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天竜



 10月頭にようやくネットが繋がるよ短編 8

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ぼくの家の隣に、詩人が引っ越してきた。
彼はいつもぼさぼさの髪をしているのだけれど、襟の高いブラウスの上に真紅のコートを羽織り、足許は脛まである黒いブーツを履いていた。石畳の上を歩くたびに、そのブーツの踵がカツンカツンと高い音を立てる。
彼が靴音高らかに出掛けるのは、決まって夜。コートの両ポケットに原稿用紙を詰め込んで、街灯の明かりを目指す羽虫のように、決まって酒場のドアを叩く。
なぜそんなことを子供のぼくが知っているのかといえば、パパがお酒を買って来いとぼくにお使いを頼むからだ。だから、その詩人がバーの片隅でワインボトルを抱えるようにして飲んでいる姿を何度も目にしている。
一度だけ、挨拶したことがある。
「はじめまして、あなたの隣に住んでる者です」
詩人は訝しげに眉根を寄せ、それからぼくにこんなことを言った。
「生きるな。生きている人間などいない。すべては生かされている。君も、私もね」
ぼくには彼の言うことの意味がさっぱり理解できなかったが、それが詩というもなのだろうと思った。彼の身体からは強い酒の匂いと、インク独特のツンとした匂いがした。ぼくが今までに出会った大人とは違う。なぜかそんな気がした。

その日ぼくは、庭にあるうさぎ小屋にもぐりこみ、アリエルと一緒に金網の小さなダイヤモンドの隙間から見えるたくさんの星を眺めていた。アリエルはぼくの大切な親友で、うさぎなのに産まれたときから耳が聞こえなかった。パパは殺してしまえと言ったけれど、仲間の輪から離れ小屋の隅でうずくまっているアリエルを、ぼくは見殺しにすることなどできなかった。餌代を稼ぐことを条件に、パパはアリエルを側に置くことを許してくれた。週三回の靴磨きくらい、親友のためなら少しも苦ではない。
アリエルの隣で片目をつむりシリウスまでの距離を計っていると、隣の家の扉がバタンと勢いよく開いた。詩人のお出ましだ。いつものようにボサボサの髪、襟の高いブラウス、真紅のコート、編上げの黒いブーツ、ポッケには原稿用紙と詩人の言葉が詰まり、ツンと高く聳える鼻先が彼のプライドの高さを物語っている。
いつもならば、彼が高らかに鳴らす踵の音が遠ざかっていくのを黙って見送るだけなのだけれど、今夜に限って妙にその背中を追いたい気分にかられた。なぜだろう。
アリエルがぼくのお腹の上で鼻先をクフクフと動かした。「挨拶してきなよ。今日は月も綺麗だろう?」友人はそう言っていた。ぼくは頷き、アリエルの言葉に従ってうさぎ小屋を出ると、闇に紛れていく詩人のあとを追った。
「こんばんは」
追いついたところで、後ろから声を掛けた。詩人は驚いた顔をして振り返り、ぼくの顔を見下ろすと「おお、少年じゃないか」と大げさに両手を広げて言った。「どうしたんだい、こんな夜中に」
まさかそんな常識的な言葉を掛けられると思っていなかったぼくは焦り、用意していた返事をすべて地面にばら撒いてしまった。
無言のぼくをどう勘違いしたのか、詩人はにこにこと微笑んだ。
「夜の子供は夜を切り取って余った黒い紙切れから作られるものだから、愚かな私は決して拒むことはできない。さあ、一緒に散歩でもしようじゃないか」
詩人の詩人らしき言葉に、ようやくぼくは我に返った。
「今夜もお酒を飲むんでしょう」
「いいや、やめておこう。ワインは太陽の嫉妬の涙でできた飲み物だから、今夜のように美しい月が出ている晩に飲むにはあまりに切な過ぎる」
詩人はぼくの肩に腕を回し、誘うように歩き始める。
彼の身体から、今日はインクの匂いだけがする。きっと青いインクだと、ぼくは思った。
詩人は、ぼくにたくさんの言葉を話して聞かせた。分かるものもあれば、ちんぷんかんぷんなものもあった。それでも、彼の言葉を聞いているだけで、ぼくは少しだけ大人になったような気分になった。
「トンビは自分がトンビだということを知らない。ロバだって、タヌキだって、それこそアフリカゾウだって、彼らは自分がそういう存在であることを知らないんだ。彼らの瞳に写る世界はとてもシンプルで完璧なのだ。そして崇高なのだよ少年。私達人間は、言葉を覚えてしまった。言葉は世界を壊していく。私が、君が、発音するその「e」が、世界を漆黒の煙幕で覆っていくわけだ。さあ、声を出してごらん。大地を、空を、海をも破壊する言葉だ」
ぼくが「e」と発音すると、詩人はコートの上から自らの心臓をかき抱いた。
「私は願っているのだ。一刻も早く、この世界が壊れゆくことを。トンビがトンビだと己を自覚してしまう前に、なにもかもが無くなってしまえばいいと願っている。人間が生みだす「e」が、いつかこの命をも奪い去るだろう」
言葉を否定する詩人の言葉を、ぼくはただ静かに聞いた。
人は彼を、「狂った詩人」だと言って指をさす。狂っているのが彼なのか、それとも彼以外の人達なのか、ぼくには分からない。
いつの間にか、詩人が歩みを止めていた。ぼくも続いて足を止める。
「少年」詩人の呼びかけに、ぼくは「はい」と答える。
「君の父親もいつか、自らの言葉で滅んでいくだろう。恐れてはいけない、傷ついてはいけない。彼が放つ言葉が、暴力が、どれほど君の心を、肉体を切り刻もうと、君は自らを自らの力で守っていかなければならない。いつかこの世界が崩壊を迎えるその瞬間まで、君は己が何者であるかを、決して知ってはならないのだ」
力説する詩人を見上げ、ぼくは強く首を振った。
「あなたは勘違いしているね。ぼくはパパを愛しているし、パパもぼくを愛してる。傷つけられたことなど一度もないよ」
詩人は何も言わず微笑を浮かべると、軽く腰を屈め、ぼくの額に口唇を押し当てた。
「さあ、君はそろそろ帰る時間だ。大切な君の友達が首を長くして待っている」
「ええ」
ぼくは頷きながら、彼が触れた額の熱さに戸惑っていた。
「少年」もう一度、詩人がぼくを呼んだ。「君の名を教えてくれないか」
ぼくは自分の名前を告げた。
「いい名だ」と詩人は言い、「e」がないからなと愉快そうに笑った。


<了>

2006年09月14日(木)



 もう残暑じゃないし短編 7

誤算

最近、とみにアルコールとニコチンの摂取量が増えた。
肝臓も肺も悲鳴を上げている。しかし、だからなんだという気分だった。この三週間が過ぎれば、またもとの生活に戻れるはずだ。何かが変わるわけじゃない。変わらないと思ったからこそ、僕はすべてを許したのだ。
負け惜しみか? 自分を嘲笑う。それでもいいと、もうひとりの自分が苦笑する。
初めて会った時から決まっていたことだし、分かっていたことだ。あいつは誰にも言わない。親にも、友人にも、同僚にも、妻になる人にも、真実を打ち明けない。
ゲイであると。それが世の悪であると、彼は思っているのかもしれない。そして、悪を孕んだ自らを嫌悪しているのかもしれない。
それならば、と僕はいつも思う。深夜三時、こうして酒と煙草で淋しさを紛らわしている孤独な同性愛者は彼にとっては諸悪の権化であり、触れざるべき最も顕著な存在だろう。なのになぜ、あの夜、彼は僕を誘ったのだろうか。あの出会いさえなければ、僕はこうしてむやみに肺を汚す必要もなかった。今ごろ南イタリアの太陽の下にいるであろう彼は、妻になった女性と家族や友人への土産品でも選んでいるに違いない。彼の中に良心の呵責があるか? 答えはNOだ。逆に、そういう生き方を選び、うまくこなしていることに満足しているのだろうと思う。器用なのだ。自らの感情も欲望もコントロールできる。見ていろ、一年後には夫からパパに変身しているに違いない。
対して、僕ときたら――。
あいつはよく口にする。「その頑固な性格を直さないと、待ってるのは孤独死だけだぞ。もっと融通を利かせろ、柔軟に考えろ。俺みたいにとは言わないが、肩肘ばかり張っていないでもう少し楽に生きてみろ」
じゃあ、教えてくれないか。
一般人に紛れて、好きでもない女性と結婚して子供を作って、家族に囲まれて生涯を全うすることに、一体どれだけの意味があるのかを。
愛を信じているわけじゃない。
愛に似たようものが、人生を薔薇色に染めるだなんて子供みたいな夢を描いているわけでもない。
僕はただ、知りたいのだ。
そうしてまで生きる理由を。生きなくてはならない理由を。

時計が四時を目指して半分ほど進んだ頃、携帯電話が鳴った。
放っておいた。
イタリアの天気など、聞きたくもない。
東京は明日も雨だ。それが分かっていれば、もう充分なのだ。


結婚に伴うひと通りの儀式を終えて戻ってきた彼は、僕に土産を手渡すより早急にセックスをせがんだ。久しぶりの人肌は悔しいほどに馴染んで、僕を後悔させる。
「訊かないのか?」逃げられないように僕を射抜いたあと、彼が言う。
最初から、訊くことも、訊きたいことも、訊いて得をすることも、何ひとつない。それでも、僕は訊いてしまう。最も低俗でくだらないことを、彼に訊くのだ。
「奥さんと僕と、どっちがいい?」
欲しかったお菓子を貰った子供のように、彼は嬉しそうに笑う。体温を共有させる下半身は、もうどちらのものか分からない。
結局、彼は答えなかった。
僕も答えを望んでいたわけではない。
僕が欲しい回答はひとつだけ、この行為が生みだす錯覚をごまかすための手段さえ教えてくれたら、もう他には何もいらない。僕には最初から、偽るための矜持も、外聞も、何も持っていないのだということを、早く教えてやらなければと最近思う。彼の笑う顔が眼に浮かぶ。ただそれだけのことだ。


母親を泣かせたのは、いったいいつのことだったろう。
あの時から、僕はある種の覚悟のようなものを持った。ひとりで生きていくと言い切るには、まだ僕は若すぎる。しかし、そのために捨てなくてはならないもがあるということ、守らなくてはならないものがあるということ、その両者に対する決断はできるだけ早い方がいいのだということを、知るには悪くないタイミングだった。
僕は彼のように全てを得ようなどと考えたことはない。
得られるとも思っていない。
 
圧迫と重圧が同時に去り、僕は自由になった。
このままバルコニーから飛び立てるほどに、身体が軽く感じられる。しかし実際は、使用済みのコンドームと丸められたティッシュを片手に、欲望の生々しさだけが残るベッドに横たわるぶざまな雄でしかない。
結局、何も変わらない。
彼の左手の薬指に指輪が嵌っていようがいまいが、妻がいようがいまいが、新婚旅行でイタリア土産を選ぼうがどうしようが、僕には関係のないことだ。

「そういえばお前、電話に出なかったな。俺がいない間にいい男でも見つけたか?」
YESと答えても、NOと答えても、彼の微笑と僕の失意は深まるばかりだ。
「無口だな」
喋らない僕に、いつもより饒舌な彼は言う。「妬いてるのか?」
さすがの僕も、笑ってしまう。ご都合主義もここまでくると見事なものだ。そう口に出すと、彼は予想どおり、絵に描いたような微笑を濃くした。言い返しはしなかった。彼も無口を気取りたいのかもしれない。

僕がシャワーを浴びて戻ると、裸のまま窓際で煙草を吹かしていた彼がこちらを振り返って言う。「もうすぐ夜明けだ」
横目で時計を観ると、まだ日付さえ変わっていなかった。
「時差ボケ? それとも新婚ボケかな」
「土産、まだ渡してなかったな」僕の戯言を無視して話題を逸らす遣り口は、いつものことだ。
「いらない」僕は即座に言った。そう言われるのを待っていたように、彼は「高かったんだぞ」と言って笑う。余計にいらないと僕が言うと、相変わらず意固地だと言ってさらに笑う。
解っていない。
失って痛みを得るものは、最初から手に入れない方がいい。
だから僕は、何もいらない。いつか思い出になるような物など、ひとつも欲しくない。
「そろそろ帰るよ」
短くなっていく煙草が、どうやら砂時計の役割を果たしていたようだった。
彼は服を着、あっさりとアパートから出て行った。
帰りを待っている人がいる。それがどんな気分なのか、僕には分からない。

僕はベッドに腰を下ろす。
窓の外は星ひとつ出ていない。それもそうだ。一週間続いた雨は、明日をも続く。
テーブルの上に置いてあった携帯電話がメール受信を伝えるために小さく震えた。
腕を伸ばすのも億劫だった。
僕はそのまま倒れこむようにして、朝まで眠った。


忘れていた昨夜のメールを開いたのは、会社の昼休みだった。

『土産の温泉饅頭、賞味期限が切れる前に取りに来い』

イタリアにも温泉饅頭があるのかどうか一時間悩んだあと、僕は会社を早退した。


<了>


2006年09月13日(水)



 三度目の正直

もうね、付き合いも三年目になると髪形まで似ちゃうんですってさ〜。

さて、今夜はチャンピオンズリーグの第一戦目、スペインの誰かさんは代表戦でオウンゴールとかオウンゴールとかオウンゴールとかして皆をズッコケさせてしまいましたが、二度あることは三度あるというスペイン語と日本語は封印しておきますので、精一杯キャプテンの右足となって頑張ってきてください。

2006年09月12日(火)



 残暑見舞い短編 6

短編ネタまだまだまだまだ募集中。


アイランド

「――もし無人島にひとつだけ何かを持っていけるとしたら、お前は何持ってく?」
僕が訊ねると、達巳は「無人島?」と鸚鵡返しに言ったあと、難問を解く数学者のような難しい顔をして黙り込んでしまった。
僕は昨夜、同じ質問を裕香にされた。僕も達巳と同じようにしばらく考え込んだが、挙句、こう答えた。「マッチかな」
裕香は「君は現実主義者だねえ」と笑い、「私は携帯電話かな」と同じく現実的なことを言った。その後、電波が届かなければ単なるプラスチックゴミじゃんとか、マッチだって湿気ちゃったら何の役にも立たないしとか、じゃあライターにするとか、じゃあ私はトランシーバーにするとか、くだらないことを言い合った。
でも結局最後には、「やっぱり裕香を連れてく」「じゃあ私も大成にする」なんてことになり、そのまま盛り上がってセックスして一緒に寝た。
それを思い出し気軽な気持ちで訊いてみたのだが、達巳は眉間に皺を寄せて考え込んだまま固まってしまっている。僕は半身を起こし、ベッド脇に置いてあった眼鏡に手を伸ばした。「気楽に考えればいいんだって」眼鏡を掛けながらそう言うと、達巳はシーツの中でもぞもぞと足を動かして無言の抵抗をした。
「ちなみに僕はマッチとかライターとか、そういう火をおこせる道具」
「相変わらず夢がないね、大成は」
「裕香にも同じこと言われた」そう口にして、しまったと思った。達巳は「ふうん」と言っただけで、僕の後ろめたさを刺激するような表情も言葉も発しなかった。
裕香とは付き合って三年目、達巳とは一年目。二股を掛けようと思って始めた関係ではなかったけれど、気がつけばそういうことになっていた。本命は裕香、遊びは達巳。ということにしておかなければ将来的にまずい気がして、達巳には裕香とのことを打ち明け、それでもいいというから今もこうして関係を続けている。
我慢をさせているだろうなという自覚はある。
だから極力、達巳の前で裕香の話題は持ち出さないようにしているけれど、こうして時々ヘマをする。達巳は平気なふりをする。
男同士の関係なんて第一に性欲で、恋愛感情なんてしょせん二の次に決まってる。そう高を括っていたことは認める。でも実際は、そんな安直なものではなかった。達巳は普通に僕を好きだし、僕も普通に達巳のことが好きになった。男女の恋愛とどこが違うと問われても、「性別」以外何も変わらないように思う。
それでも僕は臆病だから、達巳との関係を公にすることなんて絶対にできなくて、裕香のことが好きだという感情を最重要視する。どちらがどのくらい好きかということは絶対に考えない。達巳とはこうやってたまにホテルで会う。それだけで充分だと納得する。もし仮に僕が達巳だったら、僕みたいな二股男は「最低」であり、「ずるい男」であり、「弱虫」であって、すぐに別れるべき相手だと自分に言い聞かせて当然なのだけれど、達巳はなぜかそうしない。現状に文句は言わない。「男同士だから」という無言の言い訳が、僕の全身から滲み出ているのかもしれないと時々思う。
「決まった?」僕が訊くと、達巳は「決まらない。ぜんぜん決まらない」と首を振る。
そこまで真剣に達巳が考えると思っていなかった僕は、「まあ、そんな状況に陥ることはありえないだろうから別にいいんだけどね」とできるだけ軽い口調で言ってみた。達巳は僕の顔を見てもう一度「夢がないねえ」とぼやくように言った。
休憩の二時間がもうすぐ終わる。僕はベッドから抜け出し、バスルームでシャワーを浴びた。達巳はまだ考え込んでいるかもしれない。その彼の真面目さが時折僕を辟易させ、時折僕を勇気付ける。
帰りは車で達巳のアパートまで送った。
達巳はバイバイと手を振り、ほんの少しだけ寂しそうな顔をする。胸がちくりと痛む。別れてあげた方が達巳のためになるということは知っているのだけれど、僕は達巳のことがやっぱり好きで、裕香と比べることはできないけれど、失いたくないと思ってしまう。
男同士。同性とベッドインしてしまうことが悪なのか、同性に心奪われることが悪なのか、その悪は果たしてどのくらい悪いことなのか。考えて僕が出した結論、それはきっと産まれたての赤ちゃんを「触りたくない」と強く拒むくらい、いけないことなんだろうなと思う。けれど達巳にしてみれば、同性と恋に落ちることは、赤ちゃんが母親を求めるくらいとても自然なことで、それを捻じ曲げようとしている僕の考えこそがおかしいのだと言いたいところだろう。
自分のアパートに戻り、テレビを8チャンに合わせたところで、裕香から電話があった。今日は会社の近くにオープンしたパスタ屋さんでランチを食べた、美味しかったから今度一緒に行こうと言われた。いいねと答え、僕は今仕事から帰ってきたばかりだよと嘘をついた。大変だねと裕香が言い、明日は会えるかと訊かれ、大丈夫と答えた。
電話を切って、僕はベッドへと寝転がる。
視界に入ったカレンダーを見て、達巳と付き合い始めた記念日が近いなあということを思い出した。告白をされた。「付き合ってください」とか、「好きです」とか、そんな言葉ではなくて、彼が口にしたのは「ごめんなさい」だった。「嫌われるのが怖かった」とも言った。僕は常にどっちつかずの人間で、初恋の相手は幼馴染のケン君だったけれど、清水の舞台から飛び降りる覚悟で初めて告白した相手は同じ卓球部のミカちゃんだった。
達巳からの控えめなアプローチを受け入れた理由は、裕香に不満があったからではない。都合のいい言い方をさせてもらえれば、放っておけなかったからだ。僕は決して色々な人にモテまくるような男前ではないから、他人から好意を持たれたということが第一に嬉しかったし、よく行くCDショップの店員だった達巳のことは最初から嫌いではなかった。
告白された翌日、友人同士のような、恋人同士のような、不思議なデートをして、帰り際にキスをした。ドキドキした。深入りするとまずいなと思い彼女がいることを白状しても、達巳は「なんとなくそんな気がした」と言っただけで、キスした僕を責めたりすることはなかった。
なにかプレゼントでも贈ろうかなと考えたが、達巳が欲しがりそうなものといって思いつくものは何もなかった。直接訊いたとしても、達巳の返事は「何でもいいよ」か「何もいらないよ」のどちらかに決まっている。
達巳とは、結婚することも、赤ちゃんを作ることもできない。
だから達巳は、僕と裕香が付き合っていても文句を言わない。しょうがないねという顔をする。何も欲しがらない。

無人島のことを思い出した。
もし達巳と二人だけで無人島に行けたら、達巳は僕を独占したがるだろうか。「好きだ」とか、「愛してる」とか、そんな恥ずかしい台詞も躊躇わずに口にして、僕が困ってしまうような我が儘を言うだろうか。そんな達巳を見てみたいとも思ったし、見たくないとも思った。

達巳からの電話があったのは、裕香と晩飯を食ったり、残業でへとへとになったり、久しぶりに料理をして鍋を焦げ付かせたりして、五日ほど経った頃だった。
「大成、俺ね、無人島に持っていくもの決めた」
そんな話などすっかり忘れていた僕は、「ああ?」と間抜けな声を出した。
「無人島に何かひとつだけ持っていけるとしたら、大成の写真を持ってく」
意外なタイミングと意外な答えに僕は気の利いたことなど何も思いつかず「そんなんじゃお腹ふくれないぞ」と、体育の先生みたいな口調で言ってしまった。
「まあ、それはそうだね」達巳は怒りもせずにそう言うと、「それだけだから」とすぐに電話を切ってしまった。僕は電波の切れたプラスチックゴミを片手に、あの夜から無人島のことをずっと考え続けていたのだろう達巳に驚きつつも、彼の出した答えにいい加減な返事しか返せなかった自分がひどく悪い男になったような気がした。
達巳は自分からは何も望まない。望ませない責任がすべて僕にあることは自覚しているのだけれど、ジャングルの奥地で、体温さえも感じられない僕の写真を大事に抱きしめて助けを待ちわびる達巳の姿を想像したら、なんともやりきれない気持ちになった。
僕は車の鍵を掴んでアパートを出る。
達巳は僕のことが好きで、僕も達巳のことが好きだ。それなのに僕は誤った恋愛を達巳に押し付けているのだと、こんなことがなければ改めて再確認することはない。
達巳のアパートに着いて部屋のチャイムを鳴らすと、出てきた達巳はパジャマを着ていた。「どうしたの、大成?」
「お前に、写真は渡さない」
僕は唐突にそう言った。達巳はきょとんとした顔をしていたが、やがて僕の言うことの意味を合点したのか、少し失望した表情を浮かべた。
「そういえば、一緒に写真撮ったこともなかったね」
達巳はいつだって優しいのだ。僕はその優しさに、きっと甘えすぎたのだと思う。
「達巳」
僕は、心を込めて言った。
「もう、別れような、僕達」


<了>

2006年09月05日(火)



 残暑見舞い短編 5

愚かな海  サトイさんへ

一時間に一本しかないローカル電車を降りると、潮の匂いが肌に纏わりついた。いつ来てもちんけな港町だ。訪れる者を身体の中から錆付かせ、人の動きばかりか、時間という流れさえも止めてしまっているかのように、寂れた風景は二十一世紀を迎えても何ひとつ変化することなく、いつの日にか劣化し、消えうせる時を待ちわびるかのように、ひっそりとその姿を留めている。
十一月の海風はその身に幾本もの針を含んでいるかのような鋭さで頬に突き刺さり、俺は手に持っていたマフラー首に掛け直し、足を速めた。
もう、二度と足を踏み入れることはないだろうと思っていた町だった。
父の葬儀で訪れたのはもう八年も前で、空き家になった生家はすでに跡形もなく消え去り、戻るべき場所もすでにない。どちらにせよ、十六で家を出た俺には感慨を覚えるような記憶もほとんどなかった。ただ息苦しさばかりを感じていたあの時期、母親が男を作って駆け落ちしようと、五つ年上の姉貴がシンナー中毒で施設に入れられようと、俺にはどこか他人事であり、女という生き物のあいまいさを知ったというほか、特に感じ入ることは何もなかった。
俺は無人の改札を抜け、町に唯一ある駅前の旅館にチェックインしたあと、部屋の窓を開けて路線の向こうに広がる海を眺めながら煙草を咥えた。初冬の海はうねりがきつく、砕けた波が白く泡だっているのが遠目にもわかる。紫煙を吹かしながら、俺はふと気付いて目を細めた。濁った海面に浮かぶ、小さな人影を見つけたからだ。
時刻は午後四時を回り、次第にせまりくる夕暮れを前に寒さはいっそう厳しさを増している。凍えるような海に入り、自虐を愉しむ男を俺はこの町でひとりしか知らない。
「……馬鹿な男だ」
思わず呟きがこぼれる。
しばらくその馬鹿な男の姿を眺めていると、否が応にも擦り切れた記憶がよみがえり、俺の鼻先に二十数年前の過去が貼り付けられる。
優等生を絵に描いたような男だった。市議会議員の息子で、幼い頃から白いハイソックスを履き、洗いたてのハンカチを持ち、綺麗に切り揃えられた襟足から金の匂いをさせていた。当時、すでに家庭という形態が崩れ、離散への一途を辿っていた俺にとってそうした人間はみな異人種であり、例え同じ言語を用いていても彼らの言葉や価値観を理解することなど一生できないだろうと、単純にそう思い込んでいた。
江島透。
男の名前だ。今もその名は記憶の片隅にこびり付き、不思議と離れることがない。
俺が高校を一年も持たずに自主退学し、さし当たっての生活費を稼ぐため、町から三キロほど離れた郊外にぽつんと佇むラブホテルで深夜のバイトをしていた時だった。朝方仕事を終え、海面が朝日で徐々に白んでいくのを横目に愛用のスクーターで町に戻る途中、俺は彼に出会った。
透はロングボードを肩に担ぎ、砂浜へと向かっていた。
ひょろりとした体型だったが、スプリングを着込んだ背中にはなにか異様なほどの生気が感じられてならなかった。俺は思わずスクーターを止め、その後ろ姿を見送った。透は浜辺でしばらく海面の様子を眺めたあと、まるで波を見切ったとでも言いたげに寸分の躊躇も見せず海へ入っていくと、力強いパドリングで沖へ沖へと漕いでいった。あっという間に透の姿が岸から遠ざかっていくのは、沖合へと向かう岸離流をうまく利用しているからだろう。岸離流は海底が深くなっている箇所に発生する流れで、肉眼ではなかなか判断がつかないものだが、透はしっかりその波を掴み、体力を温存したまま目指すポイントへと向かっているようだった。
俺はスクーターのエンジンを切ると路肩に停め、煙草を咥えた。潮風がライターの火を揺らすが、サーフィンをするには少し静かすぎる。再び視線を海に向けると、波待ちをしている透の姿が見えた。うねりを探している。
紫煙を吐き出す。
俺もガキの頃は、親父に誘われて波乗りをした。
何度も流され、ひっくり返り、波にもみくちゃにされ、ボードの上に立てるようになるまでにかなりの時間を要し、自分にはまったく向いていないものだと子供心ながらに理解した。たいして面白いとも思わなかった。ただめったに笑わない親父が、俺がボードから転がり落ちるたびに声を上げて笑うのが、妙に新鮮だったのだ。
あの頃、すでに母親は他に男を作っていた。経営するスナックの常連だった。福岡から来たのだと、その男はよく口にしていた。もし今も生きていれば、母は福岡に居着いているのかもしれない。八年も前に離婚した男が死んだことなど意にも介さない女だろうと、俺はそう願っていた。
ボードに腰掛け、沖の方を向いていた透がふいに方向転換をし、腹ばいになってゆっくりとパドリングを始めた。背後に、うねりが近づいている。どうやら当たりをつけたようだ。迫ってくる波の斜面をテールで押さえ込みながら、さらにパドルスピードを上げていく。少し高みから眺めている俺からも、ボードの尻が高く持ち上がっているのが分かった。
ほんの数カキのパドリングでテイクオフをした透は、滑り出した瞬間にタイミングよく立ち上がり、加速していくボードの上で重心を低く保ったポージングを決める。
伸びた背筋が、朝日の光に輝いていた。
アップスを繰り返し、波と戯れるように自在にボードを操る透の全身からは、サーフィンをすることへの楽しさや恍惚感が滲み出ているように見えた。
上手い。俺は彼の姿に魅了された。こんな田舎町でも、サーフィンをするためにわざわざ遠方から足を運ぶような物好きビジターはいる。おかげで子供の頃から様々なサーファーを身近で見る機会が多くなり、自然と彼らのテクニックや能力を見抜く観察眼も肥えていった。俺も好き嫌いに関わらず大勢の波乗りを見てきたが、透のボード裁きは素人目から見ても突出して美しいと感じられた。
それから俺は、砂浜に続く斜面にしゃがみ込み、透がサーフィンをする姿をしばらく眺めることにした。時間を忘れた。太陽が完全にその姿を現し、量産した光の粒子を海面にきらきらと反射させ始めたことにも、俺はしばらくは気付かなかった。
どれだけ経っただろう。
透が岸へと戻ってきた。ボードと足首を繋ぐリーシュコードを外すと、今まで自分が入っていた海を一望し、それから不意に俺の方を振り返り大きな声を出した。
「暇そうだな、寺田」
白い歯が覗く。どうやら海の中にいたときから、俺の存在に気付いていたようだ。俺は町一番の優等生が自分の名を知っていることを意外に思いながらも、自然と言葉を返していた。
「バイト帰りだ」俺も怒鳴るような声になった。五十メートルほどの距離がある。透はボードを砂浜に置き、ビニールシートに置いてあったタオルを手に取ると濡れた髪を拭いながら俺の方へと歩み寄ってきた。
「今日は波が厚いからいまいちなんだ」
透からのウェットスーツから、強い潮の匂いがした。俺は立ち上がり、斜面を上がってスクーターに跨る。
「明日も、ここで乗るつもりだから」
俺を見上げるようにして、透が言う。俺はメットを被りながら、品のいい顔を見つめて言った。「不良と付き合うと、パパとママが悲しむぜ」
それを聞いた透がアハハと笑った。
それが彼と初めて交わした会話で、俺が町を出るまでの一年間、彼のサーフィンを見続けることになるきっかけでもあった。

俺はフィルター近くまで短くなった煙草を、窓の外へと投げ捨てる。海に浮かぶ黒点は、相変わらず波に漂っている。
あれから二十年以上の年月が経った今、あの頃と現在と、どれだけのものが変わったのだろう。卑しいまでに変化を望まないこの町で、あの男はあの時と同じように今も変わらずボードに張り付いている。
馬鹿な男だ。もう一度、俺は心の中で繰り返した。
透が大学を勝手に中退し、プロのサーファーになるためにオーストラリアへ渡ったという話は風の噂に聞いた。当時もまだ現役の市議会議員だった父親は、さぞかし怒り狂ったことだろう。それから、透がどのような人生を歩んできたか俺はまったく知らない。それも当然だろう。俺はこの町を離れ現在までの間に、合わせて六年ほど壁の中にいた。傷害罪、銃刀法違反、いくつかの合わせ技で二回ぶち込まれた。年貢を納めたという程度の気持ちで従事したのだが、出てきたときには俺の意志に関係なく、組織の中でそれなりにいい顔ができるようになっていた。後戻りはできないのだとその時になってようやく俺は理解したのだが、特に後悔もなかった。人生の底辺を生きていた俺には、底辺を生きる人間を相手にするのが最初から見合っているのだろう。



2006年09月01日(金)



 



俺は旅館を出て、歩いて海へと向かった。
耳障りなほど響く波の音が疎ましかった。民家の錆付いた柵の近くに、黒と白の斑点模様の猫が寝そべり、長い尾で地面を撫で付けている。
砂浜に降りるための細い階段を抜けると同時に、海からの冷たい突風が着ているコートの裾を勢いよく翻した。耳が千切れそうなほど痛い。革靴の中の足指も痺れ始めている。
夕刻に向かう空は八割方が暗闇に支配され、東側にほんの少しだけ赤茶けた雲が残っている程度だった。旅館の窓から見た場所に見当をつけ、砂浜を歩き始める。感は鈍っていなかった。数十メートル進んだところで、ボードが波を打つかすかな音が聞こえてきた。
俺は立ち止まり、波間に男の姿を探す。
風に煽られた波が高いウォールを作り出している。浅い砂浜でスープが何度も弾ける。そのたびに水が水を飲み込んでいくザザンザザンという地響きのような低音が薄闇を押し遣るように辺りに鳴り響き渡る。
その時、巨大な魚が白い腹を翻してジャンプするかのように、海面にサーフボードが踊り出た。フルスーツを着込んでいるだろう上部の人影は波色と同化し、輪郭を捉えきれない。目を凝らす。男はブレイクする波をうまく掴み、抑え込んだうねりの反乱を深く折った両膝ですべていなし、牙を抜いたライオンを相手にするかのごとく容易く大波を飼いならしている。やはり、尋常なテクニックではない。そもそもこんな荒れた冬の海に入っていこうと思うこと自体、並の人間ではないことがわかるのだが……。

しばらくその場で待つと、手懐けた波からプルアウトし、浅瀬でボードを降りてこちらに歩いてくる男の顔をようやく判別することができた。
「寺田か、久しぶりだな」先に声を発したのは、透の方だった。白い歯が零れる。僅かに鼻と耳が赤い程度で、特に寒さを感じている素振りはない。俺は逆に、風を避けるためにコートの襟元を立てた。
「お前、いつ戻ってきたんだ?」
「さっき着いたばかりだ」
「そうか、知らなかった」透は言って、濡れた顔を片手で拭った。八年前の父親の葬式の際、透とは数十年ぶりに顔を合わせたのだが、挨拶程度で話らしい話はしなかった。若い頃から透の相貌はあまり変わっていない。幼い頃についた優等生のイメージは、いつまでたっても払拭されないようだ。
「宿は福八か? それなら着替えてから顔を出すよ。一緒に酒でも飲もう」
「相変わらずやってるんだな」
俺が彼の脇に立つボードに視線をやると、透は少し気恥ずかしそうに笑う。
「これしか能がないんだ、俺は」
透の表情に、人生の敗北者が見せる昏さがちらりと覗いた。その陰気さが、俺の腹底を僅かに疼かせた。

バイト先のラブホテルの一室に忍び込み、興味本位のままそうした行為に走ったきっかけはもう思い出せない。暇つぶしであり、若さゆえの混沌とした欲望を吐き出しただけであり、一線を犯すという甘美さに酔っていただけなのかもしれない。
青臭い思い出だ。
塀の中で若い男を抱いたこともあったがそれは女の代用でしかなく、当時の透をそうした意味合いでだけで組み伏したのかといえば、また少し違っているようにも思えた。
あいつの身体に染み込んだ潮の匂いはいつまでも消えることがなく、この町と同じように、変わることを拒んでいる様な気がした。一年後、都会へ出ることを決意した理由に、そのことに対する苛立ちが含まれていたのかどうか、記憶は定かではない。

旅館に透が顔を出したのは、九時を回った頃だった。
差し入れだと、雑魚やスルメを山ほど持ってきた。明るい電気の下で見る透は確かに年齢を重ねた分だけ刻まれた皺は深くなっていたが、妙な屈託のなさと、彼を取巻く清廉とした空気はあの頃のままだった。
ロビーにある自販機で缶ビールを数本買い、旅館のおかみに頼んで用意してもらった日本酒を畳に並べる。透は日本酒を手酌でコップに注ぎ、俺は缶ビールに手を伸ばした。二人とも無言で一口酒を呷った。
「しかし、突然の帰郷だな。どうしたんだ?」
いつでも、会話を始めるのは透の方からだった。
「弁護士に呼び出されたんだ。親父名義の土地が残っていたらしくてな」
勝手に処分してくれと電話口で言った俺に、父親の同級生だというその弁護士は「切り売りする前に、一度足を赴いて見なさった方がいい。売却の話はそれからいたしましょう」と、渋る俺をこの土地へと呼び戻した。明日、形だけの確認をし、すべての手続きをする予定だ。
「そうか、じゃあ東京にとんぼ返りだな」透は言い、日本酒のコップを傾けた。
ウェットスーツを脱いだ透はTシャツと洗いざらしたジーンズといういでたちで、よく鍛えられているのだろう、ガキの頃とは比べ物にならないほど、上半身には水に入る人間独特のしなやかそうな筋肉がついている。
「寺田は向こうに家族はいるのか?」
俺が首を振ると、「まだあっちの方が落ち着かんか」と透は笑った。俺はその顔を眺めながら、ふと昔を思い出していた。透はよく笑う男だった。海に入るときも、海から戻るときも、歩いているときも、去っていくときも、ベッドの上でも、いつも笑顔だった気がする。嫌いではなかった。懐かしいと、素直に感じている自分に少し驚いた。
「俺は、駄目だったよ。女房と子供はオーストラリアにいるんだ」あまり口を割らない俺の代わりに、透が自らのことを話し始める。「息子は今年で十歳になるんだが、もう三年も顔を見ていない。父親ってこともそのうち忘れられちまうかもしれないな」
結局、海を渡りプロとして活動できたのは七年ほどで、大会の賞金やモデル代で稼いだ資金を元手にゴールドコーストにサーフショップを開いたらしい。当時、オーストラリアに語学留学をしていた女性と出会い結婚、翌年に一児をもうけたが夫婦生活はその後破綻。子供の親権は母親に譲り、ショップの経営も思わしくなくなかった透はオーストラリアに見切りをつけて帰国した。それが九年前だという。現在は父親の事務所で仕事を手伝いながら、時間を見つけては海に入っているらしい。
「将来は政治家の先生にでもなるつもりか?」俺が言うと、透は「まさか」とおかしそうに笑った。「俺はサーフィンができればそれでいい。今のままで充分さ」
ふと、脳裏に蘇る記憶があった。
俺は町を出ると決めた時、確か一度だけ透を誘ったのではなかったか。
「一緒にくるか」そう問い掛けた俺に、透は笑顔のまま首を振った。
「都会には海がないから。俺には、サーフィンしかないんだ」
彼の頑なさを、当時は羨ましいとも思ったし、疎ましいとも思った。しかし、齢を重ねた今となってはそう信じ込むことが人生の救いであるとともに、現実からの逃避に繋がっているのだろうと、何となく想像ができた。
「それよりお前こそ、いっそのこと親父さんが残した土地に戻ろうという気はないのか」
透が言う。俺は結露に濡れる窓を少し開け、煙草を咥えた。隙間風は冷たく、現実という重い壁を思い返させる。
「無理だな」
「なぜ」
説明する価値もない。そう伝えるには、透の瞳はあまりに真っ直ぐ過ぎた。俺は仕方なく、シャツの襟元を少しだけ肌蹴た。グラスを持ち上げようとしていた透の手が止まる。
「俺には、昔も今もこれしかない」
「……知らなかった」
「知っても何の得にもならんさ」俺は咥えたままだった煙草にライターの火を吸い点ける。身体に墨を入れたのは、極道という看板を掲げるためでも、自分に酔いしれるためでもなかった。刑務所で同部屋になった彫り師に「いいか寺田、ここを出たらお前にいいだけ金を貸してやる。だからそのカタとしてわしに背中を彫らせろ」と詰め寄られたのだ。その男に金を貸して欲しいと頼んだ覚えなどなかったが、七十を越えた白髪男が必死で口説いてくる様がおかしく、出所後、俺はその男に一千万を借金し、背中を預け好きにさせた。男が半年かけて彫ったのはありがちな不動明王だったが、それは文句のつけようがないほど見事な出来栄えだった。刺青が完成してから一ヶ月も経たないうちに、その彫り師は肺がんで死んだ。最初から、男は自分が長くないことを知っていたのだろう。借りた一千万より重いものを、俺はその日から背負わされた気がした。
透はコップの底に残った酒を眺めながら、「なんだか、お前がひどく遠いところに行っちまった気がするな」と呟くように言った。「俺は少しも変われない。今も、昔も」
変わることを拒むこの町で、変われないと嘆く男。実際は透自身が変化を畏れているのかもしれないし、海という不変の存在が変化を妨げているのかもしれない。忘れていた潮の匂いが、なぜか今になって強く匂った。
「なあ、寺田」透が顔を上げる。「俺は、本当は――」


親父がこの町に残していた土地は、海が見渡せる小高い場所だった。周囲には何もなく、なぜこんな金にもならない土地を親父が手に入れ、挙句に死ぬまで放置していたのか俺にはまったくわからなかった。
売却しても、端金にしかならない。しかし、この町に自分が生きていた証を残しておくことはできないと強く思う。そんな俺の想いを嘲笑っているかのように、海からの強い潮風が足許を吹き抜けていった。
「やはり、売られますか」
老弁護士の元橋は丸っこい眼鏡の小さな目を瞬かせて言った。
「墓でも作ればよかったか?」俺が言うと、元橋はおかしそうに肩を揺らした。「いやいや、そんなことをしたら、お父さんがあの世で臍を曲げるでしょう」
「親父とは旧いみたいだな」
「洟垂れ小僧の頃からですよ。あなたに良く似てる。頑固で、寡黙で、いい男だった」
「女房に逃げられる男がか?」俺が言うと、元橋は綺麗に禿げ上がった頭をぽんと叩いた。
「忘れとった。甲斐性のなさも人一倍だった」
俺は思わず吹き出した。「ひどいもんだ」

元橋の事務所に寄って必要な書類にサインしたあと、俺は旅館に戻り荷物をまとめると、そのまま駅へと向かった。昨日来たときは耳障りだった波の音が、今はもう意識しなければ聞こえない。慣れとは恐ろしいものだ。
改札を抜け、ホームに備え付けてある錆びたベンチに腰を下ろす。煙草を取り出しライターを擦ったが、海風が強くて火はすぐに消えてしまう。俺は煙草をあきらめ、民家の屋根の隙間から覗く、時化て灰褐色に染まった海を眺めた。

(――寺田、俺は本当は、海が憎いのかもしれん)

昨夜、透はそう口にした。
何故とは、訊き返せなかった。
その答えを知っていることに、俺自身が気付いたからだ。それはこの土地に未練を残したくないと願う俺と、同じ理由に違いない。
二十数年前、俺はこの土地で初めて大切だと感じたものを奪うことができなかった。
海という絶対的な存在に太刀打ちできず、自らの無力さを痛感した。青臭い記憶だと笑えないからこそ、俺はこの町の不変に怯え、そして憎んでいるのかもしれない。
足掻くにはもう、時間が経ち過ぎている。

電車が近づいてくるのが見えた。
親父が買った土地からも、この路線が見渡せた。まだ俺が物心つく前、一時間に一本だけ通るこの電車を眺めるために、父親によく肩車をせがんだものだといつか母から聞いたことがある。
今になって、さっきまで解けなかった謎の答えが悲しいくらい安易に導き出された。苦笑が洩れる。親父があの土地を手に入れ、最期の最期まで手放さなかったその理由を、息子である俺だからこそ「馬鹿だ」と笑うことができた。
親父は、夢を見ていたのだ。あまりにも無謀で、あまりにも虚しい夢。一度崩壊した家族はもう二度と元に戻ることはない。しかし親父にとっては、そんな叶わぬ夢を見ることにこそ、意味があったのかもしれない。
電車がホームに滑り込んだ。
俺はベンチから立ち上がり、一度鈍色の空を仰ぎ見た。



海はいつでも不変の姿を晒し、うつろう人間の姿を笑う。
鴎が上空で、踊るように旋回している。
俺が歩み寄ると、海から上がった男は驚いた様子も見せずに、あの頃と変わらない笑顔を俺に向けて言った。

「――おかえり、寺田」

俺も親父のように、愚かになれるだろうか。


<了>

2006年08月31日(木)



 残暑見舞い短編 4

ロージー MONYさんへ

これは何の匂いだったろう。
私は目を閉じ、鼻腔を疼かせる甘い香りを記憶の中枢から呼び出そうとした。確かに嗅いだことのある匂いだった。花の香りであることは間違いないのだけれど、その花の種類が思い出せない。典江がもし傍らにいたとすれば、すぐに教えてくれただろう。何科の種類の何という花で、育て方や原産地まで、もしかしたら答えてくれるかもしれない。典江は花が好きだった。だから、私は彼女との記念日にはいつも花を贈った。しかし花に疎い私のことだ。花屋に行き、その場にあった花の中から彼女が好みそうなものを適当に選び花束にしてもらう程度で、一度たりとも、彼女に贈る花の名前を覚えようとか、調べようとか、そんなことを考えたことはなかった。その結果、私はこうして、もどかしく悩む羽目になる。この匂い、何の花だったろう。とてもやわらかく、甘く、優しい匂いだ……。

「――眠ったの、おっさん?」
私の思考をさえぎる無粋な声。私は仕方なく花の図鑑を閉じ、代わりに目を開いた。
「起きてるさ。ちょっと考え事をしてた」
「ひどいな。人が一生懸命がんばってるってのにさ」
私は苦笑する。私に典江の記憶を思い出させた香りを放つ張本人が、しかめ面をして私を見下ろす。まだ若い。何歳だろう。訊くのが怖い年齢であることは間違いない。私の腰に跨り、若々しく張りのある内腿を晒している。まだ青く未熟といってもいい性器は、勃起してなお、雄の荒々しさを見せることがない。稚魚が卵から孵化する、その程度の膨らみだった。
私は手を伸ばし、その小魚を捕まえる。逃げるように頭を引っ込めたそれを追いかけて指を絡ませると、観念したのか、彼は敢えて腰を突き出し、無防備さを装った。
「甘い匂いがする」私が指先でその形や弾力を確かめながらそう言うと、「チョコなんて食べてない」と素っ頓狂なことを言って、彼はなぜか不満そうな顔をする。
私は身体を起こした。バランスを崩した彼の背中を支え、ラブホテルの安いベッドの上へと押し倒す。
長男は、来年大学を卒業する。息子よりも若い青年、いや少年といってもいい年齢の子供をこうして組み伏し、身体をつなげ、せつな的な快楽と恒久的な嫌悪に苛まれ、私はいったい何をしているのか。
典江が子宮ガンでこの世を去って、もうすぐ一年が経つ。
三年に渡る闘病生活、私は彼女の看護のために二十年勤めていた会社を辞めた。貯金は息子の進学と入院代であっという間になくなった。親戚に頭を下げて借りた金も底をつきかけたとき、典江は何かを悟ったかのように静かに息を引き取った。
悲しかった。後を追いたいと思うほど絶望した。しかし同時に、私はほっとしていた。これ以上借金が増えないこと、彼女の苦しむ姿を見ないで済むこと、精神的に開放されること、すべてに安堵を覚えていた。最悪の夫だと言い切ってしまえば楽だったのかもしれない。私は、そう感じた自分をも許してしまった。同時に、何かが壊れた。典江が大事にしていた青磁の花瓶も、今はもうない。

「二万円」
言われて、私は財布から金を出す。結局、花の名前は思い出せなかった。さっきまで抱いていた少年の名前は最初から知らない。
「まいどあり」私から紙幣を受け取った彼は嬉しそうにそう言い、シャワーも浴びずに床に散らかっていた服を着た。いつ呼び出しても、彼の服装は同じだった。膝に大きく穴の開いたジーンズ、だらしなく垂れたベルト、ぶかぶかの白いパーカー。
学校へは行っていないのだろうか。親はどうしているのだろうか。手に入れた金は何に使うのだろうか。
「来週、また同じ時間あけとくけどどうする?」
「そうだな……」私は部屋にある小さな窓から外を眺めた。湿った暗い空間とは正反対の、青空と白い雲が見えた。胸の奥がざわついた。典江は一年前のこの時間、病室の窓から同じ青空を、どんな気持ちで見つめていただろう。
私は「いや、またこっちから連絡する」といい、ベッドから立ち上がった。彼は「あ、そ」と軽く言い、二つ折りにした万札をジーンズのポケットに押し込むと、そのまま部屋を出て行った。後ろ姿を見送ることなく私はバスルームに入って、シャワーを浴びた。甘い匂いがまだ、全身に染み付いているようだった。それがやけに、不快だった。

妻の四十九日を終え、息子から就職先が決まったという連絡を受けた頃、私は彼に出会った。失業中だったためハローワークへ通い、慣れないパソコン画面に四苦八苦しているところ、声を掛けられた。
「おじさん、今、暇?」
職安に暇つぶしに来る人間はあまりいないだろう。そう言うと彼は、「そりゃそうだ」とおどけて笑った。おかしな子だと、印象に残った。
それからハローワークへ行くたびに、彼の姿を見かけた。五日目、彼に誘われ一緒に近くの喫茶店に行った。
「二万円でいいよ」彼は言った。最初は何のことか分からなかった。「ウリやってるそこらの女子高生より、絶対いいと思うから」
私がそれほど欲求不満に見えたのだろうか。彼の言うことの意味を理解した私は、「男を抱く趣味はない」と断り、「妻を裏切るつもりもない」と白々しいことを口にした。
「バカだね、あんた」
彼はそう言って笑った。何が可笑しかったのか、私にはまったく解らなかった。ただ、彼がそう言うのであれば、私は自分が馬鹿なのだろうと思った。
駅前のラブホテルで二万円を払った。
彼の身体から、甘い匂いがした。
彼の中は、冷たく濡れていた。

私は、妻を亡くした。若い男を抱く言いわけとしては、ありきたりであり、見当違いであり、ふしだらであっただろう。
若さ。私は、ただそれを憎んでいただけなのかもしれない。
妻が病に倒れてから三年、そういった行為からは遠ざかっていたし、望むこともなかった。ベッドに横たわり、衰弱していく彼女の身体が醜かったことは一度もない。逆に神聖さを増していたように思う。人は神によって生を受け、神によって死を齎される。生まれたばかりの赤子と、死に行く寸前の人間は、どちらも同じように神に近い存在なのだ。
私は畏れていたのだろうか。
妻を、妻と言う存在を、彼女が愛した世界を、花を。

次に彼に会ったのは、一ヵ月後だった。
金の工面の問題もあった。もう、会うべきではないとも思った。息子が東京から一週間だけ帰郷していたこともあった。息子の正也は、私が警備員のアルバイトをしていると聞くと「無理するな親父」と言って笑った。母親によく似ている息子の笑みは、私を責めているようでもあり、哀れんでいるようでもあった。
「息子も二十歳を超えたら、どこか他人になる」
私が呟くと、彼はパーカーを脱ぎながら「俺は生まれたときから他人だったよ」と洒落たことを言った。私はベッドに片肘をつき、上半身だけ裸になった彼を見上げる。
「君は詩人だな」
「馬鹿言うなよ、おっさん」ベルトを外し、ジーンズと下着を一緒に下ろした彼は笑いながらそう言うと、シーツをめくり上げ、私の隣へと滑り込んできた。ふわりと、いつもの花が匂う。彼がこの香りで誘おうとしているのは、いったい誰だろう。少なくとも、私のように自戒を生きがいとする人間の抜け殻ではないはずだ。
若い肢体の上に、身体を重ねる。
口唇を合わせる。舌を吸いあう。歯をぶつけ、喉の奥を探り、甘ったるい唾をオイルに舌先を絡ませる。
初めて典江を抱いたのは、新婚旅行で行った熱海の民宿だった。
彼女は初めてだった。少しだけ出血した。白いシーツに滲んだその赤い色を、今でもまだ鮮明に覚えている。探し出した中心にある小さな爪を舐めると、彼女は感じていた。私はどこか不思議な気持ちで妻になった典江を見つめた。愛しているの意味を、小僧だった私はまだ知らなかったのだ。

「名前を知りたい」
「ノブユキ」
「どんな字だ?」
「信じる幸せで、信幸」

信幸の若い性器を嗅ぐ。花の名前は、やはり思い出せない。望まれているのか、拒まれているのか、何度抱いても判らない不可解な場所を自身の肉で蓋をすると、腰が漣のように震え、思わず声が洩れた。
「おっさん、もっと奥まで入れてよ。もっと奥、わかる? 潰れるくらい、押し込んで」

どんなときも幸せを信じるようにと、信幸の親は彼にその名を授けたに違いない。
彼は、幸せなのだろうか。自由なのだろうか。

私はこれまでにないほど激しく腰を打ち据えた。
信幸の背中が若竹のように撓って鳴る。初めて抱いたときの典江の肌を思い出そうとしたが、もう時間の流砂に埋もれ、記憶の断片ひとつ引きずり出すことができない。不甲斐ない夫だと、私は私を嘲笑った。
信幸は、女のようにすすり泣いていた。
気が付けば、シーツに濁った染みができていた。ひどく擦りすぎて、傷ついたのかもしれない。私はその染みをしばらく眺めたあと、ふたたび信幸を抱いた。

私は、いつだって無知なのだ。
妻の愛した花の種類も、信幸から香る花の匂いもわからない。

終わったあと、信幸はもう今までのように「次は?」とは訊かなかった。私もたずねることはしなかった。代わりに、彼へ払う二万円の間に、私は自分の家の鍵を差し込んで一緒に渡した。信幸は気付いたようだったが、いつものようにジーンズのポケットに紙幣をねじ込んで、そのことには触れなかった。

ラブホテルからの帰り、私は本屋へ寄った。
花の図鑑は三千六百円して、手持ちでは少し足りなかった。

<了>

2006年08月29日(火)



 頑張れエヌテーテー急いでエヌテーテー

エヌテーテーコンサルタント会社のうっかりお姉さんのせいでなかなか自宅にネットが繋がりません。気長に待ちます。メールをくださっている方、本当にありがとうございます。お返事どうかもうしばらく待ってやってくださいね。

さて、即席書いて出し短連編を三つほどアップしましたが、このくらいの短さだったらいくらでも書けちゃうもんねと思った矢先にネタ不足。
「真実〜」が更新できるようになるまで短編はちょこちょこ書いていきたいなと思っているので、もし人物やシチュエーション等で「こんなの読みたいわ」というリクエストがあれば、メールや掲示板で気軽に声掛けてやってくださいね〜。ぜひ参考にさせていただきます。

2006年08月25日(金)



 残暑見舞い短編 3

「泣くなミッチー」


「私、森野のこと好きみたいなんだけど」
一世一代の告白ってわけじゃないけれど、心臓が目の前のエビマヨの皿に飛び出しそうなくらいバクバクしてるわけで。
森野は驚いたように何度か瞬きした後、「え? あ、そうなんだ」と言って、ちょうど割り箸でつまんでいたダシ巻き卵を口の中へと放り込んだ。どうやら私の告白は、居酒屋のダシ巻き卵より魅力がないらしい。
「ちょっと、本気なんだけど」
少し口調を強めた。今日のために先週末には美容室に行った、新しい口紅も買ったし無駄毛だってちゃんと剃ってきたんだからもっと真剣に聞きなさいよ。もちろん口には出さず、心の中でそう念じる。
森野はマイペースにもぐもぐとダシ巻きを食べ終え、ビールを一口飲んで、煙草を口に咥え、火を点けて一服してから、「本気なの?」と小首を傾げた。
この男、いつか絶対必殺ラリアートでKOさせてやると心に誓った。
「森野、彼女いないって言ってたよね」私が言うと、森野は短い髪をがりがりと掻いて、「うーん、まあね、彼女はいないけどさぁ」と妙にうさんくさい返事をする。こういうときの男は、彼女はいないけどエッチする女友達はいるとか、彼女はいないけどお前に興味はないとか、彼女はいないけど好きな人はいるとか、そういう意味合いが含まれているものだ。
やっぱりね。
分かっちゃいたのよ。
最初からダメもとだったから、そんなに立ち直れないほどひどく落ち込んだりはしないけどさ。やっぱりショックはショック。
決定的な言葉が森野の口から出てきそうで、私は思わず目をそらした。水滴に濡れた割箸袋がふにゃふにゃになっていて、まるで私の心のようだと思った。

森野は会社の同期で、同じ部署に配属された。
最初はどこか取っ付き難い印象で、どちらかといえば苦手なタイプだったけれど、実際話してみれば気さくないい奴だった。あまり男とか女とか意識せず、仕事の話も恋愛の話も、愚痴ものろけも下ネタも、何だって気軽に話すことができた。私は大学時代から付き合っていた男がいたし、森野は森野で結構いろいろな子とうまいことやっている様子だった。
いい同僚であり、いい友人だったのだ。
私が彼氏と別れたときも、一緒に朝まで飲んで延々と泣き言を聞いてくれたのも森野で、「ミッチーにはもっといい男が現れる。俺が保証する」なんて、失恋した女に言うべき常套句を飽きもせずに何度も繰り返してくれた。
男女の間に友情は存在しないなんていう人間がいたら顔面にかかと落としを喰らわしてやるって思っていたし、その考えが揺らぐことなど絶対にないと思っていた。
しかしその固い意志に反し、生ものである感情はいつからかあらぬ方向へと流れて出していった。きっかけは、一年くらい前からだったと思う。何がとはっきり断言できるようなものはないのだけれど、森野の雰囲気が少しずつ変わってきたのだ。男も二十代半ばを過ぎれば学生のような軽さはなくなるものだし変わって当然なのだが、森野の変化はそれだけではないような気がした。
直感だった。
女ができたのだと思った。今までのような軽い感じではなく、本当に将来を語り合うようなタイプの恋人を森野は見つけたのだと私は勝手に確信した。
だから、事あるごとに森野に探りを入れてみたりもしたのだが、森野は一貫して「彼女はいない」と私にも、周囲にも言う。
もしかしてその相手が公言できない人妻だったりするんじゃないの、なんて冗談めかして訊いてみると、おでこに空手チョップを食らわされた。「ミッチー、お前はドラマの見すぎ」そう言ってげらげら笑う森野から、確かにそんな後ろ暗い雰囲気は微塵も感じられないのだから、私の考えすぎに違いないと思うほかなかった。
特定の彼女はいない。それなのに徐々に変化していく森野。研ぎ澄まされていくようでもあり、やわらかくなっていくようでもあり、男として強くなっていくようであり、逆に脆くなっているようでもあり、それを人間の深みというのであれば、森野は人間として着実に成長していっているのだろう。どこか置いてけぼりを食らったかのような淋しい気持ちになった。それが、森野という男への執着の始まりだったと思う。
気になり始めたら、あとは止まらなかった。
もっと、森野の中身を知りたいと思った。
変化の理由を問い詰めたかった。
まいった、好きになっちゃったと自覚するまでに、時間はあまり掛からなかった。

森野は朝より少し伸びた顎の無精ひげを指で触りながら、「どうしようかなぁ……」と呟いた。一応それなりに悩んでくれているのだろうかと、ちょっとだけぬか喜び。案の定、森野は私を真っ直ぐに見つめると「まあ、ミッチーには白状しとくか」と勝手に何らかの結論を出し、前置きもなく「俺さ、いるんだ。付き合ってるやつ」と言ってのけたのだ。
私は、多分百人いれば百人が見て分かるほどたっぷりがっくり肩を落とした。分かっちゃいたが、想像するのと本人の口から聞かされるのとでは受けるダメージが違うのだ。
私は目の前の梅酒ロックをぐびぐびと呷った。
プハッてまるでどこかのおやじみたいにグラスを空にしたあと、少し可笑しそうな顔で私を眺めていた森野に文句を言ってやった。
「じゃあなんで今まで黙ってたの。私のこと信用してなかったわけ?」
「してるよ、してる。だけど、ちょっと言えない事情っつうか、なんつうか、あったりするんだよ」森野は歯切れ悪く言って、ネクタイを少し緩めた。居酒屋の個室の脇には、背広が丸めて置いてある。これをハンガーに掛けたり、クリーニングに出したりするだろう見知らぬ森野の恋人に私は勝手に嫉妬した。
「事情ねえ。それって訊いてもいいの? あ、お姉さん、梅酒ロックもう一杯お願い」
通りかかった店員にお代わりを頼む。自棄酒、自棄酒。
森野は新しい煙草を咥えてライターの火を吸い点けた。
「彼女って、私の知ってる人?」私が訊くと、森野は小さく肩を竦めた。
「知らない人。っていうか、彼女じゃないんだって」
「なに今更ごまかそうとしてんのよ。彼女いるって言ったのはそっちだよ」
私の言葉に、森野は少しだけうんざりした顔をした。正直、カチンときた。私はがらにもなく緊張して、精一杯の勇気を出して告白をしたのだ。それなのに、こんなふうにのらりくらりとはぐらかされるなんて冗談じゃない。大人げないと分かっていても、自然ときつくなる口調を抑えることができなかった。
「あ、そう、もういいよ。話したくないなら話さなくていい。私の告白を断る言い訳のつもりならそれでもいいし、もうどうだっていい。迷惑かけて悪かったわね。私、帰るわ。じゃ」
脇に置いてあったバッグを手繰り寄せ、私は座敷から立ち上がった。お気に入りのスカートがしわくちゃになっていた。何だか泣きたくなった。いいよ、どうせ家に帰ったらひとり淋しく泣くに決まってるんだからもう少しの辛抱だよって、私は自分に言い聞かせる。
「ちょっと待てって」私が個室を出て行こうとするのを見て、ようやく森野が少し慌てた素振りを見せた。「そうじゃないんだって。聞けよミッチー」
私が振り返ると、森野が立ち上がって私の腕を掴む。大きな手だ。男の手は、いつだって女を引き止める何かを持っている。それが、何だかひどく悔しい。
「言う、言うよ」森野は私の目を真っ直ぐに見つめて言った。「だからさ、彼女がいないって意味、俺が付き合ってるやつは男なんだよ。男」
私は一瞬、日本語が通じないパプアニューギニア人にでもなった気分だった。開いた口がふさがらない状態の私を見て、森野が気まずそうに頭を掻く。「……だから言いたくなかたんだって」
凍りついた脳みそが少しずつ回転し始めるのを待って、私は恐る恐る訊いてみた。
「恋人が、オカマちゃんってこと?」
その問いに、森野ははっきりと首を振る。「違う。正真正銘の男だ。髭もはえるし、脛毛もある。他にもいろいろ普通にある」
私は「……へえ」としか答えられなかった。森野は嘆息し、再び座布団の上にあぐらをかいて座ると、手酌でビールをグラスに注ぎ、ぐびぐびと喉を鳴らして飲んだ。さっきまでの自分の姿をリプレイしているようだった。
私もおずおずと元の席に座る。なぜか正座になった。森野は座高が割増した私を見て、「他に質問は?」と言った。
「ええ……っと、ハイ、先生」
「道橋くん」
「はい、あの、つまりそれは、森野先生はそっち側の方だったということでしょうか」
森野は心底嫌そうな顔をすると、「そっち側もこっち側もあるか」とぶつくさ言った。
「男は啓太が最初で最後だ。それだけは間違いない」
どうやら、お相手は「啓太」という名前らしい。私は自分が森野を好きだったこと、告白したこと、ふられたことをどこかに置き忘れてしまったようで、興味の矛先が完全にずれ始めていた。
「見たい。どんな子?」
「ヤダよ。普通のやつだよ。どこにでもいる普通の男」
「写真ないの? 写メくらい撮ってるでしょ」
「あっても見せんわ」つれない森野。私は失恋した女の武器を使った。
「私、森野にふられたんだよ。ハートはボロボロ。家に帰って泣き咽ぶんだから、その原因になる人の顔くらい見せてくれたっていいじゃない。それでなきゃ全部嘘だって思うし」
「お前、根性悪いな」
「今更」
森野は心底あきれた顔をした。「早く、早く」とせかす私を一度睨み付けると、しぶしぶと言った様子でテーブルに置いてあった携帯電話を手に取った。
彼が見せてくれた写真には、両手でピースサインを作って笑う男の子が映っていた。フラッシュの加減なのかもしれないが色が白く、顔はまあまあ可愛いといった感じで、どちらかといえばおばさんなんかに人気がありそうな好青年タイプだった。
「うーん、ふつう」私が言うと、森野は「だからさっきからそう言ってんだろ」と拗ねた。
「でもその写真だけじゃ本当に付き合ってるのかどうか分からない。一緒に写ってるのはないの?」
「ない」森野は断言した。これは本当のようだ。
「じゃあ、電話して電話。声が聞きたい」
「はあ? お前、いい加減にしろよ」森野は怒った。怒ったけれど、どこか抜けたような雰囲気がある。多分、気が抜けているのだろう。私にバラしちゃったから。恋愛相手が同性だった場合、それを公言することがどれだけ難しくて大変なことなのかくらい能天気な私にだってある程度想像はつく。それを白状してしまった森野はだから、パンパンに張り詰めていたはずの気力がしぼんでしまったのだろう。そうだ、そういうことにしておこう。
「ここまで白状したんだからもういいじゃないの。楽になりなさい森野」
「お前は刑事か」
「兄ちゃん、カツ丼食うかい?」
くだらねぇと言って、森野が苦笑する。私も笑った。それから森野は仕方ねえなぁと呟いて、自分のケータイを私の方へと滑らせた。
「『白石啓太』」
「シライシ、ケイタ」私は鸚鵡返しにその名前を発音しながら、森野のケータイメモリを弄り、言われた名前を見つけ出す。
「本当にかけていいの?」
「勝手にしろ。寝てるかもしんないけど」
「私が電話したら浮気してるって思われない?」
「思うかもな」
投げ遣りな態度で森野が言う。そっちがそんな態度なら、こっちだって開き直ってやる。私は通話ボタンを押し、ケータイを耳に押し当てた。ピアスがカチンと小さな音を立てる。繰り返されたコールは五回目を待たずに途切れた。
「――もしもし」
出た。私は「おお」と心の中で小さく慄いた。低くもなく高くもないその声は続けて、私の目の前で不機嫌そうに煙草を咥える男の名前を呼んだ。
「周ちゃん、なに? 今どこにいんの?」
森野周一、だから周ちゃん。顔に似合わず可愛い呼び方をされているらしい。森野の冷たい視線を掻い潜り、私は勇気を出して口を開いた。
「もしもし、白石啓太さんですか? 私、道橋京子って言います」
「へ……?」電話の向こうで白石啓太が驚いているのが分かった。構わず私は続けた。「今、森野から携帯電話を借りて電話してます。実は今日、私、彼に告白したんです。付き合って欲しいって。そしたらダメだって言われました。付き合ってる人がいるから無理だって。おまけに相手は男の人だって聞いてびっくりしました。もしかして私の告白を断るための口実なんじゃないかって疑って、あきらめるにせよそれがちゃんと本当だってことを証明してもらわなくちゃ話にならんわと思って、こうして電話させてもらっています」
一度そこで区切ると、白石啓太が「あ、あの」と割り込んだ。「周ちゃ……じゃなくて、周一は、そこにいるんですか?」
「うん。私の目の前で超ふてくされた顔して煙草吸ってます。で、一応聞かせてもらえますか? 森野と付き合ってるっていうのは本当ですか?」
私はいたいけな青年につめよる意地悪ババアかと自分にむなしいツッコミを入れてみたが、ここまできたら後には引けない。写メに写っていた白石啓太の顔を思い浮かべながら返事を待つ。
「おい、もういいだろ」そう言ったのは森野。私は口パクでダメと言う。
それが聞こえたのかどうか、しばらく沈黙を続けていた白石啓太が「道橋さん」と私の名前を呼んだ。
「道橋さん、ごめんなさい。周一は僕のです。彼に変わってもらえますか?」
なんだこの殺し文句は。
私は一瞬気が遠くなりそうになった。気を失う前に携帯電話を持ち主に投げ渡すと、森野は器用にキャッチし、そのままケータイへと齧り付く。仕方ないだろとか、悪かったとか、ごめんとか、すぐ帰るとか、怒るなよとか、ハイハイ勝手にすればいいんじゃないのと濡れ布巾を放り投げたくなるような会話を交わした森野は、五分ほどしてようやく電話を切ると「――これで啓太と別れたらお前のせいだからな」とうんざりした顔で言う。
「啓太君、なんだって?」
「一生帰ってくるなって」
「大変。おかんむりだ」
「誰のせいだよ、誰の」ぶつぶつ言いながら森野はビールのグラスを持ち上げる。私は腕を伸ばし、彼の手からそれを奪い取った。
「大切なハニーに捨てられないように早く帰った方がいいんじゃないの?」
私がニヤニヤすると、森野は頬杖をつき、心底不服そうな顔をする。
「お前さ、俺に失恋したんだろ。だったらもう少し悲しそうな顔しろよな。そうすりゃ一晩くらい慰めてやるのに」
その言葉に一瞬ぐらっときた。だが踏ん張った。私はそれほど節操のない女じゃない。
「君が白石啓太に捨てられたら、考えてやってもいいけどね」
森野は不満そうに右眉を持ち上げた。別れねぇよと、その表情が物語っていた。思う。すごく思う。森野は白石啓太のことがたまらなく好きなんだろうなと。どちらかといえば入社当時、女から女へ浮き草のようにふわふわ漂っていた森野が、いつの間にかきちんと腰を据え、男として、いや人間として徐々に深みを増していったのには、きっとこの白石啓太という恋人の存在が大きく影響していたに違いない。完敗だ。仕方ない。ここはひとつ潔く白旗を揚げようじゃないか。
「幸せにしてやんなよ」私が言うと、森野は「うるせえよバカ」と照れくさそうに言った。
ごちそうさま。
なんだかお腹もいっぱいだし、胸もいっぱいだ。それに、失恋した相手の幸せをちゃんと願えているなんて、自分がなんだかとても誇らしかった。
私だって森野に負けないくらい、女として、人として、まだまだ成長していくんだから。
 
森野が少し困ったような顔をして、ポケットからハンカチを取り出すと、それを私へと投げつけて言った。

「泣くなよ、ミッチー」


<了>

2006年08月24日(木)



 若キャプテン

さて、今夜はリバプールのCL予備戦2ndレグです。これに勝たなければチャンピオンズリーグ本戦には進めないという大事な大事な一戦です。
えーっと、どなたかこの写真を焼きまわしてシャビのロッカーにこっそり入れてやってくれませんかね。
間違いなく(人知れず)ハッスルするに決まってるんだから。

2006年08月22日(火)
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