心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」

たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2007年07月25日(水) 約束

AAにつながりたての頃、スポンサーから言われたことのひとつに

「できない約束はするな」

というのがありました。
例によって、なぜなのか、という理由は添えられていませんでした。理由なんてものは、あとになれば分かるものだから説明するまでもない、というスポンサーシップでしたから。説明してもらって、納得できないからやらない、というのなら理由なんて聞くだけ無駄です。

いま考えると、

・無理な約束で苦労して、あげくに相手を恨むようなことはするな。
・できないことはできない、自分の能力の限界を知れ。
・相手の役に立たないからと言って、人に愛されないわけではない。
・相手の病気を手助けするようなことはするな。

などなど、いろんな意味があったように思います。

それまで、AAの各種イベントに誘われて「行きます」と言っては行かずじまいだった僕ですが、スポンサーからの提案に従って、その後の参加はすべてキッパリお断りしていました。長野県のAAのオープンスピーカーズも、そのころは毎年田植えと重なっていて行けませんでした。AA優先にしたかったのはやまやまでしたが、父が亡くなり農作業の手順が分からないままに、母・兄・僕の3人でぎゃあぎゃあ騒ぎながら、なんとか米を作り続けていた頃です。

ある年の田植えの日の午後に体が空いたので、地区のイベントの会場に行ったら「夏に安曇野でイベントをやろうぜ」という話になって、そのまま実行委員会に参加して、それが僕のAA初イベントでした。

県内のイベントですら、そんな低頻度の参加でしたから、県外のAAイベントに参加するのは、もっとずーっと後になってからです。

いやいや、記憶が間違っています。群馬のラウンドアップへの参加は1年目でした。それにイベントではないですが、岐阜高山の日曜の普通のミーティングに行ったこともありました。でも、そういうのは誘われて約束があって、というわけじゃなく、自分で決めていましたね。

スポンサーは晴れがましいAAイベントが嫌いでしたし、その点は僕も同じで、立派な垂れ幕が下がっているのよりは、手書きとかのが良いし、さらにそれも省略して、ただ壇上でスピーカーが話をしているだけなんていう質実剛健なイベントが、一番好きであります。


2007年07月24日(火) まだ表紙がモノクロだった頃のBOX-916(AAの機関誌...

まだ表紙がモノクロだった頃のBOX-916(AAの機関誌)に、「いくらハイヤー・パワーだなんだと言ってみても、最初の一杯に手を付けないのは、意志の力ではないのか」という投稿が載ったことがあります。

BOX-916がAAの月刊誌ではあっても、AAの統一見解が載っているわけではなく、ひとつのトピックに対して様々な意見が載るのが通例です。その時は、「やっぱり目の前の一杯を我慢するのは意志の力だよ」という意見が多かったような気がします。

いま僕の職場の機材用テーブルの上には、缶ビールが10本ぐらい載っています。お中元で届いたものを、職場メンバー全員に配ることになったのですが、僕のように家族を含めて誰も酒を飲まない人もいれば、外では飲んでも家では飲まない人も多く、大部分がそのまま放置されています。
職場では冷房嫌いな人も多く、この暑さでも一日エアコンを入れずに終わることもしょっちゅうです。ネクタイや作業着の着用が義務づけられている職場ではないので、涼しい格好で乗り切っています。きっとサングラスにアロハに短パンにビーチサンダルで出社しても、誰もなにも言わないでしょう。
いくら涼しい格好をしても、暑いものは暑いままです。
そしてふとテーブルに目をやると、そこにはスーパードライの缶の銀色の輝きが・・・。発泡酒や最近の新しいビールは味を想像しようとしてもできませんが、スーパードライにはさんざんお世話になりました。飲みたくなって当然であります。

それを飲まないのは意志の力だと思います。でも、意志の力が働くのは(酒に関しては)正気だからです。
ところが、一般人に紛れて暮らしていると、いつか「どうせ余っているビールなんだから、僕がもらって帰って飲もう」とか、「あのビールには手を出せなかったから、かわりに自動販売機で冷えたヤツを買って飲もう」とか思ってしまう可能性が大です。つまり狂気に支配されてしまうわけです。狂気に支配されているときには、意志の力は働きません。

目の前の一杯を飲まないのは意志の力かもしれません。でも、意志の力がきちんと働く状態を保つには、AAプログラムが必要です。


2007年07月22日(日) へろへろ

なんだかんだで忙しい週末でした。
オールスターゲームは二試合とも見られませんでした。9回を9人の投手で豪華リレー、中日をクビになり楽天に拾われた38才山崎のホームラン、打ち込まれてもストレートを投げ込み続ける18才田中まーくん。テレビで良いから見たかった。

さて。

以前ある教会の部屋をAAミーティング会場としてお借りしていた頃、そこの牧師さんや、信者さんたちと話をする機会がありました。僕はキリスト教徒ではないので、それまで牧師という職業の人が、どんな暮らしをしているのか、全く知りませんでした。

いろいろ話を聞かせてもらった中で、今でも印象に残っているのが、牧師さんは日曜日にする説教のために、週日に勉強をするという話です。それまで僕は、聖職者は聖書の内容をすべてそらんじていて、神学校を出たあとは勉強なんてしないのだと思っていました。正直にそう話すと、「言葉によって人を救うのだから、言葉の力を磨くのは当然である」と教えられました。

AAのスピーカーズ形式のオープンミーティングは、壇上から聴衆に語りかける形式になります。その時のスピーカー(話し手)の話の巧拙は、問題とはされません。AAのミーティングは、スピーチコンテストではないのですから。説教とも違いますけどね。

僕は「こちらを向いて」つまり聴衆の方を向いて話した経験はあまりありません。地区のオープンスピーカーズで1回。山梨と新潟で各1回。ビッグブック関係の集まりの壇上に2回。選挙でのいわゆる演説が1回。あるグループのスピーカーズで1回。話すのは下手な方ですから、回数も多くありません。

メンバーの中には、あちこちで頻繁にスピーカーして経験を積み、聴衆に耳を傾けさせる話をする人もいます。そういう人の能力は素晴らしいと思います。けれど自分もそうなりたいとは思いません。努力すればなれるかもしれませんが、それは得意な人に任せておけばよいことで、自分には他の責任が割り当てられていると思っています。なにせ僕の時間は有限です。100人の前で素晴らしい話ができる能力と、初めてAAに来た人の緊張をほぐす雑談ができる人と、どちらが優れているというものでもないでしょう。

でも、例の牧師の話もあり、なにも努力しないのを「ありのまま」と言っているわけにもいきません。自分にスピーカーの順番が回ってきたときには、事前に原稿を用意したり、前の晩に練習したりしています。それには、自分を良く見せようという気持ちも入り込んじゃっているとは思いますが、概ねはコミュニケーションの障害を取り除く努力を怠ってはいけない、という信条によるものです。

とは言え「あの時は原稿読んだんだよね」と言われると、ちょっとハズい。


2007年07月20日(金) アル中は意志が弱いのか

意志が弱くて酒がやめられない、という話は良く聞きます。
アルコール依存症の人は、本当に意志が弱いのでしょうか。

マット・スカダーの一節にこんな文章があります(記憶に頼っているので、文章は正確ではないです)。

「もし、(体調不良の)原因が酒だと分かっていなかったら、私は間違いなく救急車を呼んだだろう」

依存症という病気がひどくなれば、まさに救急車を呼びたくなるような具合の悪さが、毎朝襲ってきます。それでも、布団から身体を引っぺがして仕事に行きます。もし仕事に行けないとなると、その原因は酒であり、酒をやめるか控えるかしなさいと周囲から言われる羽目になるからです。なんとか酒を飲める生活を続けたいという願望が、重病人(?)を日々の活動に向かわせます。なんという意志力の強さでしょう。飲んでいた頃のあの能力を、いま発揮できたなら、きっとインフルエンザの高熱でも普段と同じ生活ができるでしょう。

かように依存症者の意志の力は強いものです。逆に言えば、それだけ意志の力が強い人たちでも、意志の力ではやめ続けられなかったということです。

意志が弱くて酒がやめられないという発言は、実は酒をやめたくない気持ちを、意志の弱さという言い訳でごまかしている場合が多いものです。周囲から「意志が弱い」と言われたりするので、よけいにその口実が使いやすくなります。

あんなに苦しくても頑張って酒を飲み続けてきた、病気の影響とか、単なる意固地と言ってしまえばそれだけなんですけど、意志の強さもあるでしょう。意志の弱い人間なら、依存症になる前に苦しさに負けて酒をやめてしまいますよ。きっと、たぶん。


2007年07月19日(木) 今昔

この雑記を書き始めてから、あとひと月で6年になります。
ネットで日記を書くのも初めてではなかったし、ホームページも「心の家路」以前にいくつか作ってはつぶしていました。「これもいつまで続くやら」と思いながら始めたものです。

当時と今を比べると、ネットワークを取り巻く環境は大きく変わりました。
今ではブロードバンドの24時間常時接続が当たり前になっていますが、当時はまだ電話回線にアナログモデムをつないでダイアルアップ接続するのが普通でした。回線の太さも、現在の100分の1から、1000分の1ぐらいで、ホームページに画像がたくさん貼り付けてあると、表示し終わるまでに何分もかかったりしました。
「心の家路」が極力画像を少なくして、テキスト中心にまとめてあるのは、イライラせずに読んでもらうためにはシンプルにする必要があったからです。

先日埼玉へ出かけたときには、年に何回かしか使わないPHSカードを持って行きました。パソコン用モバイル通信では、まだまだPHSに頼らねばならない場面がたくさんあります。公衆無線LANは使える場所を探すのが面倒です。都内へ行けばイー・モバイルだとかライブドアとか、選択肢もたくさんあるのでしょうが、16号の外側に出てしまうと寂しい限りです。

国立女性教育会館の宿泊棟は、市街地からかなり離れているので、PHSも何度もダイアルし直してやっとリンクが確立するぐらいの弱い電波しか届いていません。64Kbpsで接続したと表示されていましたが、実際の転送速度はアナログモデム並みまで落ちていました。それであちこちのサイトを見に行ったのですが、多くのサイトがブロードバンド接続で見ることを前提にしているのでしょう、PHSでは重くて重くて。ブログも画像部品を多用してデザインしてありますし、新聞社のサイトでも100個近い画像があったりします。でも携帯電話専用にデザインされたページは軽くできています。

パソコンでネットにつなぐ人よりも、携帯電話でネットを覗く人の方が多くなったという調査がありました。パソコンと携帯と両方持っている人でも、携帯電話でネットを見ている時間の方が長くなったという調査もありました。

「パソコンはブロードバンド接続でリッチなページ、携帯はパケット数節約のためにシンプルなページ」という流れがあって、PHSとノートパソコンなんていう組み合わせは、時代に取り残されつつある印象です。でもWiMAXより、次世代PHSに期待します。


2007年07月18日(水) 安易な癒しを求めない(甘えるための尊敬)

人生辛い修行が必須だとは思わないのですが、安易な癒しばかり求めてはいけないと思います。ヒーリング音楽のCDとか、読むだけで感動する本とか、「自宅でお手軽に」という癒しは、たいてい商業主義の匂いがぷんぷんするものです。
エステサロンに何十万円も払って、ダイエットエステのコースを頼む人がいます。そこへ通って横になっているだけで美容と癒しと痩身ができるんだったら楽でしょうが、本当にそれで(それだけで)痩せた人がいるんでしょうか。
部屋が散らかって汚れているのは気分が良くないものです。自分で掃除・片づけをしようが、誰か他の人にやってもらおうが、片づいた後のすがすがしさは変わりません。このすがすがしさも癒しですね。でも、誰かに片づけてもらうのが癖になって、後にその人がいなくなってしまい、自分が掃除片づけをやらなくちゃならなくなった時、その「義務」を苦痛に感じたりしないでしょうか。

自助グループは癒しの場ではないと言います。少なくとも「安易な癒し」の場ではないでしょう。

癒しばっかり求める人は、人間関係の問題を抱えます。常に自分の部屋を片づけてくれる人を探しているようなものですから。自分にキツイことを言う人は悪い人で、自分に優しい思いやりのある言葉をかけてくれる人は善人・人格者・尊敬できる人という分別をします。
ところが、そうした善人も、いつもいつも優しくして甘やかすわけにはいきませんし、他のことが忙しくて甘えん坊の相手をしていられないことだってあります。そうすると、癒しばかり求める甘えん坊は、「あの人は変わってしまった」とか「尊敬していたのに裏切られた」とか言いだし、あげくには「やっぱり人間なんて信じられない」とスネてみたりします。こういう人は、自助グループでも、病院でも、夫婦でも、はたまたインターネットの掲示板でも、同じことを繰り返します。
安易な癒しを与えてくれる存在として、相手を利用していた自分に気がつかないのでしょう。人間不信や対人恐怖も、結局は自分の中の問題なんでしょう。本質的な癒しのためには、セルフ・エスティームの回復が欠かせませんが、それにはインスタントな方法などなくて、こつこつ地道にやるしかないと思います。

逆の立場から見れば、「尊敬します」と言っていた人に、いきなり「裏切られた、こんな人だとは思わなかった」と言われるわけですが、それは相手の問題ですからほっとくしかありません。悪人と言われる覚悟がないのなら、特に異性には優しい言葉はかけない方がいいですよ。性的な関係もないのに、あとでドロドロの人間関係になったりしますからね。まあ身から出た錆。巻き込まれるのは回復が足りないから。


2007年07月17日(火) 渇酒症

渇酒症という言葉があります。
僕が入院を繰り返している頃には、「自分は渇酒症だ」と言っているアル中患者さんがある程度いたような気がします。

渇酒症もアルコール依存症の仲間なんでしょうが、酒をなかなかやめられない普通(?)のタイプの依存症者とはずいぶん違った症状だと聞きます。
彼らはふだんはまったく酒を飲みません。ところが例えば年に1回とか2回とか、あるいは数年に1回、バケツの底が抜けたかのように飲み出すことがあり、そうなると数日から数週間、社会生活を放り出して連続飲酒にふけります。ところが、ここから先が違うのです。渇酒症の人は、あるときぴたりと酒をやめ、その後酒を遠ざけるのに何の苦労もありません。しかしいずれ連続飲酒の時期がやってきます。こうして間欠的に大量飲酒を繰り返すのが特徴です。
普段は酒をやめるのに苦労をしないことから、普通のタイプのアル中さんと共感を得るのは難しいようです。

ところで普通のタイプのアル中さんも、症状が進んでいくと山形飲酒サイクルというものが出現する場合があります。これも、大量に飲酒する時期があり、あまり酒を飲まない時期があり、再び大量飲酒の時期がやってくる、というサイクルを繰り返します。
なぜこうなるのかと言いますと、病気の進行の結果です。アルコール依存症は飲酒のコントロールを失う病気、ブレーキの壊れたダンプカーに例えられますが、そのブレーキの壊れ具合がだんだん進行していきます。最初のうちは連続飲酒に突入する(つまりダンプが暴走する)までには、再飲酒からだいぶ間がある(それだけコントロールが効く)のですが、重症になるとコントロールがほとんど失われてしまい、ちょっと酒を飲み過ぎただけですぐに大量飲酒・連続飲酒に結びついてしまうため、ダンプカーもおいそれとは走らせられなくなります。
意志の力による断酒期間・節酒期間と、あっという間に落ち込む連続飲酒期間が繰り返されてるところは、外から見れば渇酒症に似ています。

僕が入院していた頃に渇酒症を主張していた人たちは、やっぱり普通のタイプのアル中さんたちで、自分の山形飲酒サイクルを渇酒症だと思いこむことで、自分は普段酒をやめるのに何の苦労もない、と自分に言い聞かせようとしていただけなのではないか。そんなことを思います。

最近では渇酒症を主張する人には、滅多にお会いしません。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


My追加