心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年04月02日(日) iTMSで曲を買う

ブログの方で iTunes Music Store を取上げたので、ひさしぶりにiTunesをインストールしてみました。僕はパソコンでは音楽を聴かないので、以前iTunesをインストールした時も、CDから何曲かリッピングしただけでもう飽きてしまって使い込んでいませんでした。僕はiPodを所有していません。

今回はiTMSで曲を買ってみました。
アメリカでは1曲99セントだそうなので、日本でも99円なのかなと思ったら、150円でありました。人気のある歌手は200円だったり、新曲は400円だったりします。
遊佐未森の曲を検索してみたら150円、アルバムは1,500円でありました。中島みゆきは200円、アルバムは1,600〜2,000円であります。
iTMSのアカウントを取得するにはクレジットカードが必要です。カードを持っていない人は、コンビニなどで売っているプリペイドカードを買うことになるのでしょう。そのうちプリペイドカードでの購入も試してみたいです。

CDアルバムの定価は2,800円+消費税で2,940円というのが相場でしょうか。amazon.co.jpあたりだと5%引きが当たり前なので2,793円ということになります。これをiTMSで買って2,000円だとすると、800円弱お得ということになります。さらには、iPodにコピーするのに、いちいちリッピングする手間が不要です。
しかし、CDの現物は手に入らないことになります。
CDの現物を棚にしまっておきたいファン心理の働く相手にはiTMSはあまり魅力がないといえます。逆にたまたま今ヒットしている曲を買いたいとか、昔の思い出の曲を買いたいという場合には、曲あたりでばら売りしてくれるのはありがたいです。

AACの128KHzの音質がどれくらいか・・・、それはまた日を改めて。


2006年03月31日(金) 更新

4月からのパートタイマー勤務の契約書にはんこを突きました。
1年半保った正社員としての立場は失ってしまうわけですが、その間も休職だとか、パートタイム勤務だとかでまともに給料をもらったことがありません。
そろそろフルタイム勤務にと思っていたのですが、周囲の評価は「まだ無理だろう」というものでした。そう評価されるのはちょっと辛いことですが、まあ周囲の評価は受け入れていくべきでしょう。
仮にフルタイムに戻って、今度また体調が悪いから休んだりして、そして有休を使い果たして、さらに休んで勤務時間が規定に足りなくなった場合、また休職しますでは済まないのであります。そして現在の職場もぎりぎりの人数で仕事している以上、辞められても困るというわけです。
辞められても困ると言われても困るのですが、相手が困っているのもわかるので、あまりわがままを押し通すわけにも行きません。

月曜日にはフレッシュな気分で仕事に行くのですが、金曜あたりには疲れがたまってダレてきます。なので、月〜木の週4日勤務にしてもらいました。基本的に金曜日は休みです。仕事の持ち帰りはできないので、金曜日に何をしようか思案しています。

秋に資格試験を受けることにしました。といってもその資格は5年前にも取得しているのであります。しかし変化の激しいIT産業ですから、5年前の試験の問題はすっかり陳腐化しています。なので5年前の資格の価値もそれなりにしかなりません。別に資格に期限がついているわけでもないし、四角がないと仕事ができないわけでもないのですが、更新することにしました。

参考書と問題集を手にとって、本屋のレジに向かい、手持ちの現金が無かったのでクレジットカードを出そうとしました。が、見つかりません。本屋で財布をごそごそやり、カードを1枚1枚確かめたものの、見つかりません。どうやら紛失したようです。

最近でもカードを使った覚えがあります。が、それはネットの通販です。ネットの通販ではカードの現物は要りません。カード番号・名前・有効期限・セキュアコード・暗証番号などなどを入力する必要があるだけです。別に記憶力が良いわけではないのですが、しょっちゅうネットで買い物をしているせいで、すっかり番号を覚えてしまいました。
「最後に実店舗でカードで買い物したのはいつだろう・・・」
3月のはじめに、サウンドカードを衝動買いしたのが最後のようです。

利用履歴を調べてみたら、不正利用はされていませんでした。でも、みつからないので、しかたなくカード会社に連絡して再発行を頼みました。当然番号は変わってしまうようです。
新しい番号を覚えるまで何年かかるやら。


2006年03月30日(木) ポリティカル・インパーシャリティ

雑記を書こうにもネタが無いので、また新聞記事でも取り上げることにしましょう。

朝日のサイトからは消えてしまいましたが、gooに残っていました。
「政治的発言、被爆者は自粛を」平和推進協の要請に波紋

要約すると、原爆の被爆体験談をする人に対して、政治的な発言(天皇の政治責任、9条、自衛隊、原子力発電、靖国など)を慎むように要請が出されたことに対して、反発が起きているという話であります。朝日新聞は戦前の言論統制を引き合いに出して、批判的な論調で報じています。
さらに続報として、原爆施設の案内人にも同様の要請が伝えられています。

被爆体験を聞くために講演をお願いしたのに、(賛成でも反対でも)靖国神社参拝の話をされたのではたまったものではない、というのが聞く側の正直な話でしょう。被爆体験には、人を集めて政治的発言をする特権を伴うものなのか、という反感をもたれてしまうかもしれません。被爆体験はなるほど次代に伝えるべき貴重なものなのかもしれませんが、政治的発言は人の耳を閉じさせるのに十分であります。

アルコール依存症の体験談をするときも同じことが言えるでしょう。人の心をつかむためには自分の体験だけを話すのが一番効果的であるようです。AAでもたまに、依存症の病理についての話を一生懸命する人や、どこそこの○○さんはどうだったという話ばかりする人もいます。病院の治療方針について反対ばかり言っている人もいます。誰もそれを「ダメだ止めなさい」と遮ったりしないけれど、そういう人の話が心に残ったことがありません。ましてや政治的発言なんかに偏ったら最悪です。
自分の体験をありのままに話して、そこから何を汲み取るのかは、相手に任せる。それが実は一番効率がよいと経験が伝えられているわけであります。

世の中には何かを大声で批判している人たちがたくさんいます。それはそれで、その人の大事なものを守るために戦っているんでしょう。それに耳を傾ける人もいれば、退ける人もいます。退けられることも承知で話をしているのでしょう。
なるほど体験談と言うのは、批判よりも、人に聞いてもらいやすい、納得してもらいやすい題材であります。人に話を聞いてもらえると言うのは、なかなかに自分を満足させる体験であります。が、相手の考えを自分と同じにしようと欲張りすぎると、もう結構と言われるのがオチです。

「このままでは話を聞いてもらえなくなる」という危機感がわからない人というのは、論争があって当たり前だと思っている人なのだと思います。

などということを書いているこの記事も、実は政治的に偏っている(一方の人の肩をもっている)わけであります。雑記に何を取り上げるか、取り上げないかというのは、かなり気を使うことであります。AAのメンバーであることを明らかにしてサイトを維持している以上、「外部の問題には意見を持たない」という基本方針に忠実であるべきです。
が、僕の生活は基本的には平凡で退屈なものであり、外部の問題を取り上げないことには「何を食ったか日記」になってしまうという悩みもあったりします(ひらきなおり)。


2006年03月29日(水) もろもろ

雪が降っています。
スタッドレスタイヤが磨り減ってきたので、今年はそのまま夏もはき続けてサマータイヤとして使い切ってしまおうと思っています。

歯の治療は続いています。
奥歯の治療は終わったのですが、前歯の間に微小な虫歯が点在していて、時間を食っています。

「アリス・イン・ナイトメア」をクリヤしました(日曜日)。
もっともレベルは「簡単」に設定してですが、この上に「普通」「困難」「悪夢」(うろおぼえ)があります。わざわざ難しくしてやってみようとは思いませんが。
こんなにゲームをやりこんだのは何年振りでしょうか。

夏のイベントについて、携帯電話でも見られるホームページを作っています。
HTMLを書くのじゃなくて、テキストを流し込むと、パソコン用にも携帯用にも加工してくれるというタイプを始めて使っています。なかなかもどかしいです。


2006年03月28日(火) 泥酔が罪?

アメリカでのバーで深酒しただけで逮捕されるという記事でも取り上げることにしましょうか。

泥酔することは犯罪なのか、という疑問はあります。

日本で過失運転致死傷罪ができるまえは、飲酒運転による事故の加害者は業務上過失致死傷罪で処罰されていました。この刑が最大でも懲役5年であったために、人が死んだという結果に対して、他の罪に比べてあまりにも軽いではないかという議論があって、過失運転致死傷罪が新設されたわけです(最大懲役15年)。
業務上というのは仕事をしていてという意味ではなく、日常生活のうえでという意味だそうです。刑法が制定された明治のころには、故意にではなく過失によって人が死ぬということは滅多に無く、その罪を重く問うことは適切でないという背景があったようです。
しかし、文明開化が進んで、だれでも(たとえば車という)凶器にすぐ変わる装置を操作している世の中になると、重い罪が適切でないと悠長なことを言っていられなくなるわけです。

時代が変われば罪に問われる事柄も変わる。これについて連想するのがコンピューターのクラッキングです。今は不正アクセス禁止法(1999年)があります。しかし、それ以前、刑法に電子計算機なんたらという条項ができる1987年以前は、他人のコンピューターに侵入することを罪に問うことができませんでした。どうしても立件しなければならないときには、他人のコンピューターを操作=電気を消費した=電気を盗んだ=窃盗罪として起訴されていました。
時代の変化とともに問われる罪も変わると言うことでしょう。

アルコールによる害は日本よりアメリカのほうが深刻であるわけですが、日本も人口が増えなくなった(むしろ減っている)割にはアルコールの消費量は増えるばかりです。健康な人の飲酒習慣にけちをつけるつもりは毛頭ありませんが、アメリカで起きた事象が何十年か後には日本でも起きることは経験的に知られているわけであります。


2006年03月27日(月) 怠惰と不作為の間

動物園と善光寺さんに行ってきました。

朝10時に妙に元気な妻に叩き起こされました。
(お前、昨日はうつだとか言って夕方になるまで寝てたじゃねーか。おまけに食事も風呂も子供の世話も俺に押し付けやがって、自分が遊ぶときだけは元気なんだから)
とは思ったものの、言ってもせんない文句は言わぬがハナであります。

おそらくこの動物園は3回目だと思うのですが、娘たちは前に来たことはまったく覚えていないようであります。ただ長女は「動物園ですごく走った覚えがある」と言っていました。それは3才だか4才のときに多摩動物園に午後4時に飛び込んだときであります。あの広い動物園を1時間で見て回るのは大変でした。それにくらべて、長野の動物園のなんとちいさなことか。
でも、子供たちはポニーに乗せてもらったり、レッサーパンダにさわったり、モルモットを抱いたり(?)と、細やかなサービスがあるのも来園者の比較的少ない動物園のよい点かもしれません。

その後、善光寺へ。
たぶん、高校生のときに「強歩会」という学校のイベントで実家のあたりから一晩かけて歩いていった時以来でしょう。夕方に集合して出発し、夜通し歩いて目的地を目指し、電車で帰ってくるという、いかにも体力の有り余っているティーンエイジャー向けの企画でありました。朝になり、疲労のために集団から遅れて一人で国道端を歩いていたら、車が止まって「乗っていきませんかー」と若い男に声をかけられた記憶があります。当時の僕は長髪が背中の下のほうまで伸び、体重は40キロ台で、短パンから出た足にはすね毛はほとんどありませんでした。振り向くと車の男は驚いた表情でしたが、「結構です」と僕が言うと明らかに安堵した表情で走り去ったのでした。
あれから二十余年、善光寺は記憶にあるのと変わりませんでした。

善光寺に手を合わせる自分は仏教徒なのか、すこし考えたりします。婚家は浄土真宗なので、一応僕も形は仏教徒であります。実家は神道でありました。といっても積極的に神道になったわけでもなく、明治維新後の廃仏毀釈で菩提寺が廃寺になった結果だそうです。そしてAAメンバーとして何も疑問を持たずにキリスト教会に出入りしています。

夏にAAのイベントで使う宿泊研修施設の予約をしました。考えてみるとAAの宿泊イベントの予約を僕の名前でするのは初めてかもしれません。なんとなく心が緊張するものですね。
「私たちが運んでいるメッセージには未来の仲間の命が託されている。できないことをやれとは言わないが、できるのにやらない不作為は許されない」
何年も前に聞いた仲間の言葉を思い出しました。できることをすればいいのですね。


2006年03月25日(土) 配られたカード

ポーカーのようなカードゲームを考えて頂きたい。ホイストでもいいし、トランプが嫌いなら花札でもかまいません。麻雀でもいいです。
最初に手札が配られます。手札によっては勝利に近い「よい手」もあれば、とうてい勝ちは見込めない「悪い手」もあるわけです。手札が悪いからといって交換を要求することはできません。みな、与えられた条件でゲームに参加するのであります。
手が悪いからといって投げやりになれば、勝利はおぼつきません。手が良いからといって慢心すると、足下をすくわれます。どのポジションからも努力が欠かせないのであります。
良かったり悪かったり、それもゲームの綾であります。

「配られたカードですから」という言葉を僕に贈ってくれた、先ゆく仲間がいます。
ただそれだけの言葉でありました。

家族がいるとかいないとか、仕事があるとかないとか、借金や他の病気の有無、病気の軽重、ミーティング会場の近い遠い、周囲の理解・・・。私たちがソーバーを目指すにあたって、メンバー一人ひとりの条件は、皆違っています。恵まれている人もいれば、困難な人もいます。隣の芝生はいつも青く見えます。
しかしそれは「配られたカード」であります。ぶつぶつ文句を言っても始まりません。与えられたコンディションで最善を目指すほかありません。

僕らはバケツリレーのように経験と知恵を手渡ししていきます。だから僕もこの「配られたカード」という言葉を贈りたいと思います。

パ・リーグが開幕しました。残念ながらわが楽天野球団に今季初勝利は訪れませんでした。
野村監督の言葉に(引用でしょうが)、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というのがあります。
うまくいくときには「たまたま」があり、失敗にはかならず原因がある。ソブラエティも同じだと思います。結果として幸運に支えられて「飲まない」が続くことがあります。が、結果に慢心すれば失敗が待っています。結果にとらわれるとプロセスが見えなくなります。

『ビルはこう思う』を全部丹念に読む機会がありました。神さまは、時に人を、他の人より困難な道に導くことがある。だから結果がなかなか出ない時もあるけれど、どんなときでも結果が重要なのではなく、努力することが大切なのだとビルは説きます。
なかなかソーバーにたどり着けない人に対して、時に人はとても冷たくなります。自分に配られたカードがたまたま良い手だったから結果が出ただけだと謙遜することは簡単にはできません。

「1年経つまでは病気が飲ませているのだ。でも1年経った後は本人の責任」

そういう言葉ももらいました。「酒をやめているだけじゃダメなんだ」という理屈はもっともですが、上を見て背伸びをして歩けばたいてい転びます。回復や成長なんてものは、自分が望んでいるよりはずっとゆっくりしたものなのですから。
それに、辛い時、苦しい時にしか、プログラムに取り組もうとは思わないですし。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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