心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年01月22日(月) サービスについて(その1)

100円ショップに寄ろうとして、混雑を避けながら脇道に入るうちに、今夜のAAミーティング会場の前に出てしまいました。でも、今日は他のプログラムなので帰宅。

さて、AAの仲間とは何を説明するのに、こんな言葉があります。

「私たちは、私たちを必要とする人を、必要とする」

アルコール依存症からの回復という分野で、自分が必要とし、また自分を必要としてくれる人。それが仲間です。

AAプログラムに取り組むのに、仲間は欠かせません。
そりゃ、ステップ1〜12の中で、仲間の必要が出ているのはステップ5だけです。そのステップ5の相手も何もAAメンバーに限らず、聖職者だって良いのです。僕の住んでいる市内にも20ぐらいのキリスト教会があって、それぞれに聖職者の人がいます。告解(この読みは「こくかい」でいいんですか?)という儀礼を持っているなら、他の宗教でもいっこうに構わないでしょう。
でも、病院のケースワーカーとか、会社の上司にしてしまうのは、どうかと思いますが。ま、それは笑い話。

ともかく、ステップの文言には「仲間の必要性」はあまり出てこないのですが、一人で本を読んで、一人で取り組んでも、なかなか回復しないものです。

僕も例外ではないのですが、飲まないアル中さんは、基本的に「自分の力で酒をやめている」と感じています。どのAAメンバーもそうであります。そしてたまに仲間に感謝するだけです。
だから、たとえ誰かのソブラエティの助けができても、その人が「おかげで助かりました。ありがとう」とは、滅多なことでは言いいません。だから、仲間の手助けは感謝されることを目的にするのじゃありません。
(僕はAAスポンサーに、ありがとうと、ちゃんと言えたのは2回だけです)。

同じプログラムを一緒にやって、仲間が飲まないでいれば、自分も飲まないでいられる。それがAAのプログラムです。
仲間と一緒にやるのが嫌な人は、どうぞ自分一人でやってください、とAAは言います。神とかが出てくる取っつきにくいプログラムをやるのが嫌なら、どうぞヨソへ行って、別のことを試してみなさい、とも言います。

このプログラムを渡すことで、アル中さんを助けるのがAAで、それによって最も助かっているのは自分です。相手が受け取ってくれるかどうかは、重要ではありません。まだその段階でない人もいます。一生受け取りを拒否して終わる人もいます。他でうまく行っている人もいます。それで構わないのです。
大事なことは、中には受け取ってくれる人もいる、ってことです。

でも、一対一での伝達には限界があります。結局、この「伝える」作業を、集団でやる必要が出てきます。集団でやっても、それが12ステップであることに変わりはありません。そしてこの「仲間と一緒に伝える作業をする」のが「サービス活動」と呼ばれるものです。
「孤独を愛するアルコホーリク」という言葉の裏にあるのは、アル中は人と一緒にやるのが苦手だという真実です。人間を相手にするのが苦手なアル中が、集まって活動する。そこにはいろいろなことが起ります。

書ける時には、サービス活動について書いていきたいと思います。


2007年01月21日(日) 空論

AAのメンバーになるために必要なことはただひとつです。
「飲酒をやめたいという願い」desire to stop drinking
です。

ひとつ質問があります。イエスかノーで答えてください。
あなたは飲酒をやめたいですか?

その人がイエスと答え、その人が望んでいるなら、その人がAAメンバーであることを否定できる人は誰もいません。
アルコール依存症であるかどうかは、問われていません。医者からアルコール依存症という診断をもらうことが求められてもいません。自分がアルコホーリクだと認める必要もありません。
もし、そんなことが求められていたら、僕は(そして今AAにいる多くのメンバーも)、最初のミーティングから追い返されていたでしょう。

この人は「アル中ではない」としか思えなくても、だから出て行ってくれとは言えません。AAは「診断も予後予測もしない」わけですから、人がアル中かどうかAAが決めることはないのです。

明らかにアル中の家族であるとか、他の依存症であるとか、依存症を持たないACであったとしても、その人が「私は飲酒をやめたい」と言うのなら、クローズド・ミーティングからでも追い出されてはならないし、発言の機会を奪われる理由にもなりません。

伝統3には、あるいは長文の伝統3にも、AAメンバーの資格はアルコホーリクであること、とは書かれていません。

変な結論ですか? わざわざおかしな結論に導いたのです。

教条主義とは、書かれている字句を絶対視し、現実を見ずに機械的に適用しようとする態度です。
そうではなく、一字一句に囚われず、本質を見抜いていかなければならないのですが、それには自分の頭を使って考えねばなりません。教条主義は、考えなくてもいいので、楽なのであります。目の前で人が苦しんでいても、教条を持ち出せば、何もしない自分に罪悪感を感じなくてすみます。

クローズド・ミーティングに、他の依存症の人がいるのを問題にする人がいます。第一の目的とか、目的の単一性とかを理解していて、「原則はこうだ」と言っている人はいいのですが、単に自分の正義を実現するために、伝統の文章を持ち出してくる人は困ったものであります。
そういう無思考の態度は伝染しますからね。愛ではなく、冷淡な態度を広めているだけであります。
教条を振りかざす人に対しては、「こう考えれば逆の結論だって出るよ」とからかってやりたくなります。それが上の文章です。

原則(AAの伝統)と現実のギャップに悩み、自分の頭で考える。それで出た結論なら、僕と違った意見でも、尊重したいものです。


2007年01月19日(金) 新しくグループを始めるには

新しくAAグループを始めるために、必要なものは何か?
そりゃ、借りられるミーティング会場だとか、コーヒーカップだとかも必要ですが、そういう物質的なものは、いつだって何とか都合がつくものです。

「自分一人では始められないから、もう一人のAAメンバー」
という理屈も分かりますが、たぶん正解ではないと思います。

僕が思うに、必要なのは
「自分一人になっても、最後までやり抜く決意」
です。
自分一人でもやるのだと決めておけば、たまたまグループにつながった仲間が、グループの仕事を分担してくれなくても、不満に思わないでしょう。(そのことを悩まないとは言いません)。
確かに一人ではミーティングはできませんから、他の人は必要です。けれど、最後は私が責任を持つ、ケツは俺が拭いてやる、と考える人が、最低一人いないと、グループは継続していきません。

何人かのメンバーで責任を分担するとしても、どうしても偏りが起ります。偏りに不満を持つのは当然で、自己主張もなければなりませんが、負担の軽い仲間を恨んでしまったりするのは「自分一人でも」の覚悟がない証拠です。

一緒にやってくれる人が現れたらグループを始めたい、と言っているAAメンバーは多いです。でも、そう言っている間は、その人は永遠にグループを作りません。
偶然誰かが現れて、グループが成立したとしても、相方がグループを抜ける確率、AAをやめてしまう確率は、他のメンバーと変わりません。つまり、自分一人取り残される確率は高いのです。それまでに自分が成長できていなければ、グループを解散せざるを得なくなるでしょう。

グループが順調なら、成長して責任を負う人間が増えてきます。ところが「自分一人でも」の考えで、一人で責任を負い、自分が最終決定者だった時期を持つ人間は、そこで謙虚になることが難しいのです。何らかの形でグループを支配し、その成長を止めてしまいます。
特に、自分は上手にやってきたという自信を持っていると、他の人の失敗を黙って見ているのが難しいものです。そこでついつい口を出し、手を出し、その人のやる気と成長をくじいてしまいます。やがてグループが衰退して、ふたたび自分だけが責任を負ったりします。グループとの共依存関係と申しましょうか。

「そのときは、自分がグループを出て行くしかない」と、とある新潟の仲間が教えてくれました。支配癖をなくすことは難しいけれど、出て行くことは簡単だと。
そして、まだ気力があるなら、新しい場所で新しいグループを作ればいいのだと。元のグループへは、伝統4に従って、干渉せずに暖かく見守るのであります。

「そんなやり方では、新しい仲間がつながらない。命がかかっているのだから」
と人のやり方に口出しをしたくなった時には、そっと自分が去る時であります。


2007年01月16日(火) 著作権は誰のために?

著作権は何のためにあるのでしょうか。
何かものを書いた人の、権利や収入を守るため、だと僕は思ってきました。
それは勘違いで、実は「著作物を使った産業を振興するため」です。

著作物(小説、マンガ、歌、絵画、映画、コンピュータープログラム・・・)を作った人がいて、それを複製(印刷、コピー)する人がいて、あとは普通の商品と同じように流通ルートがあって、販売店があって、宣伝をする人がいて。
沢山の人が、それで収入を得て、ご飯を食べていくことができます。それが、著作権法の目的です。

小説を一本書くのは大変な手間でしょうが、印刷するのは(一冊あたりは)短時間ですみます。だから書く手間を省いて、売れ筋の小説の複製を作って売れるのならば、楽な商売になるでしょう。そういう輩が増えると、手間をかけて小説を書いても、収入に結びつかなくなってしまいそうです。
結果として、作家になる人は減り、作品の数も減り、出版点数も減って、産業全体がしぼんでしまいます。

それは良くないので、苦労して著作物を作った人にお金が入るように、著作権という権利を与えて守ってあげるわけです。でも、その権利は手段であって、目的ではありません。そのことを理解していないと、「翻訳権の10年留保」を理解するのが難しくなります。

さて、英語の本を日本語に翻訳して売るには、英文を書いた著者から「翻訳権」を譲り受けないといけません。それにはお金がかかります。それが著作者の権利というものです。

さて、外国の本を日本語に翻訳して売るには、まず翻訳家という職業の人が育つ必要があります。翻訳本を出す出版者だとか、外国の本を違和感なく受け入れる市場とかも必要です。
それらが育つまでは、外国の本を出版しても売れずに、赤字になるばかりでしょう。
そうなると、外国の作者が、日本語で本を売ることができません。それは、外国の著作者にとっては損失ですし、日本の出版産業にとっても損失です。

だから昔は、「外国で本が出版されてから、10年経っても日本語に翻訳出版されていなければ、翻訳権は消滅し、誰でも好きに翻訳して出版して構わない」ってことになっていました。これが翻訳権の10年留保です。
翻訳権がないから、著者の許可を取る必要も、お金を払う必要もなく、出版のハードルが低くなる→出る本が増える→翻訳出版産業が発展する→やがては外国の作者の利益にもなる、というわけです。

この規定は、1970年に「もう日本も文化的後進国ではないだろう」ということで、廃止されました。しかし、それ以前に消滅した権利が復活することはありません。

というわけで、1970年の末までに外国で出版され、その10年後までに日本で翻訳出版されていない本は、誰が翻訳出版しても自由であります。

AAのビッグブックの初版本(1935年)もそうですし、ヘイゼルデンの『リトル・レッド・ブック』(1957年)も、『スツールと酒ビン』(1970年)も、当てはまります。

それは、日本の誰かが、アメリカの原著作者と翻訳の独占契約を結んでいても関係ありません。法律で守られるべき翻訳権がもう存在しないのですから。

だから、例のコピー製本の赤い本も、緑の本も、違法な出版物というわけじゃないでしょう。もちろん、訳文の権利は日本国内で発生したものですから、ピーター神父の死後50年間は守られるわけですが、その許可はもらっているんでしょう(たぶん)。


2007年01月15日(月) ユートピア

努力が必ず報われる世界があれば、それこそまさにユートピア(理想世界)でしょう。
望みを叶えるためには、努力しさえすればいいわけですから。

でも、残念なことに、この世界では、努力は必ずしも報われるとは限りません。努力と結果は正比例しないのです。それは、子供の頃からの経験で、身に染みて分かっているはずですが、でも心のどこかで理想社会を求めているのです。

例えば、「俺がこんなに愛しているんだから、お前も同じぐらい俺を愛するべきだ」という主張もそうですね。俺がこんなに一生懸命愛して=努力しているんだから、それは(お前の愛で)報われて当然だろうというわけです。それを「夫婦なんだから」という理屈で補強してみたりします。
確かに愛してはいるのでしょう。でも、DV夫の心の中にだって、同じ種類の愛情はあるんですね、たぶん。

相手も、愛はあるでしょう。でも、相手も人間ですから、望まれるままに行動するのは無理です。相手には相手の愛し方ってのもあるし。

でも、そのことが「努力が必ず報われる理想」を求めちゃう人には、わからんのです。挙げ句に、お前は俺を愛していないとか、お前の愛は真実じゃないとか言い出したりして。

そう言う人はたいてい「俺はだめな人間だ。皆に迷惑をかけて申し訳ない」とも言い出します。それはある意味真実なのですが、本人はそうやって自分を卑下することで満足してしまうのか、あまり改善の努力はしないですね。

愛というと人間関係を限定しすぎですから、誠意と言い換えてもいいでしょう。
「あの人は立派な人間だと思っていた。私も誠意を持ってつきあってきた。けれど、幻滅した。あんな人だとは思わなかった」
そうは言っても、誠意ある人間でも、望まれるままに動くことはできませんから。

つまるところ、相手をコントロールしたい。世界に自分の力を及ぼしたい。膨らんだ自我というやつです。その手段として、誠意とか愛とか努力とかを使っているだけ。

理想は純愛物語の中だけにしておいて、現実の中で理想がちらりとかいま見られるだけで、良しとしようじゃないですか。


2007年01月14日(日) 受験の季節

昼に起きて病院メッセージへ。
ひとりの依存症者が、医療につながってから、断酒会やAAの自助グループにつながって、しっかりした断酒が始まるまで、何年かはかかってしまうものだと思います。まれには、素直な人もいますが、その素直さが根底からのものであれば、そもそも依存症にはなっていないような気が・・・。

それはともかく、だんだん病気が進行していく様を、断続的に見ていることしかできない時もあるものです。
人の苦しみ、人の死に、だんだん慣れてきてしまいます。過去であれば、そんな苦しみ、そんな死があると知っただけで、たぶん何日も動揺したのでしょう。今でも、感じるものはありますが、「それはそれとして」で片づけて、日常が続いてしまいます。
冷たいのかも知れませんが、こちらも無力な存在であります。

センター試験間近ということで、受験の頃を思い出しました。
共通一次試験の前の晩は、ワンカップを2本飲んだ覚えがあります。興奮して眠れないだろうと思って買っておいたのですが、眠れそうだったのに2本とも飲んでしまいました。

高校時代は、あまり酒を飲みませんでした。
そりゃ、皆で集まって飲むとか、友達の家に酒を持って遊びに行くとか、何回かやりましたけど、自宅の自分の部屋で飲む習慣はありませんでした。本棚の奥に、サントリーオールドの瓶がかくしてあり、受験勉強に飽きると、たまに飲んでいました。でも、3年生の時に2本だけです。おお、1年間でたった2本だなんて!

だから、ワンカップなんて買ったのは試験の前が初めてでした。よく眠れたと記憶しています。

二次試験の前夜は、とても緊張しました。なにせ、上京したのは大学の下見2回だけですから、新宿のホテルに泊まるだけで緊張しまくりでした。眠れないので缶ビールでも飲もうと、自動販売機まで買いに行ったのですが、受験の宿ということで、販売機が止まっていて買えませんでした。
翌朝は、食事ものどに入らない状態で、会場へ。
昼食のお弁当もホテルで用意してくれたのですが、それもろくに食べませんでした。
帰りのあずさの中でゆっくり缶ビールを飲み、長野に着く頃には頭痛が始まっていました。よく受かったものです。

受験の思い出を書こうとしたのですが、酒の話になってしまいました。


2007年01月12日(金) 現代型うつ病

真面目で仕事熱心、秩序を愛するがゆえに疲れ果て・・・。うつ病になる人の性格は、従来こんなふうに語られてきたものですし、それは今後も変わらないでしょう。

しかし、昨今では、これに当てはまらないタイプのうつ病も増えてきたのだとか。

たとえば働くことを例に取ります。
自分の能力以上の仕事を引き受け、過重な責任に疲れ果て、効率が落ちれば落ちるほどがんばり、やる気のでない自分を責めて、周囲に申し訳ないと繰り返す。概して対人関係は穏和で、いい人と呼ばれる。これが従来のタイプ。

そもそも目の前の仕事に熱心でなく、社会のルールをストレスに感じ、「やる気が出ない」が口癖で、他人を非難し、責任を回避し、あまり自責の念を持たない。これが最近増えてきた、いわゆる「現代型うつ病」。

従来型は、基本的に病識が薄い、つまり自分が病気だという認識があまりないのです。うつ病という病名に抵抗し、がんばれない自分が悪いのであって、病気ではないと言うのであります。薬の効きは比較的良好。
一方現代型は、うつ病であること、休まなければならないことに、あまり抵抗がないと言います。休職したいので、診断書を書いてくれと医者に迫ったりします。従来型と比べると、薬の効きが悪い。

現代型が増えた原因は、昔よりうつ病の概念が広がり、従来はうつ病と診断されて来なかったケースも、うつ病の病名が付けられるようになったからだと言います。

そもそも何かに熱心に取り組み、結果を誰かに認めてもらった経験が少ない人。自由にのびのびやってきた人。そういう人が就職して、いろいろと小うるさい規則に縛られ、結果を求められる会社組織に属した時、気分の変調を起こす。だから、現代型うつ病は若い人に多いのだそうです。

薬を飲んで静養すれば良くなり、復職すると周囲が心配するほどがんばり出す「従来型」。それは、過剰に役割を果たし、過剰に責任を負う、そういう病理なのかも知れません。

一方、「現代型」は役割や責任を回避する傾向があり、会社のほうが復職を望まない。そもそもの対人関係の能力を高め、責任を負うことへの嫌悪感を取り除いていくことが必要だとされます。責任を軽くし、休んでいれば良くなるとは言えないところです。
悩みが絶えないのは、会社や他人という「周囲」のせいでもなく、「うつ病」という病気のせいでもなく、生き方に問題があるのだと気付くことが必要なのだといいます。

なんか、いろいろ自分に当てはまるところもあって・・、でも現代型うつ病と名乗ったりすると、「ほう、まだ若いつもりでいるのか?」とか言われそうなので、やめておきます。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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