心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年06月07日(木) 月島さんの投稿で思いついて

世の中には3種類の人間がいると思います。
A)「○○がしたくて、実際してる人」
B)「○○がしたいのだが、我慢している・我慢させられている人」
C)「○○はしたくないので、してない人」

○○には例えば「旅行」を入れてみましょう。
誰かが行った旅行の土産話を聞かされたとしても、旅行が好きでない人は「旅を楽しんでこれて良かったね」という感想を持つぐらいでしょう。
旅行がしたいのに事情があって我慢している人は、もしその人が正直なら「うらやましい」と言えるでしょう。しかし、正直でない人は「そんなところへ行ってもくだらない」とこき下ろして、相手の経験の価値を認めません。もし、面と向かってこき下ろすことが出来なければ、どこかで陰口を言ったりします。でも、このタイプも実はまだ正直なほうでしょう。

一番やっかいなのは、自分の心で感じている嫉妬を押し殺してしまうタイプです。こういう人は話が終わって別れた後で、どっぷり疲れている自分を発見したりします。なんとなく相手が気に入らなくなって、会うだけでムカムカしたりします。相手が悪いんじゃなくて、自己欺瞞がいけないんです。

次は○○に、ちょっと不道徳な何かを入れてください。ギャンブルとか、不倫とか。

不倫をしたくないと思っている人は、不倫してる人の行為に、冷ややかな軽蔑を送る程度のものでしょうが、「不倫なんかする奴は人間のクズだ」と言っている人は、したいけど我慢している(させられてる)人なわけです。
PTAなどで、有害図書の駆除活動とか一生懸命でやってる人も、きっと若い頃に抑圧した性衝動とかあったんでしょう。

今度は、○○に「経済的成功」だとか「名声」なんてものを入れてみましょうか。

豊かになりたくない人はいないでしょうが、所詮金持ちにはなれない現実を受け入れている人は、金持ちに「お金があってうらやましい」とは思っても、我が身の貧しさをミジメだと感じたりはしないでしょう。
ところが金がないことを恨みがましく思っている人には、金持ちは気に入らない存在です。この人にとっては、金持ちの欠点は「金を持っていること」なんですが、それを認めてしまえば嫉妬を認めることになるので、一生懸命ほかの欠点を探してこき下ろします。
名声や権力に嫉妬する人は、一生懸命政治家の人格をこき下ろしてみたりします。本当は自分に権力がないのが気に入らないのに。

堀江だとか村上という人の転落を見ていると、抑圧された嫉妬心を持っている人に、こき下ろすネタを与えることが、どんなに罪深いことかと思います。彼らが犯した経済犯罪より重いと思いますね。

自分の中の欲望や嫉妬心を認めることも「自分に正直になる能力」でしょう。その能力を獲得したら、次は気がついた欲望に従って行動し、金持ちになって見るも良し、なれなくて「うらやましい」とわめいてみるのも良いことでしょう。気取ってちゃいけません。馬鹿になれないとダメです。品行方正になれるのは、正直になった後で、逆の順番じゃないです。

ちなみに、アル中さんにとってのアルコールは、3つのどれにも当てはまりません。4つめのタイプです。

D)「○○はしたくないのに、させられている人」

もう飲みたくないのに、病気に飲まされている人のいかに多いことか。


2007年06月06日(水) スイッチ

定時退社日だというのに、ぐずぐずしていて、やっかいな電話につかまると困るので、6時になるとすぐに会社を飛び出しました。

水曜日のAAミーティングは、いつも5〜6人でやっているですが、今日はその倍くらいでした。僕らのグループは、水曜日はビッグ・ブック、土曜日は12&12を輪読します。僕はテキストを読むときは、なるべく下ではなく前を向き、はっきりした声を出すよう心がけています。心がけているだけで、口の中でもごもご言う癖は直っていないのでしょうが、まあ心意気だけでも。
あるAAメンバーと初めてミーティングを一緒したとき、(その人はまだまだ僕の倍以上のソーバーを持ってるんですが)、その人のテキストを読む姿勢に感銘を受けました。一事が万事、そういうことなのかもしれないと思ったのです。

さて帰り道。高速のインターを降り、また光ファイバー工事をしている国道を避け、ラブホテルの前から裏道へ抜けながら、僕は悩みを抱えていました。

夕食はラーメン屋で食べることにしたのですが、その理由は「あっさり系のラーメンなら食べられそうだ」と思ったからです。どうも食欲がありません。いつもだったら、10時間も食べていなければ、ずいぶん空腹感を感じるはずです。食欲が落ちた原因として考えられるのは、過労です。だったら、なおのこと食べなければいけませんが、今一歩その気になれないわけです。

特に気に病むこともないので、精神的な食欲不振ではなさそうです。とは言うものの、ひょっとすると気がついていないだけで、自分は今とっても調子が悪いんじゃないだろうか・・・。そんなことを考えているうちに、ラーメン屋に着きました。昨夜は満車でしたが、今夜は無事車を駐められ、席について390円のラーメンをオーダーすることができました。
携帯電話でネットサーフィンをしているうちに、ラーメンが出され・・・。

右手で割り箸をパチンと割った瞬間に、頭の方もパチンと思い出しました。

「そういや、ミーティングが始まる前にすき家で牛丼食べたんだっけ」

そりゃ食欲がないわけです。でも、僕の脳は、もっと食べなくちゃとささやいていたのです。

どうも、あれ でスイッチが入ってしまったようです。たまには目一杯食べても良いだろうと思ったんですが、やっぱ食べ過ぎるとスイッチが入ります。


2007年06月05日(火) ふるい

多くのAAグループでは、ソブラエティ(飲まないで生きる日々)が始まった日に、24時間と書かれた緑色のメダルをプレゼントしていると思います。その後1ヶ月、3ヶ月、6ヶ月、9ヶ月と続き、1年からは1年おきです。
6ヶ月まではプラスチックのトークンですが、9ヶ月からはブロンズのメダルになります。実は24時間でも、1ヶ月でも、ちゃんとブロンズのメダルがあるのですが、なにぶん6ヶ月までは消費量も多いわけで、プラスチックとブロンズのコスト差も馬鹿にならないのであります。

メダルの時期(つまり節目の時期)は、苦しい時期だと言われています。試練にさらされることの多い時期なのでしょうか。僕のスポンサーは「節目の時期は、神さまがソブラエティを試しに来るんだよ」と言っていました。

たぶん神さまは、とっても目の粗い「ふるい」でアル中を助けてくれるんだと思います。最初のうちは、幸運にもその粗い目に引っかかったアル中さんが、結構たくさん飲まない生活を続けているんですが、ときどき神さまが「ふるい」をガサゴソ揺するもんだから、目の合間からアル中さんがバラバラと下へ落ちていってしまう・・・。そんなイメージを僕は持っています。

ふるい落とされたくなかったら、その「ふるい」の目に、一生懸命しがみついていることが必要なんでしょう。その目が、たまたま僕にはAAであり、AAのプログラムであったというわけです。

あなたが掴まっているものがAAであっても、そうでなくても、ともかく「次の何かを掴むまでは、いま掴んでいるものから手を離すな」という格言(マーフィーの法則)に従うのが賢明だと思います。

面白そうなものが漂っていても、自分を支えているものを忘れて興味の対象を追いかければ、とたんに下に落ちてしまうように、できているんだと思います。


2007年06月04日(月) 時計回り

時計回りとは右回りのことです。
時々、どっちが右回りで、どっちが左回りか分からなくなりますが、中心を右に見て回るのが右回りです。道路の右カーブ、左カーブと同じです。

時計はなぜ右回りなのか。
それは日時計が北半球で発明された(あるいは北半球の文明が残った)からです。地面に棒を立てた日時計の場合、中心からのびた影は、朝は西、昼は北、夕は東と、上空から見ると右回りに回ります。これから、機械仕掛けの時計を作る時も、同じように針が右回りになるようにしたのだそうです。
もし、文明が南半球を中心に発展していたら、アナログ時計は左回りだったのでしょう。

ちなみに、壁に垂直に、南へ水平に棒をのばした日時計もあり、遠くから眺めるために使われますが、この場合は投影される影は壁の上を左回りに移動します。

一日24時間の地球の回転は大変正確です。だから本来日時計も正確なもののはずです。でも、地球の地軸が公転面から23.5度傾いていたり、地球が楕円軌道を動いていたりするせいで、太陽が真南に来る間隔は、長くなったり短くなったりします。日時計が年中同じ目盛りを使っていると、最大±15分ぐらいのずれは起こります。
もっとも、日時計しかなかった時代の人が、そんなことを気にしていたかどうかは知りません。分単位で計れる時計を持っている人は、日時計を見ないだろうし。

僕は仕事の都合上、ディジタル式の腕時計をしています。同業者に鼻で笑われるのを防ぐためです。ストップウォッチ忘れたんで貸してくださいと言うのは恥ずかしいですから。腰にいつもストップウォッチをぶらさげていればアナログ式でもいいのかも知れません。

最近はディジタル式のかっこいい腕時計は少なくなりました。以前はナイキのランニングウォッチを使っていたのですが、自分で電池交換をしていたら3回目に失敗して破壊してしまいました。パソコンを使うときには、腕時計の存在はうっとおしいので外しています。するとすぐに忘れてくるわけで、高いものはなかなか買えません。
今は、忘れてもさほど痛くない4,500円の電波時計を使っています。ところが安いとなかなか亡くさないんですね。

Nike Triax Speed などを見ると、思わず物欲が沸々とわきますが、今のところ折り合いがついています。あれは、初対面の人に、走るのが趣味なんですかと聞かれるのが欠点ですね。


2007年06月03日(日) 予備の原稿

「回復したAAメンバーってのは俗っぽい人たちだね」と、ある医療関係者が言っていました。

12のステップなんていう、神だとか祈りだとか黙想とか自己点検とか、そういうことを何年もやっている人たちって、たぶんすごい品行方正な人たちで、悩みもなくて、浮世離れしていて、僕なんかにはちょっとうち解けづらい人たちだろうと思っていました。だったら、ステップを使った回復なんて、あんまり魅力を感じないな、と思っていました。

ところが、目の前にいるAAメンバーは、世間を生きているただの人たちでした。たばこも吸うし、麻雀もする。話すことと言えば、人間関係の悩み、身体の痛み、金の無さぐらいのもの。そうじゃなければ自慢話。これじゃ会社の喫煙室の話題と変わりがありません。でも、そう言う人たちもステップをやっているらしい。
だったら、ステップなんてやったって、あんまり変わんねーんじゃねーの? とも思っていました。今の自分と同じじゃないかと。苦労してミーティングに通って、ステップなんぞやる意味がどこにあるのか、ちっともわかりませんでした。

回復すれば、すごくエネルギッシュになったり、動揺しなくなったりするんだと思ってました。

その品行方正でもない、欲にまみれて悩みまくりの要するに「俗っぽい人たち」の中に、「生きていくのはしんどいけれど、人生なんてこんなもんだし、こんな人生でも結構捨てたもんじゃないんだよね、えへへ」と言う人たちがいて、つまるところ「生きてて良かったー」というメッセージを送ってくる人がいるんです。
それがステップの回復なのかなと思いました。

僕は清く・正しく・美しくは生きられませんし、それを回復の目標には設定できないですが、「人様から見たらバカらしい人生でも、自分にとっちゃいい人生そのもの」というのを目指していきたいですね。

先ゆく仲間が怒っちゃったりして、人間味溢れるところを見せているのを、ついつい「回復してねーなー」なんて勝手に評価してたりしたんですが、そういうところで判断するのとは違うんだって、まそんな話です。

飽きっぽくって不平の多い、俗っぽい回復者ってのになろうぜ。


2007年06月02日(土) Keep It Simple Stupid

AAのバースディが来るたびに、その後一年間の自分のスローガンを考えて決めています。昨年5月に決めたのは「今日一日の感謝」でした。これは六十何歳かのAAメンバーの自己テーマ「今日一日の謙虚」のパクリです。

今日一日酒を飲まなかったことに感謝できないアル中には、どんな素晴らしいことが起きたって、本当の感謝なんかできっこない。

というスピーチに感銘を受けたのも影響しています。
今日一日酒を飲まなかったことを、寝る前に感謝するという習慣が、僕の精神状態(たとえばうつとか)を良い方に導いてきたのは、間違いありません。感謝とうつの間にどんな因果関係があるのか、それは僕には分かりませんが、誰かが言っていたように「自分に身に起こった奇跡は否定しようがない」わけです。

新しいスローガンは、AAのものをそのまま使って、Keep It Simple Stupid (KISS) にしました。何事にも愚直かつ単純に取り組んでいく。複雑にしすぎない。うがちすぎを避ける。

目の前にある一日を、そのまま受け取って過ごしていきたいものです。


2007年06月01日(金) 無力

いきなり明日葬式になって、ホームグループのミーティングに行けません。あいや、葬式はいつもいきなりか。だから今日のうちにスポンシーを誘ってミーティングに行ってきました。
年配の男性(おじさん・おじいさん)ばかりの会場で、ビッグ・ブックの第二章を輪読しました。日頃は据わりが悪いと感じているBBの文章も、年配の男性が大きな声で読むと、すごく馴染んでいることを発見しました。なるほどそういうことか、これを訳した人(の世代)にとっては、自然な言葉遣いだったのかと得心しました。
ひとつ前の訳はP神父の手によるものですが、神父と同じように戦前の教育を受けた人が「我々の世代にとっては、あれが親しみやすいんだ」と言っていたのを思い出します。
日本語は変わり続けていくし、BBは実用書であって文学作品ではないということを、あらためて思いました。

さて、

相手の望むことをしてあげるのが、相手のためにならないことがあります。
相手のために良かれと思ってすることも、実は相手のためになっていないこともしばしばあります。「良かれ」はしょせん自分の価値判断にすぎません。

世の中には、善意を動機として行動し、ダメな結果を出してしまう人で溢れています。自分にとって、相手にとって、何がよいことで、何が悪いことなのか、判断には必ず間違いが紛れ込みますから、それは仕方ないことです。

であるのに「自分のことはすべて自分で決める権利がある」という考えに固執する人がいます。僕もその傾向おおありです。人が荒野に一人で生きているなら、それも真理かも知れません。でも、人間関係のあるところでは単に迷惑な人になるだけです。

自分に関してさえ、何が良くて、何が悪いのか、知ることが出来ないこと。たとえ前進する力を持っていたとしても、また良くなりたいと善意があったとしても、どちらに進んでいいのか分からなければ、前進力を自分に役立てることが出来ません。

僕はアルコール依存症から良くなりたいと思っていましたが、どうやれば良くなって飲まないでいられて、どうやれば悪くなって飲んでしまうのか、「自分で判断して自分で決めればよい」と思っていたうちは、しらふで生きることができませんでした。
自分の判断を信用している限り、僕はアルコールに対して「無力」でした。

自分の判断を信用している限り、僕はアルコール以外のいろんなことにも「無力」であり続けます。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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