心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」

たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2013年11月06日(水) お湯を貯める

「節酒薬」ナルメフェンは日本では大塚製薬から発売になる、と発表がありました。

大塚製薬とルンドベック社 減酒薬「nalmefene」(ナルメフェン)の日本における共同開発・商業化を合意
http://www.otsuka.co.jp/company/release/2013/1031_01.html
来年(2014年)には国内でも治験が始まる、とあります。

完全断酒が好ましいのは言うまでもありませんが、ハードルが高いゆえに治療の中断を招きやすい・・・いや、そもそも治療に入ろうともしない人たちが多いわけです。だったら、いったん「節酒」へと誘導して最終的な断酒へと導くのが良いとか、あるいは仮に断酒できなくてもハーム・リダクション(害の低減)にはなるだろう、という意図でしょうね。

ところで、ハーム・リダクションって、日本語的に4文字に略すと「ハムリダ」ですかね?

アルコール症を取り巻く環境がどんなに変わろうとも、AAは「永続的な断酒の手段」を提供する、いわばラグビーのフルバック的なポジションを保っていけば良いと思います。

さて、我が家の風呂は循環式ではなく、ボイラーで沸かしたお湯を貯める方式です。風呂に入りたければ、お湯の蛇口をひねって、浴槽にお湯を貯めます。数分経ってから、服を脱いで浴室に入れば、程良くお湯が貯まっている、という具合です。

ところが僕はときどき間抜けなことをやらかします。お風呂の栓をしっかりはめなかったせいで、お湯がすき間から漏れてしまっていることがあるのです。全裸で、底から数センチしか貯まっていないお湯を眺めるのは、かなり情けない体験です。

こんな話をするのも、もちろん意図があります。

伝統9(長文のもの)によれば、AAの理事会は「AA全体の広報活動を行う権限」をグループから託されています。理事会や評議会、各地の委員会などのAAのサービス活動において、AAの広報活動が主要なテーマになっているのは間違いありません。

つまりAAの広報は、サービス活動の中の主役と言っても過言ではありません。

なぜ広報が必要なのか、と言うと、広報活動をしないとAAが秘密結社になってしまうからです。誰もAAのことを知らず、どこにあるのかも分からないのでは困ります。また、AAグループは、AAのメッセージを運ぶために存在しているのですから、新しい人がAAのことを知るチャンスが増えるようにしなければ、目的が達成できません。

AAを愛する人たちは、たくさんの人がAAにやってきて、AAが成長することを望んでいます。回復の歓びをその人たちにも感じて欲しいからです。

「がんばって広報活動をして、たくさんの人がAAにやってくれば、AAは成長していく」

その考えに間違いはありません。しかし、落とし穴があります。一生懸命広報活動をやっているわりには、なかなかAAは成長していきません。AAメンバー数の正確な統計なんてありませんが、最近の日本国内の印象はせいぜい「微増傾向」ぐらいです。20世紀における成長と比べたら「停滞」と呼びたいぐらいだし、そのうち「減少」が始まりやしないかと心配です。

なぜ成長が滞ったのか? 広報活動が足りないのか? もっと頑張って広報活動をしなくちゃならないのでしょうか? ・・・確かにそういう面もあるでしょう。けれど、見落としていることがあるように思います。

実際には、たくさんの人がAAにやってきています。ところが、その中で、1年、2年、5年、10年とAAに残ってミーティングに出続ける人は少ないのです。だから増えない。

先ほどのお風呂を例に使えば、蛇口からお湯が注がれているのに、栓が抜けているものだから、どんどんお湯が漏れてしまっている。「広報活動をもっと頑張れば良い」という考えは、「ものすごい勢いでお湯を注げば(例え栓が抜けていても)次第にお湯が貯まっていくはずだ」という考えに似ています。そんなことをしていたら、水道代もガス代も大変なことになっちゃいます。要するに非効率なんです。

10年前、20年前と比べて、間違いなくAAの知名度は上がっています。一般社会への浸透はともかく、アルコール医療関係者や援助職の人でAAの名前を知らない人はまずいないと言ってもいいぐらいです。もちろん、AAの名を知っているからといって、信頼を寄せてくれているとは限らないし、(AAと同じで)職業家の世界にも毎年毎年新しい人が入ってくるので、広報活動は常に続けていかなくちゃなりません。

つまり、AAが成長しない、メンバー数が増えない理由は、広報活動が足りないからじゃないのです。栓が抜けているから。定着率が悪いからです。

もちろん、新しくAAに来た人が全員メンバーとなって定着するなんて考えられません。ビル・Wが書き残した文章によれば、順調にAAが成長を続けていた1940年代ですら、「5人のうち3人か4人は短い間にAAを離れていく」とあります(The American Journal of Psychiatry, 1949 Nov, 370)。AAへの定着率は当時でも2〜4割だったのです。それでも3割ぐらいの定着率だったら凄いことです。

もし日本のAAが3割の定着率を達成していたら、今頃は何万人というメンバーを抱えていたことでしょう。メンバーが増えないのは広報不足だからではなく、ミーティングやAAそのものに「惹きつける魅力」が足りないからです。

(ちなみに、すぐにAAを去って行った6~8割はその後どうなったのか。ビル・Wはビッグブックの第2版の序文で、彼らの「約三分の二は、後になって戻ってきた」と書いています。今の日本のAAで「来なくなってしまった人」がAAに戻ってくる比率はどれぐらいでしょうか? 戻ってこないのは、AAに戻るだけの魅力を感じないからかもしれませんね)

では、どうやったら「魅力」を備えることができるのか。個別に議論するのはまたの機会にするとして、全般的な話をするならば、「新しいこと」をやらなくちゃなりません。今までもAAメンバーはメッセージを運ぶ努力を続けてきました。頑張ってミーティングも維持してきたわけです。しかし、今までのやり方でうまくいかなかったのですから、何かを変えていく必要があります。それはつまり、何らかの「新しいこと」をやるということです。

AAは同調性の強い団体です。新しいことをやろうとすると、すぐに反発が生まれ、「それはAAのやり方じゃない」とか「私が聞いたやり方と違う」という批判が登場してきます。しかし、そうした意見の根拠を聞いてみると、なんだかあやふやなものでしかないことが多いのです。

結局、そうした「新しいこと」への拒否感が、AAの成長を妨げている最大の要因だと思うのです。根拠のあやふやな「述べ伝え」や古い因習に囚われることなく、どんどん新しいチャレンジをやって欲しいと思います。ミーティングのやり方にしても、スポンサーシップにしても、変えてみることが大切です。

もちろん、新しいチャレンジが成功するとは限りません。数限りない失敗が生まれるでしょう。でも、チャレンジなくして成功はありません。特に年齢的にも、ソーバーの期間も短い人たちの「無謀」とも言える挑戦を応援したいと思います。また、AAにおける「ヤング」とは身体的な若さだけでなく、young heartを持った人ならどんな年齢でもヤングなのだと言います。僕も常に変化を求め、AAの中で物議を醸していきたい。

「またあいつが何か変なこと始めたぞ」と言われるのは、とても名誉なことだと思っていますよ。

世の中に存在するすべてのものは、成長を続けているか、朽ちつつあるかのどちらです。何も変えなければ現状維持できるなんて考えは幻想です。ドアを開けて世界を見渡してみればそれが分かるはずです。変化を伴わない回復、変化を伴わない成長はあり得ません。

「変えられるものを変えていく」ための勇気を求めて欲しい・・・てゆーか、お風呂の栓はちゃんとしめようよ。ガス代もったいないから。


2013年10月31日(木) 依存と乱用の分離と統合

「心の家路」のサイトも解説から十数年経ち、掲載してある情報も古くなってきました。他の分野に比べれば緩やかなものですが、アディクションの世界にも進歩や変化があります。常に学び、新しいものを取り入れていく必要があるのでしょう。

「家路」をリニューアルするために集めた情報は、こちらの雑記でざっくり紹介していこうと思っています。今回もそんな情報の一つです。

この雑記では「アルコホリズム」という言葉を使っています。この病気を示す言葉として alcoholism が最も一般的な言葉でしょうが、日本でカタカナの「アルコホリズム」という言葉を使っているのはおそらくAAだけです。

スウェーデンの医師マグヌス・フスが Alcoholismus Chronicus (慢性アルコーリスム)という本を書いて発表したのが1849年のことでした。これがアルコホリズムという言葉の起源だそうです。ただ、フスが記録したのはアルコールによる身体の合併症であって、今の依存症の概念とは違っていたようです。また、アルコホリズムという言葉は(少なくとも英語圏では)すぐに広まらず、dispomania や inebriety という言葉が使われ続けました。

アルコホリズムという言葉が広く使われ出すのは1930年代以降、つまりAAの誕生以降です。それまで単なる悪癖と思われていたアルコホリズムを疾患として医学に認めさせたのは、多くの研究者の努力によるものですが、その背景にAAが大量の回復者を生み出したからこそでもあります。

APA(アメリカ精神医学会)では、DSM(精神障害の診断と統計の手引き)という診断基準を定めていますが、1952年のDSM-Iにはアルコホリズムというカテゴリが含まれています。WHO(世界保健機構)のICDでは、1967年発表のICD-8にアルコホリズムが加えられました。ただし、どちらもパーソナリティ障害のサブカテゴリになっています。

その後、DSMもICDも改版されていき、現在使われている版にはアルコホリズムという項目はありません。なぜアルコホリズムが消えてしまったのか?

そもそも診断基準とは何でしょう。いったいそれは何が目的なのか?

精神疾患は(一部を除けば)原因やメカニズムがよく分かっていません。仕組みがよく分からなくても誰かが何とかしなくちゃならない分野はいろいろあります(気象予報とか農学とか)。精神医学もそのひとつなのでしょう。おかげで、病気の仕組みについて様々な概念や仮説が提唱され、それぞれに信奉者が生まれます。放っておくと、それぞれに診断システムが作られ、病気であるかないか、病気だとすればどの病気か、病状は改善しているのか悪化しているのか・・・バラバラの基準ができてしまいます。

そうなると、保険金の負担や支払いが不公平になったり、ある治療法と別の治療法のどちらが優れているか比較ができなくなったり、いろいろ困ったことになります。そこで、「症状を頼りに」精神疾患を診断し、分類する統一基準が作られてきたわけです。

そして、新しい知見が加わると、それにあわせて診断基準も改版されていく・・・診断基準とは常に変更され続けるものなのです。

さて、1950年代にWHOの専門家委員会で、「嗜癖(addiction)と習慣(habituation)をどう区別するか」という議論が行われました。それまで区別なく使われていたこの二つを、委員会はこう定義しました。すわなち・・・

「嗜癖」とは、ヘロインのように連用すれば「誰もが」ハマってしまい、強迫的欲求が生まれ、耐性が生じ、離脱症状があり、個人の生活にも社会全体にも重大な影響があるもの。

「習慣」とは、ニコチン(タバコ)のように、強迫的欲求や離脱症状がなく、その薬理作用を好ましいと思った一部の人だけが進んで摂取するもので、影響があったとしても個人的なものに限られるもの。

嗜癖と習慣の違いは、薬物の違いによるものであるから、嗜癖を生じる薬物は国際的に規制すべきだとしました。ところが、この区別はあまりうまくいきませんでした。理由の一つは、次々に新しい薬物が登場してきて、それを分類する手間が必要だったこと。もうひとつは、アルコールのように両者の中間タイプが存在して、厳密な区分けが難しくなったことです。

(アルコールには一部の人たちしかハマらないけれど、ハマった結果は「嗜癖」です)。

結局10年以上議論を続けた挙げ句、1964年に「これからは嗜癖や習慣という言葉を使うのは避け、区別せずに依存(dependence)と呼ぶのが良い」という声明を出して幕を引きました。これ以降、アディクションという言葉は、医学的には好んで使われなくなりました。

嗜癖(アディクション)と嗜癖でないもの、という区別に意味があるとすれば、依存という概念はその両者を包括していると考えられます。

アルコホリズムに話を戻すと、WHOのコンサルタントも勤めたE・M・ジェリネックは1960年に Disease Concept of Alcoholism という本を出版しますが、この中で彼はアルコホリズムを5種類に分類しました(α型〜ε型)。彼はこのうちのγ型とδ型の二つだけが嗜癖と呼べるとしました。

つまりジェリネックの分類によれば、アルコホリズムには嗜癖と嗜癖でないものの両方が含まれていることになります。

(ちなみに、ジェリネックはアルコホリズムの研究に生涯を捧げた人で、最後はスタンフォード大学の自分の机で絶命しているのが発見されたのだそうです)。

1970年代になると依存の研究が進み、依存の本質は強迫的欲求や耐性や離脱症状だと考えられるようになりました。これは嗜癖の概念とよく似ています。すると、それまでの診断基準(DSM-IIやICD-8)にあったアルコホリズムには、依存と依存でないもの両方が含まれる曖昧さが生じます。

そこで、1977年に発表されたICD-9、1980年のDSM-IIIでは、それまでのアルコホリズムが「アルコール依存」と「アルコール乱用」の二つに分割されました。(ICDでは乱用は「有害な使用」)。

(それまで日本では alcoholism を(慢性)アルコール中毒と訳し診断名にも使われていましたが、これを境に徐々にアルコール依存へと置き換えられていきました)。

これによってアルコホリズムには、「依存」と「依存ではない乱用(abuse)」の二つが含まれ、それを区別することが明確になりました。乱用は、依存の前段階(いずれ依存に発展する)かもしれないし、依存とは関係ない乱用もあり得るのかも知れず、そこら辺ははっきりしないのですが、「依存でないものも含めてアルコール問題全体を扱う」という意志は明確です。

依存症のことを知らない人たちは、大酒を飲んでいる人がいてもそれを病気だとは思わず、単なる悪癖だと信じています。知識がないからこその偏見です。

ところが、同じ人が依存症の知識を多少得ると、今度は大酒を飲んでいれば何でもかんでも「アルコール依存症」だと思ってしまいます。「依存ではない乱用」があり、それはひょっとしたらアディクションではないかもしれず、アディクションのケアが合わないという可能性を考えることが必要でしょう。

さて、AAはAA独自のアルコホリズムの疾病概念を持っています。それはDSMともICDとも違うものです。ビッグブックの「医師の意見」から第3章までを読むと、AAが「本物の」アルコホーリクと呼んで対象としているものは、DSMやICDのアルコール依存(症候群)に近いことが分かります。しかし、完全に一致しているわけではありません。

その一方で、AAはアルコールに問題を抱えた人なら誰にでも門戸を開いています。「依存ではない乱用」の人たちは、AAのメインターゲットではないけれど「いらっしゃりたければどうぞ」ということでしょう。

今年(2013年)に発表されたDSM-5では、アルコール依存と乱用が再び統合され「アルコール使用障害」という一つのカテゴリになりました。この中で一定数項目を満たすものを依存、それに満たないものを乱用と区分けしています。

これは些細な変更のように見えますが、「依存ではない乱用」があるという考え方から、両者を統合して扱う方向へ舵を切っています。おまけに今回は、物質関連だけでなくギャンブルもこのジャンルに含めています。

1964年のWHOの依存の概念は、嗜癖であるかどうかを問うていません。WHOが「アルコール関連問題」と呼ぶものには依存も乱用も含まれます。そもそもアルコホリズムという言葉は、主にアルコールの嗜癖を指しているものの、依存や嗜癖でないものも含んでいます。このように、問題全体を包括して扱おうとする動きがあります。

その逆に、嗜癖と習慣を分けたり、依存と乱用を分けたり、あるいは「本物の」アルコホーリクと大酒飲みを分けたり・・と、間に線引きをしようとする動きがあります。

これまでの動きを見ると、この二つの動きが押し合ってバランスを取り、時計の振り子が振れるように右へ左へと動いてきました。DSM-5を見る限り、今は包括概念のほうへと振り子が傾いているようです。ICD-11への改版作業は2015年まで続けられるそうですが、おそらくDSM-5から大きな影響を受けるでしょう。

これからは依存と乱用の区別が曖昧になり、物質依存(アルコールを含む薬物)とプロセス依存(ギャンブル)を統合して扱う時代に入る・・・というのが一つの予想です。


2013年10月22日(火) 自分は神ではない

ミネソタ多面的人格検査(MMPI)というのがあります。今はどれぐらい使われているのか知りませんが、僕が入院していた頃は、心理検査として使われることが多かったように思います。ただ、これは400個近い(フルセットだと550個の)質問に答えなくてはならないので、対象は限られていたかもしれません。

質問項目は「山林警備をする仕事をしてみたい」、「ときどきたまらなく家出したくなる」、「愛に失望している」、「出世するためなら誰でもウソをつくと思う」みたいな、ありがち?な質問から、「私の魂はときどき身体から抜け出している」とか、「ときどき悪霊に取り憑かれている」みたいな怪しい雰囲気の質問まで様々です。

その中に「私は神の使者である」とか「私は神である」という質問が数問混じっています。僕は検査する側ではなく、される側だったので、MMPIの詳しいことは知りませんが、MMPI経験者の共通の話題は「神関係の質問に全部<はい>と答えたらどんな結果になるんだろう?」というものでした。

自分のことを神だと思っている人は、かなり困ったちゃんです。ただ、アルコホーリクは、よく自分を神だと思っている困ったちゃんであるわけです。

赤ん坊は自分の欲求を自分で満たすことができません。そこでむずがったり、大声で泣きます。すると母親やその他の人がやってきて、ミルクをあげたり、おしめを替えたり、あやしたり、暑さ寒さを調整してあげたりして、赤ん坊のすべての必要を満たしてあげます。誰もが赤ん坊時代を経験しているにもかかわらず、その頃にどう感じていたか記憶している人はいません。だから、赤ん坊の心の中は想像するしかありませんが、自分の欲求を他者に満たしてもらうことが、赤ん坊にとって最大の関心事である事は疑いありません。

やがて成長するにつれ、自分で自分の欲求や必要を満たすように求められます。さらには、簡単には満たせない欲求があることや、どうやっても満たせないものもあること、他の人も自分と同じ欲求を抱えていて、調和して生きていく必要があることなどを次第に学んでいきます。それが成長であり、成熟です。ごく僅かですが、赤ん坊のような状態で生きざるをえない人たちがいて、重度の障害者施設に行けば世話を受けながら暮らしている彼らに会うことができます。彼らが幸せである事を願うばかりです。

他者は自分の欲求を満たすために存在していると考えるのは幼児的です。自分を不快や不愉快にさせる相手を悪だと考えるのも同様です。周りの人が自分の思い通りに動いてくれれば、自分が幸せになれると考えるのは、神の役を演じる生き方であり、自分は神だと考えていることなのです。

アルコホーリクには、幼児的に自分は神だと考えている人が多いわけです。それはひょっとしたら、ミルク代わりに酒ばっかり飲んできたからかも知れません。「周りの人を思い通りに動かしたがる」という表現を使うと、まるで酒を飲んで暴れるDV男のように、暴力や暴言や威圧的な態度で人に何かを強制するやり方を想定してしまうかもしれませんが、そればかりではないのです。

人間には様々な欲求があります。例えば、「人に良く思われたい(悪く思われたくない)」、他者から良い評価を得たいという欲求は誰にでもあります。Joe and Charlieの本能の表ではこれは共存本能の中の pride(プライド)という項目になっています。(一般的にプライドがどういう意味かではなく、彼らが承認欲求に対してプライドという名を与えたに過ぎません)。

例えば、相手に何かをプレゼントしたり、親切にするとき、あるいは忍耐強く、愛想良く接しているとき、「相手が幸せであるために」やっているのではなく、「そうしなかったら自分が悪く思われるから」という動機があるなら、それはこの欲に動かされているということでしょう。・・・これはきっとあなたにも経験があるでしょう。

人は欲を満たすために生きている。これは一つの真実であり、持っている欲を満たすのは悪いことではありません。この pride の欲があるからこそ、人間社会が円滑に動いている面もあります。承認の欲求は人間に欠かせません。

しかし、欲が強すぎるのも良くありません。今日は疲れているので早く帰って寝たいと思っている人が、「相手に悪く思われたくない」という理由で、相手の話につきあって帰宅が遅くなるのなら、それは暴走する承認欲求に振り回されていると言えます。そうして、その人は自分の必要を満たすことより、相手の欲求や必要を満たすことを優先してしまっています。度が過ぎれば辛い生き方にしかなりません。ずっと、その生き方を続けていれば、それが身に染みこんでしまい、「相手に悪く思われたくない」という動機からやっていることだとすら自覚できなくなるかも知れません。

共依存には4つのパターンがあると言いますが、服従のパターンはこうしてできあがるのです。支配的なパターンの人(人に何かを強制しようとする人)はエゴが強いとされます。では、服従のパターンの人はエゴが弱いのでしょうか? いや、そうではなく、支配的なパターンの人と同様に、強い欲望(強いエゴ)を持っているのです。

直接的に自分の欲求を他者に満たしてもらおうとするやり方に比べれば、他者の欲求を満たすことによって自分の欲求を満たそうとするのは、間接的で回りくどいやり方であるのですが、他者を利用して自分の欲望をかなえようとすることに変わりなく、どちらも同じようにエゴイスティックであると言えます。自己否認や自己評価の低さというパターンも同様です。

アルコホーリクだけでなく、ACや共依存の人たちも、同じように「他者は自分の欲求を満たすために存在している」という幼児的な生き方、自分を神と考える生き方に陥っているのです。アルコホーリクにも権勢的なタイプも入れば、追従的な人もいます。ACにも強迫的に自己実現しようとしている人もいれば、服従パターンの人もいます。

人は、支配タイプと服従タイプのどちらか一方ということはなく、たいてい両方の面を持っていて、場面ごとに使い分けています。外では服従的、家の中では支配的とか。AAの中では服従的な人が、ACのグループに行くと支配タイプに様変わりしたりして・・。家族のグループの中にも支配的な人はいっぱいいるし。限界まで我慢して爆発するタイプもいます。

服従タイプの人も、自らの強いエゴに支配され、神になっているのだ、という捉え方をすれば、生き方を変える突破口は見えてくるのじゃないでしょうか。

こうして見れば、12ステップというのは、人間に共通した問題(だけ)を扱っていることが見えてきます。だから僕は「○○向けの12ステップ」というバリエーションを作る必要は特に感じていないのです。

僕の考えでは、12ステップは必ずしも神を信じることを要求していません。ただ、自分が神でないということは認めなければならないし、神の役を演じる生き方は手放していかなければなりません。そうすれば、神という概念に対する拒否反応はなくなり、他者の持っている信仰にも寛容になれます。

12ステップが神という概念を使っていることがハードルを上げている、と考えている人もいるでしょうが、実際にステップに取り組む段になれば、そのことはなんら障害になりません。

ただ、どうしても神という概念を拒否する人たちもいます。でもなんと言うか、その人たちは宗教的概念を嫌っているのではなく、(それを口実に)自分が神の座に座り続けたいだけなんじゃないかという気がします。自分が生き方を変えるのではなく、周りの人が生き方を変えて自分の欲求をかなえてくれれば良いのだ、という考えなのではないかと。

その人たちでさえ、MMPIの「私は神である」という質問には「いいえ」と答えているのでしょうけど。


2013年10月15日(火) 12ステップの利点・欠点

「12ステップに欠点はないのか?」という質問を受けることがあります。自分のやっている手法の欠点を知ることはとても大切だと思います。

欠点の話をする前に、12ステップの優れた点にちょっと触れておきます。

12ステップの良いところは、手順が明確であることです。12ステップの手順は、AAのビッグブックという本に「正確に、詳しく、はっきりと」説明されています。だから、ビッグブックという手順書に従って行えば良いわけです。

ビッグブックは料理のレシピ本に例えられます。レシピに書かれたとおりの材料を集めて、手順通りに調理すれば、本に載っているのとだいたい同じ料理ができあがります。違った手順を踏めば、違ったものができあがります。例えば、沸騰したお湯で5分間煮ると書いてあるところを、その代わりに300℃に熱したサラダ油で15分間揚げたら違った料理ができあがります(たぶんそれは食べられないシロモノでしょう)。

12ステップをやっても良い結果が出ない場合には、たいていこれと同じ間違いを犯しています。ビッグブックという手順書を読みながらも、そこから外れたやり方をして、違った結果をもたらしてしまっているのです。

手順が明確に確立されている点が12ステップの良いところです。

ただ、このビッグブックという本が少々分かりづらい本なのです。今は世界的に出版不況と言われ、本を読む人が減っています。しかし、この本が書かれた1930年代には多くの人が本を読んでいました。ラジオ放送が始まってまだ10年あまり、テレビ放送はまだ始まっていない時代です。人々は娯楽のため、教養のため、情報を得るために良く本を読みました。ビッグブックでも引用されているウィリアム・ジェイムスの『宗教的体験の諸相』は、この時代のベストセラーなのだそうです。こんな小難しい本がベストセラーになるなんて! ですが、ビッグブックはそういう時代の本なのです。

洗練された文章を書くためには修辞が欠かせません。「修辞って何?」といういう人は
wikipedia.jp:修辞技法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E8%BE%9E
三省堂:修辞法
http://www.sanseido.net/main/words/hyakka/rheto/03.aspx
あたりを読んでください。ビル・Wは大学で修辞学を学んだだけあって、彼の文章は修辞に満ちています。たとえば、p.38にある、

「足もとに並べられた簡単な霊的な道具一式を手に取るよりほかなかった」

という文章は、12ステップに取り組むほかなかったと言いたいだけなのですが、転義法(比喩)という手法が使われています。

修辞された文章を読み慣れた人ならともかく、そもそも本を読み慣れていない人がビッグブックを読むと「???」ということになってしまいます。比喩を読み解くのが苦手な人たちもいて、「12ステップを足下に並べるってどういう意味ですか?」なんて質問が出てきたりします。(まあ、そういう質問が出てくること時代は真面目に取り組んでいるからこそだと言えますが)。場合によっては1行、1行解題していく必要すらあります。現代文に訳さないと枕草子が読めないみたいなものでしょうか。

一般に、子供向けの絵本やジュブナイル小説では修辞を少なくし、大人向けの小説やエッセイでは修辞を多くして凝った文章になります。村上春樹が人気があるのも、彼の修辞がある種の人たちの心の琴線をかき鳴らすからでしょう?

AAを最初に作ったのは、禁酒法と大恐慌の時代に酒で身を持ち崩した白人男性たちでした。経済的にも社会的にも落ちぶれた彼らには自らが身につけた教養しか頼れるものがありませんでした。また当時は人種差別も、男女差別も激しい時代であり、彼らがターゲットにしたのは自分たちと同じような白人たちでした(だからビッグブックの初版には白人のストーリーしか掲載されていません)。やがて、彼らの見つけた12ステップという原理は、人種・性別・貧富・教養のあるなしに関係なく役に立つことが分かってきてAAが大きく発展するのですが、ともかくAAを始めた人たちは、その時点では「本を読み慣れていない人たちのために、平易な文章でビッグブックを書く必要がある」とは考えなかったようです。

ビッグブックの内容(あるいは12ステップ)を批判する人たちは、その内容よりも、ビル・Wの修辞に惑わされてしまっている場合が多いのです。そういう人たちでも、12ステップの本ではないけれど同じAAの本である『どうやって飲まないでいるか』ならば受け入れやすいと言います。こちらのほうが平易な文章で書かれているからでしょう。

じゃあ、ビッグブックがそんなに小難しいなら、易しい文章に書き直したらどうだ? と思うかも知れません。しかし、それは無理です。ビル・Wやドクター・ボブは特別な存在であり、彼らの代わりができるメンバーはAAにはいないからです。ビッグブックの読みづらさ、使いにくさはAAの中で意識されていますが、現実問題として当面それが解決される見込みはありません。

ビッグブックを教科書とするなら、参考書みたいな本はいくつもあります。ビル・W自身も十数年後に『12のステップと12の伝統』(12&12)を書きました。しかしこれは、ビッグブックを補う立場の本です(なので12&12だけでは12ステップは分からない)。

他にもAAメンバーが12ステップの参考書・解説書を書いてきました。古くは『リトル・レッド・ブック』、『スツールと酒ビン』、最近訳出されたジョー・マキューのものもそうです。これらに人気があるのは分かりやすいからです。しかし、これらの参考書は「ビッグブックを置き換えることを目的としない」としています。あくまでもビッグブックを補うもので、ビッグブックの代わりにはなりません。

そんなわけで、AAメンバーが12ステップに取り組むときは、どうしてもこの小難しいビッグブックを相手にせざるをえません。だからこそ、その人を一人でビッグブックを読んで陥る「???」という状態から救い、手順通りにことを進める手助けをしてくれる介助者が必要になります。それがスポンサーの役目ですね。

他にも、12ステップに取り組むには、少なくとも数週間から数ヶ月の期間は必要ですし、もっと長い時間が必要な人も確かにいます。労力も時間もかかります。

また相手をするスポンサーが必要です。12ステップの中には自己査定が含まれています。しかし、自分で自分を吟味するのは大甘な評価になりがちです。自分で吟味するより配偶者や親に吟味してもらった方が正しい評価がされるぐらいなんです。でも妻に棚卸しを聞いてもらおうという人はまずいませんから、「もう一人のアルコホーリク」が必要です。その人の労力や時間も必要になります。

こうしたように、12ステップに取り組むには、それなりの労力と時間がかかるのです。これが12ステップの欠点と言えると思います。

最近では断酒補助薬も発売されました。薬を飲むだけで断酒維持率が約10%向上したそうです。薬を飲むだけで、10%改善されるのです。素晴らしいことじゃありませんか。12ステップよりもずっと簡単で、労力も時間も少なくてすみます。だが、それでも100%ではない。いままでのどんなやり方でも100%のものはありません。

それを考えると「12ステップさえあれば良い」とは言えません。他のやり方も必要だし、時には組み合わせていく必要もあるでしょう。

12ステップは、手間も労力も必要ですが、奥深い変化をその人にもたらすことが可能です。それは12ステップの利点であり、断酒補助薬ではなかなかこうした変化は呼び起こせないと思います。また、ビッグブックに沿って12ステップを提供できるスポンサーが日本のAAにはまだ少ないことも問題です。

20世紀には、アメリカでも日本でも、AAがビッグブックから離れていきました。それはビッグブックの文章の小難しさと無関係ではありますまい。近年になってAAの原点に立ち返ろうとする運動が起きてきました。それらは例外なくビッグブックを重用しています。しかし、その運動が、ビッグブックを書いた人たちが求めた教養を皆に要求するような展開になっては良くありません。原点回帰運動のキモは、テキストの内容をいかに分かりやすく伝えるか、にかかっていると思います。

当然僕自身にとってもビッグブックは難しい本です。何年取り組んでも十分分かったとはまだ言えません。けれど、彼や最初のAAメンバーたちが今の僕らに伝えたかったことを読み解いていくのは心躍る冒険です。


2013年10月11日(金) AAはAA、断酒会は断酒会

AAは「言いっぱなし、聞きっぱなし」というやり方でミーティングをやっています。AAに馴染みのない人には聞き慣れない言葉かも知れません。AAでやっているのは「ミーティング」といっても会議ではなく、他の人の発言に意見したり、批判したり、質問を挟んだりしません。人の話は黙って聞き、自分の順番が来たら話をする。このやり方を日本では「言いっぱなし、聞きっぱなし」と名付けています。

海外のAAでも、おおむねこのやり方だそうです。僕の数少ない経験からもそうですし、海外でAAに出席した人たちに聞いても同じです。

「言いっぱなし、聞きっぱなし」を英語で何というのだ? と聞かれることもありますが、それに相当する言葉はないみたいですね。ポピュラーだからこそ名前が必要ないってことなのでしょう。ビル・ホワイトの『米国アディクション列伝』では、これを「crosstalkを排除した」やり方と呼んでいます。

あらかじめ話し手が決まっており、他の参加者はそれを聞くために参加するというミーティングを speaker meeting (スピーカー・ミーティング)と呼びます。そうではなく、参加者の中から適当に話し手が選ばれるのを discussion meeting と呼びます。ディスカッションと言っても議論(debate)ではなく、その中身は「言いっぱなし、聞きっぱなし」です。

いずれにせよ、AAのミーティングは対話を排したやり方が主流です。なぜそうなのか理由は分かりません。意外に思われるかも知れませんが、AAは特に「言いっぱなし、聞きっぱなし」のやり方をするとは決めていません。別のやり方をしても良いのだし、実際別のやり方をしているところもあります。

僕はアメリカに行ったときに、講師役のAAメンバーがホワイトボードに図を描きながら他のメンバーにステップを「教えて」いるミーティングに出ました。その会場はたくさんの参加者で溢れかえっていました。また、ビッグブックを少しずつ読み進めながら、1行1行の意味を読み解いていく形式もあるそうです。メンバーお手製のテキストを使っているところもあります。参加者が「その場で」ステップに取り組むワークショップもあります。共通しているのは、経験の深いメンバーに新しい人が導かれていくという形式になっていることです。「議論(ディベート)」を行うやり方をしているところは聞いたことがありません。

最近、断酒会の関係の人と話す機会がありました。(具体的に名前を挙げて良いのか分からないので伏せておきます)。近年断酒会はその人数を減らしています。なぜ減っているのかその理由はいろいろあるのでしょうが、(AAの影響を受けて)「言いっぱなし、聞きっぱなし」を望む声が増え、そのように運営される断酒例会が増えたことも一因だろうという話を聞きました。

本来、断酒例会は「言いっぱなし、聞きっぱなし」ではないわけです。会員が順番に話をするという点ではAAの discussion meeting と同じですが、話をした後に、進行役である会長さんから、話の内容を褒められたり、逆に一くさり小言を頂戴したりします。あまり莫迦なことを言えば、他の「先輩」や家族からも批判を受けます。このようにして褒められたり、批判をされたりしながら、断酒会的な考え方と行動を身につけていくのが断酒会のやり方なのだそうです。

断酒例会を「言いっぱなし、聞きっぱなし」にしてしまうと、考え方や行動を修正する機会が失われ、回復が難しくなってしまう。それが会員の減らす原因(少なくともその一つ)になっているのだと。

では、AAはなぜ「言いっぱなし、聞きっぱなし」なのか。それは、AAにはミーティングの他にスポンサーシップという一対一の関係があるからです。メンバーシップ・サーヴェイという調査によれば、「スポンサーシップが弱体化した」という日本でもAAメンバーの半数はスポンサーを持っており、アメリカでは実に8割のメンバーがスポンサーを持っています。

スポンサーという言葉は日本では経済的な援助をする意味で使われますが、AAのスポンサーは本来の英語の意味(引受人の意)で使われます。AAの回復の原理は「12ステップ」に表されていますが、12ステップに取り組むのにスポンサーは欠かせないものです。AAに真面目に取り組む多くの人たちが、指導役たるスポンサーを持ち、一対一の関係の中でアルコホリズムから回復していきます。ただし、その関係は個人的なものであるだけに、公けに目立つことはありません。

このように「言いっぱなし、聞きっぱなし」だけに着目するのは片手落ちです。AAにおいてはスポンサーシップが回復をリードする(lead = 導く)役割をしています。スポンサーというのはリードする者(指導者)です。どのようにリードするかはそれぞれのやり方があるでしょうが、導く者とそれについていく者という関係が確かにAAの中にあります。また、本来の断酒会の例会は「言いっぱなし、聞きっぱなし」ではないことによって、例会そのものが回復をリードする(導く)場になっています。

ところが「言いっぱなし、聞きっぱなし」さえあれば十分だという考えの人たちが、AAの中にも外にもいます。導かれたくない人もいるし、回復に導きは不要だと考える人もいます。「言いっぱなし、聞きっぱなし」だけの場を作りたい人もいるし、実際それを作る人もいます。それはその人の自由でしょう。しかし、AAは「言いっぱなし、聞きっぱなしだけではない」ところです。

松村春繁が、高地で断酒会を始めたのは、下司孝麿医師にAAの存在を教えられたからだそうです。その後、彼は全国を回って断酒会を組織し、全日本断酒連盟の初代会長となります。彼は断酒会をAAの日本支部として認めるようにNYのGSOと交渉をしますが、GSO側ではAAの12のステップや12の伝統をそのまま採用することを求めました。それが日本人の気性に合わないと考え、断酒会はAAに合流することを諦めました。これが1960年代のことです。それ以降、断酒会とAAは別の道を歩むことになりました。日本で現在のAAが成立するのは1970年代になってからです。

断酒会がAAを参考にして作られたのは間違いありません。後に作られた「指針」と「規範」が、AAの12のステップと12の伝統の影響を受けているのも、その類似性からして明らかです。しかし、文化の移入がAA→断酒会の方向にだけ行われたと考えるのは誤りです。

断酒例会は「酒害」を語るところとされます。また「例会は体験発表に始まり体験発表に終わる」と松村語録にあります。「酒を飲んで酷いことをしてきた過去の自分」を語ることが推奨されます。しかし、本来AAではこの類の話はドランカローグとして避けられる傾向があります。AAのミーティングは「経験と力と希望」すわなち12ステップを伝える場であり、ステップの経験が望まれるところです。ところが、日本のAAではドランカローグ(飲酒譚)が好まれる傾向があります。これは、酒害や体験発表を軸とした断酒例会の影響を日本のAAが受けているため、と考えられます。

日本においてはAAは断酒会よりずっと後になって成立しました。AAグループが誕生するところでは、すでに断酒会が活動していることも珍しくありませんでした。AAのやり方をよく知らない人たちが、断酒会のやり方を取り入れ、それが「AAのやり方」として後の人たちに受け継がれていったことが少なからずあるはずです。

AAも断酒会も似ている部分があります。みんなで集まって順番に話をするところなど、そっくりです。しかし、どうやって回復を導くか、やり方はずいぶん違います。AAはAA、断酒会は断酒会です。似ている部分もありますが、違っているところも多い。違いは理由があって生じたものです。違っていなければ、別々に存在している意味がありません。

AAは「言いっぱなし、聞きっぱなし」だけでは成り立ちません。スポンサーシップがあればこそです。「言いっぱなし、聞きっぱなし」の部分だけに着目するのは、木を見て森を見ずです。


2013年10月07日(月) AAはどれほど有効か

AAに効果があるのか、それともAAには効果がないのだろうか・・・。

「AAに効果がないかも知れない」という話は、AAで回復した人にとっては噴飯物かも知れません。しかし、効果が「ある」か「ない」かは、議論の対象にすべきことです。

AAの有効性について良く言われることは、ビッグブックの「再版にあたって」にビル・Wが書いている言葉です。この「再版にあたって」は1955年に出版されたビッグブックの第2版に加えられた部分で、アメリカでAAが始まってからちょうど20年という節目の年でした。

「AAに加わって真剣に努力して取り組んだ人の半数は、すぐに飲酒がやめられて、飲まない生活を続けることができた。何度か再飲酒をしたがやめられた人は二十五パーセント、残りの人もAAにつながっているかぎり、良いほうに変わり、いろいろな改善が見られた。ほんのちょっとAAミーティングに顔を出して、プログラムが気にくわないと決めつけて来なくなってしまった人は何千人もいたが、そのうちの約三分の二は、後になって戻ってきた」(AA, p.xxv)

すぐに酒をやめられた人が50%、何回かスリップしたけれど最終的に酒をやめた人が25%。あわせて75%がAAで酒をやめていると述べています。これが「50%+25%=75%」という話です。

この文章が書かれてから五十数年が経過しました。どうでしょうか、あなたの周りのAAは75%という回復率を達成できているでしょうか?

「AAで酒をやめる人は数%」なんじゃないか、という話はよく聞きます。良い数字を挙げる人でもせいぜい2割ぐらい。ことによると100人に一人も助かっていない、なんて言う人もいます。AAはメンバーの名簿も作らないし、追跡調査もしないので、正確な数字は誰も知りません。でも、誰の言うことであれ、それなりに実感のこもった数字です。

いずれにせよ75%という数字に比較すると、あまりにも「しょぼい」数字です。するとさっそく原因探しが始まります。いったい何が悪いんだ? 1950年代のアメリカのAAと現代の日本のAAでは何が違うんだ?

あるいは、AA外部の人たちが、クライアントをAAに送り込んでもなかなか酒をやめてくれないので、「AAは役に立たない」なんて言う人もいます。

だが少し考えて欲しいのは、有効性とは何なのかです。

新しい薬を発売する前には、必ず「治験」が行われます。その薬が本当に効くのか(有効か)、また副作用がどれぐらい出るのかなどを確かめるために行う試験です。

治験を行う場合には、その新薬だけをテストするのではなく、比較対象となる薬を用意します。それは効果がない偽薬だったり、あるいは従来から存在する薬だったりします。いずれにせよ、新薬を飲む群と、対照となる薬を飲む群に分け、この二つの群の結果を比較することで、新薬の効果を判定します。

ところで、薬は誰もが真面目に飲んでくれるとは限りません。途中で飲むのをやめちゃう人もいますし、毎日飲みなさいと指示しても、一週間に二回しか飲まない人もいます。これを「服薬コンプライアンス不良」とか「服薬不遵守」などと言います。

服薬してない人が混じり込んでしまうと、データの精度が落ちて結果の比較ができなくなってしまいます。なので、そういう人のデータは集計時に取り除かれることになります。

このように「有効性を議論する場合には、条件を守った人の結果のみ採用して集計したデータを用いる」ということが前提になっています。

AAが効果を上げるには、対象者がAAミーティングに通い続けるという条件があります。AAは一生ミーティングに通い続けなさいとは言っていませんが、回復の初期におけるAAミーティングの必要性はAAの様々な書籍やパンフレットで強調されています。

AAミーティングに通ってこない人には、AAは効果を現しません。しかしミーティングに通うように言われても、途中で出席をやめてしまう人もいます。これは薬で言えば、途中で服薬を止めてしまったのと同じです。「ミーティング出席コンプライアンス不良」とでも言いましょうか^^;

ところで、先ほど、現在の日本のAAの回復率の話をした時に出てきた数字は、分母に「AAミーティングに通うのをやめてしまった人たち」まで含んでいるのじゃないでしょうか。服薬をやめてしまった人たちまで含めてデータを比較したら治験にならなくなります。AAミーティングの有効性の議論をするときも同じでしょう。回復率の計算をするには、ミーティングに来なくなってしまった人たちの数は分母から取り除かないとなりません。

AAをある程度長く続けている人なら、「頻繁に再飲酒を繰り返したけれど、めげずに根気よくAAミーティングに通い続け、最後には安定したソブラエティを達成した人」という少なくとも一人は知っているのじゃないでしょうか。

「AAミーティングに出席を続けている人の中で、酒をやめている人の割合」を計算すれば、どれぐらいの数字になりますかね? その数字が有効性とか、回復率ですよね。

先ほどのビルの上げた数字をもう一度見ると、「AAに加わって真剣に努力して取り組んだ人」という条件が加えられているのに気がつきます。「ほんのちょっとAAミーティングに顔を出して、プログラムが気にくわないと決めつけて来なくなってしまった人」は分母から除かれているのです。

でも、それは数字のマジックでもごまかしでもない、有効性の議論をするなら、それでいいのです。

僕はAAの有効性はちっとも損なわれていないと思います。きちんと評価すれば、今の日本のAAでも75%ぐらいの数字は出るのじゃないでしょうか。

もっとも、有効性の話と服薬コンプライアンスの話は別のものです。服薬コンプライアンスの悪い薬ってのはあるものです。妙に大きくて飲みにくい薬とか、一日に何度も飲まなければならない薬は、コンプライアンスが悪くなります。

その点ではAAも、ミーティング出席コンプライアンス?が改善されるような努力が必要です。「引きつける魅力」がないとなりませんし、会場がたくさんなければ遠くまで通うのが負担になりますし、良いスポンサーがたくさん供給できたほうが良いでしょう。AAの本質を曲げずに改善できるところはたくさんあります。

もちろん、AA側で改善すべきことなのですが、一人のメンバーとして言わせてもらえば、AAの外側でももうすこし努力して欲しいと思います。「AAが良いのは分かりますが、患者さんがAAに行きたがらないんですよ」などと言い訳をぶつくさ言っている医療関係者に出会うと、それをその気にさせるのがあなたの仕事じゃないの? と内心ツッコミを入れたくなる時もままあります。そういう言い訳がましい人は、患者がAAに通い始めると後はAAに丸投げ・・っていう良くないパターンだったりするわけです。

薬を処方するときには、どの薬がこの患者に合うのかって考えて出すわけでしょ。それを考えずにいつも同じ薬ばっかり出して、効果が出なかった時に、患者や薬のせいにしてたら良い医者とは言えません。AAにも合う人合わない人がいるわけですよ。「どんな人がAAに合うか」を考えもせずに、誰でも彼でもAAに送り込もうとするのは良い援助者とは言えません。

ああそれから、ビル・Wは、すぐに来なくなった人の「約三分の二は、後になって戻ってきた」と書いているでしょう。2/3という高い割合かどうか分かりませんが、年単位で観察していれば、かなりの割合の人がAAに戻ってきます。断酒が続いている間はまず戻ってきませんし、死んでしまっても戻ってこないわけですが。たいていは飲み続けた挙げ句に戻ってくるか、ある程度の期間飲まないでいても再飲酒してしまった時がAAに戻るチャンスです。酒がやめられない、あるいは再飲酒というのは、その人にとっては危機に違いありません。しかし、やり方を変えるチャンスでもあるのです。

話がすっかり逸れちゃったので、元に戻してまとめますと、AAの有効性は決して低くありません。高い回復率を達成していると言っても良いでしょう。しかし、その恩恵にあずかるには(薬を飲み続けるように)ミーティングに通い続けるという条件が守られねばなりません。そこに難しさがある。改善すべきところはそこでしょう。


2013年09月24日(火) 医学の価値+宗教の価値=AAの価値?

英語のAAの文章を読んでいると、時々 coincidence という言葉に出会います。インシデンスは発生という意味です。co というのは「一緒に」という意味ですから、コインシデンスは「同時発生」あるいは「偶然の一致」という訳になります。

この言葉がAAの歴史に対して使われる場合には、12ステップの成立に先んじて起きたさまざまな出来事に対して使われます。もしその出来事が起きなかったら、AAが成立しなかった、もし成立していたとしても今とは全く違った姿をしていただろう、という出来事を指して使われます。

ローランド・ハザードが会いに行ったのがカール・ユングだったこと。これも coincidence のひとつです。

当時のヨーロッパには他にもジークムント・フロイトやアルフレッド・アドラーがという精神医学の権威がいたにもかかわらず、なぜかハザードはユングを選びました。僕は精神医学に詳しいわけではありませんが、フロイト、ユング、アドラーの3人の中で、唯一ユングだけがスピリチュアル(霊的)なことの価値を認めていたと言います。ハザードがユングを選ぶ偶然がなかったら、AAは成立しなかったわけです。

ビル・Wが、1930〜40年代のアメリカの状況について、こう書いています。

> 精神医学のいくつかの学派を代表する探究者たちの問には、この新しい発見の真の意味をめぐって、当然、かなりの意見の相違があった。一方でカール・ユングの弟子たちは宗教的信仰に価値と意味と現実性とを認めていたが、当時の精神医学者の大多数はたいてい、ジークムント・フロイトの説を固守していた。その説とは、宗教は人間の未熟さゆえの苦しみを和らげる空想であり、人が近代学問の光の中で成長したときには、もはやそのような支えは必要としないであろう、というものだった。(『AA成年に達する』 p.4)

ビル・Wは、彼自身がAAの原理を創造したのではなく、医学と宗教から考えを借りて作り上げたに過ぎないと言っています。結果としてAAは医学でもなければ、宗教でもない存在になりましたが、AAの源流が医学と宗教の両方にあることは強調しておきたいところです。

AAは、医学という点ではカール・ユング、ウィリアム・シルクワース、ハリー・ティーボウらの、宗教という点ではリチャード・ブックマン、エドワード・ダウリング、サミュエル・シュメイカーらの影響を受けています。

AAの価値を理解するためには、医学の価値と宗教の価値の両方が分かっていなければなりません。多くの人は医学の価値を認めています。なぜなら、幼い頃から医者にかかったことがない人はまずいませんから、誰もが医学の世話になって、何らかのかたちで自分が救われたという経験を経ているからです。医学の価値は経験的真実として皆の身に沁みています。

ところが、宗教によって何らかのかたちで自分が救われた経験を持つ人は、(少なくとも現代の日本においては)かなり少ないのです。なぜなら困ったときに宗教の世話になろうという人が少ないからです。

戦前の日本について当時の外国人が書いた文章を読むと、日本人はたいそう信心深い民族として描かれています。現在でも街のそちこちに神社仏閣という宗教施設がたくさんあり、人々は誕生・結婚・出産・死亡という節目に、さらに年始にまで宗教施設を訪れて熱心に祈りを捧げています。そのように極めて信心深い民族であるにもかかわらず、今の日本人は宗教を頼ろうという意識は薄く、むしろそれは危険であるとすら感じる人が目立ちます。

戦前は内面でも行動面でも信心深かった日本人が、戦後になると行動面では信心深いものの、内面では宗教を忌避するようになったのはなぜか。それは敗戦後の日本を占領したGHQの方針によるそうです。

GHQは占領政策として、対米戦争を支えたさまざまな仕組みを解体したり、統制の対象としました。その中には宗教も含まれていました。なぜならば宗教も戦争遂行に協力したからです。その点は、神道だけでなくキリスト教その他も同じでしたが、やはり目立ったのは国教とされていた国歌神道でした。神道指令によって政教分離が図られ、同時に国民に信教の自由も与えられましたが、日本人にとって敗戦は新しい宗教への移行の機会ではなく、むしろ宗教を信じることの失敗体験として世代の記憶に刻まれることになりました。

そんなわけで、戦後生まれの僕らは、宗教によって自分が救われたという経験を持ちません。医者を頼って何らかの困難から救われた人は(例えその困難がインフルエンザ程度のものだったとしても)、医学の価値を認めます。その人にとってその救済は経験的真実であって、他者が何と言おうと否定できないものだからです。

宗教を信じている人は、信じることによって困難から救済された経験を持っています。その人にとってその救済は真実ですから、当然宗教の価値を認めます。しかし、はなから宗教を試してみようとしない現在の平均的日本人は、困難から救われた経験を持たないわけですから、その価値を認めることがなかなか難しいのです。

(つまり、人間は自分が経験していないことの価値を認めることは難しく、それをするためには意識的な努力が必要なのでしょう)。

AAは医学でも宗教でもありません。しかし、その両方から考えを借りています。だから、AAの価値を理解するためには、医学の価値も、宗教の価値も分かっていないとなりませんが、後者の条件はちょっと難しいのかもしれません。

ビッグブックの第4章にこうあります。

「自分を超えた偉大な力への信仰と、その力によって人生に現れる奇跡は、人類が始まってからずっとあったのだ」(AA, p.80)

医学や精神医学や心理学は、多くの人を困難から救ってきました。しかし、近代にそうしたものが登場する以前から、信仰は多くの人を困難から救ってきました。そして、現在でも信仰は多くの人を救い続けています。医学や心理学だけが人を救いうるわけではない、当たり前の話ですが。

AAは常任理事会という執行機関を持っている、という話を前の雑記で書きました。常任理事会にはA類(Class A)と呼ばれる「アルコホーリクでない人たち」が混じります。多くの場合、アルコール医療に関わる専門職の人にお願いしています。それだけでなく、海外では宗教家にA類をお願いしている例が多いのです。このことはAAが医学と宗教の両方に立脚している事実からすれば自然なことです。

しかし、日本のAAでは(僕の知る限り)過去から現在まで宗教家にA類常任理事を依頼したことはありません。これも日本の社会が日本のAAに与えている影響のひとつでしょう。AAも社会の中に存在する以上、社会の影響を受けるのは当然ですが、あまり医学の側に偏りすぎるのも心配です。

AAは宗教ではありませんが、人間(やその集まり)を越えた偉大な力を信じることが含まれています。12ステップの再興運動が何年も続いた結果、最近では「私は12ステップをやった」と言う人もずいぶん増えてきました。しかし中には本当に12ステップに取り組んだかどうか怪しい人もいますね。もしその人が、12ステップを通じて「神によって自分の人生が救われた」という経験を持つなら、12ステップがその人に効果を現したと言えるでしょう。

宗教や信仰によって救われた経験を持たない人が、宗教・信仰の価値を認めるためには、知性の働きが必要です。けれど、わざわざ難しく考えなくても、実際に経験してみればよいのです。普通の人は、経験をするために宗教に入ってみようとは思わないでしょうし、そんな深刻な困難も抱えていないことでしょう。だが、アルコホーリクであれば、アルコホリズムという深刻な困難を抱えているわけですから、12ステップに取り組んで経験してみる、というのもひとつの手だと思います。

信州の山村には「医者どろぼう」という言葉があったと聞きます。医療が現在ほど進歩も普及もしていない頃、山村で病人が出ると里まで医者を呼びに行かねばなりませんでした。そうやって大金をかけて医者を呼んでも結局は助からない病人が多かったので、医者を金だけ取る「どろぼう」と呼んだのでした。医者によって困難から救われなかった村人達は、医学の価値を認めることはありませんでした。やがて誰でも良質の医療によって救われうる時代が訪れましたが、村の老人達は命に関わることであっても医者にかかることを拒否し、説得に耳を貸さなかったそうです。価値を認めないとはそういうことです。

霊的なことについて、あるいは信仰について、その価値を認めない人はたくさんいます。医療を拒む山の老人達とかぶります。宗教の立場からその価値を発信する人はたくさんいますが、非宗教の立場から価値を発信する人がいてもいいかな、と思うのです。


2013年09月19日(木) AAを統治するもの

AAには統治機構はありません。他のメンバーやグループに命令を発することができる人は誰もいません。

AAも、国や自治体のように、三権分立になっています。まず評議会という決議機関があります。これは国や自治体で言えば議会のようなもので、選挙で選ばれた代表が集まって方針を決めます。日本のAAの場合にも20人の地域選出評議員がいます。

内閣に当たるのが常任理事会です。そして内閣が政府を設置するように、理事会もJSOというオフィスを構えてサービス活動をやっています。

評議会も理事会も、メンバーやグループに命令を発することはできないのです。そこがよく誤解されるところです。ビッグブックやミーティング・ハンドブックには「12の概念」が載っています。普段あまり注目されることはありませんが、その12番目に書かれていることは「6つの遵守事項」と呼ばれて、とても大事なことだとされています。

その中には、評議会は「他のメンバーに対して絶対的な権威の地位に着く」ことがないとか、個人を罰したり、「政府の役割」をしないという項目があります。同じことは理事会にも当てはまります。

理事会というのは、AAメンバーやAAグループを統制をする側ではなく、(評議会機構を通じて)AAグループから統制を受ける側なのです。

だから、理事会といえども、AAメンバーやAAグループに対して命令を発することはできませんし、従わない人を罰することもできません。ただ穏やかな「お願い」をして自発的な協力を求めることができるだけなのです。

オフィスには数人の職員がいるだけですし、それに理事会のメンバーを加えても全部で十数人にしかなりません。そんな少人数ではAAのゼネラルサービス活動を全部まかなうことはできませんから、そこで「お願い」をして、様々なAAメンバーの自発的協力を求めます。命令して人を動かすことをしなくても、協力のお願いだけで、多くの人が自ら進んで時間や労力を割いてくれ、これまでなんとかやってこられたわけです。

理事会はそうした「お願い」が無視されたとしても憤ることはありません。例えば、2015年に横浜で40周年集会を開くために、メンバーやグループに追加の献金の「お願い」がありました。お願いをしても、追加献金に協力してくれるのは一部のグループだけです。応じてくれないグループやメンバーに命令を下したり、罰したりすることはできません。お金の集まりが悪く、これでは足りないと思ったら、追加で「お願い」をするだけです。

ところで、AAのミーティングでAA以外の本を使うことについてはどうでしょう。各グループがミーティングでどんな本を使うかについて、評議会や理事会が何らかの見解を発表したことはありません。ただ一つ、数年前に、病院メッセージなどAA外部にて行うものについては、AAの本を使うように、という「お願い」が出されたのみです。これはAAのことを外部に知らせる場合に、個人の見解ではなく、AA全体の共通した見解を伝えて欲しいからです。

これもまた、その「お願い」に応じてくれないグループやメンバーがいたとしても、それを問題として取り上げることはありません。もし事態が深刻化すれば、なんらかの「お願い」を追加することはあるかもしれませんが、今のところそんな心配は要らないでしょう。

12の伝統の4番は、各AAグループの主体性が尊重されるべきだ、としています。ここで主体性と訳されていますが、autonomous は「自治権を持っている」という意味です。各AAグループは自治権を持っているので、自分たちのことは自分たちで決められます。

理事会(や他の委員会)の求めに応じて追加の献金をするかどうか、ミーティングや病院メッセージでAAの本を使うか、あるいは他の何かの本を使うか、そのほかのもろもろも、そのグループが決めることです。

こうして見ると、AAはメンバーもグループも「やりたい放題」できるのではないか、とお思いになるかもしれません。だって、評議会という決議機関も、理事会やオフィスという執行機関もあるのに、三権分立の一つ柱である司法機関がないですから。

しかしAAメンバーにも、AAグループにも「見えない強制力」が働いています。その強制力とは「ボトルの中に隠れてやってくるもの」(『ビルはこう思う』134)です。AAメンバーは、12のステップに象徴されるAAの回復の原理から極端に外れればやがて飲んでしまうでしょう。同じように、AAグループはAAを一つの共同体に保っている一体性の原理(12の伝統に象徴される)におおむね従っていかなければ、存続していくことができません。もし、グループがばらばらに分解して存在をやめてしまったら、その支えを失った多くのメンバーは再び酒に戻ってしまうでしょう。AAにいる誰でも、極端に自分勝手なことをすれば、アルコールによる報いを得る可能性があります。

このような強制力があるので、AAには個人を罰する仕組みは必要ない、というのがAAを作った人たちの考えでした。(だからこそ、そうした強制力が働かないアルコホーリクでない人がメンバーがAAに加わっては困るとも言えます)。

12の伝統の1番目では「全体が優先される」とあります。伝統1の「全体を優先する」ことと、伝統4の「グループの自治権」は時に相反します。12の伝統は何番が何番に優先する決まりはありません。だから、相反した場合には、どちらが優先されるべきか「個別のケースごとに」よく考えて判断しなければなりません。

個別のケースごとに判断が必要なるのであれば、それをルール化することはできません(ルールというのは個別判断が要らないように作るものですから、個別判断が必要ならルールは作れません)。追加の献金が必要だからと各グループに献金額を割り当てることもできません。この本は使ってもオーケーで、この本はダメとかも決められません。そうしたルールを決めて、盲目的にそのルールに従うのではなく、一件一件のことについて、頭を使って考えることをAAプログラムは一人ひとりに要求するのです。

AAは人によって統治されているのではなく、ルールによって統治されているのでもなく、原理によって統治されているのです。

人によって統治されているのなら、自分の頭で考えなくても、その統治者の判断に従えば良い。ルールによって統治されているのなら、自分の頭で考えなくても、そのルールにただ従うだけで良い。けれど、原理によって統治されているのであれば、毎回自分の頭で考え、自分で判断しなければなりません。自分で判断することなのですから、もし結果が悪かったとしても、誰を責めるわけにもいきません。

ルールではなく、原理を求めて下さい。


2013年09月02日(月) 信じることについて追加(長いよ)

前回「信じる」ということについて雑記を書きました。そうしたら、結構反響が大きく、質問や相談を投げかけられました。それらにひとつひとつ答えるのではなく、まとめて雑記に書くことで答えたいと思います。

「信じる」ということは、12のステップではステップ2にあたります。ステップ2の話をする前に,簡単にステップ1の話を済ませておきましょう。

ステップ1は「無力を認める」ステップです。具体的には、私たちにはアルコホリズムという問題があり、その問題を「自分では解決できない」と認めることです。

例えば、あなたが自動車を所有していたとします。ある日、あなたが車に乗ろうと乗り込んでイグニッションキーを回しても、エンジンがかかりません。車が故障しているのです。それがガス欠とかバッテリー切れのような単純な問題ならいいのですが、最近の自動車は高度なエレクトロニクスが使われていて、そのあたりが壊れると素人ではどうしようもありません。

あなたは自動車の修理を「諦め」ます。つまり自分の力では解決できないと認めるステップ1です。

同じことはパソコンにも言えます。パソコンを使おうと電源スイッチを入れたのに画面が真っ暗で起動してくれない。そうなったら修理に出すしかないではありませんか。スマートホンでも同じです。自分の力で解決できなければ、車ならディーラーへ、パソコンやスマートホンならショップに修理を依頼するでしょう。

同じことはアルコホリズムにも言えます。この場合の問題は「自分の力では酒をやめられない」ということです。自分では問題を解決できない=自分の力では再飲酒を防げない、ということを認めることです。自動車やパソコンが壊れた時みたいに簡単に認めることができればいいのですが、アルコールのこととなると簡単ではありません。なぜなら人間にはコントロール欲求があり、自分の力で何とかしたいと思うからです。

僕は技術者なので、自動車やパソコンが故障しても、まず自分の力で解決したいと考えます。ボンネットを開けたり、パソコンの裏蓋を開けて、ごそごそやります。時にはうまく直るときもあります。「どうだい、見てくれ、俺ってすごいだろう!」

ところが、一見直ったように見えても、また同じところが具合悪くなったり、たまたま動いただけだったりします。するとまた故障がぶり返します。その度に僕は時間を使って修理し、何度も繰り返した挙げ句に、うんざりして妻にこう言います。

「諦めたよ。やっぱり修理に出そうと思うんだ。しばらく自動車(あるいはパソコン)なしの不便をかけるけれど我慢して欲しい」

そうすると妻はこう返事をするでしょう。

「最初からそうして下されば良かったのに。そうしていれば、もう今頃修理から上がってきたはずじゃない」

いやいや面目ない。最初から意地を張らなければ良かったのですが。

アルコールでも同じことが言えます。自分の力で断酒をしようとします。時にはそれが何ヶ月、何年と続くこともあります。もしその人が自力断酒で一生を飲まずに過ごせるなら、こんなに素晴らしいことはありません。だが大半の人が再飲酒をします。何年か断酒した後に再飲酒する人も少なくありません。

その人は飲んでしまった原因を自分なりに探して、その対処をし、また自力で酒をやめていこうとします。そしてまた飲む。そんなことを繰り返していきます。それを何日、何週間と短く繰り返す人もいれば、何年、十何年という長い周期で繰り返す人もいます。何が問題なのか?

そもそも「自分の力で問題を解決できる」と考えたのが間違いであり、それが再飲酒の原因なのですが、人はなかなかそれに気がつきません。でも、最後の最後にはそれに気がついて、奥さんにこう言うでしょう。

「諦めたよ。自分の力では無理だ。やっぱりAAとかハイヤーパワーに自分をまともにしてもらおうと思う」

おそらく奥さんは、こう返事をするでしょうね。

「最初からそうして下されば良かったのに」

まだ奥さんがいれば、の話ですが。意地を張らなければ奥さんに余計な苦労をかけることもなかったのに。最後まで自力解決を諦められずに、酒で死んでしまう人も多いのです。そういう人に比べれば、生きているうちに「諦め」ることができた人は良かったと言えます。

僕は自動車やパソコンを修理しようとしているときは、それに没頭します。なにしろ、動いてくれないと困るからです。修理に取り組んでいる間は、その時間にする予定だった仕事や趣味には取り組めません。本来やるべきことや、やりたいことがほったらかしになってしまいます。

アルコールでも同じです。自分の力で酒をやめようとしても、やがて飲むことに時間を費やす状態に戻り、入院したり、施設に入ったりしてまた時間を使います。その人が本来生きるべき人生が生きられなくなります。それだったらまだAAに時間を使うほうが、本来生きるべき人生が生きられます。

要するにステップ1というのは、壊れてしまった自分を自分では修理できないと認めることです。どこが壊れたかといえばアルコールに関する部分です。自分で修理できないと諦めたら、自動車やパソコンを修理業者にまかせることができます。アルコールも同じです。壊れてしまった自分を修理できる存在(自分より偉大な力)に委ねるのです。(ただその委ねる手順=ステップ3〜12が少々面倒なんだけどさ)。

あなた自身は最後まで自分の力で自分を修理したいと思うかも知れません。でもハイヤー・パワーがあなたを直してくれても、誰も困りはしませんよ。

 ・ ・ ・

さてステップ2の「信じる」に戻ります。ステップ2の「信じる」は、100%信じていることではなく、疑いが含まれています。

あなたが自動車やパソコンを修理に出すとき、実は100%修理できるとは思っていないはずです。時には電話がかかってきて「お預かりした品は修理不能です」と告げられることもあります。修理に出すときには、「直ると良いな」と期待しながらも、「ひょっとしたら修理できないかも知れない」という疑いも含まれているのです。100%信じていなくてもあなたは修理に出すでしょう。

「信じる」とはそのように疑いを含んだことなのです。人は時にはほとんどが疑いで占められていても、ほんの小さな可能性を信じて行動を起こすことがありあす。前にも例を挙げましたが、宝くじに当たる確率は極小ですが、人は宝くじを買うでしょう。行動を起こすのに、100%(あるいは100%近く)信じる必要はないのです。

(お陰様でAAは宝くじほど確率は悪くありません。いずれ翻訳して紹介しようと思いますが、AAの長期的な成功率はゆうに5割を越えているという論文があります)

さて、ステップ2では「自分を超えた大きな力」だとかハイヤー・パワーと呼ばれるものが、自分を修理してくれると信じるわけですが、当然そこには疑いが含まれています。自分は修理不能で回復できないかも知れない。それでも、修理してもらえる可能性を信じてみるしかありません。信じて行動を起こさなければ、壊れたままの自動車、壊れたままのパソコン、壊れたままの自分を目の前にして途方に暮れるしかないのですから。自動車やパソコン無しでも暮らしていけるかも知れませんが、自分無しでは人生が終わってしまいます。

さて、ステップ2では「自分を超えた大きな力」と言っています。「自分のを越えた大きな力」は実は二つあります。

一つはAA共同体です。AA共同体にはたくさんのAAグループがあり、たくさんのAAメンバーがいます。日本のAAではそれをよく「仲間の力」と呼んでいます。人の集まり(共同体)には力があるのです。

「私はAAのミーティング以外ではAAの本は読まない」という人がいます。その人が一人の時にAAの本を読まないのは本当でしょう。でも、AAのミーティングでは本を輪読することが多いので、その人もミーティングでは本を読むでしょう。これも一人ではできないことを、共同体が可能にする一例です。その人にとって、AA共同体は「自分を超えた大きな力」に間違いありません。

集団の力は様々な面でAAメンバーに及んでいます。僕が遠くの街へ出張に行き、そこでAAミーティングに出ると、今までまったく知らなかった人たちとの間に共感を得ることができます。これも共同体が私たちのソブラエティを支えてくれる一面です。決して一人ではできないことを可能にする「自分を越えた力」です。

ビギナーは、とりあえずこの共同体を「ハイヤーパワー」にして良いと言われます。

> あなたが望むなら、AAそのものをあなたの『偉大な力』にすることもできます(12&12 p.38)。

この集団の力というのは実に分かりやすいものです。AAの外から見ても、おそらく分かりやすいのでしょう。なので、

「共同体の支え(仲間の力)がAAのすべてだ」

という誤解が生まれやすいのです。特にAAの共同体の力は強力です。日本には5,000人しかいない、と言っても全都道府県にいるし、イベントをやれば50人・100人はすぐに集まります。2015年に横浜で行われる40周年集会には2,000人集めようなんて言っているみたいですが、あながち無理とも言い切れません。

アルコホーリク(AAのメンバー)は、他の12ステップ共同体のメンバーに比べて12ステップへの取り組みが甘いと言われていると聞きました。確かに、AAは日本の12ステップグループの中では最大のメンバー数を誇っていますが、AAメンバーの12ステップへの取り組みは、他のいくつかの小さな共同体に比べれば甘いと言えます。それは、AAはサイズが大きいだけに共同体から得られる力が強く、それがAAメンバーがもうひとつの「力」である12ステップに頼ろうとしない原因にもなっているのだろうと思います。

メンバー数が少ない共同体では、得られる「仲間の力」も小さいので、一人ひとりが懸命に12ステップに取り組まなければ個人もグループも生き残っていけません。それが小さい共同体のほうが12ステップに真剣になり得る理由でしょう。AAも最初は小さな共同体であり、ビル・Wやドクター・ボブや他の仲間たちは、「おぼれる者が救命具にすがりつこうとする真剣さ(12&12, p.31)」で12ステップに取り組みました。ところが、アメリカでAA共同体が大きくなっていくと、やはりプログラムが薄められてしまったと言います。

日本のAAでも、ロングタイマーから「俺たちの頃は真面目だったのに」の類のグチを聞かされることがあります。そりゃまあ、厳しい環境が人を勤勉にさせていたのでしょう。そう言うロングタイマーたちが今の恵まれた(?)環境のAAにつながっとしても、同じように真剣に12ステップをやったでしょうか。

ただ、共同体の力(仲間の力)には明らかに限界があります。最近AAメンバー数の伸びが鈍化しているのは、共同体の力だけに頼った限界が来ているのではないでしょうか。より一層AAが広がっていくためには、もう一度12ステップの力をAA全体に取り戻さなければならない、と考えています。

仲間のおかげで幸せなソブラエティを過ごしている、と言っている人の口に12ステップを押し込みたいとは思いません。けれど、あなたがAAにつながっていても、何かしら不全感が拭い去れないようなら、おそらく12ステップに取り組んだ方が良いでしょう。

AAでは「自分を超えた大きな力」をハイヤーパワーあるいは神と呼んでいます。人はハイヤーパワーではないし、人の集まりであるAA共同体もハイヤーパワーではありません。最初はそれでも良いと言われますが、12ステップを進めるうちに、その限界に気付かされるでしょう。

> 一部の新しい人たちや、まだAAグループを「ハイヤー・パワー」にしているかつての不可知論者たちにとっては、祈りに力を求めることなど、(略)、なお納得できないものであり、不愉快なものだろう。(12&12, p.126)

12ステップはどのステップも人の意志をくじく面があります。だから、ステップの途中で立ち止まってしまうのが普通です。そんな時に目の前のステップに取り組むには意欲が必要です。ところが、やる気というのは作り出すのが難しいものです。そういうときには「意欲を与えて下さいと」祈ることを提案しています。AA共同体をハイヤーパワーにしている人にとって、形だけでなく、真剣に祈って力を求めるのは難しいことであり、ステップが途中で止まってしまう原因です。

> おそらくどのような人間の力も、私たちのアルコホリズムを解決できないこと(AA, p.87)

これはAAのミーティングハンドブックにも掲載されている文章で、AAミーティングに出席すればしょっちゅう耳にする言葉です。「どのような人間の力も解決できない」問題を、「仲間の力」が解決できるわけがありません。壊れたあなたを仲間は修理できません。

そうなると、ハイヤーパワーとか神様って何だろう? という疑問にぶち当たることになります。その疑問にはちゃんと答えが用意されているのですが、だがそれにはまず、「自分の力」による解決を諦め、また「仲間の力」による解決も諦めねばなりません。それはそれほど難しいことではありません。車やパソコンが壊れたときにやっているのと同じことなのですから。

俺とポンコツ車とメカニックの12のステップ

あるNAメンバーが12ステップについて語るビデオを拝見しました。彼は「NAはself helpではなく、Higher Power helpなんだ」と言ってました。仲間の力を借りて自分で問題を解決しようとする人にとってはself helpなのでしょう。でも12ステップグループは自分で問題を解決するところではないのですよ。


2013年08月28日(水) 人は行動する前にまず信じる

東京に行くと、高さ634メートルの東京スカイツリーを見ることができます。

僕はその東京スカイツリーを例に使って話をすることがあります(一部はジョー・マキューの話のパクリですが)。

「なぜ東京スカイツリーが建っているのだろうか?」

それは誰かが頭の中で巨大な電波塔が建っている姿を想像し、それが可能だと「信じた」からです。それがなければ始まりませんでした。もし、600メートルを超える電波塔は建てることができると信じる人が誰もいなかったら、いまスカイツリーはあそこに存在していないはずなのです。

誰かが信じたのです。そして、その信じるところに従って計画が立てられ、資金が集められ、設計が行われ、多くの人が建築にたずさわって電波塔が完成しました。そうした「行動」に先だって、まず「信じる」ということが行われているはずなのです。

あなたが誰かに雇われて働くとしましょう。一ヶ月労働をして、翌月の終わりぐらいに賃金が払ってもらえるとします(月末締めの翌月末払い)。月の初めから働き出すとすれば、給料がもらえるのは2ヶ月近く先になります。そんな先のことなのに、あなたが「ここで働かせてもらおう」と決めて働くのはなぜでしょうか?

それは、来月末には給料を払ってもらえる、という結果を「信じる」からです。それを信じることができなかったとしたらどうでしょうか。つまり、この雇用主は絶対給料を払ってくれない、と確信できる何かの理由があったら(誰だってただ働きは嫌ですから)別の仕事を探すでしょう。

労働するという「行動」に先立って、報酬を得られることを「信じる」ことが行われています。

人は結果が明らかでないものでも「信じる」ことがあります。例えば宝くじです。宝くじが当たる確率は非常に小さい。けれど、その確率はゼロではありません。しかし人はその小さな可能性を「信じる」から、宝くじを買い求めます。もし決して当たらない宝くじがあったとしたら、誰も買わないでしょう。そこには小さな可能性すらないからです。

つまり人は、まず結果を信じる。結果が定かでないときでも可能性を信じる。そして、信じたことに従って行動を起こすのです。その行動が結果を生み出します。

アディクションからの回復についても同じことが言えます。まず自分が回復できることを信じなければ始まりません。信じることができれば、それに従って行動し、行動の結果として回復を手に入れるでしょう。

けれど自分の回復を信じることはなかなか難しいことです。「回復したい」と口で言う人も、実は自分が回復できる可能性を信じていないものです。信じていないから、行動を起こすこともなく、現状維持を狙います。その人が依存症ならば現状維持はできません。螺旋階段を下るように、同じことを繰り返しながら徐々に悪くなっていくだけです。

依存症者の家族についても同じことが言えます。「この人に回復して欲しい。酒(や薬)をやめて立ち直って欲しい」と口で言っていても、本当にそうできると信じているとは限りません。

酒をやめることには失敗(再飲酒)がつきものです。失敗を繰り返すと、本人も周りの人たちも成功信じることが難しくなってしまうものです。

ではどうすれば良いのでしょうか。簡単なのは成功した実例を見ることです。

スカイツリーを作る前に見ることはできないわけですが、似たような電波塔は世界にたくさん建っています。カナダ・トロントのCNタワーとか、広州塔とか。そういった例を見れば、スカイツリーが完成することを信じることはできます。

また、働くということについて言えば、周りに働いて金を稼いでいる友人たちがいれば、「働けば報酬がもらえる」ということを信じることができるようになります。

実例を見せるということは、人を説得する(何かを信じる気にさせる)ときによく使われる手段です。

依存症からの回復についても同じことが言えます。実際に酒や薬をやめて、社会に戻って活躍している人の姿を見て、その人たちの経験を聞けば、「酒や薬をやめることは確かに可能なのだ」と信じることができます(これを一般的効力感と呼びます)。

AAがオープン・ミーティングをやっているのは、まだ酒をしっかりやめられていないアルコホーリクやその家族に回復の実例を見せる、という目的も含まれています。(だから、オープン・スピーカーズ・ミーティング(OSM)などのAAイベントには積極的にAA以外の人を招き入れる工夫が必要なのですが、その話は別の機会に譲りましょう)。

僕は時々、依存症者のご家族から「どうしたら良いか」という相談を受けることがあります。この場合の「どうしたら良いか」は、依存症者本人に「何をやらせたら良いか」という意味です。それは、グループのミーティングに通ったり、医者に行ったりすれば良いでしょう。問題なのは、ご本人がそうした行動を取りたがらない場合です。

その場合には、本人を治療に結びつける努力が必要です。その努力の多くは家族が担わざるを得ません。しばらく前までは、本人の底つきを促すためには「家族は手を出さずに何もしない方が良い」と言われていたのですが、最近ではジョンソン式介入やCRAFTなどの「家族がすること」が日本に紹介されつつあります。つまり家族に行動が求められることになります。

上に述べたように、行動に先立ってまず「信じる」ことが必要です。それは「私の愛する人が、酒や薬をやめて立ち直れる」と信じることです。「そうなって欲しいと願う」ことと、「そうなるという結果(あるいは可能性)を信じる」ことは別物で、この二つには隔たりがあります。

だから本人が行動を取りたがらない場合には、家族の人が「AAのオープンミーティングや断酒会に行かれたらどうですか?」と勧めています。もちろんアラノンも役に立つでしょう。依存症のジャンルが違えば別のグループを紹介すれば良いことです。

酒をやめるのは本人なのに、なぜ家族がミーティングに通わなければならないのか? という疑問に出会うこともしばしばです。家族自身の回復のためという理由もありますが、家族が「行動」を起こすためでもあります。家族から本人に何らかの働きかけをするにしても、その行動を続けて行くには「信じる」ことが必要なのです。信じる気持ちを持ち続けるためには、回復の実例を見聞きし、同じ目標を目指す人たちと一緒の時間を過ごすことが役に立つのです。

信じる気持ちを持てない家族は(本人同様に)現状維持を選びます。しかし依存症に現状維持はありません。徐々に悪くなっていくのを傍らで見守ることになります。

依存症が放っておいて自然に良くなることは滅多にありません。回復のためには行動が求められます。そして人の行動には、それに先だって結果(あるいは可能性)を信じる気持ちがある。だから、まず信じることが大事です。信じることができないのなら、まず自分が「信じるようになれる」ことを信じなくてはなりません。

それほどまでに「信じる」ことは重要なのです。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


My追加