心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年09月16日(土) 何が承認出版物?

AAには評議会承認出版物ってものと、そうじゃないものがあります。
NYのGSOや、東京のJSOが、承認出版物ばかりを出版しているわけじゃありません。そこのところが、どうも勘違いされていると思うのであります。

なにが承認出版物なのかアメリカカナダではハッキリしています。とうの本の中に、Confference Approved Literatureと明記してあります。それが書いてないのは、違うわけです。ビッグブックや12&12のほかに、細かいパンフレット類まで、表示されるべきものには、きちんと書かれています。

当然アメリカの評議会は、本の内容を承認しているわけです。だから、ちょっとした本になると3年も4年もかかっています。同じ本でも、AAグレープバインから出ている本は承認されないようです。
グレープバインはAAメンバーからの投稿で成り立っており、そのひとつひとつの投稿がAAプログラムを正確に反映しているかどうか、評議会は判断しないってことでしょうか。この点ではビル&ボブも特別扱いされておらず、The Language of the Heart(心の言葉)という分厚い本は、すべてビルの書いた記事だけで成り立っていますが、Approvedの文字はありません。
GSO側でも承認出版物でないものを出しています。その多くはサービス関係であるか、グレープバイン由来であるか、定期刊行物ですが、「伝統のチェックリスト」とかが入っていると言ったら意外でしょうか?

日本の場合には、何が承認出版物なのか、ハッキリしていません。
「アメリカカナダの承認出版物を日本語に翻訳したもの」については、異論はなさそうです。できあがった翻訳はアメリカの送られ、質がチェックされてOKが出れば、契約書にサインしてようやく出版になります。そういう手順を経て、英語が日本語に置き換わっただけで中身が同じだと担保されるわけです。

日本の評議会は、アメリカの承認出版物は全部翻訳すると決めています。はたして、アメリカ・インディアンのためのパンフレットまで日本で出版することに意味があるのかわかりませんが、ともかく決めた以上翻訳はするんだそうです。
評議会の決定はそれだけサービス機関を拘束するほど重いのです。

日本語オリジナルの本はどうなのか? 「回復への道」のような。
少なくとも中身が評議会で承認されたことはありません。そんな能力もありません。この本がAAのプログラムを正確に反映しているか判断しろって言われても困るでしょ。毎年「この本を出します」という出版計画だけを承認しているのです。
できないことはしない、それも良心の実践なんでしょう。

ミーティング・ハンドブックは、いろんなAAの本からの抜き書きですが、文章が書き換わっているし、編纂されたものを承認出版物というのは無理があるでしょう。そう呼びたいという気持ちも分かりますが。

BOX-916とか精選集も、AAグレープバインと同じ理屈で、個々の記事の中身について評議会がどうこう言う事じゃないでしょう。

そもそもどれが承認出版物なのか、ハッキリ決めごとがない。そして「承認出版物に準じる」ものが、数的には大量に出ている。AAグレープバインやBOX-916は、明らかに違う。

AAのプログラムを改変せずに伝えていくってことは大切なことです。でも、「AAミーティングでは評議会承認出版物だけを使う」なんて言い出す前に、サービススポンサーに質問してみるべきですね。知らないことは恥じゃありません。質問しないことが恥ずかしいんです。サービス活動にだって専用相談相手は必要ですよ。

僕も承認出版物は大切だと思います。だから、ミーティングハンドブックのように、AAプログラムのごく一部だけを抜き出した特異なものは、JSOで出版するのは止めるべきだと思っています。使いたければ個々のグループで使えばいいんです。承認出版物だけを使うなんてルールはないんですから。


2006年09月15日(金) やっと余裕が

久しぶりに真面目に働いていました。
というか、普段から真面目に働いていれば、こんな目には遭わないんですけどね。
お盆明けから次第に涼しくなっていくにつれ、暑さで参っていた体が少しは楽になるかと思いきや、逆にしんどくなっていきました。
昼間は汗だくになる暑さで、夜になるとTシャツと短パンでは風邪をひきそうな気温に下がります。そういう気温差に体がついて行けなかったのでしょうか。脆弱であります。

一週間五日のうち二日半を休むようなことをしているうちに、仕事がどんどん遅れていきました。納期を延ばしてくださいと言い出せないまま、「その日」がどんどん近づいて来てしまいました。おかげで徹夜であります。
こんなことになるんだったら、毎日こつこつとやっときゃ良かった。毎度そう思うのですが、そのようにはならずに20年以上、この仕事をしています。

もちろん、僕以外の仕事も着々と遅れています。

機械同士を接続してみたものの、全然通信ができません。要するに、機械どうしが意思疎通できないわけです。
人間どうしが意思疎通できない時は、気持ちがギスギスします。そして、機械どうしが意思疎通できない時も、やっぱり気持ちがギスギスします。もっとも、機械は気持ちを持っていないので、ギスギスするのはそれを管理している人間どうしですが。
大切なのは、忍耐と寛容とセルフチェック。原因を相手に探し求めると、どっかでお返しをもらいます。機械が壊れていることは滅多になく、たいてい人間の勘違いです。
そういうインターフェース部分が5ヶ所もあって、さすがに時間がかかりました。

機械屋さんの工場では5時半に全員が帰ることは滅多にないです。でも、どれぐらい遅くまでやるかの流儀は会社によって違います。7時過ぎに「もう今日はこれで上がりましょう」と言う会社もあれば、8時に全員で夕食を食べに行って、さあこれからが本番だぁって会社もあります。
始めていく工場だと、それがどっちなのか、朝から気になります。やっぱり7時までと、日付が変わるのではペース配分が違いますから。

おかげで山を越し、週末はゆっくり眠れそうです。


2006年09月12日(火) 孤独な病気

昨日の Murder is Murder ですが、書いた後で Killer is Killer だったかもしれないと思い出しました。

福祉事務所のケースワーカーの話として伝わってるものがあります。
アパートで孤独死をする人がいます。その現場に行ってみると、ほぼ必ず酒瓶がころがっているんだそうです。
別にアルコール依存症と決まったわけでもありません。けれど孤独死と酒瓶はセットなんだそうです。

一般にはアルコールが孤独をいやしてくれると考えられているのでしょうか。
現実生活の憂さをアルコールが晴らしてくれるのは確かです。ただし、アルコール依存症になる人は、その開放感が普通より強いという仮説があります。飲んだときの開放感がたまらないから、もっと多くの酒を飲みたくなり、そしてやがて依存症になるという説です。酒を飲んでもあんまり気持ちよくならない人は、依存症にはなりにくいわけです。まあ、そういう相性はアルコール以外のもの全般にあてはまるのでしょうけれど。

どうして人より開放感が強いのかについては、より強いストレスを受けている場合と、ストレスが強くなくてもストレス解消が下手な場合が挙げられていました。自分を振り返ってみると、僕は高ストレス下にあるから酒で癒すことが必要なんだと自分に言い聞かせていましたが、単にストレス解消が下手だったのに過ぎないのでしょう。

人口の2割ぐらいがアル中だったら、飲んでいたころの自分もそれほど孤独や不安を感じなくて済んだのかも知れません。でも実際には、アル中は高校の同級生に一人いるかいないかぐらいの率です(計算いい加減です)。

飲み過ぎてしまう自分の弱さを理解できる人間なんていないと思っていました。どこへ相談すればいいかも知りませんでした。いや、実際には相談先はいっぱいあったはずです。命の電話で病院やAAを紹介されたという仲間もいました。ともかく104へ電話して、最後はJSOの番号にたどり着いたというツワモノもいました。でも僕は、自分の悩みはどうせ誰にも理解できないだろうと、決めてかかっていたのです。

そうやって、僕も孤独と酒瓶をセットにして抱え込んでいたのでした。


2006年09月11日(月) Murder is Murder

Cannes Lions というコマーシャルの国際コンペがあります。
カンヌCM大賞とか、カンヌ国際広告祭とか、インターナショナル広告フェスティバルとか、いろんな和名がついてます。毎年、各国から応募されたCM作品の中から、グランプリがひとつ、あと金賞と銀賞がいくつか選ばれます。日本の作品も選ばれています。

以前は受賞作をストリーミングで無料で見ることができました。
各国の国内向けのCMですから、当然言葉は日本語じゃありません。でも、画面を見ているだけで伝わってくる面白さがありました。残念ながら、現在は有料になってしまいました。
以下は、無料だった時代に見たものの記憶です。だから、結構違っているかも知れませんが・・・。記憶に脚色も着いてるだろうし(と予防線を何度も張る)。

で、中には言葉が分かってもさっぱり理解できないものもあります。
Murder is Murder というのもそのひとつ。

CMが始まると、人相のすごく悪い男がカメラに向かってしゃべっています。顔にも体にも傷跡があるあたりが、いかにも凶悪常習犯という印象を与えます。
彼は、顔の傷を指さして「これはトイレで同じ囚人に襲われたんだ」、胸の傷を指して「こっちは食事中に」、腕の傷を指して「こいつは寝ているときにやられたんだ」。
「どうだい、刑務所ってのはひどいところだろう。あんたも入りたいかい?」
最後に画面に Murder is Murder と出ておしまいです。

解説を読まないと何のCMなのかさっぱり分かりませんでした。
これは、オーストラリア政府が飲酒運転撲滅キャンペーンの一環として流したCMで、その標語がMurder is Murder(殺人は殺人だ)。
ナイフで刺し殺そうが、拳銃で撃ち殺そうが、飲酒運転でひき殺そうが、殺人は殺人だというのです。政府がそういうショッキングな言葉でキャンペーンをしなければならないほど、彼の地の問題は深刻だってことなのかもしれません。

日本でも今日から「飲酒運転取り締まり強化週間」が始まったのだとか。

伝聞情報ですが、テレビ局が飲酒運転の番組を作るそうで、セントラルオフィスに問い合わせがあったそうです。番組の構成を考えるために、飲酒運転の事故の経験が欲しいらしいです。自分の経験が役に立つかも知れないと思った仲間は、AA関東甲信越セントラルオフィスまで電話で問い合わせていただきたい。


2006年09月10日(日) 痴情派デジタル

この田舎でもテレビ地上波のデジタル放送が始まります(NHKはすでに始まっています)。
でも、それに合わせてテレビを買い換える予定はありません。

何のメリットがあるか分かりません。
ゴースト信号がなくなるというのはメリットかもしれません。
録画したビデオテープを棚に並べることを趣味にしていたころなら、絵がキレイになると小躍りして喜んだかも知れません。アニメだと特に目立ちますからね。しかし、今は録画なんて滅多にしません。

ハイビジョンには用がないし、貧弱な双方向通信に興味もありません。
ハイビジョンじゃなくても画面がキレイになると言われても、実際にはそんなに高いビットレートの放送が行われているわけじゃないし、動きの激しいサッカーなんかのスポーツ中継ではブロックノイズも目立ちます。

悪名高いコピーワンスの仕組みは、今年から来年にかけて見直しが行われそうです。
録画したもののコピーを制限するんじゃなくて、コピーしたものの再生に制限がかかる仕組みが有力だそうです。これなら家の中で何度コピーしても良いわけですから、まだましと言えるでしょう。
問題なのは、すでにコピーワンス機能を搭載して売られてしまった録画機がどうなるかです。ファームウェアの書き換えで更新できる機械もあるでしょうが、もはやメーカーのほうで古い機種のサポートなんてしたくない場合もあるでしょう。
そうなったら、新しい録画機を買い直さないといけません(そんな義務はないけど)。

中継所の数も1万5千局から1万局に減る予定です。減った5千局からの電波を受信していた世帯では、いずれテレビが見られなくなるわけです。新たに共同受信設備を作るしかないのでしょうが、その費用の個人負担もかわいそうな話です。
そして、どうやっても地上波が受信できなくなる世帯も10万以上になるとか。インターネットを使ったブロードバンドで解消とか言っていますが、テレビの電波が届かない場所に、ADSLや光ファイバーが届くわけがありません。
結局のところ、BS2の内容を地上波の総合と同じに(サイマル放送)にしてお茶を濁すんじゃないかと思われます。

我が家のテレビが買い換えられるのは、5年後のアナログ停波の時でしょう。その頃には小型テレビはみんな液晶になって、テレビの上で猫が丸くなっている情景も過去のものになるんでしょう。


2006年09月08日(金) ニュース検索

このページ の下の方にあるニュース検索。自作のPerlスクリプトを、cronで4時間おきに走らせています。

検索の対象は、毎日新聞・日刊ゲンダイ・朝日新聞・日経新聞・ヤフー! ニュース・Google ニュース・livedoor ニュース。
読売や産経が嫌いなわけではありません(好きでもないですが)。このふたつは検索にgooのエンジンを使っていて、検索結果に意図しないものが混じることが多かったので、とりあえず最初に見送ったまま、ほったらかしになっているだけです。

苦労したのが、新聞(ニュースサイト)の検索方法や、検索結果の表示が、しょっちゅう変更になることでした。ニュースサイトがどうやって読者に記事を検索させるか、試行錯誤していたのに付き合わされたという感じです。
そのたびにPerlのスクリプトを手直しする羽目になりました。最近では変更されることはめったになくなりました。

複数のサイトを検索しているので、どうしても同じ記事が複数引っかかります。見出しが大体同じで、日付が同じ記事はまとめることにしています。が、「大体同じ」という判断をプログラムにさせるのは難しいのと、新しいニュースは時間単位で違うので、どうしても似たような生地が大量に並んだりします。

検索クエリーも試行錯誤しています。単に「アルコール依存」で検索してもいい結果がでてこない場合があります。たとえばGoogleの検索は「アルコール 依存 OR 中毒 -燃料 -急性 -メチル」でやっています。でも、ブラジルなどでガソリン代わりに自動車に使われているアルコールの話と、景気が何か(アメリカ国内の消費とか)に「依存」しているっていう経済記事が引っかかったりします。

ギャンブルは、「ギャンブル 依存 OR 中毒 -プロクター」。
プロクターという言葉をはじいているのは、プロクター・アンド・ギャンブルという名前の会社の記事を除くためです。日本では「P&G」という名前のほうが知られているでしょうか。

年々検索に引っかかる記事数は増えています(統計は取ってないけどそんな気がします)。依存症問題が近年急激に深刻化しているとも考えられないので、病気として、社会問題として認知されてきた結果ではないかと思っています。
あと著名人の依存症に関する記事が増えたこともあるでしょう。

RSS配信など、いろいろ試してみたいこともありますが、手を出せずにいます。


2006年09月07日(木) 「底つき」について

依存症からの回復には「底つき体験」が必要なのだと、良く言われます。
ヘイゼルデンのカタログを見ていたら、hitting bottom という言葉と一緒に、ショックを浴びて何か大切なことに気が付いた人のピクトグラムが描いてありました。

底つきとは何なのか、それぞれの人の、それぞれの体験があって、その人なりの「底つき」への理解があるはずです。何が正しくて、何が間違っているとは言えません。

だから、これは僕の「底つき」への理解です。
底つきとは「気付く」体験なのだと思います。

アルコール依存症は否認の病気なのだと言います。最初の否認は、自分には酒の問題はないという主張です。自分の飲酒はトラブルを引き起こしてはいないし、仮に誰かが迷惑しているとしても、「やめようと思えばいつでもやめられる」んだから、何も問題はない・・・と。
突き詰めて言うと、「飲みたいから飲んでいるのであって、やめられないから飲み続けているわけじゃない」という主張でしょう。

そうは言っていても、人は様々な理由で酒をやめます。
周囲の圧力に屈したからかもしれません。入院したから。一大決心をしたからかもしれません。いろいろです。
やがて、もう一度飲む時がやってきます。
人は再飲酒の理由を考えるものです。なにしろ、まず自分が納得できる言い訳を考えなくてはいけませんから。どうしても飲みたくて我慢できなくて。あるいは、ふと気が付いたらもう飲んでいた。あるいは、状況に流されて飲まざるを得なくなった。
客観的な事実はひとつです。「病気だから酒を飲んだ」

「やめようと思ってもやめられない。やめる能力がない」
そのことに気付くのが「底つき」なんだと思います。
だから、最初の再飲酒のときに「底つき」を感じることもできたのでしょう。でも、僕の場合には、道ばたの石にけつまずいたぐらいにしか感じられませんでした。ああ、アル中の妄想のなんと深いことか。

やがて病気に罹ったことを認め、助力を得て、酒をやめる人もいます。
酒をやめることは大切です。まず酒をやめてみないと、第二の底つきはやってこないですから。
第二の否認は「自分には酒以外の問題はない」というやつです。
いろいろとトラブルはあるけれど、それも何も「酒を飲んでいたのがいけなかった」という理由付けがあって、今後飲まなければ物事は良い方に進むはずだと信じているのです。

実は何年飲まないでいても、苦しさが和らぐことがなく、相変わらず生きるのが辛かったりします。飲まないでいるって素晴らしいと自分に言い聞かせながら、本当はそれは嘘だと感じているのです。

対人関係で、不安になったりイライラしてみたり。自分の境遇にいつも不満を持っていたり。何をやっても面白くなかったり。どこの職場に移っても、必ず一人はやな奴がいたり。
こういう自家製の不幸について、格好の言い訳があります。
「自分の悩みはありふれているのだ。世の中に悩みのない人間などいない」

酒を飲んでいた頃は、世の中の大半の人は酒飲みであると信じたかったわけです。実際には、毎日飲む人は少数なんですが。第二の否認にも同じ言い訳がでるにすぎません。

やがて、いつか気が付く=底を突くときがくるでしょう。
酒をやめたくなかった本当の理由は、生きるのが辛かったからだと。飲み出す前も、飲んでいる頃も、止めた後も。

第一の底つきで「酒をやめたい」という願望が生まれたように、第二の底つきでは「幸せになりたい」という願望が生まれるはずです。
最低限の金銭や、最低限の身の安全がなければ、幸せはとても難しくなります。でも、それがあっても不幸なのは、もはや「誰か」とか「世の中」のせいではないよね。
お金はいくらあっても困らないけれど、どれだけ酒を飲んでも飲み足りることのなかったアル中が、どれだけ金を手にしても足りないですよ。

自分には幸せになる権利なんかないんじゃないかと、疑ってませんか?


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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