心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2013年08月05日(月) 日本アルコール関連問題学会岐阜大会の印象(その2)

7月に岐阜で開かれた日本アルコール関連問題学会の大会の感想、その2です。

大会ではシンポジウムや分科会がいくつも開かれており、取り扱うテーマは多岐にわたっています。またこうした学会に限らず、日本国内あちこちで、年がら年中、依存症関係のセミナーや講座がいろいろと開かれています。こちらもやはり様々なテーマを扱っています。

そうした多数のテーマを僕なりに分類すれば、ざっくり二種類。

共通する問題(コモンプロブレム)
個別(その人固有)の問題(スペシャルニーズ)

に分類できます。

まず共通する問題についてです。一口にアルコール依存症の問題と言っても、病気を予防する立場からは国民全体のアルコール消費量の低減や未成年者飲酒の予防などの話になります。いったん病気になってしまえば、治療に結びつけるための介入(インターベンション)が必要ですし、治療の現場では断酒を決意させる動機付けや教育が必要になります。断酒の前段階として節酒という目標もありかもしれない、という話を前の雑記でしました。そして断酒が始まれば、再発の予防が必要です。

AAはこのアルコール依存症に対する長い取り組みのうち、その最後尾である「再発(再飲酒)の防止」に取り組んでいるところです。

この一連の流れはすべてのアルコホーリクに共通のものですし、再飲酒は断酒したすべてのアルコホーリクに起こりうることですので「共通の問題」という分類に入れておきます。学会の大会でも依存症に対する心理療法を扱った分科会がありました。12ステップも同じく「共通の問題」を扱うための手段です。

さて次は、もうひとつの個別の問題についてです。これは非常に多岐にわたります。

例えば就労問題です。断酒して就労することを考えます。酒が原因で職を失わなかった人はそのまま働き続ければ良く、仕事を失っても新しい仕事に就ける人はそれで良いわけです。しかし、なかなか仕事に就けない人もいるし、仕事についても続かない人もいます。こういう人たちには就労支援が必要です。

若い頃から荒れた生活をしていたので定職に就いた経験が薄い人や、そもそも学校にすらマトモに通ったことがない人もいます。手に職をつけるために資格を取ったり、通信制の学校で高卒・大卒を再度目指したり・・という就学支援が必要な人もいます。

発達障害や知的障害が疑われれば、評価をして、公的な支援にむすびつけねばなりません。

洗濯・掃除・ゴミ捨て・炊事などの身辺の管理がおぼつかない、中には清潔を維持する習慣すら怪しい人もいますから、集団生活でそれを身につける訓練が必要な人もいます。こういう人が若くしてシングルマザーになったりすると余計大変です。

一番ありがちなのが金銭の管理ができずに(生活保護であれ親族の援助であれ)もらった金をぱっと使っちゃって生活費が足りなくなったりする。こういう人にはお金を預かる金銭管理の支援が必要です。

うつ病やパーソナリティ障害などの精神疾患も、こちらに分類して良いでしょう。

こうして見てみると「個別の問題」は非常に多様であり、一人ひとりに固有のものです。だからこれをスペシャルニーズと呼びましょう。そして、このスペシャルニーズは依存症の問題「ではない」のです(少なくとも共通した問題ではない)。

そこを見極めるには頭を使わねばなりません。例えば就労できないのでギリギリの生活費しかないのに、金銭管理ができないので自分の使いたいことにお金を使ってしまって、生活費が足りなくなる。身の回りのことも十分できない・・そんな人が、男をつかまえて生活費を出してもらおうとか、女をつかまえて身の回りの世話をしてもらおうとか、そういう隠れた意図で異性関係を結ぶのは良くある話です。当然上手な関係が築けるわけもなくトラブルになります。それを異性依存(男性依存・女性依存)などと名付けて、「アルコール依存が異性依存にシフトしましたねぇ」などと言って普遍性を発見したように思っている支援者を見ると、このクソ馬鹿野郎○ね!とか思ってしまいます。

その人の問題を良く分解してみれば、社会経験の圧倒的な不足だったり、あるいは知的な弱さだったり、その人固有のスペシャルニーズが見えてくるはずです。

不思議なことに(?)そうしたスペシャルニーズを抱えた人は、パチンコにはまり込んでみたり、スマホのゲームにどっぷり使ってみたりします。それを表面上だけ見てギャンブル依存とかネット依存と見なしてしまうのも残念なことです。

(ギャンブル依存や性依存の存在を否定するわけではありませんが、ギャンブルや性の問題がある=依存症ではありません)

そしてその固有の問題は、実際にソブラエティやクリーンを維持する妨げになっているので、解決のために手助けが必要なのは間違いありません。AAのミーティングに通ったり、12ステップに取り組んでも、そうした個別の問題に対する手助けは期待できません。また家族が支援者に相談に行っても、その支援者がこうした問題が見えていないクソ馬鹿野郎様だったりすると、「家族の手助けは共依存ですから突き放しなさい」とか助言してしまい、家族がそれを真に受けて事態が泥沼化してしまったりします。

こうしたスペシャルニーズを抱えた人は目立ちます。普通の支援だけでは安定した回復に結びつかず、スリップを繰り返しがちな「困難ケース」になりがちだからです。病気が重い人、回復する気(やる気)のない人だと事情を知らない人たちからは思われがちです。でも依存症という病気が重いかどうかは分かりません(ひょっとしたら依存症ですらないかもしれない)。

クソ馬鹿野郎様でない良心的な支援者は、そうしたニーズを抱えた人を集めて支援を試みます。そして、それが功を奏して結果を出します。そして学会の大会や各地のセミナーで発表されていたりします。うん、あなたは素晴らしい支援者だ・・・が、ちょっと待って。それって「アディクションの支援」とは違うんじゃないですか?

アルコホーリクは働かないと飲んでしまうから、就労支援が一番良い、という人がいます。確かに、働ける人は働くべきだし、働きづらい人には綿密な支援が必要です。でも、それってアディクションの支援とは違いますよね。その人の抱えるスペシャルニーズへの支援です。

その人の問題をよく見極め、その人に合った支援をする。画一的な病気への支援とは違う「人に対する支援」です。たしかにそういう言葉を聞く機会が増えてきました。本質だと思います。

さて、このスペシャルニーズへの支援をアディクションの支援者(例えばAAスポンサー)がするべきなのでしょうか? 僕は多様なニーズに応えられるのが良いスポンサー、良い支援者だと思ってきました。けれど、最近では様々なことに手を出すより「共通する問題」に集中したほうが良いように考え直しています。

僕は数年前から発達障害のことに関心を持って、いろいろ学んできました。発達障害のことについては(例えば自閉症の支援者などが)20年、30年に及ぶ支援の経験と知識を集積しています。アディクションに関わる人間が一からノウハウを蓄積しようとするより、任せられるものはその道の専門の人に任せてしまった方が良いんじゃないでしょうか。

知的障害にはそのための施設や支援者があるし、精神障害についても同様。単なる就労支援だったらリワーク施設があるし、金銭管理だったら社協の任意後見制度を使っても良い。(それが使えればの話ですが)。多様な支援メニューを目指すよりは、むしろそういった他分野の専門家と連携して協力できることの方が大切ではないかと。

こうやって共通の問題スペシャルニーズというふうに分類してみると、今自分が取り組んでいる問題がどこに位置するのか見えてくるかもしれません。

依存症は解決が難しい問題です。5年、10年と酒をやめ続けられる人は多くありません。多くの人たちが、本人も、家族も、支援者も、解決を見出そうとしています。その中で成果を上げたことが次々と発表されてきます。けれど、12ステップのような共通の問題への解決策がスペシャルニーズを解決できるわけではありません。また、スペシャルニーズへの対応策が依存症全体の問題を解決できるわけでもありません。全体像を見失うと、右往左往することになります。

問題があって、解決がある。まず問題が何か見極めることで、解決作が見えてくる。ステップ1の教えです。岐阜でのアルコール関連問題学会の大会では、依存症に限らずその周辺も含めて様々な問題が扱われていました。一つの箱の中にたくさんの問題と解決が詰め込まれていたようなものです。まさにアルコール「関連問題」学会なんだなぁ、とその名前のことを深く納得した二日間でした。


2013年07月23日(火) 日本アルコール関連問題学会岐阜大会の印象(その1)

日本アルコール関連問題学会の岐阜大会に出席してきました。2日間の会場にいたのに、分科会やシンポジウムにまったく参加しませんでした。学会と呼ばれる場所には何度も行っていますが、こんなことは初めてです。唯一出たのが、昼食を確保するために聞いた認知症のランチョンセミナーだけでした。「いったいお前は何をしに行ってるんだ?」と言われそうですが、自分が学ぶためではなくAAの広報活動で行ったわけです。

前回に続いて今回もポスター発表を行いました。これは2001年から2010年の4回のメンバーシップ・サーヴェイの結果を比較したものです。これによって、この9年間で女性メンバーの比率が増加を続けていること(20%→27%)。女性の増加は全国7地域すべてで起きていること。また、収入の手段とソブラエティの長さの関係を見ることで、酒を飲まない期間が長くなるにつれて生活保護の比率が減っていく(つまり経済的自立を成し遂げていく)様子が分かりました。興味をお持ちの方はJSOにお問い合わせいただければ資料が得られると思います。この他、資料の配付やAA書籍の販売など、JSOスタッフや地元のAAメンバーが活躍されていました。

分科会やシンポジウムを聞かなくても、会場の中で人と接しているだけで分かってくることはいくつかあります。今回の大会では大きなトピックが3つありました。ひとつは、アル法ネットが取り組んでいる「アルコール健康障害対策基本法」の制定について。もう一つは、レグテクト(アカンプロサートカルシウム)の登場です。

アカンプロサートについては、服用するだけで飲酒欲求を抑える効果があるということで、発売前には「抗酒剤(ノックビンやシアナマイド)が過去のものになる」とか、「AAや断酒会が不要になる」などと言う人もいましたが、実際発売されてみると現場へのインパクトはあまりない様子です。その理由のひとつは、久里浜での治験で有意な差が出たとしているものの、それは従来の手法に追加して使った結果だからです。エフェクトサイズもそれほど大きくはないので、抗酒剤と併用するのが良いという医師もいました。このクスリがAAや断酒会の存在意義を否定するわけではなさそうです。

3つのトピックの最後は「飲酒量低減という治療目標」です。むしろこちらのほうが、AAや断酒会に与えるインパクトは大きいでしょう。実は一緒に参加した妻の気分が悪くなってしまい、救護室で横になって休む脇に付き添っていました。救護室はメインホールの楽屋が使われており、小さなテレビでメインホールの様子が中継されていました。スライドの内容は分かりませんが、音声だけ聞こえていました。

飲酒量低減というのは、ひらたく言うと「節酒」です。日本のアルコール依存症治療では、治療の目標は言うまでもなく「完全断酒」です。AAも断酒会も断酒を目標として掲げています。個人的経験からしても、アルコホーリクが節酒することは無理です。

しかし、世界的にも、歴史的にも、アルコール依存症の治療目標は断酒とは限らず、節酒も節酒の選択肢のひとつになっています。日本でもここ2〜3年ぐらい、節酒を選択肢のひとつにしたらどうか、という定言がされるようになってきました(その発信源は久里浜だという気がしますが)。

WHOの疫学調査で、20カ国でアルコール依存・乱用で治療が必要な人と実際に治療を受けている人の比率(treatment gap)を見たところ、78%が未治療だったそうです。これは調査対象となった8種類の疾患の中で一番悪い数字です。

The treatment gap in mental health care
http://www.who.int/bulletin/volumes/82/11/en/858.pdf

つまりアルコール依存(乱用)の人のうち8割近くが治療を受けていないということです。日本でも厚生労働省の研究班の調査で、アルコール依存症者(IDC-10の診断基準を満たす人)は80万人と見積もられていますが、一方の患者調査によれば実際に治療を受けている人は5万人に過ぎません。

80万人のうち75万人は治療を受けていない、つまり日本にも大量の未治療者が存在しているということです。彼らはなぜ治療を受けないのか。それには様々な理由がありますが、主な理由は「アルコール依存症者は断酒を嫌がる」ということです。治療側が断酒という目標だけを提示すると、彼らは治療を中断してしまい、未治療の状態に戻ってしまいます。

ひとつには中間的な目標として節酒を掲げるということがあります。これによって治療を受け入れやすくなることが期待されます。シンポジストの一人は飲酒量の低減が肝機能を向上させることを示していました。現在治療を受けている5万人は、重篤な(つまり重症の)アルコール依存症者が多いがゆえに、断酒という治療を目標を選ばざるを得ません。しかし、もうすこし軽症の人であれば、節酒を中間目標にした上で、最終的に断酒へと導いたほうが良い結果が得られるかもしれません。

さらには、あまり診断基準を多く満たさない人であれば、節酒を最終目標に掲げることもあり得るということです。実際飲酒量を低減させることにより、安定した緩解にいたる人もいる、というエビデンスも揃いつつあるそうです。軽症なら節酒も可ということか。

「渇望現象によって飲酒量のコントロールが不能になるのがアルコホーリクだ」というAAの考え方からすれば、長期に渡って節酒が可能だなんて信じられないかもしれません。僕の考えでは、操作的な診断基準の下では違う病気の人が混じってきている可能性も十分あるはずです。ジェリネク博士はアルコホーリクをいくつかにタイプ分けしましたが、その中でγ型(AAが本物のアルコホーリクと呼ぶもの)が多くを占めているのでしょうが、それ以外のタイプもあり得るし、中には飲酒のコントロールを回復する人がいる可能性は否定できません。(つまりアルコホリズムとアルコール依存症は違うということ)。

今後、断酒という治療目標だけでなく、中間目標としてあるいは最終目標として節酒を掲げることが日本でも広がる可能性は十分にあります。実際にすでにそれは始まっています(いくつかの医療機関で飲酒量低減という目標の治療が始まっているという報告がありました)。

日本のAAでは「アルコール依存症には重症も軽症もない」と言われます(他の国のAAでも同じことを言うのか知りませんが)。これは軽症だから節酒が可能というわけではなく、断酒するしかないことを説明するための言葉ですが、医療が節酒を指導するようになれば前提が崩れてしまいます。

新しい仲間が、私たちの生き方に何の喜びも楽しみも見つけられなければ、彼らは私たちのように生きることを望むはずがない。(p.192)

AAメンバーが、単に「酒を飲まない」以上の魅力を発信できなければ、新しい人たちがAAに魅力を感じてくれることはないでしょう。AAは特に重症の人たちが酒をやめるためにやむなく参加するところ、として扱われるようになるかもしれません。

「飲んでいた頃のひどい自分を正直に語ることで酒が止まり続けるんだ」とか言っていても、そんなやり方には魅力を感じてもらえないでしょう。また、「仲間の中で荷物(嫌な感情)を吐き出すことでスッキリするためのミーティング」にも魅力を感じてもらえないでしょう。なぜなら、節酒を目標にすることができるのであれば、飲める選択肢を選ぶのがアルコホーリクだからです。

12ステップを通じて得た新しい生き方の魅力を発信することで、「古い生き方のまま酒を飲み続けるよりも、新しい生き方を選んだ方が良いかも」と新しい人に思わせることができないと、AAは徐々に衰退し、忘れ去られていくでしょう。これからのAAは量だけでなく、質も追求していかなければならないのだと思います。

大会のプログラムとは関係なく、会場内の雑談でアカンプロサートの次の薬「ナルメフェン」について耳に挟みました。製薬会社のルンドベックだそうです。ネットで検索してみると、確かにルンドベックが nalmefene(商品名Selincro、セリンクロ)という薬をヨーロッパで4月から launch したとあります。

Lundbeck introduces Selincro as the first and only medicine for the reduction of alcohol consumption in alcohol dependent patients
http://investor.lundbeck.com/releasedetail.cfm?ReleaseID=757998

アカンプロサートが断酒を前提とした薬であったのに対し、ナルメフェンは飲酒量低減(節酒)のための薬です。大量飲酒者が酒を飲む1〜2時間前に1錠飲むと飲酒量が抑制される、という使い方をするらしい(つまり頓服薬だね)。そう遠くない将来に日本でも治験が始まるでしょう。そして、有効性が確認されれば市場に投入されるはずです。それを待ち望んでいる人は少なくないはずです。

僕は占い師ではないので未来を予測はできませんが、2010年代は日本のアルコール医療が断酒から節酒へと舵を切る時代になるのかもしれません。そうなったらAAも影響を受けざるを得ないでしょう。時代の潮流は変えようがありませんが、その潮の流れの中でAAという船はどちらを目指すべきか。ミーティング偏重を脱し、12ステップを通じた新しい生き方の魅力を備えていくしかないと思います。恐竜と同じで、環境の変化に対応できないものは死滅するしかないのですから。

印象(その2)はまたいずれ。

(ナムルフェン→ナルメフェンと訂正しました)


2013年07月16日(火) 口からの回復、耳からの回復

Box 4-5-9 というアメリカのAAのGSOが出しているニューズレターの夏号が発行され、AAメンバー数の推計が掲載されています。

Box 4-5-9 - News and Notes from G.S.O.
http://www.alcoholics-anonymous.org/subpage.cfm?page=27

それによると、今年(2013年)1月1日時点でのアメリカのAAメンバー数は129万5千人あまりと推定されています。日本のAAはアメリカほど綿密な推計手段を持ちませんが、国内のAAメンバー数をざっくり5千人と見積もっています。

アメリカのAAメンバー数は日本の約260倍です。(ただし、人口も日本の約2.5倍なので、AAメンバーの密度としては日本の100倍ぐらいと考えてください)。

そんなアメリカに行かせてもらう機会がありました。AAミーティングにも3回出席できたので、その印象をこの雑記でお伝えしたいと思います。

最初の二つのミーティングは、いわゆるAAの「クラブハウス」で開かれていました。これはAAメンバーの有志がAAとは別に財団などを作って建物を借り(あるいは買い)、それをAA向けに会場として貸し出すものです。財団はAAとは別なので、AAグループは会場費を払って部屋を借ります。アメリカにはこうしたクラブハウスがたくさんあるようで、ネットで alano club という単語を検索するとたくさんヒットします。

僕が訪れたクラブは大きなもので、2階に300人ぐらい入る大きな部屋と、その他小さな部屋が幾つか。ジュースを飲みながら雑談するコーナーや、AAやアラノンのグッズを売るショップもありました。毎日、朝・昼・晩、それぞれ2回ずつAAもしくはアラノンのミーティングがあり、この他にAAの委員会もそこで行われています。

最初の晩のミーティングはスケジュール表には Open Speaker と表示されていましたが、中身はビッグブックのスタディミーティング(勉強会)で、講師役の二人のメンバーがホワイトボードに図を描きながらステップ1を説明していました。ミーティング終了後にそのホワイトボードを撮影した写真がこちらです。

http://www.ieji.org/dilemma/2013/07/aa-613.html

Physical Allergy(身体のアレルギー)とMental Obsession(精神の強迫観念)というステップ1を理解する上で重要な二つの概念が解説されています。これは Joe and Charlie に出てくる図と同じですが、ドーン・ファームの研修資料の中にも同じものがあったので、おそらくポピュラーなものになっているのでしょう。

このミーティングの参加者数は(正確に数えたわけじゃありませんが)250人ぐらいでした。この会場のある都市は人口20万人ぐらいで、AA地区のホームページを見てみると、この市内で約40のAAグループが活動し、毎晩10個ほどのミーティングが開かれています。僕は日本で人口20万人ぐらいの地方都市に住んでいますが、AAグループがひとつ、ミーティングは週に1回あるだけです(それでも恵まれている方でしょう)。彼我の差を感じざるを得ません。

日本でのAAミーティングは「言いっぱなし、聞きっぱなし」と呼ばれるスタイルが主流です。いや主流というか、これ以外のスタイルのAAミーティングなんてあり得ないと信じられています。アメリカでこれに相当するものは discussion ミーティングでしょう。アメリカのいろいろな地区のミーティング一覧を見ると、やはり discussion ミーティングが一番多いのですが、その他に study ミーティングもそれなりの数が存在しています。中には、discussion ミーティングをやっていないグループすらあります。

日本のAAメンバーも、ミーティングは「言いっぱなし、聞きっぱなし」しかあり得ない、という固定観念を打ち破るべきなのでしょう。各グループが、それぞれにアイデアを出し、新しいやり方を試していって欲しいと思います。

さて、翌晩に参加したミーティングも同じ会場でした。こちらは普通のディスカッションミーティングで、中身は12ステップの話でした。参加者数は70人ほど。司会者が話す人を指名していくやり方で、僕も「日本から来た」ということで指名されたので、とても拙い英語で2分ほど分かち合いました。

次の晩は、別の州の人口40万人ほどの都市に移動しました。こちらのセントラルオフィスのサイトで調べてみると、その町ではその晩に約25ヶ所でAAミーティングが開かれていることが判りました。その中でホテルから一番近い会場に行くことにしました。教会のホールに200人ほどが集まっていましたが、ミーティングが始まると半分ぐらいが外に出て行きました。どうやら喫煙者は屋外のテラスでミーティングをするようです。

こちらも普通のディスカッションミーティングでしたが、司会者が指名するのではなく、前の人が話を終えて沈黙が訪れると、誰かが名乗って話し始めるというスタイルでした。(日本だとNAでこういうスタイルが多く、AAの僕のホームグループもこのやり方です)。

日本に戻ってアメリカでAAミーティングに参加した経験を話すと、いろんな質問を受けます。みんなアメリカでのAAのやり方に関心があるのでしょう。その中に、

「ミーティングにそんなにたくさんの参加者がいたら、話す機会が与えられないでしょう」

という心配をされている人がいました。確かに、60分あるいは90分のミーティングで話ができる人はせいぜい10人か15人ほどです。僕が出たのは、アメリカにごまんとあるAAミーティングのうち3つにすぎません。日本みたいに人数の少ない会場もたくさんあるでしょう。けれど、アメリカのAAメンバー密度が日本の100倍である事を考えると、どれほどたくさんのミーティングがあっても、多くの会場に「話す機会を与えられない人」が存在するに違いありません。

話す機会が与えられないことへの心配は、裏返せば、「ミーティングで話すことが回復をもたらす」という考えに基づいています。確かに、ミーティングで話すことは回復の役に立ちます。だからこそ、日本のAAミーティングの司会者は、ミーティング参加者全員に話す機会が与えられるように腐心し、長い話をして時間を独占するメンバーに内心イライラを募らせています。

話すことは回復に大きな力を与えます。その力が大きいために、多くの人たちが、ミーティングで話すことがAAプログラムの中心だと思ってしまいます。ミーティングはAA活動の柱のひとつではあるものの、それだけでは個人に回復をもたらせるものではありません。AAにおける回復は、スポンサーとの一対一の関係の中で12ステップに取り組むことが中心です。

ビッグブックの「第三版に寄せて」には、

(AAの)核心はいたって簡単であり、個人を主体にしたものである。
its core it remains simple and personal.

という文があります。1976年にビッグブックの第3版を入稿する際に、わざわざこの文章を追加した理由は何なのか。それはAAプログラムが集団によるミーティングによるものだという考えに対して、むしろ個人的に12ステップに取り組むのがAAプログラムである、という主張をAA流に控えめに表現したものだ、という意見があります。僕も同じ考えです。

「ミーティングで話すことによって回復する」という考え方は日本のAAに深く根付いています。しかし、それにこだわると、100人以上のミーティング会場で話す機会が与えられない人は回復できないことになってしまいます。しかし、アメリカのAA会場で人数の多さを心配している人は見かけませんでした。以前に聞いた話では、あちらではAAに加わった後、1年、2年経ってもまだミーティングで話したことがない人がたくさんいるそうです。

ミーティングで話すことは回復に寄与するでしょう。しかし、AAにおける回復は、スポンサーとの一対一の関係の中で個人的に12ステップに取り組むことでもたらされます。話すことにこだわりすぎると、AAプログラムを歪めることになるのではないかと心配します。

先のBox 4-5-9を見ると、アメリカではAAメンバー数130万人に対して、グループ数が6万弱です。メンバーシップサーヴェイによればホームグループを持つ人の割合は86%だそうですので、それも勘案して概算すれば、1グループ当たりのメンバー数は約19人です。

日本ではホームグループを持っている人の割合は8割台と変わりません。しかし約5千人のメンバーに対してグループが580もあります。1グループ当たりのメンバー数は約7人になります。

日米で倍以上違うのはなぜか。その理由がはっきり確かめられたわけではありませんが、最近懸念事項として挙げられているのは「AAグループの分裂」です。ある程度グループが成長して人数が増えてくると、グループを出て別のグループを立ち上げる人が多いのです。それは必ずしも悪いことではありません。新しいグループの誕生によってミーティング会場が増えますから。

しかし常に数人のメンバーでグループを維持すると、一人ひとりにグループ運営の負担が重くのしかかります。負担を背負ってくれる人の少なさを嘆く声はよく耳にしますが、じゃあグループを大きくして一人当たりの負担を減らそうという考えはなかなか無いようです。自己犠牲による献身には限界があるのに。

僕がAAにつながった頃に比べてAAグループの数は倍近くになりました。じゃあメンバー数も倍になったかというと、(正確なデータはないものの)倍にはなっていないでしょう。つまり1グループ当たりの平均メンバー数は減少したということです。実はオフィスや委員会のサービスはグループに対してのものが多いので、コストはメンバー数の増加に応じて増えるのではなく、グループ数に増加に応じて増えます。ところが、オフィスや委員会への献金額は概ねメンバー数に比例すると考えられます。次第に台所事情が苦しくなるということです。グループのメンバー数が少ないままに、グループ数ばかりが増えていくのはAA全体にとって決して好ましいことではありません。

なぜグループを分割して少ない人数を維持しようとするのか。その動機は、「ミーティングで話すことによって回復する」という考え方に基づいているのではないかと思います。グループのメンバー数が多くなってくると、ミーティングで話すチャンスを失う人が増えてきます。そこで、グループを分割する考えが生まれるのでしょう。

しかし、そのやり方は日本のAAを非効率なままにしておくやり方ではないでしょうか。そろそろ僕らはさなぎが脱皮するように「ミーティングで話すことによって回復する」という考えから脱皮して、スポンサーシップによる個人の12ステップを重視する時期に来ているのではないでしょうか。それは、決してミーティングを捨てるという意味ではなく、ミーティングというひとつのエンジンによる片肺飛行の不安定な時期を終え、ミーティングとスポンサーシップという双発エンジンで上昇して大空へ羽ばたくべきでないか、ということです。

よくビギナーの人が「私はAAの皆さんのように上手にしゃべれないから、AAは私には合いません」と言います。AAミーティングは弁論大会でもないし、アナウンサーの養成講座でもありません。話すことはAAプログラムの核心とは違います。話すことよりむしろ「聞くこと」を重視すべきです。話さなくても良いから聞くだけでミーティングに通い続ければ、きっと回復へのチャンスがつかめるでしょう。

あるメンバーが言っていました。神様は私たちに口をひとつ、耳を二つ与えた。それは私たちがしゃべるよりも耳を傾けることを大切にしろということだと。


2013年07月10日(水) AAを自助グループと呼ばない

このサイト(http://www.ieji.org/)のタイトルは「心の家路」で、「〜アルコール依存症からの回復と自助グループの勧め〜」という副題がついています。これはこのサイトを始めた2002年当時の僕が、AAは自助グループだと考えていたことが反映されています。

現在の僕は「AAを自助グループと呼ぶべきではない」と考えています。なぜそういう考えに至ったのか、という説明が必要でしょう。

自助という言葉は、英語のセルフヘルプ(self help)の翻訳です。間にハイフンの入った self-help という言葉は19世紀に登場したそうです。これは法律の用語で、民法では「自力救済」、刑法では「自救行為」と訳されます。これは自分の力で権利の内容を実現することです。

例えば僕の財布から金が盗まれたとしましょう。犯人と金のありかが分かっていれば、僕は自分でその金を取り返すことができます。これを自力救済と呼びます。現代の法律では原則として自力救済は禁止されています。というのは、自力救済の実力行使を代行する民間組織(ヤ○ザとか)がはびこってしまうからです。現代では、法律で定められた手続きに従って国家権力(裁判所など)に代行してもらわねばなりません。

もちろん必要な範囲内で自力救済をすることは認められており、例えばお兄ちゃんが買った今週のヤングジャンプを弟が自分の部屋に持っていってしまった場合、いちいち裁判所を使わなくてもお兄ちゃんは自力でヤンジャンを取り戻してかまわないわけです。

ともあれ、self-helpとは自力で問題を解決することを指しました。一般用語となってもその趣旨は変わりません。例えば英語版の wikipedia を見ると self help をこう定義しています。

http://en.wikipedia.org/wiki/Self-help

Self-help, or self-improvement, is a self-guided improvement -- economically, intellectually, or emotionally -- often with a substantial psychological basis. Many different self-help groupings exist and each has its own focus, techniques, associated beliefs, proponents and in some cases, leaders.

セルフヘルプ(自己改善)とは、自律による経済・知力・感情の改善であり、その多くは心理学的な知見を伴っている。セルフヘルプは様々にグループ分けできるが、それぞれに独自の対象・技法・関連する信仰・主唱者・(時には)指導者を持つ。

オンラインのMerriam-Websterを引くと、

http://www.merriam-webster.com/dictionary/self%20help

Definition of SELF-HELP
the action or process of bettering oneself or overcoming one's problems without the aid of others; especially : the coping with one's personal or emotional problems without professional help

他者の助けを借りずに自己を改善あるいは自分の抱えている問題に克服すること。特に、職業家の手助けなしに、個人的・感情的な問題をうまく処理することを指す。

つまりセルフヘルプとは、他者の手助けを得ずに自律的に自力で問題に対処していくことを指しています。おそらく現代の日本語でそのニュアンスを最も的確に示している言葉は「自己啓発」ではないでしょうか。

セルフヘルプ=自己啓発

さて、セルフヘルプを日本語に訳すときには「自助」の言葉が当てられます。自助という言葉を調べていくと、必ず登場してくる言葉が、

「天は自ら助くる者を助く」

という中村正直(なかむらまさなお)の言葉です。19世紀の英国の作家サミュエル・スマイルズの"Self-Help"の翻訳である『西国立志編』(別題「自助論」)の序文に出てくる言葉です。『西国立志編』は福沢諭吉の『學問ノスヽメ』と並ぶ明治時代のベストセラーです。その内容は、欧米の様々な人物の成功談です。
日本語の辞書で「自助」を調べてみましょう(Yahoo!辞書)。

(大辞泉)他人の力によらず、自分の力だけで事を成し遂げること。
(大辞林)他の力に依存せず、独力で事をなすこと。

つまり「自助」とは人の力を頼らずに自力で成し遂げることであり、スマイルズの自助論はそれを美談として取り上げた本です。

セルフヘルプにしても自助にしても、その語義の中心に「人の手助けを受けないで」という意味があります。ところが、自助グループというのは人から手助けを受けるために参加する場所です。確かに、自助グループは行政主導ではないし、職業的専門家から指導を受けるわけでもありません。けれど、それは人を頼らず、人から手助けを受けないという意味ではなく、むしろその逆、積極的にお互いに助け合う場です。

セルフヘルプグループは「互助会」と訳した方が良かったのでしょう。英語でも mutual help/mutual aid group という名前が使われています。「相互援助グループ」「相互支援グループ」と訳されます。

自助という言葉は誤解を生みやすく、AAを指して自助グループという言葉を使うのは適切とは言えません。

もうひとつ誤解を挙げます。自助グループは共通した問題を抱えた人の集まりとして説明されることがよくあります。AAの序文にも「共通の問題」という言葉が出てきます。

しかしながら、ビッグブックの第二章の冒頭にはこうあります。

「同じ苦しみを味わったということは、私たちを結び合わせる強力な接着剤の一つではあるが、それだけでは、いまの私たちのようには決してなれなかっただろう。私たち一人一人にとっての偉大な事実は、私たちが共通の解決方法を見つけたということにある」

共通の問題を抱えている人が集まってもAAにはなりません。AAミーティングは、ある人は問題をこのように解決した、別の人は別の方法で解決した・・という分かち合いをする場所ではなく、全員が同じ解決方法を共有している集まりです。そして、その方法が12ステップなのです。

自助グループ(self-help group)とは何かがはっきり定義されているわけではありませんが、共通の問題を抱えた人の集まりである事は意識されていても、ひとつの解決方法を参加者全員が共有することを目指していることはあまり意識されていません。AAはそうですが、自助グループは必ずしもそうではない。

だから、やはりAAを示すのに自助グループという言葉は使わないほうが良いのです。

実のところAAは自らを自助グループだと定義したことはないし、AAはself-help groupだと表明したことはありません。アメリカのGSOや常任理事会の出した文書を総ざらえして調べたわけじゃありませんが、おそらく無いでしょう。

AAをself-help group(自助グループ)に分類したのはAA外の人たちのしたことです。その影響を受けてAAメンバーがAAのことを自助グループだと思い、AAは自助グループだという情報を発信したことはいくらでもあったことでしょう(このサイトのタイトルにもまだ含まれているし)。日本のJSOなり理事会の発した文書に自助グループという言葉が含まれていたことがありました。今は、自助グループという言葉は使うことを避けるようにしています(取り締まっているわけじゃありませんよ)。

(注:AAはセルフ・サポートという言葉は使っています。ただしこれは、伝統7にある経済的な自立を示す言葉です。AAはAAメンバーからの献金のみを受け取り、他から寄付や助成金を受け取りません。そのことを指してself-supportと言っています)。

大切なことは、AAはお互いに助け合う場所だということです。

先月アメリカに行く機会があり、三晩連続でAAミーティングにも出席しました。ミーティングの前後には、たくさんの人が僕に声をかけてくれました。「日本から来たのか。ステップはやっているのか。スポンサーはいるのか」と声をかけてくれました。「なんだったら俺がスポンサーをやってやろうか」という勢いです。数ヶ月前までホームレスをしていて今も正業があるか怪しい若い黒人がそう言うのです。明日には僕は日本に帰っちゃうのにね。それはともかく、AAへ来たことを歓迎する気持ちと、「俺はお前の手助けがしたいんだ」という闇雲で暑苦しいほどの熱意は感じました。その熱意こそが、アメリカのAAを140万人の大所帯にした原動力の一つに違いありません。

あなたもAAに加われば、他の人の手助けをすることが求められるでしょう。けれど、他の人を手助けするには、まず自分がこころよく他の誰かから手助けを受ける(つまり誰かにスポンサーになってもらう)ことが不可欠です。そして、してもらったことを、誰か他の人にしてあげれば良いのです(そのようにして共通の解決方法が手渡されていきます)。

AAは他からの助けを得ずに自分で自分を助ける場所ではありません。私たちはAAでお互いに助け合っているのです。


2013年06月14日(金) もちろん「底つき」は必要ですとも(その2)

(続きです)

さて、12&12のページを先に読み進めると「底つき」について書かれています。最近では底つき不要論も出てきて、AAの本に「回復には底つきが必要だ」と書かれているのは古いんじゃないか、という指摘もあります。しかし、それについて話をしようにも、

「底つきとは何か」

という共通理解がないと、話がかみ合いません。少なくとも「AAの本では<底つき>はこういう意味で使われています」ということをハッキリさせないと、それぞれ違う底つきについて話してしまい、かみ合うはずがないのです。

では、底つきとは何か。AAができたばかりの頃は、重症で「死にかけ」の人たちしかAAで助からなかったと書いてあります(12&12 p.31)。

これは「どん底のケース」low-bottom case、底つきが深い人たちの話です。AAが始まった頃は、そういう人たちしか助かりませんでした。これが、仕事や家族や財産などを失わなければ「底つき」できないという誤解につながったのでしょう。

しかし、この本(12&12)はそうした「何かを失う底つき」の必要性を明確に否定しています。

ところが驚くべきことに、それから数年で、事情がすっかり変わった。まだ元気で、家族もいて、仕事も失わず、そのうえガレージには車が二台もある、といったアルコホーリクたちも、自分のアルコホリズムを認めはじめた。この傾向が広がって、まだほとんど潜在的アルコホーリクと言ってもよいような若い人たちも加わった。この人たちは、私たちが通った、文字通り地獄の十年ないし十五年を経験しないですむようになった。ステップ一は、思い通りに生きていけなくなっていたと認めることを要求しているのに、この人たちはどうやってそれを実行できたのだろうか。(p.32)

何も失わなくても底つきはできる、とハッキリ述べています。そのためにどうすれば良いか。それはAAメンバーが新しい人に対して、自分が気付いたよりずっと以前から、すでに飲酒のコントロールが効かなかっていたこと、それはアルコールによる死の始まりだったことを伝えれば良い、としています。

それを伝えるためには、新しい人に「渇望現象と強迫観念」の二つをしっかり伝え、あなたももうこの悪循環に陥っているのじゃないか、と問いかけることが必要です。そして、それに同意しない人を無理矢理説得する必要はないとも書かれています。

このような受け止め方はすぐに具体的な効果を示した。一人のアルコホーリクの心に、もう一人のアルコホーリクがその病気の本質を植えつけたなら、その人はもう以前と同じではありえない。それが分かったのだ。それ以後、飲むたびにその人はこう考えるだろう。「ひょっとすると、あのAAの連中の言う通りかも」。そしてこういう経験を何回か繰り返し、最悪の状態になる何年も前に、納得して私たちのところに戻って来る。その人も私たちと同じように本当に底をついたのだ。

「アルコホーリクの心にその病気の本質を植えつける」というのもビルの修辞ですが、これは新しい人に「渇望現象と強迫観念」の二つをしっかり伝えるということです。

新しい人はこれが「その二つは自分には当てはまらない」と否定するかも知れません。そして、適量の酒を飲み続けようとするでしょうが、渇望によって飲酒のコントロールが効かないし、強迫観念があるため自力での断酒も続かない。そこで「ひょっとすると、あのAAの連中の言う通りかもしれない」と考えて、納得してAAに戻ってくるでしょう。

これは基本的な介入技法の提案です。まずこの病気についての基本的な情報を教えること。相手がそれに納得すればAAに留まるでしょうし、納得できなければAAを去り、節酒あるいは自力断酒にチャレンジするでしょう。それに失敗し続けたとき、私たちが伝えた情報が生きてきます。AAを拒む人を無理に説得する必要はなく(病気の本質を伝えさえすれば)あとはアルコールがその人を説得してくれるとしています。

「アルコールは偉大な説得者だった。アルコールはとうとう私たちを打ち負かし、正しい状態に叩き込んでくれた」(AA p.70)

少々遠回りのやり方に見えますが、実はそれが一番時間が早いのでしょう。アメリカのAAでは、AAに来なくなった人が再びAAに来る確率は高いという話です。日本のAAはどうでしょうか。もし、一度AAを離れた人が戻ってこない率が高いのであれば、それは私たちのミーティングやスポンサーシップが「病気の本質」から離れてしまい、渇望現象と強迫観念を伝えられなくなっているからだと考えられます。

ただ、発達障害を抱えた人の場合には、このような「情報を教えること+アルコールによる説得」がうまく機能せず、歯止めなく悪化する一方になる可能性もあるので、その見極めをしないといけませんが。

私たちがどうやってAAのメッセージを運んだら良いか、そのやり方もビッグブックに書いてあります。第7章「仲間と共に」は12番目のステップについての章ですが、p.132からp.133には、新しい人に渇望現象と強迫観念のことを伝えることについて書かれています。

これはビル・Wがドクター・ボブを手助けしたやり方と同じです。ドクター・ボブはすでにオックスフォード・グループのメンバーでしたから、ステップのやり方について、ビルに教えてもらう必要はありませんでした。ボブに必要だったのは、ステップ1の情報、渇望現象と強迫観念だけです。ニューヨークからやってきた素人のビルが、医者であるボブに病気についての情報をもたらしました。それによって、ボブはプログラムに取り組む意欲が与えられたのです。

なぜ私たちが飲酒にまつわる体験をミーティングで共有するのか。それは渇望現象と強迫観念の情報(つまりステップ1)を伝えるためです。酒にまつわることであっても、飲酒の武勇伝とか、自分がどんなに酷い酒飲みだったかしゃべれば良いというものではありません。渇望と強迫観念のことがちゃんと相手に伝わるように、自分の経験を整理して話す必要があります。

こうして整理してみれば、「底つき」が何であるか明らかです。底つきは、失うことではありません。底つきは社会の底辺に落ちることでもありません。底つきは、渇望現象と強迫観念という病気の本質を理解し、それが自分の飲酒体験に当てはまることを認めることです。つまり、底つきとはステップ1そのものです。

「AAの誰もが、まず底をつかなければならないというのはなぜだろうか。底つきを経験してからでないと、真剣にAAプログラムをやってみようと思う人はほとんどいない、というのが答えだ。なぜなら、AAの残りの十一ステップを実践することは、まだ飲んでいるアルコホーリクには夢想すらできない態度と行動を取り入れることだからだ。」(12&12 p.33)

底つきをしないと残りの11個のステップに取り組もうとしないからだと書かれています。これからも「底つき」がステップ1であることが分かります。そしてステップ1は決して何かを失うことを求めていません。

「底つき概念」はアディクションに関わる人たちの間に広がっていますが、おそらくその元はこの12&12のステップ1の部分でしょう。だとすれば、「底つき」はずいぶん誤解されて広がっていることになります。ビッグブックを読まずに12&12だけ読んでいれば、渇望現象と強迫観念のことは理解しづらいはずです。この雑記のエントリで見てきたように、12&12にもこの二つのことは簡単に触れられていますが、翻訳の用語の問題もあるし、そもそも説明が短すぎてこれだけで理解しろというのは無理です。

さらに、文中の「どん底のケース」(low-bottom case)と「底つき」が混同された結果、底つきとは失うことであるとか、社会の底辺に落ちるとか、死にかけることだ、という誤解が広がってしまったのではないでしょうか。だとするなら、それは日本のAAが12&12ばかり使って来た結果です。その誤解のおかげで、いったいどれだけ多くのアルコホーリクが無駄に苦しんで死んでいったことか。それを思うと切なくなります。

いま、アディクション業界全体に「底つき不要論」が広がっています。しかしその底つきとは、誤解に基づいたどん底体験を指しており、失う体験の必要性が否定されているだけのことです。ステップ1の必要性を否定しているわけではないので、「底つき不要論」と12&12の文章に何ら齟齬はありません。

さて、12&12に渇望現象と強迫観念の説明がちょっとしかない、ということは、12&12だけ読んでステップ1をやるのは大変難しいということです。さらに、底つき(=ステップ1)がなければ、残りの11個のステップには取り組めないとされています。・・・ということは、12&12だけ使っていたのでは、12ステップには取り組めない、ということになる。どうしてもビッグブックが必要ということです。

ビルは『AA成年に達する』という本の中のAAプログラムの解説で、渇望現象と強迫観念が vital だと書いています。つまり、この二つは必須であり、欠かせないものだ、ということです。それがビルがAAを二十年続けた結論でした。

渇望現象と強迫観念を理解せずに「底つき」を語るべからず、ですよ。

(この項おしまい)


2013年06月13日(木) もちろん「底つき」は必要ですとも(その1)

今回は、重箱の隅を突くような話です。

ステップ1では、

・身体のアレルギー(渇望現象)
・精神の強迫観念(再飲酒をもたらすもの)

この二つを抱えていることを認めることが大切です。

ビッグブックでは強迫観念という言葉はあまり出てこず、代わりに「狂気」という言葉が目立ちます。例えば「ビルの物語」に、「知らぬ間にあの最初の一杯への狂気が襲ってきて、一九三四年の休戦記念日にまた飲み始めた」(p.12)というふうに使われています。

では、このアレルギー(渇望現象)と強迫観念が『12のステップと12の伝統』(12&12)で、どう扱われているか。ちょっと調べてみましょう。

12&12の目次(p.5)には、各ステップの概要が書かれていますが、そのステップ1のところには

強迫観念身体のアレルギー(Mental obsession plus physical allergy)

精神の強迫観念と身体のアレルギーとハッキリ書かれています。

ステップ1についての文章はp.29から始まっていますが、そのページに「強迫観念と身体のアレルギー」のことが書かれています。

スポンサーになってくれた人たちは、私たちが人間の意志の力ではどうしても打ち破ることができない、言いようのないほど強力な精神的とらわれ(meltal obsession)の犠牲者になっていたのだと断言した。

精神的とらわれと訳されていますが精神の強迫観念のことです。

自分の意志の力だけで、この強迫観念(compulsion)と戦って勝つ方法はなかったとも言った。

ビル・Wの文章は、同じ言葉を繰り返さない、同じ事を表現するのに違う言葉を使う、という修辞法が多用されますが、ここでも obsession を compulsion と呼び変えています。(それが同じ強迫観念に翻訳されているのはちょっと皮肉だ)。

私たちのとまどいにもかかわらず、その人たちは、アルコールに対する私たちの感覚がますます過敏になっていることを指摘し、それは一種のアレルギーだとも言った。

「私たちのとまどいにもかかわらず」の部分の原文は Relentlessly deepening our dilemma ですから、「私たちをますます深刻なジレンマに陥れたのは」という意味です。ジレンマとは二つのことの板挟みになることですが、その一つは前述の強迫観念(再飲酒をもたらすもの)、そしてもうひとつはここで「アレルギー」だと言っています。

そのアレルギーとは our increasing sensitivity to alcohol ・・・アルコールに対して私たちがますます過敏に反応するようになってきたことです。渇望現象のことですね。

続きを読み進めましょう。

アルコールという暴君が私たちの上に双刃(もろは)の剣(つるぎ)を振るった。

強迫観念と渇望現象の二つを「両刃の剣」という詩的な表現で表しています。(あぁ〜、ビルの修辞法ってめんどくさいね)。

まず私たちは、狂ったような衝動、飲み続けるようにと宣告されたような衝動にかられた。次いで、自分自身を破壊することになる身体のアレルギーに打ちのめされた。

渇望現象が、もっと飲み続けたいという狂ったような衝動である(だから酒量がコントロールできない)ことが分かります。この渇望現象がアレルギーそのものです。(飲んだせいで肝臓とか痛めるという話じゃなくて)。

この戦いで孤軍奮闘して勝利を得た者はほとんどいない。アルコホーリクが自分の力で回復できたことはほとんどない。これが統計上の事実である。

この渇望現象と強迫観念のタッグチーム相手に、自分の意志の力で戦って勝利し、回復できた人はほとんどいない(つまりあなたはアルコールに対して無力だ)ということを伝えています。

こうしてみると、12&12でも渇望現象と強迫観念というステップ1の情報について、ほんとうに簡単にではあるけれど、一応言及されていることがわかります。とは言うものの、こんなわずか数行の文章で内容を理解するのは無理なことです。ステップをやるための重要な情報を伝える役割はビッグブックに譲り、12&12はビッグブックを理解した人向けに補足情報として書かれたことが分かります。

ついでに、この数行を読むと、AAに新しく来た人に渇望現象と強迫観念について教えるのは、スポンサーの役割だということが分かります。

メッセージ活動に意欲的なグループでは「仮スポンサー制度」というのをやっています。12ステップはスポンサーと一対一のペアを組んでやるものですが、新しい人が相手となるスポンサーをなかなか決められず迷い続け、そのままAAを離れてしまうことがよく起きます。そこで、グループメンバーが仮スポンサーを務めることをします。(言わば仮にスポンサーを「あてがう」わけです)。それが本当のスポンサーシップに発展することもあるし、もし相性が悪いとなれば、日常の相談に乗りつつ、本当のスポンサーを見つける手助けをするのが仮スポンサーの役目になります。渇望現象と強迫観念について新しい人に伝えるのは、この仮スポンサーが適任じゃないかと思います。

「AAに行ったのに、渇望現象と強迫観念については教えてもらえなかった」という人がいるなら、それはAAがステップ1を伝える機能を果たしていないわけですから、私たちAAはそれを自分たちの問題点として認識して改善しなければならないと思います。

さて、12&12のページを先に読み進めると「底つき」について書かれています。最近では底つき不要論も出てきて、AAの本に「回復には底つきが必要だ」と書かれているのは古いんじゃないか、という指摘もあります。しかし、それについて話をしようにも、

「底つきとは何か」

という共通理解がないと、話がかみ合いません。少なくとも「AAの本では<底つき>はこういう意味で使われています」ということをハッキリさせないと、それぞれ違う底つきについて話してしまい、かみ合うはずがないのです。

(続く)


2013年06月04日(火) 危機と成長

このサイトへのアクセス数はこれまで3,000/日ぐらいだったのが、3月から6,000/日とほぼ倍増しています。3月の何が影響したのか(あのシンポジウムか?) 無差別なアクセスが増えている可能性もあるので、セキュリティ対策のためCMSのアップデートをしておきました。

さて、少し前に掲示板でこんな文章を取り上げました(文章は田辺等先生のもの)。

> G.キャプランという、かつて地域における精神保健活動で指導的な活躍をした精神科医は、危機は、人がそれまでのその人なりのやり方では解決できないが故に危機なのであるが、そうであるからこそ、人は平時以上に、新しい対処法、新たな取り組みへの助言や指導に耳を傾ける。だから、危機は、人がそれまでにない新たな方法を身につけて、大きく成長していくチャンスでもある、という主張をしています。
http://www.knt.co.jp/ec/2013/jhcpa56/aisatsu.html

キャプランの危機理論というやつです。

「危機」は、問題を克服できない状態です。そこには混乱と動揺があります。

「アルコール依存症になって、飲みたい酒をやめなくてはならなくなった」という事情そのものは危機ではないと思います。多くの人が自分なりのやり方で酒をやめてみようとします。そして、ある程度それに成功します。

自分のやり方で断酒が続いているうちは、その人に危機という意識はないか、あっても薄いものでしょう。このまま断酒が続いて酒の問題が解決されていくという希望を持っていますし、周囲の人もそれを期待します。

しばらくすると、再飲酒が起こります。目端の利く人なら、次は別のやり方で酒をやめてみます。それでも失敗すると、また別のやり方を試します。そうやって何種類かの解決手段を試し続けるうちは、やっぱりまだ「危機」とは言えないのだと思います。

やがて万策尽きます。その人の行動レパートリーの中に解決手段が含まれていないことが明らかになります。つまり自分のやり方では酒をやめられない、ということが分かります。これこそが本当の危機です。

その人は混乱し、動揺(絶望)するでしょうが、危機は成長へのチャンスだと言います。つまり自分のやり方では解決できなかったのだから、新しい方法を身につければ良いのです。そのために、それまで拒んできた助言や指導に耳を傾けることができるようになります。

イネーブリング理論とか底つき理論は、この「危機」を早くもたらすために、周囲が本人を手助けせずに突き放す必要があるという考え方でした。最近この理論が否定されつつあるのは、本当の危機が訪れるまでには長い時間がかかり苦しみや損失を不必要に増やすこと、また絶望して死を選んだり、危機に直面しても変わることが出来ない人が多い、という欠点があるからです。

人間には知能があって、未来を予測することができます。自分が飲まなくても、同じ病気の他の人が飲んだことを知って、再飲酒が自分の身にも起こる危険の高いことを知ることもできます。十分な情報を提供されれば、実際に危機と絶望を体験しなくても、いま自分が十分危機的立場に置かれていることが理解できる人は少なくありません。デタッチメントからコミットメントへと時代は変わりつつある(はず)。

AAで「自分の考えを使うな」と言われるのも、「新しいやり方を身に着ける」という考え方をすると理解しやすくなります。今までの自分が持っていなかった(持っていても使えなかった)やり方だからこそ、「新しいやり方」が必要なのです。

人は信念や信条というものを持ちます。信念や信条はどうやって身につくのでしょうか?

生きていれば大小いろんな問題が起きます。問題に直面して、人に教えてもらったり、自分で試行錯誤して、何とか解決手段を見つけ出し、問題を克服します。次に同じ問題が起きたとき、今度はもう試行錯誤を繰り返すことはせず、前回やってうまく解決できたやり方で問題を解決します。こうして成功体験を繰り返すことで、「こういう場合には、こう考えてこう行動すると良い」という信念・信条が出来上がります。

その信念・信条が、問題をうまく解決できているうちは「危機」ではありません。でも、解決できないからこそ危機になったのであり、そのときに「自分の考え(信念・信条)」を頼っていたのでは、危機を克服できません。

人間は、問題に直面し新しい対処方法を身に着けることを繰り返して、徐々に精神的に成長・成熟していくのだと思います。人生の中でこれがたくさん起こるのは、思春期から20代前半でしょう。この時期に若者たちは、現実にぶち当たり、苦悩し、そして精神的に成長していきます。

アルコホーリクはこの時期に酒を飲みだした人がほとんどです。他の人たちが、悩み、成長している一方で、アルコホーリクは苦悩を酒でごまかして、自分を成長させることがないまま、おじさん・おばさんになってしまったわけです。ジョー・マキューは、私のところに来るアルコホーリクの考え方はたいていティーンエイジャー並だと言っています。僕はむしろ加藤諦三の言った「五歳児の大人」という言葉のほうが合っているように思うことが多いのですが・・・。

こちらによれば、五歳児どころではない「二歳児」だといいます。こうなると霊的な幼稚園どころじゃない、乳児院だよ。

クズ野郎の正体、または二歳児にバスを運転させない方法
http://powerless.cocolog-nifty.com/alcoholic/2013/05/post-4525.html

話し変わって、「危機」は二種類に分けられるそうです。ひとつは「状況的危機」で、これは震災や事故、死別、離別などによるもの。予期し得ない出来事によって、それまでの安定していた状態が脅かされるものです。

もうひとつは「発達段階における危機」です。アルコホーリクの危機がどちらの危機なのか、言わずもがなでしょう。ある医師が「12ステップは、その人が大人になる過程で身に着け損ねたものを、まとめて身に着けさせてくれる手段だ」と表現したそうです。賛成です。

(身につけ損ねるばかりでなく、せっかく身につけたのにアディクションに耽溺する中で失ってしまったものも少なくないだろうと、考えています)。

アルコールの人も、薬物の人も、ギャンブルの人も、そのほかの依存の人も、ACの人も、みんな頭の中はティーンエイジャー(or五歳児or二歳児)みたいなものです。「精神的に若い」のと「精神的に幼い」のは違います。頭の中が幼いままで、社会から大人としての役割を期待されたら、そりゃ人生はストレスばっかりでしょう。解決は自分が成長することです。

12ステップは「今のあなたのままで良い」とは言いません。成長、つまり変化を要求します。

(ただ、世の中には「変えられないもの」もあります。例えば最近話題の発達障害などは、変化できないからこその障害です。変化できないものを変化させようとすれば、苦しみはかえって増大します。けれどまったく何もかも変わらないわけではありません。「二つのものを見分ける賢さ」が必要なのは言うまでもありません)。


2013年05月26日(日) チャーリー・Pについて

この雑記でもたびたび取り上げてている『ジョー・アンド・チャーリーのビッグブック・スタディ』。その片方のジョー・マキュー(黒人のほう)は、著書が何冊か日本語訳されて出版されているので、その人物像や来歴も比較的知られています。

しかし、もう一方のチャーリー・P(白人のほう)のことについては、どんな人物だったのか日本ではあまり知られていません。彼について分かる範囲で簡単に雑記にまとめておきます。

チャーリー・Pは1929年8月8日にオクラホマ州のタルサで生まれました。彼の父親は農夫をしていましたが、1929年に始まった大恐慌の影響で仕事を失い、カリフォリニア州へと移住しました。その様子は想像するしかありませんが、おそらくジョン・スタインベックの小説『怒りの葡萄』に書かれた様子そのものだったことでしょう。

(『怒りの葡萄』は、1930年代、オクラホマ州で食い詰めた農民一家が、カリフォルニア州へ移住して活路を開こうとするものの、そちらでも仕事はなく貧民キャンプで様々な苦難にみまわれるという小説で、映画にもなっています)。

チャーリーの一家は結局タルサに戻り、父親は職人の仕事を得ますが、暮らしは大変貧しかった様子です。1946年に彼は高校を卒業して陸軍に入り、ドイツに従軍しました。軍を離れた後は、タルサにある航空大学の教官になりました。

彼が最後に酒を飲んだのは1959年の秋のことだったと思われます(1988年8月のスピーチで彼が10,518日酒をやめていると言っていることから計算)。1965年に妻バーバラと結婚し、農場を始めました。オクラホマ州のハウス・オブ・ホープ・リカバリー・センターの共同創始者でもあります(1977年設立)。

ビッグブック・スタディの中で彼自身が語っていることによると、チャーリーの父親もアルコホーリクでした。オクラホマに戻った後、父親は氷を配達する仕事を得ました。骨の折れる単純労働を週に6日間こなし、土曜日の夕方に密造酒を買って帰ってきた父親は、子供たちの食費を確保しなければならない母親と大げんかをしました。やがて父親の依存症が進行し、家の中で家族に銃を向け、刃物を振り回すようになります。「これからお前たちの母親を殺す」と子供たちに言い残して、母親を連れて出て行ってしまったこともあるそうです。チャーリーははこのような環境で成長しました。

結局父親は、州立の精神病院に入れられます。1940年当時の州立精神病院は「病院」とは名ばかりで治療らしい治療は行われず、患者の処遇は極めてひどいものでした。チャーリーらの兄弟は、父親に面会するために70マイルの道のりをヒッチハイクして行きましたが、父親のいる病棟の様子は、チャーリーをして、もう神も人も信じずに自分の力だけに頼って生きていこう、と決意させるのに十分だったそうです。

チャーリーは自分に自信が持てず、女性に興味があってもまったく声がかけられないシャイな青年になりますが、一杯のウィスキーが彼の感情的問題を解決し、女性をダンスに誘い、家に連れて行って、36年製シボレーの後部座席で生まれて初めて念願のことを成し遂げました。これによって、彼は「アルコールによって物事をコントロールできる」感覚を味わったと言います。

彼によれば、アルコホーリクにはこの種の成功体験(?)があって、だからアルコホーリクは酒をやめていても、アルコールによって感情的な問題を解決しようとする「強迫観念」が(自力では)取り去れないのだ・・・と説明しています。

いまの言葉で言えば、チャーリーはAC(アダルト・チルドレン)の一人でしょう。けれど、チャーリーはそんな自分が他のアルコホーリクと違って特別だとはまったく思っていなかったようで、AAのビッグブックに示された12ステップに忠実に従った結果として回復したと明言しています。

依存症の人の中には、自分だけでなく親も依存症という人が珍しくありません。この人たちはアダルト・チルドレン(・オブ・アルコホーリクス)=AC(oA)と呼ばれます。また近年ACの概念が依存症でない機能不全家族に拡大されることにより、自らをACと自認する人は増えました。

12ステップをやる上で、ACかつアルコホーリクという人を、ACでないアルコホーリクと区別して扱う必要があるのか、という問題は繰り返し提起されてきました。少なくとも、ジョー・マキューも、チャーリー・Pも、「区別して扱う必要はない」という立場を取っています。

アメリカのAAメンバーで親もアルコホーリクという人の割合がどれぐらいなのか、統計は見たことがありません。しかしGrapevine誌を読んでいれば、そういう人の話がごく当たり前に載っています。じっちゃんから3代続けてAAメンバーなんて話も決して珍しいものではありません。アメリカにもACであるAAメンバーはたくさんいます。

長年AAメンバーとして活躍し、なおかつ施設のスタッフとして多くのアルコホーリクの回復を手助けしたジョーとチャーリーが、特別扱いの必要を感じなかったことを僕は重視しています。

例えば、「ならば子供の頃に親から受けた虐待についての恨みはどう棚卸しするのだ?」という質問は定番のものですが、子供の頃に親から受けた暴力について子供の責任を問うことはしません。しかし、恨みを抱えているのは現在は大人なのですから、大人として自分の考えや行動に責任は持たねばなりません。その点から見れば自分の落ち度や欠点は必ず見つかります。棚卸しや埋め合わせにおいて、特別扱いする必要はありません。

それは12ステップでトラウマのケアができるという意味ではありません。ジョーとチャーリーの著作でも専門家の手助けの必要性に言及があります。日本にトラウマケアの専門家が少ないのは残念なことですが(それは日本が平和で兵士のトラウマケアが要らないからですが)、日本でも探せば専門家はいます。しかし探すことすらせずに、近所の医者にかかっているだけの人は多いのです。

恨みには「私がこうなってしまったのは、私のせいではないのだから、私以外の誰かがこの問題を解決すべきだ」と私たちに感じさせる性質があります。でも代わりに解決できる人はいません。恨みが解決へむけての行動を起こす障害になっています。だから虐待への恨みを特別扱いしてしまうと、かえってその問題が解決できなくなってしまうのだと考えています。(特別扱いは回復の足を引っ張り酒を飲ませる方に働いてしまう)。

話がチャーリーからそれたので、元に戻します。チャーリーは、ビッグブック(英語版)初版のカバーを復刻して、ビッグブック・スタディの会場で1枚1ドルで売るというお茶目な面もあったそうです。(初版のカバーは赤と黄色と黒でデザインされたとても目立つものでした)。

ジョーとチャーリーが各地でおこなったビッグブック・スタディは、「ローカルなAAミーティングに出ていただけでは得られない経験と知識を運んでくれた」と評価されているそうです。

チャーリーが亡くなったのは、2011年4月21日。82才でした。51年あまりのソブラエティでした。ジョー・マキューが亡くなったのが2007年ですから、チャーリーのほうが4年ほど長生きしました。

これが「私のヒーロー」とジョー・マキューが呼んだ人物についての僕の知る限りの情報です。


2013年05月17日(金) 自分一人で12ステップができるか?

12ステップについていろんな質問を受けます。よくあるのが「自分一人で12ステップができるか?」というものです。

AAの12ステップをやるには、まずAAミーティングに通ってAAメンバーになり、そこでスポンサーを見つけてその人から12ステップを手渡してもらう、というのがもっとも一般的なやり方になります。AA以外の、○Aとか○○ノンというグループでもおそらく同様でしょう。

アメリカでは依存症の回復施設のプログラムとして12ステップが使われていることが多く、そこで施設のスタッフから12ステップを伝えられた、という人も少なくないそうです。日本にも(数は少ないけれど)そういう人もいます。

グループに加わるにせよ、施設の世話になるにせよ、人の集まりに加わることが求められます。また、12ステップは人から人へ直接渡されることが前提になっています。それは12ステップが、直接人から人へ手渡されることで始まったからです。

であるのに「自分一人で12ステップをやれないものだろうか」という考えが生まれてくるのには、いくつかの理由があるようです。

まず一つは、現在の日本のAAグループで12ステップに取り組む人が少なくなってしまったために、AAに加わってたとしてもスポンサーが見つからない(あるいはスポンサーがステップをやってない)という困った状況が生まれていることです。これはAA以外のグループについても言えることかもしれません。

また、何らかの事情で人の集まりに加われない、という場合もあるようです。直近のミーティング会場まで何時間もかかるとか、対人関係が苦手なのでグループに加わりたくないとか、あるいは仕事や家庭の事情でグループ参加に時間を割けないとか・・・。

まあその他にもいろいろで、中には人に頭を下げたくないのでスポンサーが頼めないという、首をかしげたくなる理由もあったりします。

話を戻します。

ビッグブックは12ステップを伝えるために書かれたテキストです。読んでみれば分かりますが、読者として身近にAAグループがない人を想定しています。この本が書かれた1930年代後半、AAメンバーはまだ数十人しかいませんでした。12ステップを全米に、いや全世界に伝えていくのに「直接人から人へ手渡す」というやり方に固執していたのでは、その目的は達成できません。

そこで彼らは一冊のテキスト(教科書)を書き、読者がその内容に従って回復し、それぞれの地方での最初のAAメンバーとなることを期待しました。この作戦が当たって、AAはここまで大きく成長できたと言えます(日本のAAがイマイチなのはビッグブックを軽視しているからでしょう)。

だから、一人で12ステップを出来るかと言えば、その答えはイエスということになります。

この答えに安心する人もいることでしょうが、実はそれは簡単ではありません。本を一冊読んで、その通りに実行することがいかに難しいか。ビッグブックは薄い版でも二百数十ページあります。12ステップに限らず、どんな分野であれ200ページ以上ある本を読んで、その中身を十分実践できた経験のある人がどれだけいるでしょう。途中で挫折した経験のほうがずっと多いのではないでしょうか。

本を読んで一人でステップに取り組める人というのは、「酒で死んでたまるか」(肉体的に死なないまでも社会的に死んでたまるか)という回復への意欲の強い人たちに限られるのではないでしょうか。今の日本でそこまでガッツのある人ならば、直近のミーティングまでどれだけ遠かろうと通うでしょうし、スポンサー候補がどんなに気に入らない奴でも頭をさげてスポンサーを頼めるできるでしょう。だから、一人でやる羽目にはなりません。

これが今の日本で一人でステップに取り組む人が滅多に出てこない理由だと思います。

12ステップの成立に大きな影響を及ぼしたカール・ユングは

「人はふつう、ほかの人と共に活動することで、決定的でスピリチュアルな経験をする」

と語ったそうです。12ステップの成果を出すには、人の集まりに加わって協力して活動することが最もたやすい道なのです。

それに、他の人と関わらずに12ステップを行うことはできません。確かにビッグブックは、読者が一人でステップに取り組めるように書かれています。それはそれぞれの地方の「最初の一人」には、仲間もいなければ、グループもミーティングも存在しないからです。

しかし12ステップは各所で人との関わりを必要とします。棚卸しのステップ5では、自分以外の誰かと一緒に棚卸表の中身を分析する作業があります。たいていの人は自分の過ちをすべて人に話すことにはためらいがありますが、この作業をないがしろにすると効果が出ないと書かれています。

また埋め合わせのステップ9では、自分が過去に傷つけた人に面と向かって埋め合わせをすることが求められます。これもできれば避けたいと思う人がほとんどです。

ステップ5とステップ9は12ステップのキモの部分ですから、ここを省略してしまっては12ステップとは言えなくなります。人と関わることを完全に避けて12ステップの効果は得られません。スポンサーはステップ5の相手をしてくれ、ステップ9のガイドをし、背中を押してくれます。12ステップだけが回復の手段だとは言いませんが、ステップ5と9を欠くなら、それは12ステップとは違うものです。

(周りに仲間がいない「最初の一人」はステップ5の相手を誰にすればよいのでしょうか。もちろんその答えもビッグブックに書かれています)。

ステップ10でも11でも人と相談することが含まれていますし、ステップ12では自分が他の人にステップを伝えることが求められています。

このように、一人でできると言っても、人と関わらずにステップをやることはできません。そもそも人は社会から隔絶して生きることはできず、必ず人と関わって生きているのですから、回復するときにも人と関わる必要があるのは、ごく自然なことだと思います。

一人で12ステップをやるのは困難だし、かといって12ステップの経験者も近くにいないというのなら、ステップの勉強会(スタディ・ミーティング)をやってみれば良いと思います。日本ではAAミーティングと言えば「言いっぱなし、聞きっぱなし」スタイル以外にあり得ないと勘違いされていますが、元々AAミーティングには形式の縛りはありませんし、海外ではスタディ・ミーティングはたくさんあるそうです。

どういうやり方をするかは自由ですが、ビッグブックをテキスト(教科書)にして、少しずつ読み進めながら、そこに書かれたことについての各自の考えを話し合っていけば良いと思います。そして、そこで得られた知識を実行に移すことで、徐々に成果は得られるのではないかと思います。忘れてはならないことは、回復はミーティングで起こるのではなく、そこで得られたことをミーティング以外の場で実践していくことで起こることです。だから、棚卸しと埋め合わせはしっかりやって欲しいのです。

人はふつう他の人と共同することによってスピリチュアルな体験をするというユングの言葉を憶えておいてください。


2013年05月12日(日) お陰様で

お陰様という言葉は神仏の加護に感謝する言葉なのだそうです。そういう意味では、僕のソブラエティはまさにお陰様ですし、皆様のお力添えあってのものです。今月は17年のバースディ・ミーティングを迎えることができます(その日まで飲まなければですが)。

17年前の連休明けに退院して、数日後にAAのミーティングに戻った日を僕のソブラエティの始まりとしています。

アルコールの専門病棟に入院したのですが、病棟の患者数は少なく、平均して10人前後でした。僕より先に退院していった人もいますし、僕より後で入院してきた人もいます。2ヶ月あまりの入院期間中に、一緒に入院していた人は合計で20人前後でしょうか。

そこの病院でもご多分に漏れず、退院後に断酒会やAAに通い続けた人は少数でした。何回か顔を出してもう行かなくなる人や、最初からまったく行かない人が多数でした。全員を追跡調査しているわけじゃありませんが、そこは田舎ですから、その後のその人たちの消息は漏れ伝わってきます。

今となって無事にやっているのは、AAか断酒会の人たちばかりです。AAや断酒会の世話にならずに年単位で酒をやめ続けた人もいましたが、10年を超えた人は誰もいませんでした。

僕にとってはこれがエビデンスです。サンプル数20は少なすぎるかもしれません。もっとサンプル数を増やせば、中にはAAや断酒会の世話にならずに長くやめ続ける人もいるでしょうし、実際そういう人を知っています。でもそれは全体からすればあまりにも少数です。アルコールは強力な敵であり、一人の力で打ち勝つことがいかに難しいか、このデータが示しています。

ひいらぎの話は理屈っぽいと言われます。確かに僕は理屈っぽい人なのでしょう。だからこそ、データにもとづいて判断しているのです。

聖書に「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」という言葉があるそうです。

当時ユダヤの民はローマ人に支配を受け隷属していました。イエスは「あなたたちが真理を知れば自由になれる」と言いましたが、ユダヤ人たちは反論しました。「私たちは誰の奴隷になったこともないのに、なぜこれ以上自由になる必要があるのか」。人間には自尊心があるので、自分が奴隷だとは認めたくありません。実際にはローマに支配され、隷属していました。奴隷になっているという自分の真実の姿から目を背けていたのです。隷属状態から脱して自由を獲得するには、まず自分が奴隷になっているという真実を見つめなければなりません。

僕に言わせれば、彼らはローマの奴隷というよりは、自らの自尊心の奴隷になっていたのです。(これも本能の逸脱です)。

自分の力で酒をやめ続けることができる、という考える人も、やはり自尊心によって盲目にされているのでしょう。「私は酒をやめているのに、なぜこれ以上やめる必要があるのか」。

自分が自分の自尊心の奴隷になっている、という真実から目を背ける人たちの中から、ネルソン・マンデラは出てこないでしょう。アメリカでも解放されることを拒む黒人奴隷が少なくなかったそうです。

データは真理を(少なくとも真理の一面を)示しています。真理を見ることが、僕を奴隷状態から解放してくれます。ビッグブックの正式名称は『アルコホーリクス・アノニマス』(AA)といいますが、この本は最初は『出口』という題名をつけたそうです。しかし国会図書館で調べたらすでに『出口』という本が12冊あったので、13冊目の「出口」になるのを嫌っていまのタイトルにしたそうです。けれど、この本の内容が「出口」であることに変わりありません。

AAは、アルコールの奴隷・自尊心の奴隷状態から解放され、自由になるための「出口」です。少なくとも出口のひとつである事は間違いありません。まず必要なのは真理を見ることです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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