心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年01月19日(木) お休み

仕事を休んで子供の授業参観に行きました。
妻が出られないので、僕が仕事を休んででも2回に1回は出ることにしています。
今回は時間の前半を次女の授業を見て、後半を長女の授業を見、そして次女のほうのPTA懇親会に出ました。来年度の役員を決めるので、ぜひ出席して欲しいという話だったのですが、いざ出てみると来年度の役員は事前の根回しによってほぼ決まっているようでした。
話題は子供の安全について・・・。昨今の事件を受けてと言うことでありましょうが、途中で失礼してしまいました。話している内容は大事なことだとは理解しているのですが、「論議が合理的だからといって、意味があるとは限らない」という言葉を思い出してしまいました。外へ出てみると、懇親会が続いているのはこのクラスだけでした。

長女のほうの懇親会にはおかげで出られなかったわけですが、資料に「9歳の壁」ということが書かれていました。小学校3年か4年ぐらいで学力にばらつきが大きくなってくること。それは学習の対象が具象的なことから(多少なりとも)抽象的なことを取り扱うことへ移っていくことがひとつの要因だそうであります。
また、親が宿題を教えてあげられるのがだんだん困難になってくるのも9〜10才ぐらいなのだとか。たしかに、最大公約数とか言われても、えーとどうやってやるんだっけなと一拍おかないと出てこない自分であります。

子供と一緒に安全について話し合い、子供と一緒に分数の勉強をするということが、これからの自分に求められているのかも知れません。

夜は病院メッセージへ。山奥(といったら失礼か)に住んでいて入院を繰り返した人が、福祉事務所と病院と相談した結果、今度は里に出てきて自助グループ通いをすることが決まったそうであります。(都会ならともかく長野では)何年か前なら考えられなかったことであります。酒をやめることは生計を立てるより大切だなんて価値観はどこを叩いても出てきはしなかったものです。背景には飲みながら生計を立ててもいずれダメになってしまった実例がたくさんあったのでありましょうが。
時代は変わります。変わらないこともあるし、悪い方に変わることもあるけれど、良く変わることだってあるのだ思いました。

この週末はセンター試験なのでしょうか。自分の共通一次試験の時を思い出します。前の晩はなかなか眠れなくて、ワンカップを二本飲んで寝たのでした。あのときは、酒は頼りになる友達だと思っていたのでありますが。


2006年01月17日(火) 宮崎君ちのツトム君上告棄却に思う

今日のニュースは、阪神淡路震災11年とか、ライブドアとか、いろいろ目白押しでありましたが、やはり僕の目に行ったのは「宮崎勤被告に死刑・連続幼女殺害事件で最高裁が上告棄却」というところでしょうか。

三つに割れた精神鑑定だとか、子供をターゲットにした殺人事件の象徴的存在だとか、いろいろな文脈で書くことが出来るとは思うのですが、僕にとっては「僕と彼は同じ時代を生きてきたのだな」という感慨が大きいです。

事件が起きたのが17年前だそうですから、ちょうど昭和から平成に変わる頃でしょうか。僕は調布にいて、何回かの転居の最後の1回をすませた時期でした。引っ越ししたいという欲求はなかったのですが、外で飲んで帰る途中でアパートの鍵をなくしてしまい、トイレの窓を外して自分の部屋に侵入を試みた結果、水洗便所のタンクを破壊してしまい、大家から「あんたはトラブルばっかりだから出て行ってくれ」とたたき出された結果でした。

今田勇子の名前で犯行声明が送られたりして、センセーショナルに世間を沸かせていた割には、警察はなかなか犯人を逮捕することが出来ませんでした。手がかりがない中で、警察が取った手段が大量の捜査員を動員しての、不審人物・危険人物の聞き込みと割り出しでした。記憶に頼って書いているので正確ではないかもしれませんが、捜査線上に上った不審人物は800人に上ると聞きます。そして後になって僕は、自分もその800人の一人であったことを知るわけです。
僕の場合には、飲むための金を捻出するために、当時本棚の本を順次古本屋に売っているところでした。コンピューターの本なんて当時は価値はゼロだし、SFやミステリーの本も売ったところでたいした金にはなりません。昔も今も、安定した値段で買ってもらえるのはエロ本であります。それもどこの本屋でも買えるような種類のものじゃなく、入手経路が限られているもののほうが良い値が付きます。あとは想像におまかせします。
古本屋に本を売るときには身分証明が必要です。当時は免許証も保険証も持っていなかったのですが、水道料金の請求書なんかでも古本屋は納得してくれました。
いつも怪しげな本を売りに来る、身なりの汚い、目つきの怪しい男ということで、リストアップされたのかなと思います。そういえば酒を買いに行くのに警官に後をつけられたこともありました。

当時はまだインターネット以前ですが、それでもコンピューターネットワークはあって、結構みんな大変な思いをしていることが知れてきました。森伸之の「東京女子校制服図鑑」なんかが出た後で、アパートの押し入れに制服を数百着コレクションしていた男が警察に事情聴取を受け、それが勤務先に知れてクビになった話だとか、マンガ書店で手提げ袋に二袋本をまとめ買いして帰ったら、警官に自宅まで尾行されて近所の噂になった話だとか、まあネット上の噂の真偽が怪しいのは今も昔も変わりませんが。

でもそんな警察の捜査が功を奏して、犯人逮捕につながるのであります。彼が撮影した写真をDPEに出していた写真屋の店主から、いつもテニスコートを盗撮した写真を持ち込んでいる人物がいるという話が出たのが発端だと聞いています。(もっといろんな写真を現像してたんじゃないかという話はともかく)。

その話を聞いて皆が奇妙に思ったのが、なぜそんなすぐ足がつくようなことをしたのだろうかということであります。ミニラボの機械が普及して、なんでもかんでも現像印画してしまう今と違って、当時はプロ意識のはっきりした写真屋はエロ写真なんか紙焼きしてくれませんでした。下手に「コマが飛んでるんだけど」なんて文句を言っても軽蔑のまなざしを向けられるだけでした。

ちょっと現像にためらいがあるような写真は、新宿の大型カメラ店なんかが便利でありまして、一応名前と電話番号を書かされるのですが、もちろん偽名と偽番号でもかまいはしません。仕上がったものは名前のあいうえお順に並んでいるので、自分でそれを取ってレジに持って行ってお金を支払えば、だれも中身のチェックなどしませんでした。
数日経っても依頼人が受け取りに現れない写真は、片隅にまとめておかれており、それからランダムに抜き取ってレジに持って行き、引換券はときかれたら「なくしちゃった」と言えば、店のほうも金を取りっぱぐれるよりはと渡してくれました。後になって本当の持ち主が現れたとしても、「取りに来られないので処分してしまいました」でおしまいであります。
だから怪しげな写真目当てに、他人の写真を金を払って引き取ってくるなんていう遊びをして人もいました。

そんなことは「おたく」と呼ばれる人たちの間では常識に近いものであり、おたくというのは集積した知識をひけらかすことを面目としているので、つきあっていれば知りたくても知りたくなくてもそういう知識だけは貯まっていくものであります。
そういう知を持っていなかったという点で、彼の現実認識は歪んでいるのではないかという議論は当時もありました。

それはともかくとして、この事件は当時多少美化されつつあった「ロリコン=小児愛」というものを、実は実現すれば恐ろしいものという認識に転換したポイントであったように思います。少女が大人の男の(肉体的)愛情を受け止められるわけもなく、同じく少年が大人の女の愛情を受け止められるわけもないという、関係が成り立つというのは幻想でしかないことを明らかにした事件であったのではないかと。
少女と仲良くなって、やがて薬を飲ませていたずらをするとい筋書きのビデオが堂々と売られていた時代でしたが、そうしたものはあっという間に非合法化されました。もちろん前述のカメラ屋の手続きも変わりました。

そうした厳格化の波も、援助交際という名前の少女売春が社会問題化する中で、「子供を守らなくては」という文脈で同一化して語られたおかげで、逆に拡散してしまったのではないかと思うのですが、その話は宮崎君から離れるのでおいておきます。

昨年末に彼が外部に送った手紙には、「(今年の夏の)コミックマーケットのカタログを送って欲しい」と書かれていたそうです。結局彼は現実認識を変えずに世を去るのかも知れません。小児愛を夢想する人と、それを実行に移す人の間に、明確な壁があるのかどうか、いまだに僕にはわからないままです。自分の遺伝子の(たぶん)コピーを作ってみてわかったことは、子供は天使なんかじゃないと言うことです。その中は良い情念も暗い情念も渦巻く一個の人間であります。

結論があって書き出した文章ではないので、もちろん結びの言葉は思いつきません。おたくとはアグレッシブなものです。彼はそれを暴力という形で表出した。
最近では引きこもりもアディクションのひとつだという説が勢いを増しています。それについては不勉強なのでわかりません。
でもなんとなく、おたくと引きこもりというのは排他的なような気がします。おたくの定義にもよるか。
まあ、素人の戯言です。たまには論評みたいなことを書いてみたかっただけです。


2006年01月16日(月) 水難?

会社から自宅のパソコンの状態をチェックしてみたら、CPU温度が90℃ぐらいありました。本来ですと無負荷の状態なら、50数℃が正常値です。そういえば最近無負荷なのにCPU温度が70℃近くまで上がったことがあって、気になっていたのですが忙しさ(?)にかまけて(というか怠けて)ほったらかしになっておりました。
自宅の室内ではアラーム音がうるさく鳴り響いていることでしょう。90℃ともなると、中を循環している冷却水の気化が始まって圧が上がっているはずです。このまま上昇を続ければ、また年末年始みたいに漏水事故を起こしかねません。とりあえずリモートから打てる手段はシャットダウンだけです。
仕事を終えて、AAミーティングに出て、夕食を済ませてから帰宅すると9時半ごろでした。
パソコンの電源を入れてみると、まったく水が循環せず、すぐにCPUが100℃を超えて緊急シャットダウンしてしまいました。また水が足りなくなってキャビテーションが起きているかと思って水量をチェックしてみますが異常はありません。
あんまりミーティングのあった夜にするべき作業じゃないなと思いながらも、ウォータージャケットをCPUから外して分解してみました。水の中を回転するローターには金属ゴミが付着し、ジャケット内の水には埃が混じっています。でも通電してみればちゃんとローターは回っています。ジャケットを水で丸洗いしてみたり、ラジエーターまで分解してみたりしたのですが、2時間半後にわかったことは、理由ははっきりとは分からないものの、なんとなく水の循環をするのに抵抗が大きくて、ポンプの力がふそくして水をただかき混ぜている状態になっていることです。
どこからか埃が入り込んで、ラジエーターが目詰まりしてしまっているのだろうと想像しますが、確信はありません。ただはっきりしていることは、購入後10ヶ月目でCPUの水冷システムは埋め立てゴミになり果てたと言うことです。自分で分解しているのでメーカー保証も効きません。
それから9月の引っ越しでどこかへいってしまった空冷のファンを探し出してきて取り付けるのに1時間。

さて寝ようと居間へ上がってきてみると、雨が降っていて干しっぱなしだった洗濯物が濡れていました。
1万円以上した水冷システムが1年持たずにゴミになり果てる。頭に来て当然なのかも知れませんが、トラブルも含めて楽しめるようでなければパソコンマニアはやっていられません。「今年は水難の年だな」と思いながらも、昨日のプールは無事済んだからよしとしようかと自分に言い聞かせるのでした。

雪で車がつぶれた仲間からは保険で修理がきくという連絡を頂きました。
NFLではピッツバーグ・スティーラーズがコルツを破っています。ロスリスバーガーはモンタナ以来の天才ではないかと思ったりします。あと2週間で野球のプレシーズンが始まります。


2006年01月15日(日) five miles square is filled with fog

これがブログならトラックバックするところなのでしょうが、あいにく日々雑記はブログでないので、リンクできません。五里霧中という成句については こちら を参照してください。

市民プールで4時間も遊んでしまいました。おまけにまた来月遊びに行く約束もしてしまいました。子供たちは半額の割引券を持っているし、僕は障害者手帳で無料にしてもらっているので、それほど高くつく予定ではないのですが、中でラーメンを食べたり、お風呂の後にアイスクリームを食べたりしていると、財布の中身も体力も結構消耗するのでありました。
子供と遊ぶのは無駄だとは最近思わなくなりました(以前は時間がもったいないというのが正直な気持ちでありました)。娘たちが父親と喜んで遊んでくれるのも後何年かでしょう。そのうちに父親の下着は別の洗濯機で洗ってくれと言うようになり、口をきけば「金をくれ」ということになるのやもしれません。

最近断酒系の掲示板の投稿数が、以前と比較して減ってきているような気がします。
実際に数値を比較しているわけじゃないですが、以前だったら投稿数が多くてROM(読んでるだけの参加)すらできなかったところが、とりあえず毎日の投稿を追っていけるようになったというあたりが根拠だったりします。

その理由はやっぱりブログの流行なんだろうなと思います。
ブログを配信しているアルコホーリクは1年前、2年前とくらべてとても増えました。しかし、人間の持っている時間は有限であります。すると、あるところに文章を書けば、別のところに書く時間がなくなるわけであります。自分のところの更新をまめにしようと思えば、人様のところに書く量は減らざるを得ないのではないか・・・そんなことを思うのであります。
別にそれが良いことだとも悪いことだとも思いません。

人様のブログを過去から現在に向かって継続的に読んでいくと、つくづく「ブログというものはリアルタイムに読むものだな」と思うのであります。なぜかを説明するのは難しいのですが、日記と違ってブログにはトラックバックやコメントというダイナミックさがあり、その楽しみは後からまとめて読むときには伝わりにくいもののような気がします。

明日からは1時間だけですが午前中の勤務が復活します。休職してから1年間、長い道のりでありましたが、振り返ってみれば1年なんていつでもあっという間であります。


2006年01月14日(土) 囚われているのか?

お腹を下しています。ゲリピーというやつであります(食事中の方すみません)。
以前は、こうしょっちゅうお腹を下すのは、過敏性大腸炎(つまりストレス性)であり、自分の生活がとってもストレスフルで、大変な人生を歩んでいるかわいそうな奴なんだと、自分を慰める材料にしていました。
最近になって、過労気味になるとお腹を下してしまうという因果関係がだんだんはっきりしてきました。若くないくせにたいした運動もせず、体力が衰えているのに無理をすると、すぐに過労になってしまいます。だから別に仕事が(極端に)大変だというわけではありません。
夜中にNFLのポストシーズンの試合を見ていたりするのがいけないのでしょう。
体が疲れていても、パソコンの前に座ると、血圧が上昇しアドレナリンが分泌されて「戦う自分」になってしまいます。だからよけい疲れます。それが証拠に、ノートパソコンが壊れた日の翌日は、さわやかな目覚めでした。
お腹を下していると、体重が急降下するので良いなどと言っていられません。過労でダイエット。そういえば中島らもが「病気でダイエット」を唱えていましたっけ。

疲れていると、コタツでのお昼寝がとっても気持ちが良いです。ぐっすり寝てしまうと、体のあちこちが痛くなるので要注意です。熟睡せずうとうととしているのが何とも気持ちよいのであります。

ひさしぶりのうたた寝だったので、そのまま寝ていたかったのですが、夕方になり地区委員会へ。もう役割は降りているので発言すべきことはあまりないはずなのですが、つい口を出したくなる自分がいます。ミーティング案内地図の増刷の計画を相談。

パソコンが(ソフト的に)壊れたらしいので、治し方を教えてくれと頼まれたので、それに使うためにノートパソコンをウルトラベースごと持って行きました。が、その人は欠席だというので、理由を聞いてみると、カーポートに積もった雪に、今日の暖かい雨が降り注いだおかげで重くなり、カーポートがつぶれ、下にあった新車のマークXもつぶれてしまったとか。
自動車保険には詳しくないのですが、こういう場合に保険金が下りるかどうかは微妙かもしれません。車両保険といっても、全部の損害を担保してくれるわけでなく、車の衝突(事故)についての損害だけという種類もあります。車が盗まれたとか、火事にあったという場合は、保証の範囲外というわけです。全損害担保という種類なら安心ですが、今回の大雪のような大規模の天災の場合にはダメという条項もあります。さらに、カーポートの雪下ろしをしなかったのは、善良なる管理者の注意義務を守っていなかったという主張が出るかもしれません。
仲間のこれからの難儀を思えば、ノートパソコンの重さをぶつぶつ文句を言ってはだめだと思い直しました。

明日は子供たちと市民プールであります。

ブログ アルコホリックの生活 を読ませていただいています。


2006年01月13日(金) 腕時計

去年十月に本社に出張した際に、腕時計をなくしました。
僕は会議中とか、パソコンを打っている時には、腕時計を外しています。だから、会議室に忘れてきたのかも知れませんし、上着のポケットに入れておいたのを駅のトイレに寄った時に落としてしまったのかも知れません。
いずれにせよ、気が付いたのは帰りに町田の駅まで来てからでした。どこにあるのかもわからないものを取りに帰るのは面倒だったので、そのまま帰宅してしまいました。
パソコンは(電源が入っていれば)時計をいつも表示してくれるし、車のメーターの中にも時計はあります。携帯電話も時計を表示してくれています。車のメーターはいつのまにか1分か2分進んじゃっていることがあるのですが、まあ遅れるよりはいいでしょう。
パソコンの時計は、設定さえ適切ならタイムサーバーと同期して、時刻表示はいつも正確です。ちなみに英語の timeserver には「日和見主義者」という意味があるのだそうです。携帯電話の時計は、cdmaOne/2000の仕様上GPSを使って同期していますから、これも正確です。
自動車通勤の自分に、いつも時間が微妙にずれている腕時計はあまり必要ではないということであります。
AAのミーティングも、僕が行く範囲のところは壁に掛け時計が掛かっています。

しかし会議中でも、AAのミーティング中でも、掛け時計を見上げたり、携帯電話を取り出してみたりするのは、いかにも時間を気にしていますという風情であまり良くないなと思うのであります。まあそういうことを気にしすぎるのも良くないのかも知れませんが。
腕時計なら、さりげなく目をやることができます。

正月にパソコンのビデオカードを壊して、秋葉原の通販ショップに買い換えの注文を出しました。値段は価格.comで調べて一番安いところにしました。ついでに無線LANカードを注文し、ショップ内をさまよっているうちに、電波時計式の腕時計を四千円でみつけたので、とりあえずそれも頼んでおきました。
クレジットカードが使えなくて、銀行振り込み後の発送の店であります。しかもネットショップ嬢では在庫有りと表示しているにもかかわらず、発送には数日かかると案内がありました。どうやら客から送金があってから、問屋に注文を出して、それを発送しているようです。集客は価格.comで最も安い値段を付けることで行い、現金決済することで資金を早く回すことで成り立っている店なのかも知れません。
しかし、3つ頼んだものが、調達の関係からか3回に分けて届きました。だからといって送料が3倍請求されるわけでもありません。送料もバカにならないだろうにと思うのでありますが、まあ人のことであります。
これからは、最安値のこの店と、在庫数まで表示していてその日のうちに発送してくれる別の店と使い分けていくことにします。

というわけで、元日に頼んだ時計がやっと届きました。通販なので届いてみるまでどんなものなのか分かりません。四千円の時計に高級感は期待していなかったものの、なんだかムーブメントがとても厚いです。電波の受信部がかさばっているのかも知れません。
時計あわせのための電波の受信は午前3時と4時に行われます。知らなかったのですが、受信には2分〜13分もかかるのだそうです。実際に手動で強制受信してみたら、5分ぐらいかかりました。腕時計を身につけて腕を動かしていると、あまりうまく受信できないようです。深夜に起きて働いているという人には向いていない時計なのかも知れません。
いったいいつまで失くさないでいられるのやら。


2006年01月12日(木) 折り合いを付ける

ある人に『どうやって飲まないでいるか』をプレゼントしようと思ったのですが、手元に一冊しかないために補充をオフィスに注文することにしました。都市部の人なら、しょっちゅうAAのイベントがあって、そこで書籍も売っているでしょうから、そこで買えば送料がかかりません。
しかし自分はそんなにAAのイベントに出る方ではありません。先日も「ビッグブックの集い」でお会いした10年先を行く仲間から「月に5回日曜日があったとしたら、最低でも3回は家のことか家族サービスをして、AAは2回までにしておきなさい」というサジェスチョンをもらったのですが、僕の答えは「月に2回もAAに行かないですよ」というものでした。
まあ、ともかく田舎にいる人間は、郵送してもらうしかないわけなので、できればまとめ買いをして送料を節約しようと思うのであります。最近は『成年に達する』の新版が出ています。それからJSOのページのカタログを見ると『信じるようになった』が改訂版になっています。この2冊を加え、それから細かいパンフレットを足して注文を出しておきました。
夜中にFAXで注文をしておくと、翌々日には届きます。届いた包みを開けてみたら、『信じるようになった』が旧版でありました。JSOの出版と、セントラルオフィスの本の在庫の関係で、端境期に注文を出すと古い本が届くことがあるとは知っていました。でも、
(改訂版を手にするのを楽しみにしていたのに)
という思いは消えません。
いままでそういう事実に対しての僕の意見は、「いいじゃないか同じ本なんだし、細かいことを言うなよ」というものでありました。何事も自分の身に起きてみなければ、本当の意味はわからないということでありましょう。

出勤前に郵便局によって代金の送金を済ませました。ソブラエティ1年目、2年目あたりは、送金せずに何週間もほったらかしということがよくありました。グループで買ったものなんかは、会計係からお金をもらってからとか考えて遅らせたり、単に郵便局に行くのが面倒で遅らせたりしているうちに、オフィスから催促のお手紙をもらったりしました。BOX-916の代金なんかも何ヶ月分かまとめて払うのが常態になってしまいました。
最近ではなるべく早く郵便局へ行くようにしています。ひとつにはオフィスの財政状況を知るようになったこと、それから面倒なことは早く済ませたほうが自分が楽だということでありましょうか。
古い本を手に入れるのも、オフィスにいるのも同じ人間なんだということを、考えられない。考えてもそれが行動に結びつかない、そういう自分であります。

同じ日に、ACA(アダルトチルドレン・アノニマス)に頼んでおいた『ACのための12のステップ』が届きました。いままで「ACって概念がよくわからないんですよ」とうそぶいていた僕ですが、まあアルコールの問題に見通しがつくまで棚上げしておいたと言うのが本当のところでしょうか。
それにACの問題に12ステップが「効く」ということに確信が持てなかったというのもあります。
忙しく食事をしながら2〜3ページめくって読んだだけですが、他者の承認を求めようとする傾向とか、過剰に責任を取ろうとする傾向とかいう言葉や、棚卸し表や祈りを読んでいるうちに、何かインスピレーションのようなものが与えられたような気がしました。
これは自分の問題として取り組んだ方が良いのでは?
キーワードは、12ステップ・スピリチャリティ・祈り・仲間・諏訪、そんなところでしょうか。
でもまあ導きが与えられたと思ったら、相談してみるべきだという提案があります。誰かに相談する前に自分が飽きてしまうのなら、それはまだ時期がこなかったということでありましょう。
成り行きに任せて、現実と折り合いをつけていくというのは、なかなか難しいことであります。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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