心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年06月24日(日) カリウム

飲んでいるアルコホーリクは、カロリーの1/3をアルコールから得ていると言います。アルコールにはたんぱく質や、ミネラルや、ビタミンは含まれていないので、恒常的な栄養失調の状態になっています。

(飲んでいたころを回顧したアルコホーリクが言うように)アルコホーリクは「アルコールという燃料を燃やして動く内燃機関みたいなもの」なので、酒さえ飲んでいれば、たとえ少々栄養失調だろうが、なんとか暮らしていってしまうものです。

ところが断酒をして酒という燃料が切れてしまうと、飲んでいるころはさして気にならなかった体の不調が表に出てきます。そこで「酒をやめるとかえって体調が悪くなる」と言い訳をしてまた飲み始める人も多いのでしょう。長年の栄養不足で痛めつけてきた体は、断酒しただけで調子がよくなるはずもなく、栄養と休息で時間をかけて治していくしかありません。

酒を飲み続けているうちに、胃腸の内部がびらんしてものが食べられなくなり、それでも飲み続けると胃が酒を受け付けなくなり、さらに水さえも吐いてしまうようになります。そういう状態でも、入院せずに自宅で酒を切らなければならない事情を抱えた人もいます。

基本はスポーツドリンクで水分を摂取。ヨーグルトやバナナなら食べられることもあります。この三つに共通していることは、カリウム補給になるということです。

酒ばっかり飲んでいた結果、血液中のカリウム濃度が減ってしまい、低カリウム血症で心肺機能が異常が起こして突然死なんてこともあります。脳を含めた人間の神経系統は、カリウムとナトリウムを神経細胞に出し入れしながら動いています。心臓が丈夫かどうかは関係ありません。酒を切っていく過程で死んでしまっては元も子もないので、事情がどうこう言わずに入院するのが最善ですし、どうしても自宅でドライアウトするなら、吐いてもいいので飲んだり食べたりしてください。

食べ吐きをしている摂食障害の人の電解質バランスも偏っていることが多いのだとか。そんなに体に異常のない摂食障害の人が突然死する理由はここらへんにあると言う人もいます。

生の食材はナトリウムよりカリウムが多いのに、加熱調理をするとナトリウムが多くなってしまいます。生の食材を食べて進化してきた人間は、低カリウムの状態には耐えられないのかもしれません。

たまにはわかめサラダでも食べましょう。


2007年06月23日(土) 承認を求める癖

自分を直接見るよりも、他者の瞳に映った自分を見る癖があります。修辞が過ぎますか。自分で自分のことを良いとか悪いとか判断するよりも、人にどう思われているかのほうがずっと気になります。

人にどう思われているか、全然気にならない人はいないでしょう。例えば、上司や人事部にどう評価されるかで、将来の給料、ひいては経済生活が変わってきますから、気にしないではいられません。その他いろいろです。

でも、人にどう思われても、自分は自分であって周囲の評価によって、自分の価値が上がったり下がったりするわけじゃありません。「そう言われても、やっぱり人の評価が気になる」のは、奥深いところで自分が無価値だと感じる癖がついているんでしょう。だから、人から高評価を得ることで、あーやっぱり自分は価値ある人間だったと一時の安心を求めてしまいます。あるいは酒でその虚無を埋めるとか。

こういう(僕みたいな)人は、一緒にいる人の感情に支配されがちです。この人がこんなに不機嫌なのは、さっきの僕の行動がいけなかった、いや昨日したことがいけなかったのか、いやもうすっかり僕のことが嫌いになって手遅れなのか、とか。僕のやったことで、こんなに喜んでくれるなんて、この人本当にいい人だな、よしもっとやってあげよう、とか。

こういう(僕みたいな)人を支配するのはかんたんです。「俺の機嫌がこんなに悪いのはお前のせいだ」というオーラを発散していれば、そんなの関係ないじゃんと理屈では分かっていても、落ち着いていられません。「俺の目にはお前はこう写っているんだ」という像を無視できません。

だからこそ、他者の瞳に映った自分ではなく、自分で自分を直接見て評価する習慣をつける必要があるんでしょう(ステップ10)。

また子供には「お前が良いことをしようとも、悪いことをしようとも、世間様になんて言われようとも、お前はお前で良いんだよ。だってお前は私の子供なんだから」と示してあげたいものです。


2007年06月22日(金) 依存症の大統領夫人

そのニュースを見たのは、僕がリサイクルショップで扇風機を漁っていたときでした。商品の中古テレビが夕方のニュース番組を映していて、殿下の入院を報じていました。立ち止まって最後まで見てしまいました。
でもこれは今日の雑記のネタにはならないと判断しました。僕は殿下のことは何も知らないからです。帰って調べて今上天皇の従兄弟にあたることを知ったぐらいですから、書くことがありません。

ただ、帰ってパソコンに触ってみたら「心の家路」のアクセスカウンターが600を超えていたので驚いてしまいました。最近掲示板への広告書き込みが執拗になってきているので、その余波を食らったかと思ったのですが、調べてみるとほとんどが「アルコール依存症」で検索して、このサイトへたどり着く人々のようでした。

Perlスクリプトを使って「アルコール依存症」でニュースを自動検索し、このページ(パソコン用)の下に表示するようになったのはだいぶ前です。導入前には予想していなかったことの一つが、有名人の名前がずいぶんひっかかることです。まあ、依存症という病魔は、その人が有名か無名かは選びませんからね。

アメリカの現大統領は自ら依存症であることを明らかにしていますし、その前の大統領も実父が依存症です。(確証はないものの)ロシアの前の大統領が依存症という話もありました。イギリスの政党党首にもいましたっけ。

でも、最も人々の間で語り継がれる「依存症の著名人」と言えば ベティ・フォード でしょう。僕は勘違いしていたのですが、彼女が依存症になったのは、夫が大統領になる前ではなく、なった後なんですね。まもっとも、いつ依存症になったか、なんてのは境界線の引きにくい問題です。
AAのミーティングに通い出した頃に、「酒の飲み方がひどくなったのはここ1〜2年のこと」なんて言っている人も、1年後には「10年前からひどい飲み方をしていた」と告白できるようになったりします(僕のことね)。

アメリカ社会でアルコール・薬物依存症の治療が進歩した背景には、もちろん当時の依存症問題の深刻さがあったわけですが、ベティ・フォードの存在や、ヒューズ法の成立なども大きなトピックとしてあげられます。ベティ・フォードやヒューズ議員がAAメンバーであったかどうかは、言わずもがなですが、彼らの社会に対する貢献はあくまで社会活動家としてのものであって、AAメンバーとしてのものでないことは強調しておく必要があります。
AAメンバーは名前を名乗らないから、依存症についての社会貢献ができないという主張もありますが、もちろんそれは誤解です。

宮様の病気によって、日本の社会の依存症に対する味方が変わるかどうか・・占い師じゃないんで未来は分かりません。


2007年06月21日(木) ユニーク

あなたはユニークな人です。間違いありません。

いや別に、あなたが変わった人(変人)だと言いたいのではありません。ユニークというのは「唯一無二」という意味です。あなたはあなたであって、あなた以外の人が代わりを務めることはできません。だからといって、他の人より重要だというわけじゃありませんけど、ともかく唯一なんです。

僕もユニークな存在です。

その上で「アル中というものは誰も似たか寄ったか」と言いたいわけです。同じアル中といっても、抱えている事情は人様々だから、そういう決めつけは良くないと感じるかも知れません。でも「似たか寄ったか」であります。

酒を飲んで周囲を困らせることが共通なばかりでなく、酒をやめた後の思考パターン、行動パターンまで似ています。まったく同じではないにせよ、ある状況が与えられたときに、ありがちな数パターンのどれかにはまります。

最近の車は、オートマチック・トランスミッションばかりですが、人間がギヤを選択するマニュアル・トランスミッションの車を思い浮かべてください。アル中の人のパターンをギヤ選択にたとえると、ニュートラル・ポジションにいることが無くて、すぐにどれか特定のギアに入りがちです。
バランスの取れた人間ならば、基本はニュートラルで、状況に応じてどのギアにでも入れるのでスムーズに進んでいけるものを、特定のギアに偏るようでは運転は楽ではありません。

自分が分類されることを好まない人もいます。自分がユニークであることに自信が持てていないと、分類されることは恐怖です。個性が否定されるようにしか感じられませんから。自分が唯一無二の存在であることに確信があれば、他者が自分をどう分類しようと(例えば負け犬だと言われようとも)、それほど気にならないはずなんですが・・・。

「アル中は誰も似たか寄ったか」というのは理屈で学んだものじゃなく、観察によって得られた経験則です。

依存症という病気であることも、アル中的思考に偏りがちなことも、僕という人間をユニークに仕立てている大切な属性の一つですから、それを否定しようとは思いません。


2007年06月20日(水) イニシエーションに非ず

人類学で、「社会集団に入るための儀式」をイニシエーションと呼びます。
主に未開の文化圏で、大人という社会集団に入るための儀式、つまり成人式みたいなものです。例えばバンジー・ジャンプは、南太平洋の島々の成人の儀式で、大人の男だと認めてもらうために青年たちに課された試練が元になっています。通過儀礼。

AAという集団に入るためには、なんの儀式も要求されません。自分はアルコホーリクで、AAのメンバーになったと言えば、誰もそれを否定できません。唯一要求されることは「酒をやめたいという願い」を持つことです。

「AAは酒をやめたいだけで<仲間>だと言うけれど、私としてはステップをやっていない人は仲間とは呼びたくない」と明言する人もいます。僕も個人的には同じ考えなのですが、そういった個人の考えはとりあえず脇に置かなければなりません。

さて12個あるステップのうち、最初の山場はステップ4と5です。
今まで生きてきた人生を一年ずつ振り返るにせよ、現在の自分の状態に集中するにせよ、その過程で自分の心の奥深いところまで光を当てることになります。その作業が楽であるはずもなく、多くのAAメンバーはその手前で足踏みをすることになります。でも効果はあります。

ステップ4・5を済ませていることが「一人前のAAメンバー」の条件だと考える人たちがいます。僕もその考えは的はずれではないと思っています。
ただ、ステップ4・5が強調されるあまり、それがイニシエーションだと勘違いされてしまっては困ると思います。ステップが6〜12と続いているにもかかわらず、4・5を済ませたことで一段落してしまい、前へ進めなくなりはしないでしょうか。かくいう僕もその一人でした。

AAのミーティングに出席したら、重苦しい気持ちが楽になったという経験を持つ人は多いと思います。そういう経験を重ねて「ミーティングには効果がある」と認めるようになるのでしょう。ミーティングの効果を信じるのが先で、ミーティングに通うのが後、という順番にはなりません。通う→効果を信じるという順番です。しんどいから通わないと言う人に、ミーティングの効果は及びません。

最初は効果に納得していなくても、ともかく始めないと効果が出ません。信じていなくても、ダマされたと思って、拒絶せずにやってみることです。ステップ4・5も同じです。

とりあえず信じてみる(ステップ2)と、信じたからにはやる決意をする(ステップ3)ができてないと、4・5には進めません。AAに通っていても、なかなかステップ4・5ができない人は、怠惰とか優柔不断ではなく、「AAに対する信頼」と「やる気」が足りないだけの話です。AAを信じてるとか、AAのおかげとか、口でどんなに立派なことを言っても、(他のことと同じく)行動がそう思っていないことを証明していまいます。

耳の痛い話かも知れませんけど。耳の痛い話をされなくなったらおしまいですからね。4・5ができれば一人前ではなく、一人前なら4・5はできてるはず、ってことです。


2007年06月19日(火) たまには時事問題

年金氏名 自動読み仮名ソフト導入 入力ミス誘発、システム欠陥
バイト経験者、年金入力ミス認める 「自分のせいでは」
「マイクロフィルム化」年金記録 判読困難データも

年金問い合わせのフリーダイヤルなんかを設けたところで、そもそもデータベース上にまともなデータがなければ、検索すらできないはずです。手書きの台帳をデータ化する時点で、ずいぶんいい加減なことが行われてきたのでしょう。

それは確かに大変な作業かも知れませんが、以前は台帳で管理されていた戸籍謄本や住民票も、いまではほぼすべて電算化されています。間違いを見つけて個別に訂正してもらったという話はきいても、戸籍や住民票が行方不明になった話は聞いたことがありません。

銀行も預金を通帳で管理していたものを、電算化してきたわけですが、その過程で預金が消えたという話も聞きません。

年金保養施設に無駄な金はたくさん使っても、電算化やシステム開発にかける金はなかっのでしょう。

これからどうするかと言っても、間違っているデータをコンピューター上でいじくり回してみたところで解決には結びつきません。膨大な手間がかかっても全データを人手でつきあわせるしかないでしょう。それ以外の解決策は「目くらましのための小手先テクニック」にすぎません。

年金問題:「社会保障番号」導入 安倍首相の意欲の裏は…

どさくさに紛れて背番号制を導入しようという話が出ていますが、人が「どんな病気にかかって、どこの病院で治療を受けたか、全記録が政府によって一元管理される」ってのは、アル中にとっては落ち着かない話です。

ましてやそれを、年金記録を扱ったようないい加減な連中が扱うのだとすると、ろくでもないことがいっぱい起きそうな予感です。


2007年06月18日(月) 単なる善意では不十分

つくづく善意だけではどうにもならないと思います。
多少なりとも依存症という病気のことが分かった人は、酒を飲まないほうが良いと思うだろうし、自分の人生を悪くしようと思ってはいないと思います。基本的に善意なんでしょう。
でも、飲んでしまう。
善意から出発したのに、最後は酒です。
植木等は「わかっちゃいるけどやめられない」と歌いましたが、酒をやめるべきだと分かっている(善意)のに、やめられない(病気)わけです。周囲はやめられないのはわかっていないのが理由だろうと思うのかも知れません。でも、良くなろうという気持ちはあるんですよ。

僕だって、人生を良くしようと思っていたわけです。なのに最後は精神病院です。
自分自身に対しても、他者に対しても、善意だけではどうにもならない、ということが分かっていませんでした。善意であれば十分だと思っていた、とも言えます。善意以上の何かが必要だとは、というか善悪を超えた何かが必要だとは、思っても見なかったわけです。

やめようと思うのにやめられないと悩んだり、また飲むんじゃないかと不安になる人は、自分の善性だけでは十分でないことに気がつき始めてるんじゃないかと思います。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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