心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年07月09日(月) AOSMみやげ話 2

本社の偉いさんの送別会。会社を大きくするために頑張ってきた人たちが、最後の数年ぐらいは好きにやりたいと退社するのが続いています。それは、前の会社時代から世話になった人たちが会社を去っていくことを意味するので、寂しい気持ちもあります。
週末の疲れも残るだろうからと有給休暇を入れていたのですが、送別会の日取りが他に取れないというので、有休をキャンセルし、送別会の参加者を長野に集めるために行われた会議に出てました。眠い眠い。夕方からの中華料理はおいしかったのですが、会費五千円は痛い、痛すぎるぞ。

さて、AOSM。

参加人数:
議決権を持った参加者が20人ぐらい+通訳の人ふたり。各国の評議員の中には奥さんと来ている人がいて、ひょっとしたら日本のアラノンとコンタクトを取ったかも知れません。host committee(実行委員会)のスタッフが十数人。それから僕らのようなオブザーバーが一番多いときで30人ほど。土曜の夜の集合写真には60人前後が写っています。

さて、AAのプログラムには神とか祈りが出てきます。ただAAは宗教ではないので、こういった要素を spirituality(霊性)と呼んでいます。この霊性に対しては、AAがアメリカで誕生したものだから、キリスト教文化そのものなのではないか、という誤解があり、拒否反応の原因になっています。自分が納得できる神なら、どれでも好きなものを選べばいいということは無視されがちです。

アジアの国々の多くは、(日本のように)現地人だけでAAが維持されるところまで行っておらず、英語を話す国々からやってきた人たちが主になって、自分たちのコミュニティを作り、そこに現地の言葉を話す人を巻き込んでいこうとしている段階です。
そこで「アジアの文化の中でAAを伝えていくのに、このAAの霊性が障害になっていませんか。そうした文化的な壁があるなら、それをどうやって乗り越えていますか」という質問をぶつけてみました。

ニュージーランドは白人と英語の国ですが、人口の十数%はマオリという原住民で、彼らは文化と言葉の壁を越えてAAのメッセージを運ぶことに成功しています。事実、ニュージーランドから二人来ていた評議員の一人はマオリの女性でした。また、オセアニアの島々にメッセージを運ぶ作業も続けています。これはNZ評議員の言葉。

「スピリチュアルなものに対する障壁は、なにもアジア人だけに限ったものでなく、(世界の)すべてのAAニューカマーが体験するものです。成功するAAグループというものは、ハイヤー・パワーについて真正面から取り組んでいるグループです」

AAの神というものはアジア人には似合わないとか、だからそれは脇に置いた方がよいと考えるのではなく、愚直にプログラム通りにやった方が良いってことでしょうか。

しかしタイの評議員は、ビッグ・ブックを翻訳するのにGodという言葉は使えず、supreme(超越者)と訳したものの、その概念はタイの人々が受けてきた教育とは相反するアイデアでなかなか理解されない、と報告していました(それは隣国カンボジアの話か?)。これは暗黙にではありますが、神とかハイヤー・パワーというものを取り除くか薄めたらどうか、という主張を含んでいるように思います。

NYGSO所長のコメントは、アメリカの中でも自分たちのためにビッグブックを変えようという意見もあるが、現在のところビル・Wの文章は変えないことが議決されている。もしビッグブックを変えて欲しいと思うのなら、その国のAAの正式な議決としてニューヨークに送って欲しい。というものでした。

やはりハイヤー・パワーについて、自分のグループや、自分のスポンサーシップの中で真正面から取り組んでいくことが、(少なくとも自分にとっては)ベストであろうと思ったのです。


2007年07月08日(日) AOSMみやげ話 1

時系列に沿って書こうとか、基本的な説明から始めようとすると、筆が進まないので、思いつくままに書いてみようと思います。

英語について:
AAの国際公用語は英語とスペイン語ですが、アジア・オセアニア地域帯ではスペイン語が公用語になっている国は(たぶん)ないので、会議は英語ということになります。

ちなみに僕の英語は、最近ニュースにもなった駅前留学のスクールに1年間通っただけです。職業訓練給付金制度ってのがありまして、その指定のコースに8割以上の出席率で通うと、授業料の8割を補助してくれるという仕組みです。例の報道の後、あそこは給付金制度の指定も取り消されたと聞きますが、受講途中だった人のお金の扱いがどうなるのかはニュースでは伝えていませんでした。

僕の英語はスキルは「ギリギリ最低限の日常生活がこなせるかもしれない」程度です。なので会議や会話の内容は半分ぐらい・・・いや1/3ぐらいしか聞き取れません。もっとも僕は正式な参加者でもなければ、ホスト委員会メンバーでもありません。ただのオブザーバーですから、後ろの席に黙って座っていればいいだけなので、聞き取れないのは個人的問題に過ぎません。分かんなければ分かる人に聞けばいいだけのことです。

現実の世界で話されている英語は、ニュースのアナウンサーや英語の教材のような耳慣れた(?)ものばかりではないという、当たり前の事実を痛感させられました。国によってあまりにも発音が違うのです(英語が母国語の国でさえ)。それは教材だって満足に聞き取れない人間にとっては、あまりにも高いハードルでした。「慣れるしかないよ」と言われたのですが、慣れるチャンスがない生活しかしてませんから。

発言権がないとは言え、休憩時間や食事中、あるいは交流会では別の国の評議員と直接話すチャンスはいくらでもありました。たとえこちらの言葉がたどしくても、そこは忍耐と寛容の精神で接していただいて、こちらとしては相手の回復に甘えるしかありません。ともかく最も高いハードルは、誰かをつかまえて会話を始める自分の勇気の不足なんですが、それは日本人相手の時でも同じことですね。

おかげさまで日頃抱えていた疑問のいくつかには答えやヒントが得られました。サービス会議だからオフトピックもサービス活動関連ばかりってわけでもなく、こちらが尋ねさえすれば、ステップやメッセージ活動やリハビリ施設の話も熱っぽく語ってもらえました。例えばステップ4の棚卸し表の書き方とか、スポンサーシップについてとか、「霊的」ってアジア圏のAAには障害にならないかとか・・・。

もちろん日本人同士でもたくさん話をしたのですが、その中でもある人の言葉がとても印象に残りました。もちろん、正確な言葉ではないですが、

「幅広いバリエーションがあるAAのやり方の中で、ある一部分のやり方だけが日本に伝えられて日本のAAになった。そのやり方が間違っているわけではないが、やはり偏っていることは間違いがない。どれが間違っている・正しいという議論は無用で、やはり様々な方法を持ってくることが日本のAAに必要だと思う」

その言葉を聞いて、僕は自分が漠然と感じていたものが明確な思考になった気がします。僕もそう思うようになった材料や、あまり関係のないことも含めて、思い出せる限りでAOSMの様子をぽつぽつ書いていきたいと思います。

AAの原理はAAの本が伝えてくれる。その原理は時代や国を超えて共通であり、変わることがない。変えようのない本質がそこにある。その一方で、そこに書かれた内容をどう解釈しようが各自の自由であり、メンバー一人ひとりの個人的体験や、スポンサー(や先ゆく仲間)から受け継いだ考え方・やり方も、それぞれ等しく分かち合う価値がある。繰り返し強調されながら、なかなか理解されていないことだと思います。

一つの原理を中心として、メンバーの数だけバリエーションがある。その広がりをそのまま受け入れるのが吉であって、どこかにこだわりを持てば失うものが大きい・・・ということでしょうか。

まあ、具体的な話はおいおい。


2007年07月05日(木) 予備の原稿

最新DATAで見るエンジニアのキャリア事情
http://jibun.atmarkit.co.jp/lcareer01/rensai/career46/data46.html

記事の内容は残業代についてなんですが、目がいくのがこのグラフです。ITエンジニア500人に「平均的な退社時間」を聞いてグラフ化したもの。なかなか7時前、8時前には帰れないのは他社も同様のようです。おまけにプロジェクトが「死の行進」化すると何日も家に帰れなくなったりするし・・。6時前に帰ると、体の具合が悪いのかと心配されたりして。

でもAAミーティングに行く時間が来たら退社します。それは当然です。

別に痛い視線が突き刺さる緊迫した状態でなくても、みんながまだ働いている場所から出てくるのは、気が引けるものです。でも行かなければなりません。

仕事なんかよりAAに行くほうがよっぽど大事だもんね、と自分に言い聞かせることが大切です。AAの時間が迫ってるのになかなか帰れないって状況にハマらないためには、そうなる前に仕事が片づくように気合いを入れて頑張らねばならない時もあります。それでも終わらなくて誰かに仕事を人に押しつけて帰るためには、ミーティングに行かない日にどれだけ周りの人の手助けをして(恩を売って)おくかも大切です。
いざとなったらミーティングが終わった後、また職場に戻って働くという手もあります。

それでも泣く泣く諦めねばならない時も、あるにはあります。

自分が職場のキーパースンになって給料をたくさんもらおうとすれば、どうにも仕事から抜けられなくなる場合が増えるでしょう。それが責任というものです。そしてAAミーティングに行く回数が減り、行けるときでも今日は疲れたから帰って寝ようが重なるようになって、やがて自滅ってことになりかねません。
自分が精神病だってことは忘れてかまわないことなのかも知れません。でもハンディキャップを背負っていることを忘れると痛い目を見ます。人並み以下しか働けないと自分を卑下する必要はありませんが、人並み以上に働いてやろうと我欲を出すと足下をすくわれる病気です。なまじ一度挫折しているだけに、挽回してやろうとか、頭角を現したいとか、そういう欲求に弱いですからね。おまけに断れない人が多いから、人から請われるままに責任を引き受けたりして。

平凡が一番であるとスポンサーは言っていました。玉石混淆。自分が玉だという思い上がりがあるなら、なおさら石の中にいろということか。

2泊3日で出かけてきます。らんざんをあらしやまと読んで恥をかきましたよ。ノートパソコンも持って行きますが、準備が間に合わなければ、日曜日まで更新が止まるかも知れません。いってきまーす。


2007年07月03日(火) メダル

AAのミーティングに初めて行ったときに、黄色いメダルをもらいました。表には「AA」、裏には漢字で「今日一日」の文字がありました。その後1ヶ月と3ヶ月のメダルはもらったのですが、6ヶ月に到達する前にはミーティングに通う頻度ががっくりと下がって再飲酒してしまったため、6ヶ月メダルはもらえませんでした。

ふたたびAAに戻ってきたときには、ワンデイのメダルは緑色の英語のもの変わっていて、表には「Keep Coming Back」(ここへ戻って来続けよう)という文字があり、裏には細かな字で英文の平安の祈りが刻まれていました。その後、赤、紫、金色と順にもらい、9ヶ月からはプラスチック・トークンではなく、ブロンズのメダルになりました。

「なぜワンデイのメダルが、日本語の黄色いものから、英語の緑色に変わったのか」、そういうことを調べていた時期もありました。黄色いメダルは、日本のJSOが頒布していたものでした。メダルの存在はAAメンバーからとても愛されていたものでしたが、メダルという物質的なものは霊的なAAプログラムとは相容れないという意見も根強くありました。WSMでの議論を経て、ニューヨークのGSOから「少なくとも各国のゼネラル・サービスが、メダル(やAAのロゴ入りグッズなど)を販売するのは好ましくない」という強い提案が発せられました。

そこで日本のJSOもメダルの取り扱いはやめたわけですが、メンバーのメダルに対する愛着は捨てがたいほど強く、その要望をかなえるために、当時設立されたばかりの関東のセントラルオフィスがアメリカから輸入したメダルの頒布を始めました。

(登録商標の問題をクリアしていれば)もとよりAAメンバー個人や、外部の団体がメダルを作って売ることには、何も問題はありません。セントラルオフィスで扱っているのは、アメリカのヘイゼルデンのものですが、これがそもそもヘイゼルデンが作っているものなのか、それとも仕入れて販売しているだけなのかは知りません。オフィスが輸入するにも苦労があるようで、個人のクレジットカードで多額の代理購入をしたり、船便で届く前に手元在庫が尽きてしまったり、commercial sample あるいは book として非課税だったのが量が多いので関税が加算されたりとか・・。

ヘイゼルデン以外にもいろんな種類のメダルが使われています。ハンドメイドの$39なんてのもあれば、プレスで作った安いのもあります。安いのもいいんですが、加工の精度が「うーん・・・」ていう感じです。ヘイゼルデンのは金型の精度が高く、一生の記念品にふさわしいと思います。まあ、そんなこと気にしないって人は気にしないでください。

ヘイゼルデンに片面がまっさらなメダルがあります。封筒がついてくるので、メダルを入れ、記念日の年・月・日各2桁を書いた紙を同封して郵便局からエアメールで送ると、10日ほどで日付が刻まれたメダルが返送されてきます。ソーバーの記念日を入れてプレゼントするのに適していると思いますが、相手を選ばないと無駄にされますね。

確かにメダルは物質的なものにすぎませんが、人の手から人の手へ渡されるという「コミュニケーション」を経ることで霊的な価値を帯びると思っています。


2007年07月02日(月) 再飲酒の準備作業

光市の母子殺人事件の差し戻し審。「復活の儀式」うんぬんは他に任せるとして、弁護団の人数の多さです。従来、殺したのが一人なら無期懲役どまり、三人殺せばほぼ死刑、二人の場合は事情による、というのが量刑相場でした。しかし、二審の無期懲役を量刑不当として上告したのが検察側で、最高裁もそれを門前払いせずに差し戻しました。二人でも死刑へと相場を動かそうとするプレーヤーと、ともかくそれを防ぐのが大前提で事実審の中身なんて二の次のプレーヤー(弁護団)。ゲームの傍観者たらざるを得ない遺族が裁判の被害者という感じがしました。

さて、いったん酒を止めたアルコール依存症者が、もう一度酒を飲むためには「準備作業」が欠かせません。その準備の内容とは。

まず、AAメンバーならミーティング(断酒会なら例会)に行かなくなります。毎日あるいは週何回でも自分のペースで出席を続けていれば、そうそう酒を飲むことはできません。中には毎日出ていても飲んでしまう人もいますが、そういうひとは「まだ酒が止まっていなかった」という別カテゴリに入れることにしましょう。

通わなくなると、やがて頭が狂気に支配され、「一杯だけなら飲んでも大丈夫だろう」とか「今度こそ失敗しない」とか「もうどうだっていい、考えるのが面倒くさくなった」などと言い訳をしながら飲み出してしまいます。その瞬間に「ちょっと待て、正気に戻れ」とブレーキをかけてくれる存在からは、自分から遠ざかっているわけです。ミーティングに通い続けていては酒を飲めないから、酒を飲むためにミーティングから遠ざかるのです。これが「再飲酒の準備作業」です。

アルコール依存症は「ブレーキの壊れたダンプカーが坂の上に駐めてある」と形容されます。坂道を下りだしてしまったら、もうなにか(トラブル)にぶつかるまで飲酒は止まりません。断酒会とかAAという自助グループは、このダンプカーに輪留めをしてくれます。つまり正気を保ってくれるわけです。だから、飲むためにまずこの輪留めをはずす作業からとりかかります。

再飲酒から生還した人が、AAに戻って「スリップ(再飲酒)していたので、ミーティングに来れませんでした」と言うことがあります。もちろんこれは因果関係が逆で、ミーティングに来ないのが原因で、スリップが結果です。仕事だとか何とか、いろいろ理由をつけてミーティングの頻度が減ってきたら、この人はそろそろ飲みたくなってきたんだなぁ、と周囲は思うわけです。

通いながらも飲んでしまうのは、まだ酒が止まっていなかっただけなので「再」飲酒(スリップ)と呼ぶのは適切ではないと思います。


2007年07月01日(日) 週末の過ごし方

地元の美術展に応募した母から無料券をもらったので、市の美術館に行ってきました。
父が死んでから、絵手紙や墨絵を趣味としていた母ですが、ここ数年は油絵を描いています。最初の頃は、キャンバス全面に絵の具が載っていれば完成という程度だったので、高校の美術部でちょっと油絵を描いていた僕も偉そうなアドバイスをしていたりしました。しかし先生に付いて描いているだけあって次第に上達し、今年はついに80号の大作であります。ステーションワゴンの荷室に載せるのに苦労しました。
応募しても落選すれば、搬入日の夕方には持って帰らなければなりませんが、先生が加筆してあるだけあって、いままで落ちたのは一度だけです。搬入から展示会死までは一週間。

素人の作品ばかりであっても、静かな美術館で絵を見ていると、心が落ち着いてきます。入賞する作品には、やはり他と違う輝きのようなものを感じます。CR兄貴やたま姉のように美術館にでかける「ずく」は僕にはありませんが、絵は好きです。とくに油絵は。あいにくパソコン用のメガネをかけたまま外出してしまったので、離れて絵を見ることができず「妙に近いところから絵を見ている人」になってしまいました。
最初は感動していた子供たちも、絵の多さに飽きてしまったようで、おばあちゃんの絵を見つけるとほっとしていました。

常設展示の草間彌生も見てきました。この人は精神を病んで子供の頃から幻覚を見ていたそうです。無限の模様の繰り返しは、ひょっとしたら見えていた幻覚をそのまま二次元に描き写したものなのかも知れない、などと考えました。

週末にVisioで図を描いていたのですが、いきなりWindowsがハングして再起動したら、三晩かけて描いたファイルがエラーで開けなくなってしまいました。あまりに頭に来たので、脈絡はないのですが、電器店にビデオカードとキーボードを買いに行ってしまいました。買い物によるストレス発散ですね。

自宅のパソコンのキーボードは2〜3年が寿命です。一方会社のパソコンのキーボードが壊れたことはありません。・・・会社であんまり仕事してないんじゃないか・・てことはなくて、コンピューター・プログラムを書く作業は実はそれほど打鍵数は多くないため、キーボードの寿命が長くなります。自宅ではプログラムを書かずに文章ばかり書いているので、どうしても打鍵数が多くなります。高いキーボードを買っても寿命が短いと切ないですから、PFUでも東プレでもなく、ダイヤテックの8千円ほどのヤツにしました。


2007年06月30日(土) また一つ年を取る

毎年6月の終わりになると、年を一つ取ることになっています。
小学校の頃、誕生日の絵日記にこたつが描いてあったことがあります。梅雨の夜は意外と肌寒く、それは冬の寒さとは違うものの、暑さに慣れた肌が暖房を欲しがるのは、現在でも変わりません。

28才の時に自殺未遂をして初めて精神科のご厄介になりました。翌年初めての精神病院への入院を経験します。31才でアルコール依存症の診断を受け、半年後に初めてAAのミーティングに出席しました。その1年後、32才の時にやっと酒が止まりました。

当時、AAグループを始めた頃の悩みの一つは、自分が若造(わかぞう)であることでした。若いということは、説得力がないということです。いや、僕が説得力がないのは若さ以外の問題だったのでしょうが、当時は自分の若さに責任をなすりつけるしかできなかったのです。
AA以外のところでも、若造と思われることは自分のコンプレックスの一つであり、左手の薬指に結婚指輪をしていたのも、妻への愛情ゆえではなく、俺は結婚している一人前だよと誇示するのが目的でした。中身に自信がなく、外面にこだわっていたわけです。

AAの会場にやってくる人も、病院メッセージの会場の患者さんも、年上のおじさんたちが圧倒的に多く、僕は若造のメッセージが届かないと嘆いてばかりいました。そんな時に、経験の長いメンバーが

「心配しなくても、ひいらぎが10年のソーバーを重ねる頃には、おじさんたちにもメッセージが伝わるようになるよ」

という言葉をかけてくれました。

考えてみれば、あれから10年以上確実に経っているわけですが、自分が説得力を身につけたかどうかは分かりません。ともかく、もう薬指に指輪はしていません。説得力があろうがなかろうが、自分の実力以上は発揮できないし、メッセージを受け取るも受け取らないも「相手の問題」と開き直って続けています。
それは、10年分の若さが失われたかわりに、10年分のふてぶてしさが身に付けただけかも知れません。まだまだ僕はひよっこで、成果ばかりを求めてしまいます。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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