ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」
たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ|過去へ|未来へ
2007年01月09日(火) 三九郎 三連休の最終日は、三九郎 の日でした。どんど焼きとも呼びます。竹や木で三角錐を作り、燃える材料として藁を足し、そこへ正月飾りやしめ縄を入れて、火をつける行事です。
僕の子供の頃は、三角錐を作るところだけ大人にやってもらって、あとは部落の子供たち総出で三九郎を作るものでした。正月飾りや、稲藁をもらって集めるところから、それを三九郎に仕立てるところまでやれば、一日では終わりませんでした。
いまでは大人たちが当日の朝作り、子供たちは正月飾りを集めて回るだけです。燃やすときの火の管理も大人であり、柳の枝に餅を刺して焼くところだけ子供たちがやっています。それだけ、子供が少なくなったのであります。
町内の小学生は7人。きょうだいのところがあるので5家族です。そのうち男手が出せるのが3軒。なのに僕は午前中の作業を休んでしまいました。いや、申し訳ない。
夕方やると寒いからという理由で、午後3時の点火となりました。火の始末を終えても、夕方暗くなる前に帰れるので助かると皆が言っていました。
けんちん汁を用意したり、お酒を振る舞ったり、おつまみも揃えて・・・。うちの子が、子供会の会長をやる年には、我が家でもそうしたものを準備しなければならないのでしょう。
退屈な田舎暮らしに彩りを添える年中行事でしたが、冬の行事も、夏の祭りも、もはや子供たちだけでは成り立ちません。
年に数回しか顔を合わせなくても、子供のいる家同士、親の顔は覚えます。しかし、年寄りばかりが住んでいる家も増え、その年寄りも去って空き家になっている家も多くあります。商圏を失った地元のスーパーが廃業し、タクシーを使って買い物に行くのも珍しくなくなりました。
若い人たちは、郊外の、車が二台おけるアパートに住むのが普通になり、小学校の定員が溢れそうだという話があります。一方で中心部の小学校は統廃合の話もでています。
にょきにょきマンションが建つのですが、入居するのはリタイヤした老夫婦や、子育ても後半戦の人たちばかりで、子供は増えません。
「変わり続けてく街並みのように、元には戻れない若き日の二人」
というフレーズが、竹内まりあの曲にありました。
意図を持って書き始めた文章ではないので、締まりなくだらだらと終わるのであります。
2007年01月08日(月) 変わり映えのしない棚卸し 3連休は雪かきと三九郎(どんど焼き)で終わってしまいました。
やや筋肉痛であります。おまけに、会社に出社してから、さらに雪かき。
さて、棚卸しは何のためにするのか。
いや、AAのステップの棚卸しではなくて、商売の棚卸しです。
あまり商売ごとには関わらずに生きてきたこともあり、棚卸しとは何なのか知らずに生きてきました。ソフト屋は、人の要求を満たす点ではサービス業であり、またもの作りの点では製造業のようでもあります。しかし、資料やアイデアが必要ではあるものの、作っているものが著作物ですから、原材料の仕入れは不要です。なので、材料も製品も、在庫を抱えたりしません。
しかし、ものを売り買いする仕事であれば、在庫がどれだけあるかは重要です。店頭や倉庫に、商品がどれだけ残っているか。それを調べるのが棚卸しです。
そんなものは帳簿を見れば(あるいはデータベースを見れば)分かる・・のかもしれません。でも、保存しておいた商品が腐ったり壊れたりして、売り物にならないこともあります。店頭に置いておけば万引きされるかも知れないし、色があせて商品価値がなくなるかもしれません。それは、データベースの数字では分かりません。単なる記入ミスだってあり得ます。
だから現実を調べるわけです。
倉庫に商品がたくさんあるのは、売れていない証拠です。値引き販売してでも処分しなくちゃなりません。腐ったものは捨てないといけません。店頭の棚に商品がない(欠品)のは、売れる商品の仕入れができていない証拠です。これも対策が必要です。
そうやって、現実を把握し、リスクを予測し、問題に対策していかないと、商売はいずれ行き詰まる・・というのが、素人なりに考えた棚卸しの理屈です。
ステップ4や10の棚卸しは、この作業を、自分の感情・行動・性格・対人関係などなどに対して行うってことでしょう。売れる商品がいつも欠品するように、棚卸しでも同じ性格上の欠点が毎日続くことになります。
たとえば、僕の場合「先延ばし」という項目が、たいていいつも挙がっています。けれど、いつも同じだからって、棚卸しの意味がないわけでもないでしょう。
締め切りや納期を過ぎて、眠い目をこすりながら何かをしているときには、思わず「こんなはずではなかった」とつぶやきたくなります。環境や他の人のせいにしたくなります。ですが、いつも同じだからと棚卸しをしないで、現実から目を背けている時点で、窮地の日はすでに約束されているのであります。
2007年01月07日(日) 行かずじまい 始発のバスで出かけ、最終のバスで帰ってくるつもりでしたが・・・。朝5時半に、天候を見て、高速バスの予約をキャンセルし、掲示板に書いた「東京へ行くよ」の文章を削除しました。
ま、またの機会もあるでしょう。
雪をかいたり、パンクしたタイヤを修理に持っていったり、壊れたタンスを整理したり・・・。雑事に紛れて一日が終わってしまいました。
さて、確かにAAミーティングに通うには金がかかります。
献金箱にお金は、入れても入れなくてもいいのですが、交通費というやつは、どうしてもなくすことができません。車なら、ガソリン代、田舎なら高速料金。電車賃。
あと、自宅で料理すればかからない食事代も、ミーティングの行き帰りに外食すれば、そのぶん出費がかさみます。
健康体であれば、必要ないはずのコストであり、「もったいない」という気もします。でも、それを節約しようとすると、ロクなことになりません。それは、つまりミーティングに通う回数が減ることであり、減らないまでも普段と違うミーティングに行くことがなくなることを意味するからです。
ミーティングに通うコストは、入院保険の払込金、あるいは貯金のようなものだと思っています。そんなものは無くても、日々の暮らしはしていけますが、いつ何時ケガや病気に襲われるかわかりません。同じように、ソブラエティの危機も、いつやって来るかはわかりません。
「本来であれば」必要ないコストだと思えばこそ、無駄にも思います。そこには、本来の自分は健康体であるべき、という誤謬が含まれます。でもアルコール依存症にかかっているのが「本来の自分」であり、それ以外の自分はどこを探しても見つかりません。
AAミーティングに通うコストを負担しているのが「本来の自分のあるべき姿」ではないかと思う次第です。
2007年01月06日(土) ステップ一巡 9月にホームグループのビジネスミーティングで、土曜日のステップミーティングの会場係を引き受けました。
「会場係」と言っているわりには、僕が会場を開ける回数は少なく、誰かが先に来て開けているということも多くあります。30分前には到着して、会場を開けておくように、というスポンサーの教えは守れていません。
会場係がそのミーティングの司会をすると決まっているわけじゃありませんが、用事があって休んだ時を除けば、ずっと司会もやらせてもらっています。
12&12を輪読するのですが、輪番を引き継いだ時がステップ11で、それから12をやって、また1に戻り、今日また12が終わったところです。
ページ数が多いステップだと、30分ぐらいは輪読が続くことがあります。ちょっとダレるときもありますが、まあ良いスピーカーの話を聞いていると思えば30分ぐらい良いではないかと、個人的には思っています。
さすがに、ステップ12は長い(27ページある)ので、2回のミーティングに分けました。以前に、1回のミーティングで一度に読んだことがあったのですが、そのときは65分ぐらい輪読して、残りの25分で分かち合いとなりました。後にも先にもそれ1回だけです。
ステップ12を読むと、いつも気がつかされる一文があります。
「さらにすばらしいことは、(略)仲間の中で特に抜きん出た人間になる必要はないと気付いたことだ」
人の集まりの中で、常に自分が「一歩抜きん出て」、他者に優越することで、自分は価値のない人間だと言う不安を鎮め、安心を得ようとしてきた人間です。
AAに来てしまってまで、まだそこでも「一歩抜きん出て」、他のメンバーより回復し、より目立ち、より尊敬され、そうすることで優位に立ち、支配する(自分の意のままにする)ことで、安心しようとしていました。
だけれど、もうそういう古い生き方は、とりあえずAAの中では捨てましょう、ということです。優れたメンバーにならなくていい。どこにでもいるような、欠点の多い、普通のAAメンバーでいいよ。ということでありましょう。
自分より回復した人が、周りににごろごろいても、年数の若い人に追い抜かれても、そんなことは、ちっとも苦にするこたぁねぇよ。と、勝手に解釈しています。
2007年01月04日(木) 残念なお知らせ 大変残念なことですが、冬休みが終わってしまいます。
ゆっくり休めたという感じはないですが、いくつかのことは片づきました。
年賀状も出せたし、三が日特別ホームページもやったし、掲示板に「星が見える名言100」を組み込む計画も実行できました。母の発案で、正月に子供たちと(母と)一緒に温泉プールに行ったら、妙に空いていました。
12月30日にホームグループの土曜のミーティングに出た後、1月3日に同じ会場の水曜のミーティングに出ました。それは、いつものルーチンどおりで、年末年始だから間隔が空いたりしなかったのですが、仲間の「いつもどおりの間隔でも、この31日・元旦・二日の3日間は、普段と感覚が違う」という言葉が、僕の気持ちをよく代弁してくれました。
さて、ある人が「AAの神とかハイヤーパワーという言葉は、どうも好きになれなかった。むしろはっきり言うと嫌いだった。けれど、最近その言葉を聞いてもあまり気にならなくなった」という話をしていました。
「神」とか「大いなる力」という言葉を聞いて、一歩身を引かない日本人のほうが珍しいと思います。いくらAAで、神の概念はその人の自由で、何かを信じる義務はないとは言っても、あまり気楽にできないというのが本音でありましょう。
例え「神」がハードルになってしまって、ある種の人を遠ざける結果になっているとしても、AAがそれを変えることはないでしょう。嫌なら別の方法を試してください、とAAは言うのであります。
どんなふうにAAプログラムを解釈しようとも、それは個人の自由です。でも、AAの中にいれば、他のメンバーが自分の God について語るのに、耳をふさいでいるわけにも行きません。
「神」という言葉が、あまり気に障らなくなるのも、大きな霊的な進歩だと思いますね。AAの言葉で言えば「寛容」。違う言葉で言えば、異質な他者の受容。もっと分かりやすい言葉で言えば、「心が広くなった」。
心が広くなれば、コミュニケーションも増えて、対人関係が改善し、孤独感も癒されるでしょう。ステップ、ステップと大声で繰り返さなくても、ミーティングにひたすら出続けていれば、変わっていくところもたくさんあるのでしょう。
逆に、ミーティングから離れていれば、知らず知らずのうちに心が蝕まれて孤独になる、ってこともあるんでしょう。
2007年01月03日(水) 薬物乱用について あくまでも、僕個人の考え方だとしておきます。
たとえば、風邪をひいたとします。
わざわざ医者にかかるのは面倒なので、家においてある売薬の風邪薬を飲むことにします。風邪のウィルスをやっつける薬はないものの、薬で風邪の症状は抑えられます。対症療法ですね。
薬を飲んで寝ていたら体調が良くなってきたので、風邪が治ったと自分で判断し、その薬を飲むのをやめます。本当に治っていればいいのですが、薬で症状が抑えられていただけなら、風邪がぶり返すのは当然で、また寝込むことになります。
そこで、再度薬を飲み、そしてまた治りかけで無理をして・・・と同じことを繰り返す人がいたとします。
愚かしい行動であり、もし医者にかかりながら、そんなことをしたら、頭ごなしに怒られるでしょう。
何が言いたいかというと、「薬を処方より少なく飲むのも、薬物乱用だ」と言いたいのです。とくに精神科の薬ね。
調子が良くなったからとか、薬無しで眠れるようになりたいから、という理由は「いかにももっともらしい」のですが、医者には相談していないことがしばしばです。
そんなに薬をやめたいのなら、医者にそう言えば良いのです。
相談しないのは、「自分の考え優先」で行きたいからです。専門家にNOと言われて、自分の選択が後ろめたくなるなら、はじめから医者には相談しない方が心が楽だってわけです。
そのくせ、「イライラしたので、寝る薬2日分まとめて飲んで、早く寝ちゃいました」とか、「せっかく薬が要らないくらい調子が良かったのに、また最近ダメなんです」とか言われてもなぁ。
薬物乱用という言葉から、薬を規定より多く飲んでいるイメージばかり思い浮かべますが、より少なくしているヤツも、同じぐらい危ないんだと思います。
何しろ、僕自身がそういう経験があるわけです。そして、それがいかに危険なのかは、自分の狂った頭では理解できなくて、仲間が示してくれた結果で知ることになったのです。
アルコールについては、AAミーティングで正直に話さねばならない・・・同じように、処方薬については、どんな些細なトラブルでも、精神科医の前で正直に話さねばならない。そう思うのであります。
とは言っても、本人は「これはトラブルじゃない」と思っているからなぁ。
今年もごたくを並べていきたい、と思う日々雑記であります。
2006年12月31日(日) 年末(その4) 明け方まで年賀状を書いていたおかげで、午後に起きました。
キッチンの掃除の続き。山積みになっている食器類を片づけ、流し回りのカビを処理。電子レンジとオーブントースターの掃除。最後に掃除機をかけて、拭き掃除。トイレの掃除をして、今年の大掃除はお終いです。
冷蔵庫の中とか、パソコン部屋とか、手の着かなかったところも多いのですが、もうやりません。無力は、諦念や妥協と似ているのかも知れません。
今年の思い出。
・「マイ・ハイヤー・パワーが進化すること」ネットを通じた仲間から。
永遠に不変の絶対的存在というイメージしか持っていませんで市が、考えてみれば Higher Power はひとりひとりの心の奥底にあるもの。自分がステップを通じて成長して行ければ、心の中のマイ・ハイヤー・パワーも成長するするのでしょう。
・「直感(hunch)とか虫の知らせ(inspiration)とか」安曇野ビッグブックの集いにて。
人は誰でも人生の分岐点に立つことがあります。そして、正しい方を選べるとは限りません。毎日が分岐点の連続だとも言えます。僕は、そうした分かれ道で、いつも間違った道を選んできたという後悔に苛まされてきました。
人である限り、今後も正しい方を選べるようにはならないという絶望もありました。
けれど、ステップ11を深めていけば、正しい方をえらぶインスピレーションが与えられると言います。
僕の祈りや黙想は、まだつたないものですが、いずれはそうなれると信じてみようかと思います。
・ステップミーティングの会場係。
毎週決まった曜日にAAミーティングに行く習慣が、崩壊しつつあったのですが、9月より(とりあえず半年)土曜のミーティングを担当させてもらってます。
おかげで真面目にミーティングに出るようになりました。
今年も、ネットを通じて、あるいはダイレクトにAAの仲間から、多くの恵みをいただきました。ひとりではどうがんばってもAAミーティングにならないし、ネット上のサイトも訪問してくれる人がいるからこそ存在していられます。
ひとりでは生きていけない。人によって作られた心の傷は、人によって癒される。そう感じる年末であります。
年末ジャンボはずれました。
もくじ|過去へ|未来へ