心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年06月17日(日) 依存症という病気のせいで離婚を経験し、子供と会...

依存症という病気のせいで離婚を経験し、子供と会えなくなってしまった話はいくつか聞いたことがあります。そのままずっと一生会えずに終わるってこともあるのかもしれません。

しかし、AAメンバーの語った経験によれば「AAでソブラエティを続けていれば、いつかは神様が会わせてくれる」ということのようです。

もっとも、その「いつか」ってのは3年や5年じゃまだダメで、目安とするなら10年でしょうか。小学生だった子供が青春まっただ中に突入している頃であったり、思春期の子供が結婚する頃だったり、まさに様々であります。

ある高齢のメンバーが「明日、三十何歳の息子と、二十何年ぶりかで会うんだ」と話してくれた時には、こちらにまで期待と恐れがじわーんと伝わってきて、何をしゃべっていいのか分かりませんでした。

僕のスポンサーも子供に会えない人でしたが、どうやら「その時期」が来たようです(詳しくは知りません)。

僕は最近テレビドラマをほとんど見なくなってしまいました。生の人間が繰り広げるドラマの方に接していると、どこかの人間がシナリオを書いて時間通りに終わるストーリイが虚しく感じられるときがあります。筋書きのない(あるいは神さまが筋を書いている)人生劇場は、おもしろいとか興味深いという次元を超えて、僕を惹きつけるところがあります。

まあ最近は「子供に面会する権利」なども言われるようになり、ソーバー若くして子供と定期的に会っている人も増えましたが、子供に会える喜びよりも、子供がどう反応するかに気を取られ過ぎているように見受けられ、はたして回復のためにプラスになっているか疑問に感じることもあります。

子供のためにではなく、自分のために酒をやめていただきたいものです。

もっとも「自分のために」ができない病気であったりするんですが、それはまた別の話で。


2007年06月16日(土) キップル

DSM-IVの強迫性パーソナリティ障害の診断基準の中に、
「感傷的な意味のない物の場合でも、使い古した、または価値のない物を捨てることができない」
という項目があります。診断基準は8項目の内4つなので、この「捨てることができない」に当てはまったからと言って、すなわちパーソナリティ障害ということにはなりませんので念のため。

今年の「単純に愚直にやる」という自己テーマの中には、要らないものを捨てる、要らないものは買ってこないってのがあります。これは精神的なもの、心の中のものでについてもそうですが、物質的なものにも当てはめています。

部屋が散らかってしまう要因は、やっぱり要らない物がゴロゴロしているのが問題なんでしょう。本棚が溢れているので整理することを考えても、例えば勉強しようと思って買った電気回路の本ですが、ここ何年も開くことがなかったのに、いつか使うかも知れないと捨てられないでいます。勉強がしたいという願いは「感傷的な意味」なのかもしれませんが、別に将来勉強が出来る余裕が出来たときに、改めて本を買ったってかまわないのに、今手元にある物にこだわってしまうのです。

CDの空きケース、腐ってきたハンドクリーム、使わなくなったAirH"端末、B5版の裏紙、10年前の領収書の束、何年も袖を通していない服・・・。
映画の中の高倉健なら、絶対こういう物にまとわりつかれずに生きているような気がします。いや高倉健の映画はあまり見たことがないで想像ですが。まあともかく、僕はそういう物に囲まれながら、部屋が狭いと文句を言いながら生きています。

要らない物をそぎ落す作業を続けていったら、最後何にも残らなかったらヤダなとは思いますが。

いろいろ返事の書いていないメールとか、手の着いていない作業もありますが、とりあえず今夜は寝ます。


2007年06月14日(木) 確かな何か

『信じるようになった』という本をときどき読みます。ちょっとずつですけど。
AAメンバーがそれぞれの Higher Power を信じるに至った経験が分かち合われている本です。最初はこれを読んだときには、結構ムカムカしたものです。当時僕は、「自分のハイヤー・パワーを探したい」と言っていたにも関わらず、やっぱり感じたのは反発でした。

AAが始まって2〜3年後に書かれた『アルコホーリクス・アノニマス』という本があって、その名前(AA)がこの共同体の名前になったわけです。アノニマスというのは「名も無い」つまり有名でない、アルコホーリクスは以前の言葉では「アルコール中毒者」という意味です。

この本はAAメンバーが100人を超えた頃に、その100人の経験を集めて書かれたものとされています。そしてその本の中にはひんぱんに「神」という言葉が出てきます。英語では God です(先頭大文字ね)。Lord というキリスト教で言うところの「我が主」という言葉は一度も出てきません。そのかわり Creator 「創造主」という言葉もずいぶん出てきます。

この本がAAの基本テキストなんですが、これを読んでいると「最初の100人というのは、ずいぶんと宗教的な人たちだったんだろうな」という感じがします。

しかし当時のことを書いた文章によれば、その100人は大部分が「無神論者」、つまり神様なんかいるわけがないという信念を持った人たちでした。宗教なんかくそ食らえという人たちでした。ですが、その人たちも、また『信じるようになった』に文章を書いた人たちも、また現在のAAの人たちも、決して「宗教的に改心させられた」わけではありません。

自分が好きなものを選び取って信じるようになった、というか、もともと持っていたのに捨て去ってしまったものを、再び手にしたという感じなのかもしれません。子供の頃を思い出してみれば、大人の思惑なんかに左右されない、確かな何かがあって欲しいと感じていたのではないでしょうか。


2007年06月12日(火) ちかれたびー

妻が風邪を引くといつも長引きます。
最近作ったもの。ナスの肉炒め、キャベツの味噌炒め、鮭の切り身焼き、炒飯2回。深夜に料理しておいておいて、朝晩それで食事にしてもらってます。子供は給食もありますから。なんとなく中華ものが多いのは、最近中華鍋を買ったからです。みーんな「○○の素」みたいなのを使って料理ですけどね。
みそ汁の具は、ナス、オクラ、エリンギなど。具を切って鍋に入れておくと、朝起きた長女が味噌とダシを入れてみそ汁に仕立ててくれます。ときどき寝坊したらしく、晩までそのままだったりしましたけど。
ご飯は炊飯器が炊いてくれます。最近の炊飯器はきっともっとおいしく炊けるのでしょうが、古いくせになかなか壊れてくれません。

10時過ぎに帰ってきて風呂に入り、残り湯で洗濯をして、その間に一日干しておいた洗濯物を取り込んでアイロンがけ。お風呂の掃除。

ようやく今夜オムレツの作り置きをしたのを最後に、バトンを返せそうです。
はっきり言って疲れが溜まってます。ワーキングマザーの人はさぞかし大変でしょう。

その間も、仕事でトラブルは起きるし、酒を飲み出すヤツはいるし、めがねは壊れるし。本当にツキがないときは、トラブルがダマになって襲ってきます。

AAの仲間がよく言っているのですが、こういう時に恨みがましい気持ちでいると、まるで磁石が砂鉄を引きつけるように、さらなる不幸が次々と吸い寄せられてくるんだそうです。だから悪い時期もやがて過ぎ去ると信じて、淡々とやるしかないんだそうです。

さすがに今夜は体力も頭の方も限界付近で、AAミーティングが終わった後に、駐車場から車を出したら、横断歩道を渡っている仲間をひきそうになってしまいました。ごめんなさい、言い訳ですね。
帰ったら妻が子供を風呂に入れていたので、心底ほっとしましたよ。

次女が洗い物をしてくれたりして、悪いことばかりじゃなかったです。
まあ、僕自身はいつもどおり外食ばっかりの生活だったんですけど。


2007年06月11日(月) 住所印

生まれて初めてかかった精神科医は東京のビルの中でした。紹介状を書いてもらって田舎の精神病院にかかりました。

そこの院長先生は「私に任せておけば大丈夫」と言ってくれたので、母は大変感激したのですが、その後2年間僕の方はちっともよくなりませんでした。
じゃ、その先生がヤブかというとそうでもないらしく、定年後我が家のちょっと近くで開業した先生のクリニックは、そこそこ流行っていると聞きます。

いままで都合5人の精神科医に診てもらいましたが、僕を良い方向に導いたのは「私にはキミの病気は治せない」と言ってくれた先生(たち)でした。

いまだに通っているクリニックの先生は「私に出来ることは、話を聞くことと、処方箋や診断書を書くことぐらい」と言います。

たまに医療関係者に言われることですが、病気から良くなった人は、医療の場には顔を出さない。病気がぶり返した人だけが戻ってくる。うまくいかなかった例ばかり見せられていると、徒労感で一杯になることがあるんだそうです。
だから、最近は医者の世話になっていない人も、たまには昔世話になった病院に葉書の一枚ぐらい書いて「飲まずに元気にやっている」と一言知らせるのも、立派な埋め合わせになるんじゃないか、なんて話をAAメンバーとしたことがありました。

話変わって、ずっと昔からあこがれていた「住所印」てのを作りました。
住所印を作るには、まず住所が定まっていないとならず、電話番号とかも変えない予定でなければなりません。その条件が整ったとしても、うかつにはんこ屋に入ると、高額な住所印を売りつけられるという先取りの不安がありました。たとえ「幸運を呼ぶ」印鑑だったとしても、住所印にはそんなに出せません。

先日ネットで住所印1280円というのを見かけました。明瞭会計であります。住所などを知らせ、書体を指定すると、無料でサンプル印字を作ってくれたので、あとは銀行に振り込みをしたら、翌日には定形外で届きました。ペタペタとついて遊んでいたところです。

最後に世話になった病院の先生は、すでに院長に昇進され、昨年AAのイベントでお目にかかったときには、僕の顔も名前も忘れていらっしゃいました。でも、病棟のスタッフやケースワーカー室の中には、僕を覚えていてくれる人もいるでしょうから、たまには葉書の一枚ぐらい書いて、ぺたりと住所印を押してみようかと思います。


2007年06月10日(日) なぜミーティングに行くのか

やっぱり高速バスは特急電車より疲れます。
ひろひろに疲れて帰ってくると、メンバーの家族から電話。さらに家では、妻の風邪が三日目でも快方に向かわず、明日の朝食まで準備する羽目に。

さて、何のためにAAミーティングに通い続けるのか。
人それぞれでしょうね。
寂しいからっていう理由もありでしょう。「お前はただ寂しいから来ているんだから、帰れ」とか「お前は恋愛相手を探しに来ているだけだから、帰れ」とか言われない仕組みになっていますから。

酒を飲み過ぎている時を振り返って、あの時自分は正気でなかったと考えることは出来ます。まあ、僕は最初に連続飲酒を体験したときは、なんかすごいことをやってのけたような気がして、「俺、こんなに酒飲んじゃったよ」と知り合いに自慢して回りましたけど。そういう馬鹿な話はともかく。

でも、酒を止めて飲んでいない今の自分は正気だと思っちゃいますね。しらふでも狂っているという話になるとムキになる人もいるので、とりあえずシラフ=正気ってことにしときましょう。
じゃあ、その正気の人間が、なんでまた酒を飲み始めるんでしょうか。酒が好きだからとか、勧められて断れなくてとか、いろいろ言い訳が出てくるでしょうが、飲んだあげくに起きた結果からすると、その言い訳は虚しいですね。

なんか心の空白が訪れるんです。これぐらい飲んだって大丈夫だろうとか、これだけ長く止めたんだから正常な飲み方が出来るとか、そういう考えに支配されて、前回の飲酒で痛い目にあった記憶が押しのけられちゃうんでしょう。
それは狂気と呼ぶしかありません。
しかし、人は(そう僕も)ここでまたもや言い訳をします。あの時は魔が差したとか、酒の怖さが身に染みていなかったとかぶつぶつ言って、意志を強く持ったり、道徳心を高めたりしなくちゃならん・・・と自分に言い聞かせながら、いずれまた飲みます。

意志の力や、良い道徳心で回復できるんだったら、僕もあなたとっくの昔に回復してませんか? 人並みの意志力や、道徳心はあるでしょう。

僕も同じなんです。ほっとけば狂気に支配されて「魔が差して」しまうんです。AAミーティングに通ってるのは、その狂気を遠ざけておくためです。少なくとも僕はそういう理由です。
健康な心にしてもらうためです。


2007年06月08日(金) スポンサーシップ

一見さんお断りという店が本当にあるのかどうか知りません。京都あたりにはあるんでしょうか。
もしそんな店があれば、最初は誰かに連れて行ってもらわなければ、店に入れないわけです。この時、連れて行ってくれる人を sponser と言います。ロータリークラブの会員になるには、会員の推薦をもらわないといけないのに似てます。しかし、AAのスポンサーは、そういう結社的な仕組みとは違います。

AAが始まったばかりの頃のアメリカでは、精神病院の入院には必ず保証人が必要でした。なので、AAメンバーは新しく来た人が入院するために、その保証人(sponser)となりました。スポンサーは病院に見舞いに行き、退院したらミーティングに連れて行き、他のメンバーに紹介したり、助言したりしました。入院費を立て替えたりしたこともあったのでしょう。

時代が下るとAAスポンサーは「霊的なプログラムの助言者」という役割に純化されてきました。スポンサーシップを受ける側の人を、スポンシーと言います。

ある人が「AAには〜ねばならない〜は無いが、スポンサーの言うことは絶対だ」と言っていました。絶対なんて言う言葉を簡単に使って良いかどうかは知りませんが、まあスポンサーの言うことは絶対ですね。スポンシーというのは「やれと言ったことはやらないが、やるなと言ったことは必ずやる」ものなので、絶対と言うぐらいでちょうど良いと思います。

じゃあ、スポンサーが間違った助言や提案をしたらどうするの? という疑問を持たれるかも知れません。間違ったらしょうがないですね。確かに、スポンサーの言うことは正しいに越したことはありません。が、「正しいに越したことはない」というレベルです。だからその疑問の真意は、正しいかも分からない、そんな不確かな言葉に従うことに、いったい何の意味があるのかということですね。

今まで自分の考えで生きてきて、あげく精神病院に入って(入らなくても)AAにやってきてしまったわけです。今後も同じ方針で、つまり自分の考えで生きていけば、同じ結果が待っているだけです。だから、Higher Powerとか神さまとかに考えてもらって、それに従って生きて行きなさいよ、ということであります。

ところが、神さまは望んだ答えはくれないものです。というか、神さまが狂ったアル中の望む答えをくれるようなら、かえって怖いです。アル中さんは常に自分の考えがお気に入りで、やがて酒に戻っていきます。

一生懸命「自分の理解した神」に従おうとしている人でさえ、神の意志を知ることは容易ではありません。反抗的なアル中さんであればなおのことです。反抗して飲んで死ぬのも本人の勝手かもしれませんが、それでは周りが困ります。
AAスポンサーってのは神さまほど上等じゃないかも知れませんが、ともかくその考えに従うのです。助言が気に入ろうが気に入るまいが、意味が分かろうが分かるまいが、そんなことは二の次、三の次で、ともかく「自分の考えよりも、もっと正気な考えがある」という真実が身に染みるまでは、理不尽だろうが仕方ないことです。自力じゃなかなかステップ2・3と進めないのです。

とは言うものの、スポンシーは反抗的で言うこと聞かないもので、それがまた昔の自分を(=今の自分を)映す鏡になるので、ついついイジメたくなっちゃう時もあるでしょうね。かといって人の良いスポンサーが優秀とは限りません。

どうしても気に入らなければ別のスポンサーに変えればいいだけの話ですが、探すのは「まともな人」ではなくて「自分の理解した神」であることを忘れないでください。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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