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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年04月24日(月) 空と君のあいだに(その1) 一生忘れないと誓ったはずなのに、完全に忘れていました。
顔も忘れ、名前も忘れてしまいました。
憶えているのは、彼女が若い女性だったことぐらい。
確か27か28才だったはずです。
彼女がミーティングで姓を使っていたのか、名を使っていたのか、それともニックネームを使っていたのか、それすらも思い出せません。姓は確か静岡の地名で、それで呼んでいたような気がします。
なにせ彼女と一緒にミーティングをしたのは、両手の指で余る回数しかありません。あまりプライベートなことはその当時も知りませんでした。
僕がAAで酒をやめ始めて半年ぐらい経った秋でした。
いつもいつも同じメンバーで、うんざりするぐらい同じ話の繰り返しだったミーティング会場に、彼女は突然やってきました。
今でも長野県内のAAミーティング会場は多いわけじゃないですが、当時は毎日ミーティングに出たければ、それこそ車で飛び回る必要がありました。
「遠くの会場へ行けば、遠ければ遠いほど、大きな力がもらえるよ」
その言葉は、なるべくミーティングに数多く出てもらうために、新しい人に渡す「あめ玉」でした。そのあめ玉にはいささかの真実が含まれてもいます。回復は理屈じゃない、足で稼ぐほかはない部分があります。
地元のAAグループのメンバーにその言葉を贈られて、彼女はほかのグループのミーティング会場にも通うようになりました。最初は川に沿って下流にあるグループへ、またその下へ・・。
やがてそれだけに飽きたらず、峠を二つ越えて、僕の通っているミーティング会場にもやってきました。峠を越えてやってくるメンバーは珍しくなかったですが、今まではみんな男性でした。若い女性が、夜の峠道を何十キロも走ってやってくるのは初めてでした。
当時の長野のAAといえば、男ばかりでした。年齢も僕が一番若く、おじさん(失礼)ばかりでありました。断酒会に比べればAAは年齢層が若く、独身者が多く、女性が多いことになっています。ときおり県外からやってくるAAメンバーの中には、女性もいれば、僕より若い青年もいました。当時も全国的に見れば「若い・独身・女性」という傾向はあったのかもしれませんが、ともかく長野のAAは男ばかりでした。
僕のスポンサーは、奥さんもアルコホーリクという、AAメンバー同士の夫妻でした。その奥さんが毎回ミーティングに出ていたのが「紅一点」と言えました。ときどき子供もいる主婦のアルコホーリクが、その女性の話を聞くために訪れましたが、独身女性のアルコホーリクには会ったことがなかったのです。
そんなところへ彼女はやってきました。
一緒にミーティングをやって、
(素敵な人だな)
と思いました。まあ、独身女性に免疫がなかったのだから仕方ないです。
彼女はアルコールだけじゃなくて、若い女性が抱えがちな問題も抱えていました。それに精神科医に通っていて薬も飲んでいました。その薬を飲んでいることにも、僕は親近感を持ちました。当時のAAには、「向精神薬を飲みながらのソーバーなんて、そんなのソブラエティじゃない」という風潮が強く、僕は少数派の悲哀を味わっていたのであります。
彼女は小柄で、髪が長く、痩せていました。顔が美人だったのかどうかは思い出せません。
家庭の事情が複雑であるようでした。
(続きます)
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