心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年04月06日(金) 過程の楽しみ、結果の期待

動物実験の話です。
サルの静脈にチューブを刺し、サルがボタンを押すとコカインが注入されるようにしておきます。コカインの自己投与ににって気持ちよくなることを学習したサルは、人間の依存症と同じ状態になります。やがてサルは、1回のコカインを得るために、何千回もボタンを押す必要があっても、辛抱強くボタンを押し続けるようになります。
この話を聞くと、酒を手に入れるためなら何でもしてしまう、アル中さんの姿が浮かびます。

頃合いを見て、注入されるものをコカインから、ただの生理食塩水に変えます。サルは気持ちよくはなりません。でも、それでもサルはボタンを押すのだそうです。

断酒する代わりに、ノンアルコールのビールを飲むのはどうか?
という質問を受けることがあります。依存症になって断酒は仕方ないが、酒を飲むスタイルは失いたくないという心でしょうか。僕も試してみましたけど、だめでいたね。いずれ、ノンアルコールでないビールに変わるだけでしょう。
サルは注入されるのがコカインか、生理食塩水かは選べません。でも、人間はアルコールなしのビールと、アルコールありのビールを選べます。そこが違うでしょう。

一生懸命ボタンを押したのに、気持ちよくならない。一生懸命断酒生活をして、酒屋でノンアルコールビールを選んで買ってきたのに、気持ちよくならない。だとしたら、その結果を修正しようとするのが人間じゃないでしょうか。

酒なしでも、宴会に出るのが楽しいという人がいます。
それをずっと続けていける人がいますが、みんながそうなれるか疑わしいところです。

実はサルは何千回も無目的にボタンを押しているのではなく、10分の1押すと赤いLEDがひとつずつ点灯していく仕組みにしているんだそうです。LEDがだんだん点灯していって、やがて10個全部点灯すると・・・という過程も、サルの楽しみ(とらわれ?)になります。

酒なしの宴会を楽しむのは、過程を楽しむことです。過程を楽しむことができているならいいのでしょうが、それも点灯するLEDが増えていくのを楽しんでいるサルと同じだという可能性もあります。宴会を楽しんでいるのではなく、酔っぱらうまでの過程を楽しんでいるのかも知れません。
もしそうなら、楽しめていたはずの宴会が「どこか物足りなく」思えた時に、結果を自分で修正したくなっても不思議じゃありません。

飲まずに話をすることを、本当に楽しめるようになってから宴会に行っても、遅くないと思いますよ。


2007年04月05日(木) プロの書き手、アマの書き手

しばらく前でしたが、地方新聞の社説や、大手新聞の地方欄コラムで、他紙の記事の盗用が相次いで見つかったニュースがありました。
これらの書き手はプロですから、アマチュアの僕が分かったような事を言うのは僭越ですが、毎日欠かさず文章を書かねばならないプレッシャーは理解できます。

この雑記なんかは、毎日書いているようなふりをしながら、実は1/3は休んでいます。今日は疲れたから書くのがめんどくさいとか、忙しいとか、ネタが思いつかないとか、いろいろな理由で休んでしまっても、金を返せと言われるわけでも、上司から怒られるわけでもありません。
ただ、更新が遅ければ催促のメールが来たり、二日も休めば「嫌な予感がした」人から電話をもらったりします。そして何より、更新のないブログや日記から、人々は去っていきます。アクセスカウンターが回らなくなるのは、ちと淋しいです。だから、一応「今日も書かなくちゃ」というプレッシャーは僕にもあります。

ただ、ネタはどこかで聞いてきた話や、本で読んだ話を繰り回しているだけなので、あまり自分の頭では考えていません。仕入れたネタをすぐに書くと、いろいろと弊害も多いので、しばらく間をおいています。その間に、どんなネタも「ひいらぎ的思考」に染まってしまうのであります。

プロの人は、(情報ソースはあるにせよ)それなりに自分で考えたことを、定期的に提供しなければならないので、それは大変でしょう。だから、ついつい魔が差してもおかしくはありません。

新聞と言う単語で思い出したのですが、フランスの通信社AFPは、ニュース記事や写真をブログに引用可能にする サービス を始めました。
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20095811,00.htm
ソフトバンクグループ、ブログでの正規引用を認めたニュースサイトを開設

ニュース記事についてブログエントリを書いても、元記事が消えてしまうと、後から読んで意味がわからなくなってしまいがちです。そのために、ニュース記事をクリッピングしたりするわけですが、直接ブログ中に引用できるなら楽で良いかもしれません。


2007年04月03日(火) 部分の否定と全体の否定

AAでのサービス活動で得た経験として、ひとつ大切なものを挙げるとするならば、「僕の意見が否定されたとしても、僕自身が否定されたわけではない」という、至極当たり前の感覚です。

AAでは議論はしないと言いますが、議論しないのは霊的(スピリチュアル)な事柄に関してのことです。確かに霊的なことは議論してみても始まりません。一人一人、霊的体験は違っているのが当たり前で、どれが正しいとは言えない(言わない)のですから、議論は無用です。

でも、現実的な決めごとをする必要はありますから、議論は必要です。グループ(集団)として我々はこれからどっちへ向かうべきか、という話もしなければいけません。で、そういう議論をすると、どうも議論が熱く燃え上がりがちです。僕自身がそうですが、まあサービス活動に参加するAAメンバーはたいてい「自分の意見に必要以上に執着しがち」なんです。

やはりその背後には、自分の意見を否定されること=自分自身を否定されること、という思いこみがあるのではないでしょうか。たかだかAAの委員会の方針決定ぐらいの話で、自分の意見が通らなかったからって、自分の存在が否定されるわけがないのですが、心の奥底にはそう感じる部分があるようです。

逆に、相手の意見を否定することが、相手を否定することにつながるのじゃないか、それは相手を傷つけるのじゃないか、という恐れもあります。挙げ句に、自分を傷つけるか、相手を傷つけるか、二者択一みたいな思考パターンに陥ってしまい、ある一線を踏み越えたら、議論に「勝つか負けるか」しか考えなくなったりします。

別の防衛方法もあって、自分の考えに賛同できない人たちに対して「くだらねー、バカばっかり」と評価を下して自分を守ったりします。あるいは、あいまいに濁すことで自分を守ったりします。

「部分(意見)の否定は、全体(その人)を否定するわけではない」という原則を身につけていないと、仕事でちょっと怒られたり、やなことがあっただけで、まるで自分の能力全体にダメ出しをされたかのように、落ち込んでみたり、傷ついて見たりします。そして陰気に恨んで見せたりします。

結局それもセルフ・エスティームの問題であるのですが、言うだけ・聞くだけの普段のミーティングでは経験できないこともあるということで。


2007年04月02日(月) 幸運を誇るのはみっともない

精神病院退院後の断酒継続率は「2割」という定説があります。
この2割という数字はおそらく10年前のある調査からでてきたものでしょうが、実感と良く合っている気がします。退院半年後に、断酒継続率は5割を切り、1年過ぎてもまだそのグラフは下降を続け、2〜3年過ぎたあたりで2割弱で安定し、あとは漸減を続けます。
アメリカでは「3割」と言われていて、逆に言えば残りの7割のアル中さんは「飲みながら死んでいく」わけであります。

何が言いたいかというと、アルコール依存症とは飲んで死んでいく病気であります。現在の日本では、酒の消費量が増えて依存症者が増えていていることがひとつあり。また一方では、医療や行政の取り組みもあって、まだ軽症のうちから治療が始まるケースが増えています。
結果として、死ぬ寸前の重傷者の相対的に減って、依存症が死に至る病気だという姿が見えにくくなっている気がします。けれど、軽症化や死ぬ人の割合の低下は、時代のもたらした一時的な現象に過ぎず、やがて本来のバランス(?)に戻るだろうと、僕は思っています。

何となく嫌なのは、飲んでしまうアル中や、その挙げ句死んでしまう人を、「おなじ依存症でもダメな人たち」と見なす傾向があることです。軽症のうちは酒がやめやすく、重症になるとやめるのは簡単でなくなります。また「ひょんなことから酒が止まる」ことがあるように、断酒には運とかタイミングって要素もあります。
断酒は「優秀の証」ではなく「幸運の証」です。ネットの掲示板などで、自分の幸運を誇り、不運な人に冷たく当たっている人を見かけたりすると、ちょっとげんなりしますね。まあ、無駄にプライドが高いのは、アル中の証ですから仕方ないんですけど。

アメリカのAAメンバーで、20代でAAにつながって離れ、40代でも同じことをくり返し、60代になってしっかりAAにつながって酒が止まった人の話を読んだことがあります。「今の私は幸せだけど、20代の頃にAAを受け入れられていたら、その後の40年も幸せでいられたかと思うと残念ね」とありました。

特別な努力なく10年以上酒が止まった人にも複数お会いしたことがあります。10年も酒がやめられれば、一回の再飲酒はそれほど深刻じゃないと思われるかも知れません。しかし、また鍵のかかる病院の中に戻った人には、過去10年やめられた事実なんて、何の慰めにもならないようです。

AAの第5章には「最初から思い切って徹底してやるように、私たちは心からお願いしたい」とあります。軽症だから真剣にならなくて良いことにはなりません。もっとも、本人が思っているよりは病気が進行していて重症なのが、この病気の常識なんでしょうけど。


2007年04月01日(日) 第二の人生(おしまい)

さて、セコンド・ライフ運営元のリンデン・ラブは、いったいどうやって利益を生み出しているのでしょうか。

まずは、仮想空間内の「土地」を切り売りすることです。ユーザーはアメリカ・ドルを仮想空間の通貨リンデン・ドルに両替をしてもらい、それで土地を購入します。そこで自分の家を建てても良いし、店を開いても良いわけです。

ところがリンデン・ラブは基本的に土地以外のものを提供してくれません。他は3Dのデザインツールを使って自分で作るのです。家でも、家具でも、服でも・・。デザインのセンスが求められますね。家みたいな静的なものでなく、車や自動販売機、変化する服など何か「反応するもの」を作りたければ、それをスクリプト言語で記述することになります。これをアップロードするのは有料です。
アイデアがあって、センスが良くて、ちょっとプログラミングに親しんでいる・・そんな人なら、セコンド・ライフで楽しく過ごせるでしょう。

じゃあ、そのちょっとした才能の持ち合わせがないか、あるいは物作りをしているヒマのない人はどうすればいいのか・・・。他の人が作ったものを、お金を出して買うのです。支払う通貨はリンデン・ドルですが、それは現実のドルを両替して得るものです。つまり、ここで運営元は「両替屋」として稼いでいるのです。

ものを販売する人の元には、リンデン・ドルが集まります。これを現実のドルに換金することもできます。そうやってお金持ちになった人が実際にいて、それをどうやって課税するか議会で議論が始まっています。
家の中に引きこもっていても、仮想世界でモノを作って大金持ちになれれば、面白いかも知れませんね。アバター用に萌えキャラのボディ・パーツとか服を作れば、売れるかも知れません。なんだか、仮想と言いながら、「お金」という思いっきり現実的なもの基底にあるわけです。

セコンド・ライフは、サーバー側のソフトも、パソコン側のソフトも、常に「開発中」でどんどんバージョンアップします。正月に遊んだ後、しばらくほったらかしにしてしまい、新しいソフトでログインを試みたところ「あなたのキャラクターを、新しいデーターベースに移すのに失敗しました」とエラーメッセージが表示されました。
それでげんなりしてしまい、ソフトを削除してしまったので、その後仮想空間にはでかけていません。

ところで、セコンド・ライフで何が一番流行していると思いますか?
答えはセックスとギャンブルなんだそうです。気の利いた(?)クリエーターの作った性器やグッズを購入して、アバター同士でセックスをしてみたり、あるいは仮想のカジノで遊ぶのだとか。欲の世界です。

僕がセコンド・ライフに感じた最大の不満は、チャットが文字だけであることです。せっかくだからボイスで会話できれば面白いと思うのです。隣の人の声は大きく、遠くの人の声は小さく表現して、拡声器みたいな道具も用意して・・・。
サーバーの負荷を考えると難しいのかも知れませんが、Skypeが実用になっているんですから、技術的に無理ではないでしょう。

もしそうなったら、「自分の好きな名前を使う」どころじゃなく、「自分の好きな外見」を選んで、向うの世界でテーブルを囲んでミーティングでもしますか?


2007年03月31日(土) 第二の人生(その2)

AAミーティングに行く途中、たくさん寄り道をしていきました。
郵便局によって、JSOとCOに送金しようとしたら機械が現金を受け付けてくれません。土曜は現金ダメなの? あいにく通帳を持っていなかったので諦めました。
年度末なので市の施設に行き、「会場使用料減免申請書」を出しました。

以前、ジャスコでジーンズを買おうと思ったらスリムを売っていなかったので、今日はM/Xへ。リーバイスが6,200円。なにしろジーンズを買うのが10年ぶりぐらいなので、高いのか安いのかわかりません。迷った時は買わないことにしています。
結局、ミーティングの帰りに別のジャスコで2,980円の「ストレッチ素材」のを二本買いました。29"と30"。

さて Second Life。
セコンド・ライフは基本的には無料のサービスです。ソフトのダウンロードも無料ですし、アカウントの作成も無料です。じゃあ開発元のリンデン・ラブがどうやってサーバーの維持費を捻出し、利益を得ているかは、後に回すとしましょう。

アバターが作れるソフトを動かす時は、迷わず性別は「女性」を選ぶことにしています。てゆーか、男のアバターを作って何が面白いのか僕にはわかりませんね。名前は自由に選べるわけじゃないので、少ない選択肢の中から「アリス・リザリー」としました。
アバターの基本デザインを選ぶところで、困ってしまいました。みんなアメコミ調キャラクターです。萌え要素がまるでありません。別に萌えなくてもいいんですが、せめてアジア人の外見が欲しいです。これから日本でサービス開始するというのに、こんなことでいいのか不安になります。一応 Shibuya 系という男女のキャラも用意されているのですが、日本人というよりは、どう見ても酸欠の火星人です。

それから「初心者のためのチュートリアル島」に渡って、基本操作を憶えるのですが、全部英語なので説明を読むのが面倒になります。息抜きというか現実逃避のために始めたのに、なんだか辛いことになってきました。
あとは、アバターのデザインをして遊んでいるうちに、正月の貴重な半日が消費されてしまいました。Second Lifeの住人が、一番時間を費やすのは、実は自分のアバターのデザインなんだそうです。

それが終わってしまうと、もう「するべきこと」はありません。
出会った人と会話(文字チャット)をすることができます。アバターの上に吹き出しのようにせりふが表示されるのが、なんだかおかしいです。でも、みんな英語しか話しません。
移動は歩いたり走ったり、空も飛べます。落ちているものを拾って眺めてみたり、斜面を登ってみたり。壁面に映されるアニメーションを眺めてみたり・・・。現実に引き戻された僕が、もう一度セコンド・ライフを振り向くまで、1ヶ月以上経過してしまいました。

結局それでどうなったとか、おもしろさのキモは何かとか、こうなってくるとセコンド・ライフはもっと面白いとか・・・そう言う話はまた明日。

世の中の日記サイトには「4月1日の内容は特別」ってところもありますが、ひびざつはそんなことはありません。正月のネタ考えるだけで精一杯で、手が回りません。


2007年03月29日(木) 第二の人生

今年のお正月休みにも(例によって)やることがたくさんあったのですが、「ねばならない」ことがあると「それ以外のこと」がやりたくなる反骨精神旺盛(単なる天邪鬼)なので、Second Lifeをインストールして遊んでみました。

セコンド・ライフは、いわゆる仮想世界です。自分の分身(アバター)をデザインし、その分身が仮想世界の中を移動したり、出会った人(だれかのアバター)とチャットしたり、物を交換したりします。

最初に大規模にこれを実現したのは、ルーカス・フィルムのハビタットだったと思います。日本では富士通がライセンスしてました。その後の20年位で、いろんなサービスが始まっては消えていきました。MMORPGと呼ばれるオンライン・ロール・プレイング・ゲームも、基本的な仕組みは同じです。ただRPGには、パーティを組んで敵を倒すという明確な目的がありますが、Second Lifeのような仮想世界の住民には「するべきこと」はありません。
しかし、MMORPG好きの人のブログとかを読むと、話題は「異世界で出会った友人との交流」であったり、「住民たちの変な行動」だったりして、異世界で集まった人間どうしで楽しんでいる様子が伺えます。もはやそこでは、ファンタジー世界とかモンスターの存在は、たんなる雰囲気にすぎません。

セコンド・ライフは、アバターを含めて、その世界にあるすべてが3次元のモデリングで表現されています。ゲーム仕様の高性能パソコンが前提で、ちょっと古いパソコンや、ノートでは厳しいでしょう。3次元のモデリングを採用したおかげで、アバターのデザインも自由になりました。単に目鼻口などの部品を選ぶだけでなく、たとえば鼻袋の大きさから後ろ頭の出っ張り具合まで、体全体を細かくデザインできるようになっています。

セコンド・ライフが話題になり始めたのは、年末ぐらいでしたでしょうか。いずれ日本でもサービスが始まるという案内でしたので、興味本位で正月に遊んでみたわけです。

(明日へ続く)


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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