心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2007年10月08日(月) ばちが当たる

「ばちが当たる」という言葉があります。元は「仏罰が当たる」という言葉で、天罰覿面(てんばつてきめん)という言葉もあります。

世の中には、間違ったことをしているのに、その制裁を受けていない人というのがいます。どうかその人にバチを与えてくださいと、(神にでも仏にでも)祈るのは、ある意味正直なことだと思います。自分には相手を罰する能力がないものだから、代わりにより大きな力に罰して欲しいと願うわけです。懲らしめを願っているのは、この場合自分です。その願いは我意です。

いっぽう、「ああいう間違った事をやっている人には、いずれバチが当たるのだ」と思っている場合には、我意が巧妙にごまかされています。正義を望んでいると言い訳しながら、実は懲らしめてやりたい自分の願望がちゃんと陰に存在しているはずです。

正義が行われて欲しいと願っていても、それは所詮「私の正義」にすぎません。あいつにはバチが当たって当然だと考えるのは、神様仏様が「私の正義」に賛同してくれるという根拠のない自信(つまり思い上がり)の現れです。自分が神様と同等レベル、あるいはより上になっているわけで、AAの言葉で言えば「神を演じている」状態です。神様には神様の正義があることを認めようとしません。

世の中に、悪行の報いを受けていない人間がうようよいたとしても、それは単に「自分の正義」が「神仏の正義」と一致していない事を示すだけのことです。憎しみを正義感にすり替えないように気をつけましょう。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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