心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年06月05日(火) ふるい

多くのAAグループでは、ソブラエティ(飲まないで生きる日々)が始まった日に、24時間と書かれた緑色のメダルをプレゼントしていると思います。その後1ヶ月、3ヶ月、6ヶ月、9ヶ月と続き、1年からは1年おきです。
6ヶ月まではプラスチックのトークンですが、9ヶ月からはブロンズのメダルになります。実は24時間でも、1ヶ月でも、ちゃんとブロンズのメダルがあるのですが、なにぶん6ヶ月までは消費量も多いわけで、プラスチックとブロンズのコスト差も馬鹿にならないのであります。

メダルの時期(つまり節目の時期)は、苦しい時期だと言われています。試練にさらされることの多い時期なのでしょうか。僕のスポンサーは「節目の時期は、神さまがソブラエティを試しに来るんだよ」と言っていました。

たぶん神さまは、とっても目の粗い「ふるい」でアル中を助けてくれるんだと思います。最初のうちは、幸運にもその粗い目に引っかかったアル中さんが、結構たくさん飲まない生活を続けているんですが、ときどき神さまが「ふるい」をガサゴソ揺するもんだから、目の合間からアル中さんがバラバラと下へ落ちていってしまう・・・。そんなイメージを僕は持っています。

ふるい落とされたくなかったら、その「ふるい」の目に、一生懸命しがみついていることが必要なんでしょう。その目が、たまたま僕にはAAであり、AAのプログラムであったというわけです。

あなたが掴まっているものがAAであっても、そうでなくても、ともかく「次の何かを掴むまでは、いま掴んでいるものから手を離すな」という格言(マーフィーの法則)に従うのが賢明だと思います。

面白そうなものが漂っていても、自分を支えているものを忘れて興味の対象を追いかければ、とたんに下に落ちてしまうように、できているんだと思います。


2007年06月04日(月) 時計回り

時計回りとは右回りのことです。
時々、どっちが右回りで、どっちが左回りか分からなくなりますが、中心を右に見て回るのが右回りです。道路の右カーブ、左カーブと同じです。

時計はなぜ右回りなのか。
それは日時計が北半球で発明された(あるいは北半球の文明が残った)からです。地面に棒を立てた日時計の場合、中心からのびた影は、朝は西、昼は北、夕は東と、上空から見ると右回りに回ります。これから、機械仕掛けの時計を作る時も、同じように針が右回りになるようにしたのだそうです。
もし、文明が南半球を中心に発展していたら、アナログ時計は左回りだったのでしょう。

ちなみに、壁に垂直に、南へ水平に棒をのばした日時計もあり、遠くから眺めるために使われますが、この場合は投影される影は壁の上を左回りに移動します。

一日24時間の地球の回転は大変正確です。だから本来日時計も正確なもののはずです。でも、地球の地軸が公転面から23.5度傾いていたり、地球が楕円軌道を動いていたりするせいで、太陽が真南に来る間隔は、長くなったり短くなったりします。日時計が年中同じ目盛りを使っていると、最大±15分ぐらいのずれは起こります。
もっとも、日時計しかなかった時代の人が、そんなことを気にしていたかどうかは知りません。分単位で計れる時計を持っている人は、日時計を見ないだろうし。

僕は仕事の都合上、ディジタル式の腕時計をしています。同業者に鼻で笑われるのを防ぐためです。ストップウォッチ忘れたんで貸してくださいと言うのは恥ずかしいですから。腰にいつもストップウォッチをぶらさげていればアナログ式でもいいのかも知れません。

最近はディジタル式のかっこいい腕時計は少なくなりました。以前はナイキのランニングウォッチを使っていたのですが、自分で電池交換をしていたら3回目に失敗して破壊してしまいました。パソコンを使うときには、腕時計の存在はうっとおしいので外しています。するとすぐに忘れてくるわけで、高いものはなかなか買えません。
今は、忘れてもさほど痛くない4,500円の電波時計を使っています。ところが安いとなかなか亡くさないんですね。

Nike Triax Speed などを見ると、思わず物欲が沸々とわきますが、今のところ折り合いがついています。あれは、初対面の人に、走るのが趣味なんですかと聞かれるのが欠点ですね。


2007年06月03日(日) 予備の原稿

「回復したAAメンバーってのは俗っぽい人たちだね」と、ある医療関係者が言っていました。

12のステップなんていう、神だとか祈りだとか黙想とか自己点検とか、そういうことを何年もやっている人たちって、たぶんすごい品行方正な人たちで、悩みもなくて、浮世離れしていて、僕なんかにはちょっとうち解けづらい人たちだろうと思っていました。だったら、ステップを使った回復なんて、あんまり魅力を感じないな、と思っていました。

ところが、目の前にいるAAメンバーは、世間を生きているただの人たちでした。たばこも吸うし、麻雀もする。話すことと言えば、人間関係の悩み、身体の痛み、金の無さぐらいのもの。そうじゃなければ自慢話。これじゃ会社の喫煙室の話題と変わりがありません。でも、そう言う人たちもステップをやっているらしい。
だったら、ステップなんてやったって、あんまり変わんねーんじゃねーの? とも思っていました。今の自分と同じじゃないかと。苦労してミーティングに通って、ステップなんぞやる意味がどこにあるのか、ちっともわかりませんでした。

回復すれば、すごくエネルギッシュになったり、動揺しなくなったりするんだと思ってました。

その品行方正でもない、欲にまみれて悩みまくりの要するに「俗っぽい人たち」の中に、「生きていくのはしんどいけれど、人生なんてこんなもんだし、こんな人生でも結構捨てたもんじゃないんだよね、えへへ」と言う人たちがいて、つまるところ「生きてて良かったー」というメッセージを送ってくる人がいるんです。
それがステップの回復なのかなと思いました。

僕は清く・正しく・美しくは生きられませんし、それを回復の目標には設定できないですが、「人様から見たらバカらしい人生でも、自分にとっちゃいい人生そのもの」というのを目指していきたいですね。

先ゆく仲間が怒っちゃったりして、人間味溢れるところを見せているのを、ついつい「回復してねーなー」なんて勝手に評価してたりしたんですが、そういうところで判断するのとは違うんだって、まそんな話です。

飽きっぽくって不平の多い、俗っぽい回復者ってのになろうぜ。


2007年06月02日(土) Keep It Simple Stupid

AAのバースディが来るたびに、その後一年間の自分のスローガンを考えて決めています。昨年5月に決めたのは「今日一日の感謝」でした。これは六十何歳かのAAメンバーの自己テーマ「今日一日の謙虚」のパクリです。

今日一日酒を飲まなかったことに感謝できないアル中には、どんな素晴らしいことが起きたって、本当の感謝なんかできっこない。

というスピーチに感銘を受けたのも影響しています。
今日一日酒を飲まなかったことを、寝る前に感謝するという習慣が、僕の精神状態(たとえばうつとか)を良い方に導いてきたのは、間違いありません。感謝とうつの間にどんな因果関係があるのか、それは僕には分かりませんが、誰かが言っていたように「自分に身に起こった奇跡は否定しようがない」わけです。

新しいスローガンは、AAのものをそのまま使って、Keep It Simple Stupid (KISS) にしました。何事にも愚直かつ単純に取り組んでいく。複雑にしすぎない。うがちすぎを避ける。

目の前にある一日を、そのまま受け取って過ごしていきたいものです。


2007年06月01日(金) 無力

いきなり明日葬式になって、ホームグループのミーティングに行けません。あいや、葬式はいつもいきなりか。だから今日のうちにスポンシーを誘ってミーティングに行ってきました。
年配の男性(おじさん・おじいさん)ばかりの会場で、ビッグ・ブックの第二章を輪読しました。日頃は据わりが悪いと感じているBBの文章も、年配の男性が大きな声で読むと、すごく馴染んでいることを発見しました。なるほどそういうことか、これを訳した人(の世代)にとっては、自然な言葉遣いだったのかと得心しました。
ひとつ前の訳はP神父の手によるものですが、神父と同じように戦前の教育を受けた人が「我々の世代にとっては、あれが親しみやすいんだ」と言っていたのを思い出します。
日本語は変わり続けていくし、BBは実用書であって文学作品ではないということを、あらためて思いました。

さて、

相手の望むことをしてあげるのが、相手のためにならないことがあります。
相手のために良かれと思ってすることも、実は相手のためになっていないこともしばしばあります。「良かれ」はしょせん自分の価値判断にすぎません。

世の中には、善意を動機として行動し、ダメな結果を出してしまう人で溢れています。自分にとって、相手にとって、何がよいことで、何が悪いことなのか、判断には必ず間違いが紛れ込みますから、それは仕方ないことです。

であるのに「自分のことはすべて自分で決める権利がある」という考えに固執する人がいます。僕もその傾向おおありです。人が荒野に一人で生きているなら、それも真理かも知れません。でも、人間関係のあるところでは単に迷惑な人になるだけです。

自分に関してさえ、何が良くて、何が悪いのか、知ることが出来ないこと。たとえ前進する力を持っていたとしても、また良くなりたいと善意があったとしても、どちらに進んでいいのか分からなければ、前進力を自分に役立てることが出来ません。

僕はアルコール依存症から良くなりたいと思っていましたが、どうやれば良くなって飲まないでいられて、どうやれば悪くなって飲んでしまうのか、「自分で判断して自分で決めればよい」と思っていたうちは、しらふで生きることができませんでした。
自分の判断を信用している限り、僕はアルコールに対して「無力」でした。

自分の判断を信用している限り、僕はアルコール以外のいろんなことにも「無力」であり続けます。


2007年05月31日(木) 釜飯の店

仕事で遅くなったときは、外で食事をして帰ることにしています。
ところが遅くなると、営業している飲食店の数が減ってきます。9時までの店、10時まで、11時まで、夜半まで、とだんだん店が閉まっていき、「いつも同じところはヤだ」とわがままを言っていると、夕食難民になってしまいます。仕方ないので、勇気を持って新規開拓に挑むときもあります。

昨夜も300円ぐらいのうどんを食わせる店に寄ろうと思ったのですが、問題はその前の版も別の店でうどんを食べたことです。二日連続でうどんはどうよ? と思っていると、「和めしや右折300m」という看板が目に入ったので、迷わず右のウィンカーを出していました。

その店は釜飯屋らしく、店の外には釜飯のディスプレイがありました。中へ入ると店員が席を案内してくれ、そして渡されたメニューは完全なる居酒屋メニューでした。外の掲示はランチタイム用で、夜はより収益率の高い酒家をやっているわけですね。僕は夕食を食べに来たのであって、酒を飲み来たわけじゃありません。
そこで席を立って出て行ってもいっこうに構わないとと思うのですが、もう頭の中は湯気を上げる釜飯でいっぱいです。居酒屋で飯を食って何が悪いというのだ。

何とかメニューの中から釜飯を見つけ出してオーダーすると、米から炊くので20分はかかると言われました。観念してソフトドリンクと焼き鳥5本を頼んで、時間をつぶすことになりました。

周囲を見渡すと、若い男女の二人連ればかりです。僕が通された席も二人席でした。向かい合わせじゃなくて、並んで座るベンチシートです。照明は薄暗く、隣の席とはすだれで区切られていて・・・。まあデートにはいいところでしょうな。
居酒屋も、飲酒運転対策としてソフトドリンクのメニューを充実させるところが多くなって、飲まない人にとってはありがたいことです。

かに釜飯はおいしかったのですが、すでに焼き鳥も食べていたので、1/3も食べたところでお腹いっぱいになってしまいました。鰹だしの汁をかけてお茶漬けにするとおいしいと言われたのでもう1/3食べ、迷ったあげくに残りの1/3も食べてしまいました。食い過ぎです。

おいしかったけれど、夕食に二千円はかかりすぎでした。


2007年05月30日(水) 予備の原稿

スポーツの審判は人間がやるものであり、人間がやるからこそ不完全であります。

僕はスポーツはしませんが、見るのは好きであり、見ているだけならルールがどんなに複雑でもかまいはしません。たとえばサッカーのオフサイドは、ハーフウェイラインより向こう側だけに適用されますが、ラグビーのオフサイドは場所を限定しません。しかも複数のオフサイドルールがあって、どれを適用するか刻々と変わっていきます。
たとえばオフサイドをして相手にキックを与えてしまったとします。相手がキックするときは、最低10m離れてないと後のプレーに参加できません(なので走って後退する)。間髪与えずにキックすればオフサイド・プレーヤーを沢山作ることができます。けれどキックする側は、蹴った地点より前にいた選手は全員オフサイド、蹴ったボールを敵がキャッチするとこちらもキャッチより前にいる選手は全員オフサイドとなります。はたしてプレーに参加できるのは誰と誰?
脳みそまで筋肉で出来ているんじゃないか(失礼)といういかつい男たちが、瞬時に冷静な判断をしてゲームを組み立てていくところがラグビーの魅力だと思っています。

でもプレーヤーは15×2=30人もいて、レフェリーは一人です。10mといったって線が引いてあるわけじゃなし、一方を見ていれば頭の後ろは見えません。密集していれば、反対側で何が起きていてもレフェリーには見えません(観客には見える)。それはどうするのか?

「見えないものは仕方ないじゃん」とでも言いましょうか。観客にいくら見えていても関係ないのです。レフェリーという限界あるものを信頼して、敬意を払っていくのがラグビーであり、間違いがあるのが当たり前なのであります。

アメリカンフットボール(NFL)には「チャレンジ」というビデオ判定を要求できるルールがあります。判定に不服があればコーチが赤いフラッグをフィールドに投げ入れ、主審がビデオをチェックして再判定をします。ただしチャレンジして判定が覆らなければ、3回あるタイムアウトの権利のうち1回を没収されます。時間との勝負であるアメフトで、時計を止める権利を失うことがどれほどの損失か。
チャレンジが吉と出るか凶と出るか、観客もどきどきしながら結果を待てるわけです。

イギリス人のジェントルマン性、アメリカ人の合理主義と申しましょうか。

日本のプロ野球でもビデオ判定を導入しようという動きがあります。でもチャレンジ失敗の時にどんなペナルティがよいのか(観客が楽しめるのか)となると、難しいですね。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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