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■ 10月頭にようやくネットが繋がるよ短編 8
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ぼくの家の隣に、詩人が引っ越してきた。 彼はいつもぼさぼさの髪をしているのだけれど、襟の高いブラウスの上に真紅のコートを羽織り、足許は脛まである黒いブーツを履いていた。石畳の上を歩くたびに、そのブーツの踵がカツンカツンと高い音を立てる。 彼が靴音高らかに出掛けるのは、決まって夜。コートの両ポケットに原稿用紙を詰め込んで、街灯の明かりを目指す羽虫のように、決まって酒場のドアを叩く。 なぜそんなことを子供のぼくが知っているのかといえば、パパがお酒を買って来いとぼくにお使いを頼むからだ。だから、その詩人がバーの片隅でワインボトルを抱えるようにして飲んでいる姿を何度も目にしている。 一度だけ、挨拶したことがある。 「はじめまして、あなたの隣に住んでる者です」 詩人は訝しげに眉根を寄せ、それからぼくにこんなことを言った。 「生きるな。生きている人間などいない。すべては生かされている。君も、私もね」 ぼくには彼の言うことの意味がさっぱり理解できなかったが、それが詩というもなのだろうと思った。彼の身体からは強い酒の匂いと、インク独特のツンとした匂いがした。ぼくが今までに出会った大人とは違う。なぜかそんな気がした。
その日ぼくは、庭にあるうさぎ小屋にもぐりこみ、アリエルと一緒に金網の小さなダイヤモンドの隙間から見えるたくさんの星を眺めていた。アリエルはぼくの大切な親友で、うさぎなのに産まれたときから耳が聞こえなかった。パパは殺してしまえと言ったけれど、仲間の輪から離れ小屋の隅でうずくまっているアリエルを、ぼくは見殺しにすることなどできなかった。餌代を稼ぐことを条件に、パパはアリエルを側に置くことを許してくれた。週三回の靴磨きくらい、親友のためなら少しも苦ではない。 アリエルの隣で片目をつむりシリウスまでの距離を計っていると、隣の家の扉がバタンと勢いよく開いた。詩人のお出ましだ。いつものようにボサボサの髪、襟の高いブラウス、真紅のコート、編上げの黒いブーツ、ポッケには原稿用紙と詩人の言葉が詰まり、ツンと高く聳える鼻先が彼のプライドの高さを物語っている。 いつもならば、彼が高らかに鳴らす踵の音が遠ざかっていくのを黙って見送るだけなのだけれど、今夜に限って妙にその背中を追いたい気分にかられた。なぜだろう。 アリエルがぼくのお腹の上で鼻先をクフクフと動かした。「挨拶してきなよ。今日は月も綺麗だろう?」友人はそう言っていた。ぼくは頷き、アリエルの言葉に従ってうさぎ小屋を出ると、闇に紛れていく詩人のあとを追った。 「こんばんは」 追いついたところで、後ろから声を掛けた。詩人は驚いた顔をして振り返り、ぼくの顔を見下ろすと「おお、少年じゃないか」と大げさに両手を広げて言った。「どうしたんだい、こんな夜中に」 まさかそんな常識的な言葉を掛けられると思っていなかったぼくは焦り、用意していた返事をすべて地面にばら撒いてしまった。 無言のぼくをどう勘違いしたのか、詩人はにこにこと微笑んだ。 「夜の子供は夜を切り取って余った黒い紙切れから作られるものだから、愚かな私は決して拒むことはできない。さあ、一緒に散歩でもしようじゃないか」 詩人の詩人らしき言葉に、ようやくぼくは我に返った。 「今夜もお酒を飲むんでしょう」 「いいや、やめておこう。ワインは太陽の嫉妬の涙でできた飲み物だから、今夜のように美しい月が出ている晩に飲むにはあまりに切な過ぎる」 詩人はぼくの肩に腕を回し、誘うように歩き始める。 彼の身体から、今日はインクの匂いだけがする。きっと青いインクだと、ぼくは思った。 詩人は、ぼくにたくさんの言葉を話して聞かせた。分かるものもあれば、ちんぷんかんぷんなものもあった。それでも、彼の言葉を聞いているだけで、ぼくは少しだけ大人になったような気分になった。 「トンビは自分がトンビだということを知らない。ロバだって、タヌキだって、それこそアフリカゾウだって、彼らは自分がそういう存在であることを知らないんだ。彼らの瞳に写る世界はとてもシンプルで完璧なのだ。そして崇高なのだよ少年。私達人間は、言葉を覚えてしまった。言葉は世界を壊していく。私が、君が、発音するその「e」が、世界を漆黒の煙幕で覆っていくわけだ。さあ、声を出してごらん。大地を、空を、海をも破壊する言葉だ」 ぼくが「e」と発音すると、詩人はコートの上から自らの心臓をかき抱いた。 「私は願っているのだ。一刻も早く、この世界が壊れゆくことを。トンビがトンビだと己を自覚してしまう前に、なにもかもが無くなってしまえばいいと願っている。人間が生みだす「e」が、いつかこの命をも奪い去るだろう」 言葉を否定する詩人の言葉を、ぼくはただ静かに聞いた。 人は彼を、「狂った詩人」だと言って指をさす。狂っているのが彼なのか、それとも彼以外の人達なのか、ぼくには分からない。 いつの間にか、詩人が歩みを止めていた。ぼくも続いて足を止める。 「少年」詩人の呼びかけに、ぼくは「はい」と答える。 「君の父親もいつか、自らの言葉で滅んでいくだろう。恐れてはいけない、傷ついてはいけない。彼が放つ言葉が、暴力が、どれほど君の心を、肉体を切り刻もうと、君は自らを自らの力で守っていかなければならない。いつかこの世界が崩壊を迎えるその瞬間まで、君は己が何者であるかを、決して知ってはならないのだ」 力説する詩人を見上げ、ぼくは強く首を振った。 「あなたは勘違いしているね。ぼくはパパを愛しているし、パパもぼくを愛してる。傷つけられたことなど一度もないよ」 詩人は何も言わず微笑を浮かべると、軽く腰を屈め、ぼくの額に口唇を押し当てた。 「さあ、君はそろそろ帰る時間だ。大切な君の友達が首を長くして待っている」 「ええ」 ぼくは頷きながら、彼が触れた額の熱さに戸惑っていた。 「少年」もう一度、詩人がぼくを呼んだ。「君の名を教えてくれないか」 ぼくは自分の名前を告げた。 「いい名だ」と詩人は言い、「e」がないからなと愉快そうに笑った。
<了>
2006年09月14日(木)
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