心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年04月28日(土) 病気とは(異常と正常の間)その4

最終週ということで伝統のミーティングでした。伝統一。
unity を一体性と訳していますが、単一性という言葉の方が好きです。AAは世界中どこへ行ってもステップと伝統とコンセプトが同じであること。Higher Power(=神)とスポンサーと仲間という組み合わせも変わらないこと。
極東の文化の中に住む僕らが、白人のプロテスタントが考えた「神」を受け入れる必要はないけれど、「日本には日本のAAがあっていい」という考え方は、伝統の最初の一歩からはみ出しちゃっている気がします。

さて、精神科医は何を頼りに診断をしているかという話。
ある病気(たとえばうつ病)の患者と複数、継続的に関わっていると、その人たちが同じような苦しみを訴えたり、同じような行動を取ることに気づきます。そうした特徴をまとめて「病像」という言葉を使ったりします。
精神科医は、病気それぞれに対して経験から得た「病像」を持っていて、目の前の患者が、そのどの病像にうまく当てはまるかによって診断を下していると言われます。その病像は、言葉によって表現しづらいもののようです。もし仮に明確な言葉で表現できるのなら、診断をコンピューターによるエキスパートシステムで代替することも出来るのかも知れません。しかし今のところ、経験ある精神科医に勝るものはなさそうです。

考えてみれば、外科や内科その他の医者でも、担当分野の病気に対して病像を持ち、それに照らして診断していることに代わりはないのでしょう。ただ、数値化・画像化しやすい診療科と、問診に頼るしかない診療科の違いにすぎないんだと思います。

精神科の診断名ってのは変わりうるものです。最初は単極性のうつ病としたものが、躁状態が現れて双極性の躁鬱病に変更とか。統合失調症の症状が出てきて不定形精神病に変更とか。また、診断名がすべてではなく、カルテにはうつ病とか依存症と書くしかなくても、医者は人格障害に対して治療をしているのかもしれません。医学書に書いてあることよりは、毎日患者とつきあっている医者の見識のが頼りになります。

なにも医者でなくても、たとえば依存症の自助グループで、何人もの依存症者の経過や行動をみていれば、言葉では簡単に説明できなくても、頭の中にぼんやりと「アルコール依存症とはこういう病気」という病像ができてくるものじゃないでしょうか。それを言葉で表現しようとすれば、本が書けそうなくらい長くなるわけですが。

人間は一人一人違って、文字通り千差万別なのだから、依存症という言葉でひとくくりにしないでくれ、と言われることもあります。確かに正常と異常の間に線は引けないものです。だからといって、医者の診断が信用できないわけじゃありません。
病気じゃなければ病気じゃないとハッキリ言ってもらえますから、病気じゃないと思うのなら安心して精神科医にかかれば良いと思います。そうすれば本人も周囲も安心でしょう。なのに行きたがらないのは、自分で「ヤバイ」と思ってるから躊躇うのじゃないかと思います。

(この項おしまい)


2007年04月27日(金) 病気とは(異常と正常の間)その3

町沢静夫という精神科医が、こんな話を書いています。

ある時診察室を老夫婦が訪れます。奥さんの方が体の病気になってしまい、それがショックで食事が取れなくなり、寝込んでしまいました。看護をする旦那さんも大変で、眠れなくなりました。それで二人そろって精神科医にかかったわけです。
奥さんの方はうつ病と診断されます。医者が旦那さんに「あなたも眠れなくて大変ですね」と声をかけると、ご老人は「私には特別な力があるから大丈夫です」と答えます。
医者は不思議に思って「それはどういうことですか?」と尋ねると、返事はなんと「地下から私にしか聞こえない電波がやってくるんです。その電波の命令に従っていけば楽なものです」と答えます。
旦那さんは妄想型の統合失調症だったのです。

しかも、30年前の発症からそれまで治療しないままだったのです。その間も職業人として働き、3人の子供を成人まで育てていました。妄想を伴った現実と折り合って生きてこれたわけです。統合失調症の医学モデルにはぴったり当てはまるものの、医者は治療の必要がないと判断します。
なぜなら、立派に社会生活が送ってこれたのだし、本人が苦しんでいないからです。

精神科領域の病気では、本人や周囲が困っているか、いないか。それが大事になります。最初に挙げた緑内障のような病気には、数値化したり、図解できる指標がありました。でも、精神科ではそうした指標はあまりありません。

MMPI(ミネソタ多面的人格目録検査)という検査があります。550問の質問に「当てはまる・当てはまらない・どちらともいえない」で答えるやつです。入院経験のある人は、パソコン相手にこの検査をやったことがあるかもしれません。途中で「自分は神だと思う」という質問が何度も出てくる、あれです。
この検査は、人間の精神のいろんな領域を数値化してくれますが、あまり流行っているようにも思えません。僕は自分の結果を見せてもらいましたが、それで何が判断できるのかはさっぱり分かりませんでした。

じゃあ、精神科医は「誰かが苦しんでいるか」だけを尺度に、診察室で患者を相手にしているのか・・・もちろんそんなことはないそうです。医者は何を頼りに診断し、治療をしているのでしょうか。

(さらに続く)


2007年04月26日(木) 病気とは(異常と正常の間)その2

緑内障とは、視野の欠損が増えていって、やがて失明する病気です。
視野が欠けていることを本人の自覚していなくても、視野検査をすればどの部分が見えないかは分かります。それで客観的な診断が下せます。過去のデータと比べれば、病気が進行しているかどうかも分かります。
眼圧の高さも判断の手がかりになります。たとえ視野の欠損がなく、眼圧が高いだけでも、頭痛に悩まされますし、将来緑内障になる危険がありますから、治療が必要です(眼圧が低いまま進行する緑内障もあります)。
また、眼底の凹みも、眼科医がペンライトでのぞき込めば見えるそうです。
客観的な判断基準がいくつもあるのです。

緑内障という医学モデルがはっきりしていて、そのモデルに当てはまれば病気です。その人の社会的立場によって、病気の診断が左右されることはなく、一国の首相であろうが、無職の青年だろうが、緑内障になれば緑内障です。

しかし精神科の病気は、そうはいきません。医学モデルに当てはまるかどうかだけで診断するわけにはいきません。DSM-IVやIDC-10には、診断の手引きがあって「過去○ヶ月以内に下記○個の症状のうち○個があること」といった基準はあります。けれど、それだけに頼って診断する精神科医はいないでしょう。

もちろん、症状も大事ですが、その人の置かれた環境にも大きく左右されます。

たとえば大酒飲みが内臓を痛めて内科に入院するとします。たびたび入院を繰り返しても、ちっとも酒を控えることも止めることも出来ないとします。離脱症状もなく、飲む場所や時間がコントロールできていて、つまり精神的な症状があまりなかったとしても、やっぱりこの人には「酒を止める」治療が必要な依存症者です。

逆に、田舎の方へ行くと、昼間から酒を飲みながら野良仕事をしている御老人はいっぱいいます。同じ人がサラリーマンをしていたら、すぐに入院させられちゃうような状態であっても、田舎ののんびりした時間の中では、特に問題もなく暮らしていけたりするのです。こういう人を全員治療しなくては、と意気込む医者もいないでしょう。

「社会の中で(病院の外で)トラブルなく暮らしていけるかどうか」
これが、判断材料に加わります。

社会生活といっても、たいてい自分の家で過ごす時間が一番長く、次に長いのが仕事の時間でしょう。ですから、家族(次いで職場の人)が「困っているかどうか」「悩んでいるかどうか」という基準です。

(まだ明日に続きます)


2007年04月25日(水) 病気とは(異常と正常の間)その1

緑内障の治療をずっと続けています。
眼球には水が詰まっていて、その水を供給する機構と、排出する機構があります。この排出機構の方に何かの不具合があって、働きが弱くなってしまうと、目玉の中に水が過剰に溜まります。すると中の圧力が高くなり、眼底の視神経が圧迫されて死にます。

視神経が死んだ部分は、当然見えなくなるのですが、なかなかこれに気づきません。ひとつには、あまり使わない視野の端の方から壊れてくるのが理由です。いきなり視野の中央が欠けると生存に関わるので、中央部分は強くなるように進化したと言われています。
もう一つの理由は、人間の脳は視野の一部が欠けていても気づかないようです。目には盲点という見えない場所があることは学校で勉強しました。そのとき教科書に描かれた図を眺めて、初めて見えない場所があることに気づいた人も多いのではないでしょうか? 盲点は生まれたときからあったにも関わらずです。
だから、盲点よりもっと大きい視野が欠けていても、気づかないものです。

眼圧が高いときに、自分で目玉を(まぶたの上から)触ってみると、かちんこちんに堅いのが分かります。いや、そんなことをしなくても、頭痛がするので分かりますが。

頭痛の原因として、緑内障というのは多いらしいです。40歳を過ぎれば、10人に一人は緑内障なんだとか。眼底が圧迫されて凹んでいくときは、普段にも増して頭痛が激しさを増すのだそうです。周期的に激しい頭痛に悩まされるならば、眼圧を計ってもらったほうがいいかもしれません。

僕の場合には、20代に一人暮らしのアパートで飲んだくれている間に、激しい頭痛と目のかすみを経験していますから、たぶんその時に悪化したのでしょう。病気が発見されたのは、酒を止めてしばらくしてからです。眼鏡屋でめがねを作ってみたのですが、どうもよく見えない・・・眼科医でしっかり視力測定をしてもらおうと思ったら、眼圧検査で引っかかってしまいました。
放っておけばいずれ失明ですから、その点は良かったですけど。

片目をつぶり、視線を固定して、目の前でライターの火を上下左右に動かしてみると、ところどころ炎がぼやけて見える場所があります。

緑内障の話は、単なる前ふりだったのに、前ふりだけで終わってしまいました。続きは明日。


2007年04月24日(火) 花束

最近花屋で花束を買う機会が何度かありました。
AAの仲間のバースディでグループを代表して買ったり、あるいは個人的に買ったり、入院のお見舞いに切り花を持って行ったり・・・。

おかげで花屋も何軒か行きました。
花屋を探すのは、インターネットタウンページ を使っています。地図が出てくるのと、店舗によっては営業時間の案内も掲載されているので便利です。

花屋といっても様々です。女性が一人でやっている町中の小さな(ファンシーな)お店がありました。床に花の切りくずが散乱し、親方と息子と思われる二人が野太い声で迎えてくれるところもありました。夕方6時半には閉まっているやる気のない店もあれば、8時半までやっている店もありました。

花は毎日入荷しているわけではないので、入荷日に行けば希望通りの花が手に入り、翌日が入荷日という夕方に行けばちょっとおまけをしてもらえる・・かもしれません。同じ生ものであっても、スーパーの生鮮食料品とは違って、売れ残っても再加工して売るわけにも行かないし、お勤め品として半額で売るわけにもいかない、厳しい商売なのでしょう。買う方にしても、前の日に買っておくワケにもいきませんね。

予約をしないで買いに行くと、店頭で結構待たされます。
花束購入者としては初心者なので、どういう注文の仕方が良いのかはわかりませんが、最低限必要な情報は「値段・目的・受け取り日時」でしょうか。目的ってのは、相手が男か女か、お祝いかお見舞いか、というような区別です。
あとは花の種類とか色とか聞かれますが、僕は「バラとユリの区別はつくけど、ガーベラってどんな花なのか分からない」人なので、お任せしますと言って逃れています。

プレゼントというのは、相手の好みがあるので選ぶのが難しいものです。特にものが溢れるこの時代にはそうです。わずかな時間で朽ち果てる花束は、贅沢な贈り物というより、この時代に無難な贈り物なのかもしれません。
店もプロなので、千円でも(それなりに)ちゃんと見栄えのする花束を作ってくれます。だから、気軽に花束を買ってみてほしいと思います。ただ、見比べられると値段の差は明らかになってしまうので、時には見栄を張らなくてはならないときもあるかもしれません。ドライフラワーにするときは、もらった晩に吊すときれいに仕上がります。

いや別に、僕のAAバースディのときに花束をくれと言っているワケじゃありません。ケーキ予約しなくちゃ。


2007年04月23日(月) 雑記の検索キーワードから

さまざまな人が、様々な検索キーワードでGoogleやYahoo!から、この雑記にたどり着きます。

「受診状況等証明書が添付できない理由書」
・・・障害年金の申請ですね。

「コンドームのはめかた」
・・・ひたすら練習しなさい。

「郵便局通帳お金引き下ろし方」
・・・今では当然のように「お金」を出し入れしているATMだが、最初はとまどうばかりだった。最初は誰かに教えてもらいたいよね。

「レーザーディスクをDVDに焼く」
・・・アナログでキャプチャして、MPEG2にエンコードして、DVDオーサリングソフトで編集してから、DVD-Rにやきやきする。DVD買った方が早い。

「SEXのやりかた」
・・・下ネタが多いな。今では当然のように出し入れしている。でも最初は誰かに教えてもらいたいよね。

「Yahooオークション 解約のやりかた」
・・・解約しない限り、毎月自動的に約300円請求されるんですね。あそこはいつもそういう商売なので気をつけないといけません。携帯電話のY!ボタンとか。

「精神科 アテンダンス」
・・・なぜかタイで性転換する話ばかり検索にひっかかります。

「パキシル 遅漏」
・・・これも下ネタ。副作用ですね。

「女性同士の嫉妬」
・・・なぜこういうキーワードでこの雑記が引っかかるのか?

「マスターベーション やりかた」
・・・やっぱり人間の興味は下半身か。これは教えてもらうものなのか? 正しいやり方ってなんだ?

雑記でコンドームのはめかたについて書けば、すごいヒット数になるかもしれないですね。長期連載になったりして。


2007年04月22日(日) 自分を責めずにステップをする

「どうして、自分を責めるんですか? 他人がちゃんと必要なときに責めてくれるんだから、いいじゃないですか」
 〜アルバート・アインシュタイン

ステップ4は、自分を非難する材料を集める作業ではありません。(もちろん、他の人を非難する材料を探す場所でもありませんけど)。

ステップ10も同じです。
他の人を非難する材料を集めて、「この世の中って、やっぱり生きづらいよね」と言うための作業でもなければ、自分を非難する材料を集めて「俺ってやっぱりダメなヤツ」と落ち込むための作業でもありません。

確かにこの作業では、忘れたふりをして覆い隠しておいたイタイ事実が、いろいろ出てきてしまうのは確かです。でもその痛みに耐える修行をしているわけじゃありません。

AAのプログラムが自虐的だとか、自罰的だって思う人は、自分の欠点が見えてしまうと、自分を責めずにはいられない人なのでしょう。そりゃ誰だって人から責められればメゲるし、責められなくても自分が失敗したと分かっていれば落ち込むものです。しかし、あまり自分を責める癖が強いのも考え物です。他の人に原因を求めて責任転嫁してみたりしますが、それも自分を責めてしまう辛さから逃れるためでしょう。

人を責めるということは、その人にもっと多くを求め期待しているということです。自分を責めるのは、自分に多くを期待しているからで、返して言えば、今のままの自分ではダメだという自己否定が強いわけです。理想の自分が肥大していて、等身大でないのです。

だから、自分の本当の大きさ(自分にどれだけ期待していいか)を過去の実績から査定し、それにプラス1割ぐらいしたのを努力目標として設定する作業をします。背伸びをし続ければ疲れるけれど、達成可能な目標をクリアし続けていけば、自己肯定感も育ってくるんじゃないかと。

いちいち自分を責めながらステップをやっていたら、続かないでしょう。
自分を責めても自分は変わりません。それで変われるんだったら、とっくの昔に変われるぐらい、自分を責め続けてきたんじゃないですか?
誰も責めずにステップをするのです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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