ時間にミーティングに行く生活も、嫌で仕方なかったのです。

精神病院の中でも人は死にます。満床で動かす先もなく、家族が迎えに来る翌日までベッドに寝かされた遺体。あるいは来るのが葬儀屋だけだったり。

自分がそうなるのは何とか避けたかったのです。助かる手段がありさえすれば良かったのです。その手段が霊的かどうかなんて全く問題ではありませんでした。

あの時の僕は本当に<助かりたかった>。ただ、当時はそんなことを口に出して言うほど素直じゃありませんでしたから、「お前らに俺を助けさせてやるぜ」というぐらいの態度でしたでしょうけど。

受け入れるのを意固地に拒んだ時間だけ、苦しみが長引いたわけで、それは他の誰のせいでもありません。


2007年08月01日(水) AAの仲間から贈られた言葉を、今でも大事に憶えて...

AAの仲間から贈られた言葉を、今でも大事に憶えています。

「アル中は、人のやることが気にくわない」

つまり、自分の思い通りにしたいのです。
家庭でも、自助グループでも、職場でも。

「こういうことをするヤツが気にくわない」
「俺のことを気にくわないと思っているヤツが気にくわない」
これの連鎖です。

それが「気に入らねえんだよ」という言葉と一緒に出てくればまだしも、人の道だとか、常識だとか、一見まっとうそうに見える理屈にすり替えられて出てくるわけです。が・・本心は、ただ気にくわないだけだろう、ってことが透けて見えることも、ままあります。

気に入らないのは、相手の問題ではなく、自分の問題です。

AAの12の伝統は、ルールではありませんが、グループを律していくために必要なAAの基本原理の一つだとされています。伝統によってグループが守られ、その中のメンバーが守られます。つまり、守るための道具です。

ところが、自分の問題が片づいていない=ステップをやっていない状態で、伝統を使うとかえって問題を抱えることになりがちです。本当は相手のやっていることが気に入らないだけなのに、「お前のやっていることは伝統違反だ」という正論へと巧妙にすり替えてしまいがちです。こうなると、伝統は相手を攻撃するための武器になってしまいます。
けれど、そのことにはなかなか気づけません。

AAの中に何年もいる人ならば、伝統を武器として振り回してしまった恥ずかしい経験が何度もあるはずです。最初から回復している人なんていないですからね。たぶんこれからもやるでしょう。

だから伝統について相手を諭す場合には、自分の動機をチェックしなければなりません。相手を攻撃する剣として使いたいのか、グループやメンバーを守る盾として使いたいのか。

そして自己欺瞞が起きていないか、誰かのチェックを受けることも必要でしょう。

自分をチェックするという習慣は、ステップを実行することによって身につけます。ステップ4・5・6・7・10・11あたりです。


2007年07月31日(火) 宗教の勧誘

一人暮らしのアパートで飲んでいた頃、良くやってきたのが宗教の勧誘でした。当時の多摩地方では、えほばやものみやまひかりなどが熱心に活動していました。まあ、たいてい僕は「間に合ってますから」と、新聞の勧誘を断るのと同じ言い訳でドアを閉めていました。

ある時、下北沢の居酒屋で3人で飲んでいたときのこと。メンツは僕と、僕のプログラミングの導師、それから北陸出身のパンクロッカーだったと思います。そこはよく行った店で、板さんにも、店長にも顔を覚えられ、つまみ類もお任せで頼んで飲んでいました。
その時も、終電の時間が過ぎて、たいていの客が帰った後も、僕らは飲み続けていました。すると、隣のテーブルで残って飲んでいた二人組が、「一緒に飲んでも良いですか」とこちらのテーブルに移ってきました。
しばらく世間話などしていたのですが、そのうち二人組が宗教の勧誘をはじめました。どうやら仏壇を売るところらしい。どだい3時間も酒を飲み続けてきた人間を相手に、さらに飲みながら布教しようと言うのだから無理な話です。
こちらはおたく3人組だから、相手の話を聞かずに自分たちの好きな話をするだけでした。おたくってそういうもんでしょう。その時も、布教の話はお構いなしで、共産圏のSF作家の話から、カルピスこども名作劇場の話へ、そしてヨーロッパのプログレッシブロックの話、ふくらはぎと太ももの太さの比率論などへと変遷していきました。
ますますこれは救済しなければならない魂だと思ったのか、大学生二人の勧誘は熾烈を極めましたが、残念ながら閉店の時間が来てしまいました。

勘定を済ませて店を出ようとした僕らに、おたくにあしらわれたのが気に入らなかったのか、なおも食い下がろうとする二人。「常連さんに迷惑かける客は出入り禁止」と言い出した板さんと、「うるせー俺たちゃ客だ」と言い出す二人組との間で口論が始まったようでしたが、僕らは店を出されたので、その後どうなったのか知りません。

その後は、小田急OXで酒を買って、導師のアパートで朝まで飲み直したんだと思います。

そう言えば兄が家を新築した頃、おばさん二人組が宗教の勧誘で訪れたという話もありました。兄は玄関先で焼酎を飲みながらおばさんたちの話を二時間聞いたそうで、4号瓶の焼酎が二本空いたそうです。もちろん、おばさんたちは迷える魂を救済することはできませんでした。

ともかく、酔っぱらいに布教するのは無駄だと言うことです。


2007年07月30日(月) 道徳的になる前に

AAの十二のステップには、自分の過ち、性格上の欠点、短所という言葉が出てきますし、埋め合わせ(謝罪、賠償)という言葉も出てきます。

だから、ステップを見た人たちの中には、AAは道徳的なプログラムで、品行方正になるのが目的だと思う人がいます。そのことを大いに励みにする人もいれば、それを嫌う人もいます。

でも、ちゃんとしたAAスポンサーならば、スポンシーが「ともあれ道徳的に」生きようとしたら、まずそれを止めるでしょう。

僕らの多くは、アルコールが生活に及ぼす害が大きくなってきたときに、もっと道徳的に生きようとしたはずです。中には、酒のことをとやかく言われたくなかったからこそ、トラブルが起きないようにとりわけ気を使ってきた人もいるでしょう。
でも、どうであれ道徳的に生きることはできなかったからこそ、AAにたどり着いてしまったのです。これは認めざるを得ないでしょう。
「自分を道徳的に律する力がある」という幻想はまず捨てないといけません。

道徳的である前に、まず自分自身であらねばなりません。自分は本来こういう人間だというイメージに沿って生きることです。

しかし、ここで気をつけなければならないのは、「自分は本来こういう人間だ」というイメージは、実は他者から「あなたはこういう人間であることを目指しなさい」と押しつけられたイメージである可能性です。
たいていは、子供の頃に親に押しつけられたものがあります。
僕も、僕の親は普通の愛情ある親だったという自己欺瞞が長くありました。その押しつけられたイメージどおりに生きられていたら苦しまなかったのでしょうが、能力が足りなかったか、はなから絶対無理な目標を背負わされたか、その通りには生きられなかったのです。

だから、それも取り除いて、自分自身であろうと努めます。誰かを満足させるためではなく、本当に自分のしたいことに時間を使うよう努めます。

ところが、そうやっていろいろ取り除いていくと、本当に自分のしたいことが見つからず、自分自身が空っぽであったりします。そんなときには、「自分探し」で時間を費やしたりせず、とりあえず目の前にあることをこなしていけば良いと思います。それが僕の場合、仕事だったり、家事手伝いだったり、AAの共同体だったり、そのほかあまり道徳的でないいろいろだったりします。

とりあえず足下に転がっているガイダンスに従って行けば、そのうち道徳的に生きられるんじゃねーかな、という感じです。

AAは清く正しく美しく生きるためのプログラムだ! なーんて言葉を聞くと、登山初心者がヒマラヤに登ろうとするのに似た危うさを感じます。


2007年07月29日(日) 日曜

長野のAAには日曜集会というのがあります。第五日曜日がある時には、その日に地区委員会と、合同ミーティングをやります。日ごろ地区委員会には無縁な人たちにも、オブザーバーとして委員会に参加してもらい、委員会の様子を知ってもらうのもひとつの目的です。
それから、都道府県を面積の広い順番で並べると、北海道、岩手県、福島県、長野県となります。長野県も結構広く、県内でAAが地理的に広がって行くにつれて、同じ地区のメンバーなのに滅多に会わず、一緒にミーティングをしたこともないという人が増えてきたので、交流のための合同ミーティングをしています。
これがあるおかげで、かろうじて顔と名前を覚えている相手もいますから、僕は大変助かっています。

今日は久しぶりに人数の多い日曜集会でした。少々疲れて帰宅すると、妻と子供も市民プールに行ってお疲れでして、夕食を作る責任を押しつけ合ったりすると、さらに疲れが増しそうだったので、回転寿司に行くことにしました。
早々に風呂を済ませて出かけると、児童センターの前で交通整理をしています。そういえば今日は投票日だと気が付きました。いつもは投票の整理券の葉書が届くと冷蔵庫に貼り付けておくのですが、今回は家族の誰も葉書を受け取った覚えがありません。きっと誰かが我が家の郵便受けから葉書を抜き取って、かわりに投票してくれたに違いない、という結論に達して、そのまま寿司へ向かいました。

行儀良くしたくないのに、行儀良くさせられている子供は、行儀良くしない別の子供が気に入らなくて仕方ないのだ、と心理学の先生の本に書いてありました。子供時代に十分に好きなことをして遊んだ子供は、大人になって労働がそんなに苦痛だとは思わないわけです。
子供時代から「何かをさせられている」と感じている子供は、大人になっても働いたり家事をする事が辛くてたまりません。そういう人は、仕事をさぼったり、家事をさぼったりしている人間を容赦なく責め立てます。世の中の人間は、皆が辛い労働に耐えているのだと思っているのですから無理もありません。
働くことに喜びがある、というのは建前であると信じてるのでしょう。

AAの中には生活保護で暮らしている人たちもいますが、そういう立場の人に対して必要以上に辛く当たる人ってのは、自分が働くのも生きていくのも辛くて仕方ない人たちなのでしょう。

AAミーティングも行きたくないのに、いろんなしがらみで行かざるを得なくなっている人も、ミーティングをさぼる人間を責め出すと容赦がないです。

ミーティングに行って仲間やハイヤー・パワーと交われば、生きることが楽になるのに、サボってわざわざ辛い人生を選ばなくてもいいのにね・・・てのが、回復した感じ方なのではないかな、と思ったり。


2007年07月27日(金) 集合知

集合知という考え方があります。

たとえばメーリングリストでは、同じことに興味がある人たちが、様々な話題をメールで交換します。時には意見が対立して、激しい口調の文章が頻繁に投稿されるフレーム(議論の炎上)という現象が起こります。フレームでは、たいてい議論は平行線のままで結論に収束しないまま終わるものです。
フレームに発展しなくても、話し合いは平行線のままってことは、よくあります。メーリングリストに100人が参加していれば、そういう話が100人に毎回送られるわけです。

決着が付かなければ意味がないと思っている人は、平行線の話し合いに意味を見いだしません。とりわけ、何もかもコントロールしたがるアル中さんは、相手が自分の意見に従ってくれないことに、大きな不満を持ちます。意味がない無駄なことだと考えがちです。

話題にならなければ、個人の知(知恵とか知識)でしかなかったものが、話の交換が皆に届くことで、その集団の知に変わっていきます。これが集合知という考え方です。集団の知というものは、一様ではないもので、なかに様々な意見の相違を含んでいます。一様であればよいわけでもありません。

集団にはメンバーの入れ替わりがあり、個人もなかなか進歩しないものですから、たとえばフレームであれば、似たようなフレームが繰り返し起こります。だからくだらないと言う人もいますが、このプロセスそのものが集合知の有り様だと思います。

ネットの掲示板でも、あるいは自助グループでも、同じトラブルが繰り返し繰り返し起こります。AAのビジネスミーティングや委員会で何を決めても、2〜3年もすればすべて忘れ去られ、また同じことを話し合っているのが通例です。

それを進歩がない無駄な行為だと考えがちです。でも繰り返しに意味があるんだと思います。個人のステップでも、同じことに繰り返し気づきます。気づいて自分を変えても、いつの間にか元に戻っているということです。それでも、気づきと変化には意味があります。グループにとっての伝統も同じでしょう。
どれだけ進歩したかという量ではなく、どちらへ向かっているかという方向性が大切です。

回復のためのミーティングでは、議論を避け「言いっぱなしの聞きっぱなし」にするというのも、集合知を作るための知恵でありましょう。

議論に決着が付かない、白でも黒でもない、あいまいなまだら模様の状態を受容していきましょう。


2007年07月26日(木) 分からないことの良さ

AAというのは「なんだかよく分からないところ」であります。
その、分からなさが良い点なのでしょう。

分からないままでも参加していれば、だんだんおぼろげに分かってくるものでしょう。最初は難しいことは要求されません。簡単な提案がされるだけです。例えば、休まずにミーティングに通うことなどです。
ある程度分かったようなつもりになってくると、必ず次の課題が見つかってきます。そうやってゆっくりと進んでいきます。

依存症からの回復はゆっくりとしか進まず、時にはぶり返しも伴うものですから、ゆっくり進めるのは良いことだと思います。

「分からないからいいんだ。分かったら飲んじゃう」

というのがスポンサーのスポンサーから伝わってきた言葉です。

AAの中で人より秀でる必要はありません。なにも世の中全般の競争原理を、ここまで持ち込んで生きなくても良いのです。でも優等生タイプにはそのことが分からないようです。彼らは、他のメンバーに追いつき、追い越すことを自分に課しています。

いろいろなことが分からないでいるうちは、一見謙虚に人の言葉に耳を傾けていますが、やがて2〜3年もすると「もうAAに学ぶべきものは何もない」とでも言いたげに来なくなってしまいます。彼らは「分かってしまった」のです。

しかし、彼らがその後また飲んでしまうことをみると、どうやら彼らも実は何も分かっていなかった、というのが真実でしょう。

ゆっくりと、分からないままに進んでいけば良いのだと思います。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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