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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2014年12月31日(水) それでもなお・・・ 人は不合理、非論理、利己的です
それでもなお、人を愛しなさい
あなたが善を行うと、
利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
それでもなお、善を行いなさい
目的を達しようとするとき、
不実な友だちと本物の敵に出会うでしょう
それでもなお、やり遂げなさい
善い行いをしても、
おそらく次の日には忘れられるでしょう
それでもなお、し続けなさい
あなたの正直さと誠実さとが、あなたへの攻撃を招くでしょう
それでもなお、正直で誠実であり続けなさい
何年もかけて作り上げたものが、一晩で壊されるでしょう
それでもなお、作り続けなさい
本当に助けを必要とする人たちも、
助けたあなたに恩知らずの仕打ちをするでしょう
それでもなお、助け続けなさい
あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい
たとえそれが十分でなくても
それでもなお、最良のものをこの世界に与え続けなさい
最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです
あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです
−−−−
マザー・テレサによるとされる詩ですが、調べていくとアメリカの元官僚ケント・M・キースによる「逆説の10ヵ条」が元になっていることが分かりました。なぜそれがマザー・テレサのものとされたのか調べ、それをネタに久しぶりに「心の家路」の更新をしました。こちらです。
それでもなお - ANYWAY
http://www.ieji.org/archive/anyway.html
マザー・テレサのものは「人を助けることについて」、キースのものは「リーダーシップについて」と、この二つはかなり趣が異なりますが、相通じるものだと再認識しました。
詳しいことは省きますが、今年ほど「人を助けることについて」また「リーダーシップとは何か」について考えた一年は過去になかったように思います。
今年は仏教の本を読みましたが、「人間の本質は自己中心である」だと説くのは仏教も他の宗教も変わりありません。ならば一人で生きていければ楽なのでしょうが、(数少ない例外を除けば)人間は一人では生きていけず、群れて社会を作って生きていくしかありません。自己中心的な存在が群れて生きていかざるを得ないところに難しさがあるのでしょう(ヤマアラシのジレンマ)。
12ステップの3番目で、私たちは「意志と生き方」をゆだねます。「生き方」とは人生そのものです。つまり、ステップ3を伝えるためには、伝える側が「人生とは何か」を知っていなければなりません。
そんなことも含めて、年の最後に、すべての援助者の人と、すべてのリーダーのために、「それでもなお(ANYWAY)」を紹介させていただきました。
今年も1年ありがとうございました。
今年一年の統計データ(Webalizer出力データ)
送出バイト数 227.0Gbytes
訪問者数 106万7千
リクエストページ数 1191万
リクエストファイル数 1283万
リクエスト数 1347万
一日あたりの訪問者数 2923人/日
(FC2ブログはカウンターを設置していないので不明)。
滅多に更新しなくなったせいで、アクセスもやや減りました。更新のために久しぶりにHTMLエディタを開いたら、使い方を忘れていて戸惑いました。最近は wikiのほうばかりいじっています。来年以降は完全にwikiに移行するかもしれません。
紅白にサザンが出ていましたね。ではではまた来年。
2014年12月11日(木) 人に属する 関東に越してきて、こちらのAAミーティングに多少なりとも顔を出しています。いろいろ忙しくてたくさんのミーティングには出席できていないのが残念です。それでもいくつかの会場を覗いてみて、数年前とは雰囲気やミーティングの進め方が変わっているところが多いことに気づかされました。
変化が起きたグループは、数年前とはメンバーががらりと入れ替わったか、古いメンバーが残っていたとしてもグループの運営が(ソーバーの長さが)若いメンバーに任されています。グループの雰囲気やミーティングの指向性は、運営を主に担っているメンバーの意向が反映されるものです。個人のリーダーシップに任せずいろいろなことを皆で話し合って決めていくのがAAですが、現場で運営に当たっている人間次第の要素もあります。
考えてみれば、僕も長野で3つAAグループを立ち上げましたが、どれも僕がグループを離れると、僕がいた頃とは違った考え方、やり方を取るようになりました。それについて、僕は干渉して元に戻そうとは思いませんでした。その理由は、アルコホーリックは人から干渉を受けることを好まない、ってこともありますが、むしろ、責任を負っていない人間の勝手な発言は現場に迷惑だというのがメインです。AAグループを存続させていく責任は、そのグループのメンバー以外には背負えないからです。
僕はあくまで僕自身のために一日一日、より素面になろうと生きてきたに過ぎません。何らかのパワー(例えば人への影響力とか)を身につける事を目的にしてきたわけではありません。しかし、どこの団体でもそうでしょうが、一つの団体の中で10年、20年と過ごしていくと、経験の長さがその人の言葉に何らかの重みを与えるようになります。それはAAとて例外ではなく、無責任なことは言えなくなってくるものです。(そのことに無自覚な人もいるし、自分の言葉に影響力がないのを恨む人もいるけどね)。
同じグループに長く留まりながら、新しい人たちにグループの運営を任せ、やり方が変わって行くのを口出しせず、静かに見守っていられる人はたいしたものだと思います。それができないのなら、別のグループに移るべきだとも思うんですけどね。
ともあれ、現実面でのやり方や方向性は、運営している人間次第ということです。そういったものは「人に属している」というわけだ。だから、人が入れ替われば、どんどん変化していって当然です。
AAは変化することが良いのでしょう。人が入れ替わっても、変化させずにとどめようとすれば、自然な変化を押しとどめるための強制力が必要になる。その強制力を「規則」を作ることによってもたらそうとすれば、AAは妙なことになってしまうでしょう。
だからといって、どんな変化が起きていっても良いわけではなく、AAがAAであるために必要な原理は受け継がれていかなければなりません。人から人へと手渡していく、述べ伝えていく、というやり方はうまく働きません。伝言ゲームと同じことが起きるだけです。だから、AAはビッグブックのようなテキストを用意し、一人ひとりがそのテキストから学ぶことで、原理が変わらずに受け継いでいけるようにしているわけです。
どんなにAAを愛する人であっても、いつかはAAを離れねばなりません。自分がAAを離れた後も、自分の考え方ややり方を受け継いでいって欲しい、と思うのは単なる利己主義でしょう。であるものの、AAがAAであるための原理は受け継がれていって欲しいものです。人は必ず滅ぶし、人の集まりであるAAグループもまたしかり。でも、AAという共同体は未来へと続いていって欲しいと願っているのです。共同体にも、テキスト本にも同じ「AA」という名前を付けたのは、そんな意図が込められているのかもしれませんね。
2014年10月11日(土) 一人ひとりの自由な解釈 最近は「心の家路」を更新する時間もあまり取れず、更新したとしてもwikiの方ばっかりでした。おかげで、この「日々雑記」は何ヶ月も更新されないままになっていました。ほったらかしにするのも良くないのでは、というご意見もいただきましたので、これからは月に何回かの更新を心がけたいと思います。
さて、AAプログラムをどのように解釈しようと、その人の自由である、とビル・Wは述べています。ここで、AAプログラムとは、たいていは「12のステップ」のことを指しているわけですが、当然同じことは12の伝統や、12の概念にも当てはまります(ただしその話は後回しにしましょう)。
ステップ4・5の棚卸しのやり方を取り上げてみても、たくさんの種類のやり方があります。どのやり方が正しく、どのやり方が間違っている・・と言うことはできません。
あえて言えば、人間は、自分に役に立ったやり方が「良いやり方だ」と評価する傾向があります。先日、AAのラウンドアップに参加しましたが、招かれた医師がこんな話をしていました。
「アルコール依存症の人で、私の病院を良い病院だと言ってくれる人がいる。それは、その人がこの病院に入院したことが、酒をやめるきっかけになったから、そう評価してくれるわけで、きっかけにならなかった人たちは違った評価をするだろう」
自分に利があるものを良しとする・・人は実にシンプルな評価基準を持っています。同じことは12ステップについても言えるでしょう。12ステップにいろいろな解釈があるなかで、自分を回復させてくれたやり方が「良いやり方」だと人は評価するでしょう。
試したやり方が一つだけの人は、そのやり方がベストだと言うでしょう。いくつか違ったやり方を試した人は、その中からどれかをベストに選ぶでしょう。人によってベストが違っている。だから、ステップをどのように解釈しても良いという自由がAAにはあるのでしょう。
僕はビッグブックをベースにしたやり方を自分で試し、人に勧めてもいるわけですが、それは僕がそれがベストだと信じているがゆえです。しかし、その気持ちが行き過ぎて、「このやり方が、他のどんなやり方よりも優れている」などと言いだしたとしたら、それは傲慢の極みでしょう。別の解釈があり得るということも認めなければなりませんし、時には積極的に今まで自分が試していなかった考えを取り入れ、いままでの自分の考えを否定していくことをしないと進歩がありません。
AAのプログラムは自由に解釈して良い・・同時に、自分の選んだ解釈が自分に回復をもたらすかどうか、それも自分の責任です。自分の選んだ解釈で回復できなかったとしても、それはその人の責任に帰されることになるでしょう。
では、12の伝統はどうか? こちらも12のステップと同じように、一人ひとりが自由に解釈することになります。12の伝統についても、ある一つの解釈を人に押しつけ、他の考え方を否定するようなことをすれば、それは傲慢の極みです。
しかし、12の伝統は、一人のAAメンバーはもちろんのこと、集団に対して使われるものでもありますから、人によって解釈が異なって良い、とばかり言っていられません。人によって解釈が違っていては困る場合も出てくるでしょう。皆で共有できる解釈を作らねばなりません。そこでメンバーが集まって民主的に話し合い、決める必要があります。あるグループが決めたことと、別のグループが決めたことが違っている場合もあるでしょう。それで当然ですし、違っていても差し支えなければ、そのままにしておけばよいし、なにかの関係で共有する必要があれば、議論していけばよいでしょう。
AAでは、どんな集団でも、そのメンバーが時間の経過とともに入れ替わっていきます。また、集団を構成するメンバー一人ひとりの考え方も時間とともに変化していきます。だから、伝統の解釈にも変化が生じます。
例えば、僕がAAにつながったころは「AAがコマーシャルを流す」なんてことは考えられませんでした。そのような宣伝行為はAAにはふさわしくない、と多くの人が考えていました。しかし、インターネットを通じて諸外国の事情が触れられる時代になると、海外のAAのなかには広告を出したり、CMを作って流しているところが結構たくさんあることが分かってきました。そんなことも影響したのでしょう、やがて日本のAAもCMを作って流すようになったわけです。
これは12の伝統を変えてしまったのではありません。以前の解釈が間違っていて、それが正された・・・というわけでもありません。同じ「CM」という一つの事柄に対して、違った判断が示されうる、ということです。それはAAのプログラムの性質を考えれば当然のことで、何か一つの絶対的な基準があり得る、と考えるべきではないのです。
(よく言われるように、12の伝統は基準ではなく、一人ひとりが考えるための判断材料です)。
このように、12の伝統についても、自分で自由に解釈して良いものです。しかし、集団として共有できる解釈を議論しているときには、自分の考えが否定されることもあるでしょうが、それはそれで良いのではないでしょうか。
ところで、12の伝統を「人を非難する道具」に使う人もいるのが残念なことです。AAのプログラムは人を非難したり攻撃したりするためのものではないのですが、人はその誘惑に負けることがあります(僕にも当然その経験があります)。人間は誰しも完璧ではあり得ないのですから、そのような不完全さを受け入れ、理解するように努めていかなければなりません。
2014年07月22日(火) 変化への備え 依存症の人たちは「回復」という言葉を使います。回復とは何かを定義するのは難しいのですが、少なくとも「回復には変化が含まれる」ことは確かです。何も変えないで回復を得ることはあり得ないわけで、自分の中の何かが変わることが必要です。
「自分は、自分のままでいい」と言ってくれるやり方もありますが、そう言いながらも(中身を良く読んでみれば)自分を変えることを求めていることが分かります。
では私たちは、どうやって自分を変えたらよいのでしょうか?
Joe and Charlie の中に、「車を買い換えようと思うときに、あなたが一番最初にすることは何か?」という例え話が出てきます。車を持っていない人は、携帯電話でも、パソコンでも、冷蔵庫でも、何でもいま自分が持っているものを思い浮かべて、それを買い換える場面を想像してもらえばよいです。
多くの人の答えは、お金を用意すること(そのために宝くじを買う?)だったり、お店に行って車種を選ぶことだったりします。しかし、それよりもっと前にしなければならないことがあります。
それは「いま乗っている古い車を諦めること」です。オイルやタイヤを換えてみたら、まだまだ大丈夫じゃないか・・と思っているうちは、人は新しい車を買うことはありません。いまの車に乗り続けることをギブアップしてから、ようやく違うものを手に入れる行動が始まるのです。
同じことは自分自身についても言えます。自分が変わるためには、今のままの自分でいることにギブアップする必要があります。そのためには、過去に自分が積み上げてきた何かの価値を否定する必要も出てきます。
アルコホーリクが酒をやめるときについても、同じことは言えます。「まだまだ俺は酒を飲み続けても生きていける。大丈夫だ」と思っているうちは、酒をやめようとはしませんし、やめることによって得られる新しい幸せを得ることもありません。酒の種類や飲む場所を工夫して飲み続けることでしょう。その人にとって飲むことは価値があるのでしょうが、その価値を諦めることがまず必要です。
僕は年に何回か、ビッグブックに書かれた12ステップを1〜2日かけて説明するという企画に参加しています。ビッグブック(つまりアルコホーリクス・アノニマスという名の本)に書かれた12ステップにはいろいろな特徴がありますが、その一つはステップ4の棚卸表を「表形式」で書くことです。具体的にはp.94〜95にサンプルがあります。
このやり方が日本で広がる前には、「ライフストーリー形式」と呼ばれる書き方が定着していました(もちろん今でもある)。こちらはノートに自分の人生の物語を書いていくものです。思い出せる限りの昔から現在に至るまで、出来事を書き連ねていきます。
なぜ日本でライフストーリー形式が広がったのか、正確な事情は分かりません。もともとアメリカで始まったAAには表形式の棚卸しのやり方しかなかったものが、時代が下るに連れて多様化していったようです。例えばネットで検索してみれば カリフォルニア式 なる棚卸しガイドが見つかります。5年以上回復を続けてから、この180個ぐらいの質問に答えていくのだそうです。これはハードルが高いですね。
多様化したやり方の中の一つがストーリー形式で、アメリカにもストーリー形式の棚卸しがあった(ある)のだそうです。そして、そのやり方「だけ」が日本に伝えられ、それ以外のやり方が伝わってこなかった、ということだと思われます。
僕もストーリー形式の棚卸しをやった経験がありますが、もちろんそれにも良い点があります。そのことは否定すべきではないと思います。では、表形式と同じ効果が得られるか、と聞かれれば、答えはノーです(キッパリ)。
ビッグブックのステップを扱ったイベントに来る人たちは、12ステップによる回復を求めている人たちなのだと思います(少なくとも回復に関心はある人たちです)。ではあるものの、その後、その人たちがそのやり方の12ステップに取り組むとは限りません。
それまで12ステップの経験の無かった人の場合には、その後に取り組んだという話を聞くことが割りと多いように思います。しかし、すでにストーリー形式で棚卸しを経験した人で、改めて表形式で棚卸しをやってみる人は実はなかなか少ないのです。その理由はやはりすでに自分が経験した棚卸し(ストーリー形式)の価値を否定できず、捨てきれないからでしょう。
誰にとっても、それまで自分が積み上げてきたものの価値を否定するのはたやすくはありません。それが変化に対する抵抗を生みます。その抵抗が、回復の足枷となることもしばしばです。
12ステップに限らず、世の中には何かを伝える催しがたくさんあります。依存症の領域にも動機付け面接やCRAFTのような新しい手法が導入されつつあり、セミナーや研修が行われています。そうした研修に参加するのは新しい何かを手に入れるのが動機でしょう。参加して「目からウロコが落ちた」という感想を言う人がいます。こういう人は、自分がそれまで積み上げた何かの価値を(いったんは)さらりと否定する能力を備えています。一方、せっかく新しい手法の研修に来ているのに、「これまで自分がやってきた方法は間違いじゃなかったんだ」という感想を言う人もいます。こういう人は実に多いのですが、せっかく参加したセミナーや研修から何も得ないこと間違いなしです。実にもったいない。
何かを手に入れるためには、別の何かを手放さなければならない。人はこれから手に入れることのことばかり考えますが、むしろ何を手放すかを考えることが自分自身を変える始まりになるのです。
アルコホーリクはとりわけ変化に対する抵抗が強い人たちのようです。何かを変える必要があったとして、その必要を頭で(理屈で)分かっていたとしても、感情の面で「その気になれない」、というタイプが多いように思います。自分自身の過去の経験を振り返ってみても、そう言えます。
なぜ変化に抵抗するかと言えば、未経験のこと対して恐れ(不安)の気持ちが強いからでしょう。
ところが12ステップを経験した人の場合には、変化への抵抗が小さくなります。なぜなら、回復を経験したということは、即ち自分自身に起きた変化を経験したということです。執着のあった何かを手放して、別のもっと良いものを手に入れた経験を持っているからです。
もちろん回復しても不安はゼロにはなりません。なぜならもっと良いものが手に入るという100%の保証はないからです。けれど、こう考えることができるようようになります。変えてみて、ダメだったら元のやり方に戻せばいいし、もっと別の第三のやり方を試しても良い。ともあれ、もっと良いものを手に入れたかったら、いまのものを諦める必要があることを経験から納得し、変化への準備が整うのです。
新しい車の本当の価値はカタログの写真を眺めているだけでは分かりません。手に入れて使ってみてこそ実感できるものです。生き方もそれと同じこと。知識だけ得てみても、それに従って生きてみなければその良さを実感することはできません。
AAのサービス活動の現場でも、回復した人は何かを変えることに対して抵抗が少なく(ないとは言わない)、不安の強いままの人は抵抗が強いです。例えば「12の伝統」は、どんどん変わっていく世の中にAAが柔軟に対応していくために作られたものですが、不安の強い人は「12の伝統」を変化に抵抗するための道具として使ってしまいます。
あるノン・アルコホーリクの人に言われました。「今の日本のAAの中には非常に強い同調圧力が働いている。それは今の日本の社会を反映したものだ。もし日本のAAがその壁を打ち破ることができれば、多くの人がAAに魅力を感じてくれるでしょう」と。
確かに、今の日本のAAには、慣例と違ったことをすることに対して不寛容の雰囲気があり、人と違っていたり、何かを変えることに対してかなり強い拒否が起こります。だがそれは、何もAAに限ったことではありません。社会学者たちが指摘しているように、最近の若い世代の人たちの中に、人に認めてもらわなければ自分を愛することすら難しい人が増えています。友だちづきあいにしても、学校のクラスにしても、社会に出てからも、同調圧力に従い、集団から排除されないように(不安の中で)腐心しているのです。
だがそれは若い人たちの責任というより、そうした社会をつくってきた上の世代の大人達に原因があるのでしょう。そうした世の中は、革新が起こりにくく、ぬるま湯が冷えるように徐々に衰退していってしまうものです。
人の承認を得られるように常に気配りしながら生きていれば気疲れします。そんな妙に気疲れする集団(や社会)の中に生きていると、「自分は、自分のままでいい」という言葉に魅力を感じるのでしょう。なんか無条件で何でも承認してくれそうな感じがしますからね。
ただ強調しておきたいのは、同調圧力そのものが悪いのではないということです。むしろ同調圧力は必要なものです。問題なのは、私たちが承認欲求を暴走させ、満たされない不安を抱えたままで、周囲の同調圧力に過剰に反応して振り回されてしまっていることです。つまり問題は社会にあるのではなく、私たちの内側にあるのです。(そこが社会を扱う社会学者と、内面を扱う僕らの着目点の違いです)。
私たちの内面にある問題ならば、それは12ステップで解決できる可能性がありますし、実際に解決できるのです。同調圧力に怯えながら生きるのでもなく、集団からはみ出て孤立して生きるのでもなく、集団(社会)と自分の要求をバランス良く満たしながら生きていく。そうした生き方を12ステップは提供できるのです。
途中から話が変わっちゃいましたね。ではまた。
2014年07月07日(月) アダルト・チルドレンを理解するために 日本には、ある程度の数のミーティング会場を持つACのグループが3つあります。
・ACA(アダルト・チルドレン・アノニマス)
・ACODA(アダルト・チルドレン・オブ・ディスファンクショナル・ファミリーズ・アノニマス)
・ACoA(アダルトチルドレン・オブ・アルコホーリックス)
どれも12ステップを使っているグループですが、このうちACAとACODAは(おそらく)日本で始まったグループです。wikipedia によると、日本におけるAC文化の歴史は、1989年のクラウディア・ブラックの講演に端を発しているそうです。
とすると、ACAやACODAの誕生はおそらく1990年代ということになります。ACAが使っている12ステップの本の奥付には日本語版の初版が1998年に出版されたとあります。(ちなみに原著の英語版初版は1987年)。
回復の分野に20年以上いる人は、1990年代のアダルト・チルドレン・ブームを憶えていると思います。テレビで「アダルト・チルドレン」の言葉が使われ、ACバッシングまで起きたのでした。詳しい経緯はわかりませんが、ACブームと相前後して1990年代に日本でACAとACODAが誕生したと考えて差し支えないでしょう。(なんか資料を持っている人がいたら教えてください)。
さて、アダルト・チルドレンはアメリカから輸入された文化ですから、アメリカではすでに1980年代にはいくつもACのグループが存在したそうです。何種類の団体がどれぐらいの規模で活動していたのか僕の手元に情報はありません。ただ一つ知っていることは、その中の一つACoA(アダルトチルドレン・オブ・アルコホーリックス)が今でも世界的に活動している、ということです。
ACoAが日本で活動を始めたのが数年前からです。
ACA・ACODA・ACoAという三つのグループがあると、比べてみたくなるのが人情というものです。それぞれのサイトを見ると、「ACの特徴」を表した文章が載ったページが見つかります。
ACA - 問題 - http://aca-japan.org/docs/problem.html
ACODA - 機能不全家庭で育ったことにより共通して持つようになったと思われる特徴 - http://www.acoda.org/problem.htm
ACoA - ランドリーリスト - https://sites.google.com/site/acoajpn/acais/laundry_list
この三つの文章はどれもよく似ています。ランドリーリストは、ACoAを作ったTonny A.が1978年に書いたものだそうですから、ACAとACODAの文章は、ランドリーリストを参考に日本で作られたのだと思われます。
見比べてみると、違いに気がつきます。ACODAとACAは13個、ACoAは14個あります。最後の項目を見ると、
ACA - 13. わたしたちは、自ら行動する人ではなく反応する人である。
ACODA - 13. 自らの意図で行動するより反応する傾向がある。
ACoA - 14. パラアルコホーリックは、自ら行動する人というよりも反応する人である。
そして、ACoAには(他にはない)13番目の項目として、
ACoA - 13. アルコール依存症は家族の病気である。私たちはパラアルコホーリックになり、たとえ自分は飲まなくてもその病気の特徴を受け継いでいる。
というのが含まれています。
ACoAでは、アダルト・チルドレン(AC)はパラアルコホーリックだとしています。para というのはこの場合は「擬似」という意味ですから、擬似アルコホーリクという意味です。ACは依存症にならなくても、その特徴を親から受け継いでしまっている、と自らを規定しているわけです。
AC=擬似アルコホーリクと捉えることで、シンプルになります。アルコホーリクが12ステップで回復できるのなら、擬似アルコホーリクであるACも同じ12ステップで回復できる、という理屈が成り立つのですから。
では、日本のACAやACODAは、なぜパラアルコホーリックという言葉を削除し、ACを擬似アルコホーリクと規定することを避けたのでしょうか。その事情を、ACAやACODAを作った人たちに聞いてみたい気がしますが、今のところ機会に恵まれていません。
ACの概念は、日本に渡来して早々に、「アルコホーリックの子」という概念から「機能不全家庭の子」という概念にシフトしてしまいました。この変化の影響を受けたのではないかと思います。親がアルコホーリクではない人たちが「自分はACだ」だと名乗りだしたときに、
「あなたは擬似アルコホーリクです」
と伝えることは、役に立たないと思われたのではないでしょうか。アルコホーリクは否認が強いとされますが、それを言うならACも否認が強いのです。その否認の強いACにとって「アル中もどき」というのは、なおさら認めがたいから、パラアルコホーリクという言葉を避けるという配慮だったのではないか・・・と想像するわけです。あくまで想像ですけどね。
ただ、ACの特徴から「擬似アルコホーリク」を抜き去ってしまったおかげで、シンプルさが失われた部分もあります。
ACはアル中とは違うから、違う12ステップが必要なんだ・・みたいな話が出てくるのも、シンプルさが失われて複雑化してしまったせいではないかと思うのです。
もちろんACはアルコホーリクではないんです(だってアルコール依存症ではないでしょ?)。でも、アルコホーリクの特徴を受け継いでいるからこそ、アルコホーリクと同じ部分に同じ12ステップが効く。AC=擬似アルコホーリクである。そう考えてみたら、視野が広がり、回復の道も見えてくるのじゃないでしょうか。
2014年06月03日(火) 打たれ弱さ 久しぶりの雑記更新です。「心の家路」のアクセス数は昨年の半分ぐらいに落ち込んでいますが、雑記を更新しないのがその原因でしょう。なかなか雑記を書く時間が取れない、というのがその理由であります。
僕は精神病院からAAに戻ってきて、ひと月も経たないうちにスポンサーから「新しいAAグループを作れ」と言われ、東奔西走して(といっても市内だけだけど)なんとか会場を確保してAAグループを始めました。その時、県内のAAグループ全部と、近隣の断酒会を回り「新入りが新しいグループを始めますよ」と挨拶に回りました。
それ以降、10年以上に渡って、AA以外のグループにはほとんど出席したことがありませんでした。いわばAA純粋培養のソブラエティだったわけです。ところがある時引き受けたスポンシーが、毎日ミーティングに通わねばいつスリップするか分からないほど不安定な状態でした。田舎では通える範囲で毎晩AAミーティングがあるとは限りません。そこで、スポンシーにはAAのない晩は断酒会に通ってもらうことにしました。まず二人で断酒例会に参加して、「これから毎週この人が例会に参加しますので面倒みてやってください」と頭を下げたわけです。
頼み事をしておいて、頼みっぱなしというわけにもいきません。そこで時々は僕も断酒会の例会に参加しました。そして、薬物のスポンシーができればNAに、ギャンブルのスポンシーができればGAに、といろいろなグループのミーティングに行く機会が増えました。
そうやってAA以外のグループに参加してみると、比較することで、AAの長所も短所も見えてきます。今回の雑記ははAAの短所の一つについてです。
断酒会は夫婦での参加が基本だとされています。旦那さんがアルコール依存症というペアが多いでしょうが、独身の人の場合には母親と息子というパターンも珍しくないようです。「断酒例会は体験談に終始する」とありますが、体験を分かち合うのは依存症本人だけでなく、家族の人も話をします。家族の人は、本人の行いによって、迷惑を被り、悩まされ、傷つけられてきたわけですから、家族の体験談は「傷つけられた、悩まされた」という話題が多くなります。
迷惑をかけ、悩まし、傷つけてきた依存症者本人にしてみれば、家族の話は被害者の糾弾の声のように聞こえますから、罪悪感や自責の念を呼び起こすことになります。もちろん家族は本人を苦しめようと話をしているわけではなく、家族は自分自身のために話をしているわけです。
それに、酒を止めているアルコホーリクは「落ち着きがなく、イライラが強く、不機嫌である」というのはAA、断酒会の別を問わない共通認識ですから、あまり本人の罪悪感を刺激して酒を飲まれてしまったら元も子もありません。だから、家族としても気を使いつつ抑制した話しかしてないわけです。
飲んでいた頃や、やめた後の言動について、例え批判的なことを言われたとしても、ぶち切れたり、椅子を蹴って出ていったりするわけにもいきますまい。断酒の初期からそうした環境に置かれた断酒会員の人は、批判を受け止める力もつくし、自己評価と他者からの評価が食い違うことにも慣れます。いわば「打たれ強い」回復をしていきます。
AAは本人だけの集まりです。オープンミーティングは本人だけとは限りませんが、多くのオープンミーティングは家族の参加はゼロであるか、いたとしてもわずかです。だから、AAではアルコホーリクの言動によって「傷つけられた、悩まされた」という話をする家族はほとんどいない、とみなしてかまいません。
本人だけの集まりになってしまうと、どうしても「傷の舐めあい」的要素が混じってくるのは避けられません。人間の自尊心(セルフ・エスティーム)はその人自身の行いと連動します。良い行いをする人の自尊心は高く保たれ、悪い行いばかりしている人の自尊心は低くなります。アルコホーリクが自分のことをどう感じていたとしても、その人は飲んでやってきたことが悪いことだったと自覚していますから、自尊感情は低くなっています。
そういう新しい人をグループ受け止めるには「傷の舐めあい」的要素も実は結構役に立ちます。自尊感情が低くなっている人は、自分が非難される場所に通いたいとは思いません。非難されないことで、AAがその人にとって「安全な場所」と受け止められるのでしょう。
AAは自省を大事にします。「自分に正直になれ」と言われますし、ミーティングでは正直な話をしろと言われます。それは他者から指摘されるのではなく、自分で自分の欠点を見つけていくことを大事にしているからです。しかし、自分で自分を評価するのは、他者に評価されるのに比べて、甘い評価になるものです。人間誰しもそうで、アル中も例外ではありません。
わざわざ自分に罪悪感や自責の念を強く呼び起こすような考えを持とうとする人はいません。だから、過去のトラブルについて、自分のやったことは責任を軽く、相手が自分にしたことは責任を重く評価してしまうものです。そもそも悪いことは思い出さないでおくにこしたことはない、という戦略も使います。
そのままだと、多責的で、批判に弱く、自分と違った意見を許容できない、という飲んでいた頃そのままの性格が残ってしまいます。だからこそAAはスポンサーシップを大切にします。「スポンサーが厳しい」と言う人が多いのですが、それはスポンサーはその人の欠点を指摘する役割だからです。ステップ4・5の棚卸しを通じて、過去の行動がどのように他者を傷つけ、悩ませてきたか指摘する役割をスポンサーが担っています。12ステップを経験することで、バランスの取れた自己評価と、批判や自分と違った意見を受け止める力を身につけていけます。
AAメンバーの約半数はスポンサーを持っていませんし、持っていたとしても「悩んだときの相談役」ぐらいにしか捉えておらずスポンサーを活用していない人もいます。だから「打たれ弱い」回復をする人も少なくありません。打たれ弱いとは、批判を受けると強く落ち込んだり、批判を回避しようと大事なことを放棄してしまう傾向があるということです。AA内でサービスの役割に就いたり、何かのイベントの実行委員長に就いたとき、成功の基準が「批判や非難を受けないこと」だったりするわけです。価値基準が歪んでますよね。
AAのミーティングは「言いっぱなし、聞きっぱなし」とされ、対話やクロストークを排除しています。このことは分かちあいが非難の応報になるのを避ける点では都合がよく、参加者に「この場所が安全だ」と感じさせる利点があります。しかしながら世間は「言いっぱなし、聞きっぱなし」ではありません。休職が終わって復職したり、あらたに就職したりして、責任を負うようになると、注意や警告を受けたり、些細な失敗を指摘されることは避けられません。そのたびに激しく落ち込んでしまったり、興奮してしまうようでは、社会の中で生きていくのは大変です。
AAでミーティング中心で回復している人の中には、何年たっても「AAミーティングだけが安全な場所」だと感じている人もいます。その人にとっては職場も(ひょっとしたら家庭も)危険な場所なのでしょうか。人間には確かに安全な場所が必要です。それは荒海を航海する船にとっての港のようなものです。朝、家庭という港から出港し、職場という港に着く。夕方になればその港を出て、AAミーティングという港に行き、そしてそこを出て家庭という港に戻る。このように、港から港へと航行する人生は充実して幸せでしょう。しかし、AAミーティングという港しか持たない人にとっては、家庭や職場は批判という嵐が荒れ狂う海なのでしょうか。そうなってしまったのは、環境のせいではなく、自分を変えてこなかったからなんですけどね。
こんな感じで、本人だけの集まりであるAAでは、打たれ弱い回復になってしまいがちです。それを避けるためには厳しく回復をサポートしてくれるスポンサーの存在が欠かせないでしょう。
もちろん、AAでもオープンミーティングに家族がたくさん参加しているグループでは断酒会みたいな力関係が働きますし、断酒会でも本人中心の会だとAAみたいな感じになっちゃったりするでしょうから、AAでは、断酒会では、と単純化できるものではないですね。
ともあれ、AAというのはミーティングとスポンサーシップの組み合わせが必須のものだと思いますし、本人だけで「言いっぱなし、聞きっぱなし」のミーティングをやっているだけでは、足腰の強い回復を生み出すことは難しいのじゃないかと思うわけです。
2014年04月01日(火) しゃべりまくるんだ・・何を? ごめんねエイプリル・フールのネタじゃなくて真面目な話で・・・。
12ステップを伝えるときに、まずステップ1で必ず取り上げなければならないことが二つあります。
その一つは、ビッグブックの「医師の意見」の文章を書いたシルクワース医師が「身体のアレルギー」と呼んだものです。彼はアルコホーリク(つまりアルコール依存症の人)は、アルコールに対してアレルギー体質である、と述べています。
少しでも医学知識を持つ人は、これを聞いて疑問を持つに違いありません。現在ではアレルギーとは「免疫反応が特定の抗原に対して過剰に起こること」を指します。依存症は免疫の病気ではありません。彼は医師なのに、医学的にとんちんかんな主張をしている、と思われるでしょう。
しかし医学用語ではなく、アレルギーという言葉が一般的な英語としてどんな意味を持っているかを調べてみましょう。それには英英辞典を使うのがよろしい。手元にあるオックスフォードのワードパワー英英辞典を引いてみると、allergy の項にはこうあります。
a medical condition that makes you ill when you eat, touch or breathe sth that dones not normally make other people ill
つまり、他の人々にとっては問題がない何かを、ある人がそれを食べたり、触れたり、吸ったりすると具合の悪い状態がもたらされることです。
花粉症の人が花粉を吸うと具合の悪い状態がもたらされる。その害は、鼻水やくしゃみや目のかゆみです。しかし、花粉症じゃない人々にとっては、花粉は何ら問題にはなりません。これがアレルギーです。
同様に、アルコホーリクが酒を飲むと具合の悪い状態がもたらされる。しかし、アルコホーリクでは無い人にとっては、アルコールは何ら問題にはなりません。シルクワース医師はこれを指してアレルギーと呼びました。
では、その具合の悪い状態とは何か? 彼はそれを渇望と呼びました。アルコホーリクが酒を一杯飲むと、次の一杯が飲みたくなる「渇望」が沸き上がります。それによって二杯目を飲むと、どうしても三杯目が飲みたくなる・・・。こうしてアルコホーリクは酒の量をコントロールできずに飲み過ぎてしまいます。この渇望は意志の力で打ち勝つのが難しいほど強いのです。
しかしこの病気に理解のない世間一般は、アルコホーリクが酒を「飲み過ぎる」ことについて、こう思っています。アルコホーリクは、我慢しようという意志が弱い、快楽主義で心地よさを求めすぎている、酒に逃避している・・・。そういう面がないわけではないが、しかしそう思ってしまうのは病気への無理解ゆえ。誤解と偏見です。
シルクワース医師は、それはアレルギー同様の生理的現象だと述べています。花粉症の人が、鼻水やくしゃみが出るのは、意志が弱いからでしょうか? 快楽主義だからでしょうか? そんなことはありませんね。生理的現象に意志の力で打ち勝つのは難しいのです。例えば「下痢」という生理現象に意志の力で打ち勝てるでしょうか? しばらくは我慢できるかもしれませんが、いつかは堪えきれずに悲惨な結末を迎えます(意志の力で我慢しようとせずに早くトイレに行った方が良い)。
同様に意志の力で酒をコントロールする(節酒する)ことをアルコホーリクに求めるのは無理なことです。そのことを理解すると、それまでなんとか酒をコントロールして飲もうと努力してきた人も、飲酒を諦めて完全に酒を止めるしかない、と思うようになります。
もしアルコホーリクが、もう二度と酒を飲まないと決意して、それを一生続けることができたら、すばらしいことです。しかし多くのアルコホーリクが、二度と飲まないと誓い、周りの人にもそれを公言したにもかかわらず、再飲酒してしまいます。
多くの人たちが「ついうっかり」とか「魔が差した」などと表現しますが、飲み出せばいずれは渇望によって元の飲んだくれに戻ってしまうと分かっていながら、最初の一杯に手を出すのを避けられないわけです。その瞬間、私たちアルコホーリクの心は、正常な判断ができないほど不健康な状態に陥っています。つまり、狂気の瞬間が訪れてしまうわけです。
シルクワース医師はこれを指して「精神的強迫」あるいは「精神の強迫観念」と呼びました。しかしビッグブックが出版された時点ではその用語は確定していなかったようで、ビッグブックでは「最初の一杯の狂気」と呼んでいます。
普段は「もう二度と飲まない」という正常な判断ができている人なのに、長い人生のどこかで「飲む」という狂った判断をしてしまう。それを意志の力で防ぐことができない。それがこの依存症という病気の核心的な部分だというわけです。
それを理解できれば、その人は自分の力だけで酒を止めていくことを諦め、助けを求めるようになるでしょう。
身体のアレルギーと精神の強迫観念。この二つを認めることによって、その人は「アルコールに対して自分が無力である」ことを理解するのです。
アメリカでAAができて20年後に、『AA成年に達する』という本が出版されました。その中でビル・WはAAの初期を振り返ってこう書いています。
> ニューヨークでの初期のころを振り返ると、しばしばその情景の中心に、酒飲みを愛した温和な小柄な医師、ウィリアム・ダンカン・シルクワースの姿が見られる。彼は当時、ニューヨークのチャールズ・B・タウンズ病院の主任医師だったが、AAをまさに基礎づけてくれた人だと言える。私たちは彼からこの病気の本性を学んだ。彼は、アルコホーリクの頑固な自我(エゴ)をパンクさせるための道具を私たちに与えてくれた。それは、私たちの病気の特徴を述べた、あの衝撃的な文句である。飲まずにいられなくなる精神的強迫と、狂気か死を運命づける身体的アレルギーという……。これは絶対に必要なキーワードである。シルクワース博士は、希望のない暗黒の土地をどう耕すかを教えてくれた。まさにこの絶望の土地から、私たちのフェローシップのあらゆるスピリチュアル(霊的)な目覚めが花開いた。(『AA成年に達する』p.21)
二カ所の強調は原文のままです。身体的アレルギーと精神的強迫、このふたつは「絶対に欠かせない」とビルは述べています。この二つのキーワードからAA共同体が成長してきたのです。
最近かなり不安に思うのは、日本のAAはこの二つの概念を新しい人たちに伝えることがちゃんとできているのだろうか? という疑問です。その点が曖昧だと、新しくAAに来た人たちがステップ1に中途半端にしか取り組めなくなってしまいます。
もちろん、小難しい言葉を使って説明する必要はありません。先日も都内のあるミーティングで、年配のメンバーが難しい言葉を使わずに精神的強迫を説明しきってくれたことに、僕は舌を巻きました。けれど、意志の力で酒を止めていけるとか、AAという仲間の中にいれば酒を飲まずにいられる、と考えてしまっている人も少なくないのではないか・・・だとするなら、日本のAAから「絶対に欠かせないもの」が徐々に失われているのではないか・・まあ、あんまり心配するのは止めましょう。
まあ、もし減っているのならそれを補うように努めれば良いわけですが。
さて、AAのメッセージを運ぶというのは「12ステップを伝えていくことだ」というのは、そのとおりです。
しかし、物事には順番があることを忘れてはいけません。12ステップによる自分の回復が嬉しかったあまりに、いきなり棚卸しや埋め合わせの話をしてしまう人もいます。しかし、それはうまくいきません。世の中のいろんなことが順番を間違えたためにうまくいかなくなります。ステップも同じです。
まず、ステップ1のことを伝えることから始めなくてはなりません。ビル・Wもその順番を間違えて失敗ばかりしていたので、シルクワース医師に以下のようにたしなめられています。
> 君がまずしなければならないのは、彼らの自信をはがすことだ。医学的な事実を知らせることだ。とことん手加滅せずに。飲まずにはいられなくなる強迫観念について、飲み続けていたら気が狂うか命を落とすことになる肉体的過敏性、または身体的アレルギーについて、しゃべりまくるんだ。一人のアルコホーリクから受け継いだことを次のアルコホーリクに話す。恐らくそうすることで、そういうやっかいな自我(エゴ)が激しく打ち破られていくだろう。そうなって初めて、君の薬を試すことができるんだ。あのオックスフォード・グループから学んだ倫理的な原理をね。(『AA成年に達する』p.102)
最初に「精神の強迫観念と身体のアレルギーについて、新しい人にしゃべりまくる」ことが大切だと言っています。ビルはこのアドバイスに従って、ドクター・ボブに会ったときに、この二つのことを実に6時間に渡ってしゃべりまくったのです。その知識がボブの心を動かし、そうしてAAが始まったのです。もし、ビルがアドバイスを受け付けずに霊的な原理のことばかりしゃべっていたら、AAは始まらなかったに違いありません。
だから私たちは、「絶対に欠かせない」この二つのことをちゃんと理解する必要があります。その上で、新しくAAに来た人や、病院で会った患者さんたちに、このことを「しゃべりまくる」必要があります。そうすることによって、私たちは新しい人たちの回復への「意欲をかき立てる」ことができます。
ではあるものの・・・実はこの二つを伝えても、自分がそれに当てはまると素直に認める人は少数派です。否認の態度でこう言われることのほうが多いでしょう。
「教えてくれてありがとう。でも私はあなたたちとは違うし、私にAAの助けは要りません」
こんな時に、苛立って対決的な直面化技法なんて持ち出さない方が良いです。このふたつの事実がその人にちゃんと伝わっていたなら、いずれ変化が起きるはずです。
> 一人のアルコホーリクの心に、もう一人のアルコホーリクがその病気の本質を植えつけたなら、その人はもう以前と同じではありえない。それ以後、飲むたびにその人はこう考えるだろう。「ひょっとすると、あのAAの連中の言う通りかも」。そしてこういう経験を何回か繰り返し、最悪の状態になる何年も前に、納得して私たちのところに戻って来る。(『12&12』p.33)
精神の強迫観念と身体のアレルギーという「この病気の本質」がその人に伝わっていることが大切です。その人は、酒を飲み過ぎるたびに「これはAAの連中が言っていた身体的アレルギーというやつのせいなのかも」と思うでしょう。さらに、酒を断ったのに再飲酒してしまった時には「これが精神の強迫観念というやつか」と思い至るかもしれません。やがては自分の意志の力で問題を解決できないことを認めるでしょう。そうやって底つきの底を浅くすることができます。
これがAAの伝統的なインタベーション技法だというわけですね。
(AAメンバーとしてではないけれど)先日横浜でステップ1の話をいろんな依存症の20人ほど相手に100分以上させてもらいました。もちろん話をするだけでなく、参加者の人たちが身体のアレルギーと精神の強迫観念について把握できるような工夫も入れ込みました。随時質問を受け付けながらやったのですが、途中である人が「じゃあ、どうやったら解決できるのですか。私はどうすればいいのですか?」と尋ねてきました。
ジョー・マキューの緑本の46ページに書かれているようなことが実際に起きたので、驚いてしまいました。その人は自分の問題を把握し、解決するための意欲を持ったということでしょう。
20人のうち一人だけ? まあそうです。あまりに少ないかもしれませんが、僕にとってはそんな体験は初めてだったのですから。僕が繰り返し取り組んで技量を向上させていけば、打率は上がる可能性はあります。何も全員を納得させる必要はない。野球だって3割打てば名選手なのですから。しかもこいつは遅発性信管みたいなもので、後でその人の中で効果が生まれる仕組みでもあります。
ビルがボブにしゃべりまくったように、私たちもしゃべりまくって行こうではありませんか。身体のアレルギーと精神の強迫観念について。それはAAには絶対に欠かせないものなのですから。
2014年03月03日(月) ACという概念について 回復は上り坂だ・・・というエントリを書こうとしたら、すでに書いてあったので、別のネタを書かねばなりません。
というわけで、「AC概念の拡大とミスマッチ」というネタで書きます。
最近あっちこっち行くと、「ブログ読んでます」と専門職の人に言われることがあり、この雑記は素人として書いているとはいえ、あまりいい加減なことは書いちゃならない、と思ったりすると、何か書くたびに資料を調べたりして、手間がかかるようになりました。
しかし、別に論文書いているわけじゃないんだから、論拠なんかできる範囲で提示するだけでいいんじゃないか、と思い直して、書きたいことを雑記で書いていくことにします。
「共依存」という言葉が登場することは少なくありません。しかし、最近は共依存という概念があまりに拡大されてしまったせいで、人によって何を指して共依存と呼んでいるのか違っていたりします。それを確認せずに話を進めると、話が噛み合わないこともしばしばです。
共依存という概念は、ACという概念と同時に誕生したのだそうです。「アルコール依存症の家族にはアルコール依存症本人と同様の傾向が見られるのではないか」ということが、1970年代のアメリカの援助職の中で言われるようになりました。
本人と家族の両方に共通した傾向とは何か? それは「自己中心性」だとされます。
AAの基本テキスト(ビッグブック)には、自己中心性には二種類の現れ方があるとされています(p.88)。
ひとつは、「意地悪で、利己主義的で、わがままで、不正直」というパターンです。これは傍目にも分かりやすい自己中心性です。demanding つまり、自分本位の要求をたくさんするタイプです。
もう一つは、「親切で、思慮深く、忍耐強く、寛大で、節度があり、献身的」というパターンです。こちらは自己犠牲的で望ましいことじゃないか、と思われるかもしれません。しかし、献身的である背後には、人や物事を自分の思い通りに操りたいという自己中心性が隠されています。親切タイプの自己中心性というやつですが、実は策略家です。
一人の人間の中には、この二種類の自己中心性が同居しており、状況に応じてどちらかが出てくるわけです。虐待的な環境にある人は、後者のパターンを多く身につけるとされます。
想像してみてください。ある家にアルコホーリクの男がいたとします。彼は日中は働いているが、夜は家で大酒を飲み、不機嫌になれば家族に嫌みを言い、時に暴れ、飲み過ぎて仕事を休んでしまうこともある。だが、そんな人に収入を頼って生活を続けていかなければならないとしたら、他の家族(彼の奥さんや子供たち)はどんな対応をするでしょうか。
ともかく彼に仕事を続けてもらい、家の中もなるべく平穏にしたいと思うのなら、なるべく穏便に、彼には気持ちよく酒を飲んでもらい、気持ちよく寝てもらい、翌日は気持ちよく仕事に行って欲しい。そのために、忍耐強く、献身的、自己犠牲的な対応を身につけたとしても不思議じゃありません。
このようにして、酒を飲み続けるアルコホーリクと、その人に頼りつつも飲む生活を支える家族の関係が出来上がっていきます。この両者は一見対照的でありながら、実は同一の自己中心性を備えています。
家族は大酒を飲んでいるわけではありませんが、大酒飲みと暮らすうちに本人と同様の性質を身につけてしまう。本人の病気は alcoholism ですが、酒を飲んでいないのに、大酒飲みと同様になってしまった家族を指して、para-alcoholism あるいは co-alcoholism という言葉を当てはめました。
para という接頭語には「側」という意味があります。アルコホーリクの側にいることで(大酒を飲んでいないのに)アルコホーリク同様になった家族という意味です。co という接頭語には「共同の」とか「相互の」という意味があります。アルコホーリクと共同生活を送るうちに、相互に影響し合ってアルコホーリク同様になったということです。
同様のことはアルコール依存の家族だけでなく、薬物の家族にも当てはまりますが、それにはパラ・アルコホリズムとか、コ・アルコホリズムという言葉は相応しくないので、依存を現す dependency という言葉に置き換えて、co-dependecy と言う言葉に変化しました。これが日本語に翻訳されて「共依存」という言葉になったわけです。
ここまで説明してきたとおり、共依存とアルコール依存に共通するのは、自己中心性です。12ステップはこの自己中心性を減らし、「他者との真の協力関係を築き上げる能力」を身につけていくためのものです。他者との衝突を繰り返し、自分の中に不快感を溜めていけば、やがてその不快を解消しようと酒に手を出すことでしょう。再飲酒を防ぐには、自己中心性を減らしていく必要があるのです。
そして、アルコホーリクの回復に12ステップが役立つのなら、同じ自己中心性を備えた共依存者にも12ステップが役立つはずだ、と考えられます。このように、依存症の家族グループ(○○ノンと呼ばれるもの)は、どうやって依存症本人に酒や薬を止めさせるかを学ぶ場所ではなく、家族自身が回復していく場所と位置づけられます。もちろんそんなことは、1970年代に援助職が発見するまでもなく、1950年代にはアラノンが始まっていたわけですが・・・。
このように見てくると、共依存が本来何を指していたかが分かります。それ以外の意味があるとすれば、それは後からくっついたものです。アルコール依存と共依存は、12ステップがテーマにしている自己中心性というものを共通項にしていますが、だからといって「同じ病気」だと言っているわけでもないし、「依存症の人が酒や薬をやめないのは、家族の共依存が原因だ」と言っているわけでもありません。にも関わらず、「同じ病気」とか「共依存原因論」みたいな単純で分かりやすい話に飛びついた人が多かった時代もあり、今でもその残滓があちこちに見られます。
さて、アルコール依存の問題がある家庭では、子供たちが親からの影響を受けながら育っていきます。その子供たちは、大人になっても子供のころに身につけたパターンを捨てられずにいることがあります。それはつまり「親切で、思慮深く、忍耐強く、寛大で、節度があり、献身的」に相手に尽くせば、相手は自分の願いどおりになってくれる、という思い込みを持っているということです。
これに対して、Adult Children of Alcoholics(ACoA)という名前を付けました。AC(アダルト・チルドレン)です。彼らの特徴は over achiever であることです。achieve とは「成し遂げる」こと。つまり、求められる以上に成し遂げる人です。
彼らの多くは社会的に成功しており、仕事に対して献身的で(つまり仕事依存的で)、家族に対しても献身的です。しかし、自分自身の望みというのはハッキリせず、むしろ他者や状況が自分の願い通りになってくれたときに喜びを感じます。もちろん(どんなに命令的になっても、他者を思い通りに操れないのと同様に)、どんなに献身的になったところで、物事を自分の思い通りに動かすことはできません。ACの生き方はどこかで行き詰まる運命です。
ACの本質は共依存です。共依存⊃ACですから、ACの人は全員共依存のはずで、「私はACだけど共依存ではありません」という人は本来存在しないはずです。
本来的な意味でのAC(つまりover achiever)の人の回復の話を聞けば、どのようにしてそうした自己中心性を減らし、自分自身の望みや他者と協力関係を築く能力を身につけていったか、という話になっています。
親がアルコール依存の人の中に看護職や援助職に就く人が目立つのも、ACとは何かを考えれば頷ける話ではないでしょうか。
さて、共依存の概念が拡大していったように、ACの概念も拡大されていきました。具体的には、「機能不全の家庭」で育った人に対してです。そして、本来のACとは異なった概念へと変貌を遂げていきました。
拡大されたACの概念に含まれる人たちは、(本来のAC概念とは対照的に)under-achiever であることが多いようです。彼らはあまり社会的には成功していない。学校に通っている間に不登校や引きこもりになってしまったとか、学校は無事卒業して就職したものの、その仕事が長く続かず、その後はあまり定職に就いていないとか。その過程で、何らかの依存症になる人もいれば、ならない人もいます。
そして、こうした社会不適合の原因として「機能不全家庭に育ったから」という理由が当てはめられており、ひらたく言えば親の育て方が悪かった、ということなのでしょうか。彼らには献身的な自己犠牲の姿はあまり見られず、むしろ社会に適合できないことへの苦労が前面に出てきます。
おそらくこうした不適合には、何らかの精神疾患や人格障害や発達障害が絡んでいるのだと思います。発達障害が専門の杉山登志郎先生によると、虐待のある環境で育つと発達障害類似の状態になるそうですから、それも関係あるのかもしれません。
さて、もともとの共依存は、アルコホーリクと同様の自己中心性に的を当てた概念でした。だから共依存に12ステップが効果があるのは自然でした。けれど、後々になって共依存の概念が勝手に拡大され、「旦那さんが酒を止めないのは奥さんが共依存だからです」という主張が行われるようになったとき、奥さんが12ステップをやれば旦那が酒を止めることにつながったのでしょうか? そんなことが実績として評価されたことはなかったわけです。
拡大された概念に対して12ステップが有効だとは限りません。(だからこそ、ジョンソン式介入やCRAFTなどの、12ステップとは別の手段があるわけですし)。
そして、もともとはACすなわち共依存だったわけです。ですから、ACの回復に12ステップが役立つのは自然な考えでした。しかし、拡大されたAC概念(不適合群)に対して12ステップがはたして有効なのでしょうか。
12ステップは、アルコホリズム以外の様々な分野に広がっていきました。どの分野においても、自分たちがアルコホーリクと同様の性質を持っていることを認めた上で、だからこそ12ステップが効果があることになっています。例えばACA(日本ではACoA)では、ACが自らをパラ・アルコホーリクと呼んでいます。アルコホーリクと同じだからこそ、同じ12ステップが効果を持つわけです。自分はアルコホーリクとは違う、と思っているACに12ステップが効かなかったとしても不思議じゃないぞ、と。
まあ、いろいろ書きましたが、拡大してしまった共依存やACの概念をいまさら縮小することはできないでしょう。みんな自分の好きに共依存やACの概念を使っていくでしょう。けれど、拡大した概念に対して12ステップが有効かどうか、それはわかりません。
今回の雑記はさすがに調査不足で少々精度が低かったかもしれません。ただ、あまり正確さを気にかけすぎると、雑記というかたちになる前に崩れていってしまうアイデアも多いので、未消化な部分が残っていたとしてもかたちにしてみることにしました。
2014年01月25日(土) ステップやりました、と言われる戸惑い 信州から関東に越して3週間たらず。埼玉県内から都内の新しい職場への通勤にもだんだん慣れてました。まだ、引っ越しの後片付けに追われていますが、長野にいた頃に比べて、依存症の人と会う機会は飛躍的に増えています。
その中で、少々気になる言葉を何度か耳にしました。それは、
「私はステップをやりました」
というものです。12ステップに取り組む人が増えているのは、とても良いことだと思っています。ビッグブックに書かれた12ステップや、ジョー・マキューなどのステップの取り組み方に関心が高まるのも良いことだと思っています。12ステップを構造化し、視覚化することで、多くの人がステップの恩恵を得ることができるのようになったのも狙い通りです。
だがその一方で、「本質が伝わってない」という焦りも感じるようになってきました。(じゃ、お前は本質が分かってるのかよ、というツッコミはスルーするとして)。
「私はステップをやりました」という言葉は、「でも今はやっていない」ということを暗に意味していることが多いように思います。つまり、「私は以前12ステップに取り組んだことがある」という過去の経験を意味する言葉として発せられているわけです。英文法の過去完了みたいなもんですかね。
確かに、ステップ4・5の棚卸しとか、ステップ8・9の埋め合わせをやっている時点では「私はステップに取り組んでいる」という実感があるでしょう。ステップ4〜9の6つのステップが人生を大きく変えてくれるのも事実です。
でも、その先にはステップ10があるじゃないですか。
ステップ10は、ステップ4〜9を日々繰り返していくことです。ステップ4〜9を部屋の大掃除に例えるとするなら、ステップ10は毎日のこまめな掃除に例えられます。大掃除を熱心にやっても、その後の毎日の掃除をさぼっていたら、部屋はふたたびゴミであふれる元の状態に戻ってしまうでしょう。そうなってしまっては、せっかく大掃除(ステップ4〜9)に取り組んだ苦労も水の泡です。
むしろ大掃除は多少手抜きでもかまわない。その後の日々の掃除の中で、見過ごしていたゴミを片づけ、気がついた汚れを拭き取っていけば、部屋は徐々にキレイになっていきます。同じように、ステップ10を続けていけば、私たちの回復や成長も継続していきます。
自動車の運転免許を合宿で取るコースがあります。短期間で免許証を手に入れられるので、それなりの人気があると聞きます。それは結構なことなのですが、合宿で運転免許を取得した人が、その後、自動車を運転しなかったら、その人はペーパードライバーになってしまいます。ライセンスは持っているけれど、技術を伴っていないわけです。そういう人に車を運転させて、自分はその助手席に座りたいと思う人は少ないはずです。
12ステップはライセンスではありません。12ステップは「生き方」であり、実践されるべきものです。
だから、「私は12ステップをやった」という意識で、さらに「だから回復しているはずだ」と考える人が出てきている人がいるとするなら、それは12ステップの本質が伝わっていない、ということなりはしないか。だとするなら、憂うべき事態です。
まあもちろん、「私は12ステップをやった」という言葉が、過去の経験のみを示すとは限らないし、文脈次第だと思うので、あまり過敏に反応しても仕方ないのですが・・・。ともあれ、12ステップというのは「やった」という過去になるべきものではなくて、ずっと続けていくものだってことは忘れずに伝えておかなくちゃならないことです。
2013年12月31日(火) AAの中のロールモデル 今年も1年ありがとうございました。
Webalizerの出力データ(12/31 22:20現在)。
今年一年の統計データ
送出バイト数 1642.1Gbytes
訪問者数 172万7千
リクエストページ数 4238万
リクエストファイル数 3801万
リクエスト数 4675万
(FC2ブログはカウンターを設置していないので不明)。
今年も本当に多くの皆さんに訪問していただいて、ありがとうございました。
今年は2月に沖縄、6月にアメリカ、7月に福岡、そして11月に香港と、あちこちに行かせてもらいました。その中でも特にアメリカと香港での経験から考えたことを、雑記に書き残しておきたいと思います。
それはAAは「ロールモデル」によって動くところだ、という考えです。
ロールモデルというのは比較的新しい言葉です。
> 具体的な行動技術や行動事例を模倣・学習する対象となる人材。
> 多くの人々は無意識のうちにロールモデルを選び、その影響を受けている。「○○のようになりたい」という憧れは誰しもが持った経験があるだろう。
(kotobank.jp - ロールモデル)
> ロールモデルとは、自身の行動の規範となる(お手本となる)存在のこと。
> 人は誰でも、ロールモデルを選び、その影響を受けている。
(exBuzzwords - ロールモデル)
role は役割、model は規範もしくは鑑(かがみ)という意味です。
ずいぶん前ですが、AAのコンベンション開催のガイドラインを読んでいて、すこし引っかかっていたことがありました。
http://www.aa.org/en_pdfs/mg-04_conferenceandconv.pdf (日本語訳はオフィスから手に入ります)。
この中に、ほとんどのコンベンションでは、域外からAAメンバーをスピーカーとしてフィーチャーしている、と書かれています(p.4)。僕はそれを読んで、AAメンバーをフィーチャーするとはどういう意味なのか、と疑問を持っていました。
feature とは「呼び物にする」とか「主演させる」という意味です。つまり、海外のAAには、AAイベントの呼び物となり主役的扱いを受けるメンバーが存在する、ということなのでしょうか。
AAはすべてのメンバーを等しく扱い、差をつけないところだ、と僕は考えていたので、そのように特別な扱いを受けるメンバーは存在するはずがないし、英文の読解力不足が原因で自分がヘンなことを考えたのではないか、と思っていました。
その考えが少しずつ変わり始めたのは、ジョー・アンド・チャーリーの情報に触れたからです。生前の彼らは、週末になると全米各地へ出かけていって12ステップのワークショップを行っていました。1980年代には、ほとんど毎週末と言っても良いぐらいの頻度でした。いったいその旅費はどうしていたのでしょうか。自己負担だとすれば、年間で何百万円相当になるではありませんか。二人はそんなお金持ちでもなかったはずですが・・・。
実はその費用は主催者側の負担だったそうです。多くの場合に主催は、各地のAA地区委員会であり、彼ら二人の旅費は(上記ガイドラインに従って)委員会が負担していたのだそうです。その額は何万円相当(時にはもっと)になりますから、それを参加人数で頭割りして、参加費に上乗せするわけです。主催者側は、ジョーとチャーリーを「呼び物」にすることによって、参加者を集めていた、ということなんでしょう。
だとすれば、コンベンションのガイドラインの記述も頷けます。ハワイで行われたコンベンションに参加した日本人メンバーによると、そのコンベンションにはアメリカ本土から招かれたAAメンバーがスピーカーとしてフィーチャーされていたそうです。また他のメンバーからの話でも、アメリカ本土でのAAイベントでは、州外からのスピーカーの名がチラシにクレジットされていたそうです。
僕が今年参加した香港のコンベンションでも、3人のメンバーがフィーチャーされていました。二人はアメリカから招かれたメンバーでした。僕はその一人の話を聞くために、香港まで行きました(彼の名前が載っていなかったら行かなかったことでしょう)。
香港のコンベンションの内容がふるっていて、3日間のうち、僕らがホームグループでやっているような普通のミーティング(参加者がそれぞれ経験を話すタイプ)は、わずか1時間だけでした。他の時間は、話し手が12ステップや伝統についての個人的経験を話すのをひたすら聞くものであったり、パワーポイントのスライドを使ったステップの解説であったり、あるいは実際にステップに取り組むワークショップであったりしました。多くの参加者にとって、コンベンションは「話す」機会ではなく、もっぱら「見て聞く」ための機会になっていました。
香港のコンベンションの内容がやや偏っている可能性はありますが、ともあれ、AAの中にフィーチャーを受ける(つまり呼び物にされ、メインのプログラムを担当する)メンバーがいる、という現実はよく分かりました。
最初にロールモデルについて取り上げましたが、そういう人たちは皆の「ロールモデル」なのでしょう。ロールモデルとなったメンバーたちは、おそらく素晴らしい回復者のはずです。しかし、実際に彼らが回復しているかどうかは、それほど重要ではない、と僕は思います。
むしろ、その他大勢のメンバーが、ロールモデルとなったメンバーをお手本とし、彼らの12ステップの解釈を聞き、「あの人のようになりたい」と思いながら自分がどう行動するか学んでいこうとしていること。それが大事だと思うのです。AAは role model method (ロールモデル法)によって回復を伝えていく場だったのだ、というのが今年の気づきでした。
人は誰でもロールモデルを持っています。それは職場の先輩だったり、AAだとスポンサーだったり、あるいは憧れの著名人だったりするのかもしれません。あなただって、誰かをロールモデルにしているでしょうし、ひょっとしたら誰かのロールモデルになっているのかもしれません。
しかし、「あの人の話を聞くためになら、みんなで旅費を負担しても良いじゃないか」と多くの人に思わせるような「みんなの」ロールモデルになる人は、どうやって選ばれるのでしょうか。おそらく、本人がなりたいと思ってもなれるものではなく、自然に選ばれていくものなのでしょう。
みんなのロールモデルになった人は、どんな気分なのか。想像するに、それなりの楽しみもあるでしょうが、決して楽(らく)ではない。むしろ苦労の方が多いような気がします。
はてさて、AAメンバーは平等であるけれど、等しく扱われるわけではない。無名の集まりですから famous(有名な)メンバーはいないけれど、well-known(よく知られた)メンバーはいる。皆の規範になる役割を神によって割り当てられてしまったメンバーもいるわけです。
僕は日本のAAメンバーなので、当然日本のAA共同体の影響を受けます。日本のAA共同体では、メンバーを等しく扱うのが良いとされ、「選ばれた」メンバーはあるべきではない、という考えが主流だと思います。だからこそ、僕も事情を知らなかった頃は、ガイドラインの英文を読んで、これは自分の解釈ミスではないかと疑ったわけです。
しかし、少なくとも英語圏のAAでは、共有可能なロールモデルを作り上げ、そのロールモデルを積極的に活用していく、というやり方をしている、ということが分かりました。それは、実際に行ってみなければ分からなかったことです。
年が変わっちゃうので、この話はこれぐらいにしておきましょう。
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