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■ 残暑見舞い短編 2
「彼と彼の夏の側」
ガキの頃から夏が大嫌いだった。 理由? 理由は何だったろう。小学生にあがった途端、無理やり通わされた学習塾の夏期講習、クーラーで冷え切った部屋の中でほとんど一日中机にしがみ付いていた時間、シャーペンが紙と机を引っかく音と、講師のやたらノリのいい喋り方や叱咤や誉め言葉、こめかみが痛くなるそんな感覚。それが――何年経っても消えない不快感として夏という季節にこびりついているのだろう。 勉強が嫌いだったわけではない。教育熱心な母親がうざかったわけでもない。少なくともそのおかげで名の通った大学にも進学できたし、希望していた企業にも就職することができた。同僚はいい奴ばかりだし、仕事も面白い。残業続きで肉体的にも精神的にもへとへとになるときもあるが、それに見合った給料も支払われる。文句はない。 隣で眠る恋人を起こさないように狭いベッドを抜け出し、俺は煙草を持って裸足のままバルコニーに出た。時刻は午前四時、まだ夜の帳は上がっていない。しかしこのガラクタのような街が溜め込んだ熱気はこんな時間でも膨張を続け、頬に当たる風はねっとりと湿気ていた。 煙草を咥え、火を点ける。吸い込んだ紫煙は、外気と同じくらい生ぬるかった。 夜気に背中を預けて部屋の中に目を向けると、暑さのせいか、寝苦しそうに寝返りをうつ啓太の姿が見えた。パンツ一枚、それさえも辛うじて腰に引っ掛かっている程度。恋人のその間抜けた格好に思わず口許が緩む。 付き合い始めて三年が経つ。よくもまあそんなに長続きしたものだと、我ながら感心することがある。それは俺の努力ではなく、間違いなく啓太の辛抱と我慢の結果であり、愛想をつかされないことが奇跡に近いのだと充分に自覚している。 「掴み所がない」「裏表がありそう」「怖い。冷たそう」他人から見た俺の第一印象は、だいたいがそんな感じだ。細くてきつい目つきのせいもあるが、それ以上に乏しい表情がそういったイメージを周囲に植え付けているのだと思う。 中学、高校と一流大学に入ることだけを目標に、今思えばバカじゃないかと思うほどに勉強した俺が初めて恋愛らしい恋愛をしたのは、無事希望した大学に入って受験地獄から脱出した後だった。相手はサークルのコンパで知り合った子で、一年間付き合った。キスからセックスまで一通りして、女の子という存在の中身を知って、肌に触れる心地よさや一緒にいる安心感も覚え、それなりに充実した時間を過ごしたと思う。 別れた原因は、今でもよく解らない。彼女が俺という男に飽きたのかもしれないし、俺が彼女との関係に怠惰を覚えたのかもしれない。気が付けば一週間会わないことが普通になり、二週間電話しないことが普通になり、やがて一ヶ月音沙汰がなくなり、別れたのだと納得した。淋しいとか、悲しいとか、そういった感情は驚くほどなかった。 それから何人かの子と付き合ったが、せいぜい三ヶ月、持って半年という周期で女の子との関係は大学在学中続いていった。どの子ともそれなりにうまくやれていたが、気が付くと連絡を怠って相手を怒らせ、そして別れるというパターンが多かった。別れる際、やはり未練を残すような相手はいなかった。そんな四年間を過ごし終わり、俺は自分に何かが欠けているんだということに薄々気付くようなった。
短くなった煙草をバルコニーのコンクリートでもみ消し、俺は部屋に戻った。 電気料が掛かるからクーラーは絶対に入れないと意地を張る啓太の額にじっとりと汗が滲んでいるのを見て、俺は停止していた扇風機のタイマーをもう一度セットしなおした。ゆっくりと回転を始めた羽に煽られ、啓太の前髪がふわふわと揺れる。そんな啓太を跨いで、俺はベッドの空いていたスペースに寝転んだ。目の前にある啓太の肩甲骨が、トリケラトプスの骨格を思い出させた。起こさない程度に軽く齧ると、汗の味がした。俺が啓太に出会うまで知らなかった、夏の匂いだった。
社会人になって二年目の頃、大学時代の友人からバーベキューに誘われた。かなりの大人数だと聞いて、たまには仕事のことを忘れ、学生気分に戻って羽目を外すのも悪くないと参加したそこで、俺は初めて啓太と出会った。彼は彼の友人の誘いで半ば強引に連れてこられたらしく、最初はどこか居心地の悪そうな顔をしていた。 しかし、いざバーベキューが始まると、野菜の切り方から肉の焼き方、カレーの作り方や食器の並べ方まで仲間に指示しながら忙しなく動き回り、その都度、周囲のやつらとふざけ合ったり笑い転げたりしながら楽しそうに過ごしているのがひどく印象に残った。 俺から声を掛けたのは、そろそろお開きになるという時間帯だった。 「この後、なんか予定ある?」 まるで女の子をデートに誘うような言い種になり、後々啓太にからかわれたりしたのだが、その時は他にいい文句が見つからなかったのだから仕方ない。 「え、別にないけど……」 啓太は突然初対面の男に声を掛けられ面食らった顔をしていたが、俺の名前を訊いたあと、「周一は家どこ?」と気さくな態度で接してくれた。 結局、その後は二人で居酒屋に寄って朝方近くまで飲んだ。気が合った。久しぶりによく笑った気がした。 「周一は笑うとイメージ違うねぇ」そう言って笑う啓太もすでに出来上がっていて、昼間のバーベキューの日焼けプラス、お酒のせいで頬も耳も首筋も指先までもが真っ赤だった。 「ほら、人はギャップに弱いって言うじゃない。僕が女の子だったら、間違いなくお持ち帰りされちゃうもんね」 「して欲しいのか?」 「してくれんの?」 けらけら笑う啓太を眺めながら、俺は同じ男でも啓太くらい色白なら抱けるかもしれないとぼんやりと思った。それを口にすると、啓太の表情があからさまに強張った。互いの顔を無言で見つめ合った数秒。その瞬間、俺達は何かを得、何かをごまかした。子供でもなく、大人にもなりきっていない俺達には、多分、それだけで充分だったのだ。
「――周ちゃん、暑くて眠れんの?」 いつの間にか目を覚ましていた啓太が肩越しにこっちを振り返っていた。俺は「いや」と言って首を振る。啓太は何か言いたげな表情を浮かべたが、結局無言のまま再び枕の顔を埋めた。すぐに寝息が聞こえ始める。 俺はきっと、言葉が少ないのだと思う。伝えたいことが伝えられないのはまだいい。俺の場合はきっと、伝えなければならないことさえ伝えられていないのだ。 過保護な母親の監視が行き届かない啓太のアパートはひどく居心地がいい。それ以上に、啓太が側にいるということになぜかとても安心する。わざわざ口にすることはないから、啓太はきっとただ部屋でごろごろしている俺に不満が鬱積しているだろうし、呆れてもいるだろう。 あの夏。ただ机に向かって数式を解き続けていた時間に俺が失ってしまったものが何なのか、俺はこの三年間で嫌というほど思い知った。 愛想を尽かされるも時間の問題だ。それも、充分に分かっている。
窓の外を見ると、少しずつ夜空の根元が白んできた。 首を振る扇風機が、街が目覚めるにはまだ早いと小さく口笛を吹く。 俺は夏の匂いがする啓太の隣で、嫌悪を飼いならしながら眠りについた。
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身体を揺さぶられて目を覚ました。 「周ちゃん、もうお昼」不機嫌そうな声が頭上から聞こえる。「せっかくの休みなのにさぁ、半日潰れちゃったじゃん」 俺はあくびをかみ殺しながらベッドから起き上がり、そのまま便所に行き、洗面所で顔を洗い、無精ひげの伸び具合を確認し、部屋へと戻った。盆休みも今日で終わりだ。 「腹減った。何か食うもんある?」 「それしか言うことないわけ」ぶつくさ文句を言いながら、それでも啓太は冷蔵庫を漁り始める。野菜が少ないなぁとか、シーチキンがカピカピしちゃってるとか、チャーハンでいいかなぁとか、寝起きの俺がいつも以上にしゃべらない分、啓太はせっせと冷蔵庫と会話する。 ふと、寝る前に心臓の周囲を駆け巡っていた自己嫌悪が自己主張を始めたため、俺は重い腰を上げ、しゃがみ込んでいた啓太の襟首を掴んで冷蔵庫から引き離した。 「しゃぁない、今日は俺が作ってやる、昼飯」 「どうしたの周ちゃん、暑さで脳みそ溶けた?」 この連休中に何十回と言い合った冗談を口にした啓太は、それでもちょっと嬉しそうに頬を持ち上げる。俺は腰を折り、笑みの形で止まっていた啓太の唇に軽く口付けた。 「ヒゲ、剃んなよ」啓太が笑う。もし今、啓太に別れ話を持ち出されたら俺は、またあの頃の俺に戻ってしまうだろうと思う。夏が嫌いでどうしようもなかったあの頃に。 もう一度、今度は時間をかけてキスをした。 啓太の額に、汗が滲んでいた。 舐めると、夏の味がした。 彼が側にいる夏だけは、俺にとって失ったものを取り戻せる時間になる。
「――セックスしてからにしよっか、昼飯」啓太が言う。 俺が笑うと、啓太も少し照れくさそうに笑った。 もう少しだけと、俺は思う。 もう少しだけ、彼と夏の側にいさせて欲しいと。 秋までには、どうしようもなく好きだと伝えられるように努力して変わるから。 きっと――きっと、多分。
<了>
2006年08月21日(月)
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