心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年06月18日(日) 七瀬またたび

ある掲示板の投稿に返信を書いてみたのですが、なんだか責めているような理屈をもう少し緩和できないかとひねくり回しているうちに飽きてしまいました。
普段だったらこういう文章は捨ててしまうのですが、雑記をあらためて書くのも面倒なので、自分の所に転用した次第です。

自分でも1年に2回精神病院に入院したことがあって、その年は都合5ヶ月ぐらい病院にいたので、外にいるのと中にいるのとどっこいどっこいでありました。「自分の人生が酒でダメになっているな」と自分でも強く感じられた年でした。
その翌年にAAにつながり、さらに翌年にようやく酒が止まりました。

自分の周囲を見ていても、やはり短期間に何度か入院を繰り返した人は、そこが大きな契機になっているようです。病気が進行してきたから、入院の間隔が短くなったのだろうと言われればそうかもしれません。
ですが、それは「人工的に作られた底つき」だったのかもしれないと思っています。
病院がこの病気を治してくれるわけじゃありませんが、底を突かせてくれる役割は果たせそうです。

本人もなるべく入院はしたくないし、娑婆で長く過ごしたい。家族にとっても入院は大事ですから、避けられるものなら避けたい。でも、飲みながら娑婆で過ごせるように援助しても、それは病気の回復を遅らせるだけです。

飲んでいるアル中の心中には「現状維持をしたい」という強い芯があるようです。
それが良い方にも悪い方にも変化することを拒んでいるのです。
その気持ちが理解しがたいのでしたら、こんな例を考えてみればいいのです。

家族が本当は「一滴も飲んで欲しくない」と思っていたとします。
でも本人は相変わらず飲んでいる。それをとがめるのは、本人にとっても、家族にとっても、新しいトラブルであるから出来れば避けたい。それに、あまり家で厳しくすると、外で飲んで飲酒運転で事故でも起こされたら、それこそ大事だと心配になります。
それだったら家でこっそり飲んでいるのは「小さなトラブル」だから、それさえ我慢すればいいのだと。明日も、今日と同じ「小さなトラブル」の日でありますようにと願うのであります。
本人も家族も奇妙なバランスの上に安定してしまっているのです。

「良くなる前には、どうしてもいったん悪くならないといけない」

これは精神科医の言葉であります。
人間の社会を見てみると、例えばある種の犯罪が目立つようになり社会問題化して、それから法改正が行われて、ようやく取り締まりがきつくなって、沈静化する・・・というような事例はいくらもあります。
人は「悪くなることを見越して予防策を立てておく」ということは苦手であるらしいです。悪くなってから焦ったり後悔したりするのが人であります。もちろん用意周到な人もいますが、そういう用心深い人は酒に溺れたりしないのでしょう。

いったん悪くなることを回避して、素直に良くなって欲しいと思うのは人の良心でありましょう。でも、病気に必要なのは良心ではなくて治療(support)ではないか、と思う次第であります。


2006年06月16日(金) 本の販路(その2)

日本のAAの本はどこの本屋でも売っていません。
(アメリカのAAの本は洋書として注文すれば手に入ります)。

売っていない原因は商社(取り次ぎ)と取引していないからです。トーハン・日販には相手にもされないでしょうが、地小だったら(ASKの本だって扱ってるんだから)扱ってくれそうなものです。
が、そうしていないのは、今までAAの側から依頼したことがないからです。

「ビッグブックや12&12ぐらい、本屋で売ったらいいのに」とか「いや<今日を新たに>とか<ビルはこう思う>だっていい本ですよ」、「本屋で扱っている本なら街の図書館に入れてくれるように頼めるのに」という意見もあります。一方、「本としてまだアマチュアの作った域を脱していない」という否定的な意見もあります。

実は本やパンフレットの売り上げが、各地のセントラルオフィス(CO)の収入の大きな柱になっているのであります。例えば3千円のビッグブックは、6割の千八百円でCOに卸されます。八百円の文庫版なら四百八十円です。
ちなみにこの6割の半分3割は、同じものを再度印刷在庫する費用に回されます。言ってみれば仕入れ費用です。別の半分(3割)は、JSOの維持運営費に回ります。千八百円でビッグブックを仕入れたCOは、それを3千円円で売り、差額千二百円をCOの運営費に回します。

JSOにしてもCOにしても、出版物の売り上げが収入の大きな柱になっていて、グループや個人から集まってくる「献金」よりも、出版物の収入の方が大きいほうが普通であります。AAの出版物は高いから値下げしてくれという話は良く出ます。そのほうがメッセージを運ぶのに効率がいいのですから、当然です。

でも、なかなかそれが出来ないのが「人間の性」というやつでしょうか。
例えば、仮にビッグブックをCOが千八百円で売ることにしたとします。するとそのぶんCOの収入は減るから千二百円を現金で献金してね、ということにします。どうなるでしょう? ビッグブックの売り上げは確かに増えるでしょう。でも、献金はあまり増えない。結果としてオフィスは運営費が不足してしまいます。
本を手に入れるために3千円を払うことは厭わない人でも、何の見返りもなく千二百円を献金することは嫌うのであります。(実際には本を買う人もそう多くはなく、献金には見えない見返りがあるのですが)。

AAの外部に販路を求めてしまうと、現在の流通経路(JSO→CO)に落ちている収益が、外部に流出してしまうという意見があります。

さて、amazon.co.jpの委託販売ですが、版元でISBNコードかJANコードを取っていれば扱ってくれるそうです。AAの本は実はISBNコードがついています。日本語の本であっても、著作権者はニューヨークなので、アメリカのISBNコードですが、それは問題にはならないでしょう。

委託販売なので、入金が「納めた時点」ではなく「売れた時点」であることとか、amazon.co.jpの取り分が4割というのが高いか安いか、考えるべき事は多いです。JSOにとってデメリットは少ないでしょうが、COにとっては商売敵かもしれません。
でも、COに本を頼む層と、amazonで本を買う層は違うのかもしれませんね。

以前の職場だったら、COやJSOから本などと一緒に送られてきた振り込み用紙を郵便局に持って行くのも面倒ではなかったのですが、仕事が変わってから郵便局に行くのは大変になってしまいました。アマゾンで買えるんだったら、便利でいいんですけどね。

まあAAの財政というのは、小規模ながらも経済活動であります。どう展開していくかは、ビジネスとして熟考の上で決めるべきでありましょう。

でも、amazon.co.jpや地小で扱ってもらえれば、僕にとっても便利だし、本屋で扱っていない本というのは、同人的というか、健康食品や宗教法人の会員向け出版みたいで怪しげな気がしてヤだな思う次第であります。


2006年06月14日(水) 本の販路(その1)

書店に並ぶ本は、出版社が出したものがそのまま書店にやってくるわけではありません。
他の商品と同じように、卸問屋とか取り次ぎとか流通業とかという商社があって、出版社の本はまずそこに納品され、それが本屋に納品される仕組みになっています。それは普通に感じるのですが、他のいくつかの点で「僕の常識」とは違う商習慣が行われています。

たとえば返本。仕入れたけれど売れなかった本は、逆のルートを通って出版社まで返品することができます。普通は注文をキャンセルするだけでも嫌がられ、ましてや一度買ったものを返品するなどと言えば相当なトラブルを覚悟しなければならないのがB2B(会社間取引)だと思うのですが、本はそうではないらしいです。

商社もトーハンと日本出版販売(日販)のふたつしかないのも変だという気がします。もちろん教科書などの特殊な本に限ればもっとありますが。普通の商品なら、大手商社の他に、こまごました商社がたくさんあって、小回りのきいた商売で大手と渡り合っているものだと思います。
が、出版社が書店に本を並べようと思ったら、トーハンか日販を通すしかないとも聞きました。ところがこの2社と取引するには、相当しっかりした出版社でないと相手にされなくて、まずそこがハードルになります。
大手が2社しかないという、それだけでなんだ嫌な感じであります。パッケージソフトの流通を一手に握ってのし上がったソ○トバ○クを思い起こします。販路の独占は「新興商社と取引するなら、おたくの商品は仕入れない、おたくには卸さない」という縛りが暗なり明なりに可能にするわけであります。

こうした奇妙な構図の原因を尋ねると、「本は著作物ですから他の商品とは違う」という答えが返ってきますが、それで全部説明できるとは思えません。

もちろん出版社が本を書店に直接持ち込むこともできなくはなく、委託販売と呼ばれて実際に行われています。しかし全国に書店は山ほどあって、そのすべてにリーチする手間が小さな出版社に出せるわけはないのであります。

一応ニッチを担当する商社として、"地方・小出版流通センター があって、小さい出版社や(長野県のような)地方の出版社の本を扱っています。ASK(アルコール薬物問題全国市民協会)の本もここで扱われています。ただ、あまり売れない本ばかり扱っている関係上、出版社にしてみればここも条件は相当厳しいのだとか。でも他に選択の余地はないわけであります。

amazon.co.jpが本の委託販売を始める というニュースについて書こうと始めたのですが、長くなったので明日に続きます。


2006年06月13日(火) 聖人? 俗人?

頼まれてアメリカのメンバーの短い分かち合いを日本語に訳しています。
下手な日本語ですが、まあともかく日本語であれば読むことはできるわけなので、質は二の次と予防線を張ってやらせてもらっています。
感じることは「自信に満ちあふれているなぁ」というものです。私は回復しているよ、ハイヤー・パワーと一緒だよ、これなら安心だよというメッセージが伝わってきます。読んでいて元気づけられるというのか、毎回読むのが楽しみであります。

でも、もしその方に直接会うことがあったとしたら、回復者であるとか人格者であるとか感じずに、おそらくは「ふつうの人」であると感じるのではないかと思っています。日本のAAでも経験の長いメンバーが感じさせるような「俗人」ではないか。それでいて親しくつきあってみれば、実は人生の苦難にありながら、生きることを楽しんでいる人であることがわかる・・・のじゃないかと勝手に想像しています。

回復というのは現状に甘えずにパーフェクトを目指すことです。が、完璧になれるのは神様だけであって、人間は決してそこへはたどり着けません。だから回復とは「乾いたぞうきんをさらに絞って水を出す」というものじゃなくて、「バケツ満杯の水を耳かきで掻き出す」というようなものであろうと思っています。
いつまで経っても性格的欠点はなくならないし、減ったようにも見えないし、かといって掻き出すのをサボっているといつの間にか増えているし・・・。でもまあ、悪い方にしか進まなかった人間が、現状維持できるだけでも変化だし、良い方に変わっていることがあれば、それこそ恵みであります。

日本のAAで「俺は回復しているぜ」なんて言うと、(ああいう事を言っている間は回復していない証拠だ)などと陰口を叩かれかねない部分があります。いつまで経っても回復しないと嘆く自己憐憫が謙虚さであるかのような勘違いがあり、自尊心を回復した人間の足を引っ張る横並び意識があるような気がしてなりません。
完璧な聖人にはなれないと書かれていて、毎回それを読んでいるのに、人にも自分にも聖人であることを求めてしまうのが日本人気質なのか、日本のAA気質なのか。

ビッグブックには回復すればお金持ちになれるとも、素晴らしいパートナーと結婚できるとも書いてなくて、ただ世界が自分の理想とかけ離れていても生きていけることが担保されているだけだと思うのであります。そういう自分もミーティングに行けば「いつまで経っても回復しない」と嘆くことは忘れないのでありますが。


2006年06月11日(日) 非生産的なことをする

以前焼いておいたCD-Rだとか、DVDだとか、そういったものはタイトルはマジックインキで殴り書きしてあるか、ポップな色のポスカでカラーリングがしてあるのであります。
CDやDVDのレーベル面を印刷できるプリンターを買ったので、以前の手書きのレーベルの上にきれいにレーベルを印刷しているのであります。
やっていること自体にそれほど意味はありません。

そんなことをやっているより、部屋の片づけでもしたほうが良いのかもしれません。
でも、意味がなくてもやるのです。楽しいから。
思い出してみれば、ティーンエイジャーの頃は、カセットテープのラベルとか異常に熱心に書いていました。ロットリングとかステッドラーとか使ってです。テンプレートも買って、きれいにレタリングしたりして。
きれいに仕上がれば、テープの内容まで輝いてくれる気がしました。

字もきれいに書こうというので、練習しました。おかげで大学に行ってサークルに入ったときに、同人誌の清書をやることになりました。いや、マンガじゃなくて小説とかです。当時はワープロなんかないですから。
雑誌の最終ページには、必ずといっていいほど「日ペンの美子ちゃん」が載っている時代のことです。日ペンて意外と高かったので、結局やりませんでした。今はペン習字よりも、ワープロ検定の時代でしょうか。
あれからワープロを使い続けて、すっかり字も下手になりました。

強迫的になにか意義深いことをしようとする。人の役に立っていないと安心できない。責任を引き受けることに自分の存在意義を見つけようとする。そういうところから、一歩はなれることが必要なのでしょう。

まあ、気が緩みすぎて、地区委員会に行くのを忘れていましたが。ミーティング会場の地図印刷も終わったので、とりあえず行く用事はなくなりました。


2006年06月08日(木) 長期戦?

AAにつながってから覚えた日本語があります。
ソブラエティとかそういう難しい英語じゃなくて。

たとえば「肝胆相照らす」かんたんあいてらす。

もちろん正直は美徳であるわけですが、正直も場所と相手を選びます。特に、下半身のことを話すときは選ばなければなりません。あ、いや窓から小便していたとかそういう話は病院でも話せますけど。台所の流しにしていたとか。ペットボトルとか。
何の話でしたっけ。
まともかく、「この話はだれ相手にでも話せることではない」ということは、聞いているだけで分かることであります。それを話してくれたと言うことは、自分のことを(自分のソブラエティを)信頼してくれたということでもあります。たまたま同性だけが集まったミーティングでは深い分かち合いが行われるときがあります。
具体的に相手の話したことは忘れちゃうことが多いのですが、信頼感は後々まで残ります。

「信頼を紐帯とした共同体」なんてのもあったな。

要するに厳しい掟によって成立している共同体ではないよという意味らしいです。
信頼には信頼で応えてください、とは委員会などで名簿を作るときに添えられる言葉であります。

映画『マイ・ネーム・イズ・ジョー』を見ているのですが、主人公ジョーの言葉に One day at a time がでてきます(今のところ2回)、字幕は「俺は長期戦を覚悟した」というのと「焦るな長期戦だ」でありました。
千里の道も一歩からってやつでしょうか。

ちなみ12のステップは、あいかわらず「12段階のプログラム」であります。


2006年06月07日(水) ルール

まああれだ、AAに熱心な人はたいてい「AAは規律によって正しく保たれねばならない」という理想を持つ時期があるのは、仕方のないことだと思いますよ。
人間の集団を維持していくためには、なにかルールを決める必要があるというのは、僕らが小学生の頃から学んできた経験則ですから、使い慣れたナイフを使いたくなるのが人間であります。

が、AAが規律によって維持されている団体だと思ってしまうのは、経験不足を露呈しているわけでしょう。
個人はおおよそ「12のステップ」に従っていかないと飲んでしまう。(どんな大きさであれ)グループはおおよそ「12の伝統」に従っていかないと壊れてしまう。でもステップも伝統も「鉄の規律」ではないから、そこから一歩でもはずれたら破滅が待っているというわけでもないのです。ステップから一歩でもはずれたら破滅だなんて言うなら、僕なんかとっくに破滅ですよ。

大切なのは、ステップや伝統に従っていきたいかどうか、それは僕らの気持ち次第なのです。伝統もviolation(違反)じゃなくて、break(破り)と言われるのです。

ブルーカードというのがあるでしょう、オープンミーティングはどうこう、クローズドはどうこうと書いてあるやつです。ああいうカードがあると、書いてあるとおりにやらないといけないと思ってしまうわけですな。
が、あのカードを使うも使わないも、それはまったく「グループの自由」です。ほかのアディクションの人間がミーティングに混じっていたって、それでかまわないとそのグループが決めたなら、評議会であろうが、理事会であろうが、ニューヨークのGSOだろうが、その決めごとをひっくり返すことはできないのです。
そういう統治機構はAAには存在しないのです。

「あんなのAAじゃないよ」と言う人間のほうが、言われる方より病気が深いのです。より深くコントロールしたがるのが僕らの病気ですからね。私流のAAに「伝統」というハクをつけて押しつけたがるわけです。

AAは、AAをこの先も維持していきたいという願いが維持させているんですよ。ルールじゃないんですよ。口角泡を飛ばして議論している人たちも、いずれ分かるはずです。そして自分の了見が狭かったことを恥じるわけです。経験者が言っているんだから間違いありません。

原理原則は曲げない。でも現実への適用はアダプティブに。長くやっている人を見ればわかるでしょう。

まあ、議論は悪いことではないですよ。少なくとも関心を持っていますから。いちばん悪いのは無関心ですからね。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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