オペラの森「タンホイザー」 - 2007年04月12日(木) 最近は更新がすっかり「たまに」って感じになってしまって イカンイカンと思うのだが、 気分的にも時間的にもなかなか難しくなってしまって 如何ともし難い。(←シャレではない) 今日、あるサイトを見ていて、 先日行った「東京オペラの森」のワーグナー「タンホイザー」(小澤征爾さんの指揮)のことを書くのをすっかり忘れていたことに気づいた。 (忘れていたから、書かなかったから何だ?と言われそうですが) 新聞批評も出たし、たくさんのブログでも紹介されているから、 好きな人、興味ある人には「いまさら・・・」と言われそうだが、 演出(ロバート・カーセン)が例によって、今はこういうものでないといけないんだ、 と言わんばかりの、物語の設定を無理やり変えてしまう思い切った斬新な舞台だ。 一歩まちがえれば、斬新どころか陳腐になりそうな上演だったことを日記として残しておきたかったのだ。 今回は、中世ドイツの詩人であるタンホイザーたちが画家という設定に変えられ、 「肉欲と精神的なものの相克」「女性による救済」という物語が 卑猥?ポルノ?女性の裸を描く画家がついには芸術家として認められる、 といった、とってもわかりやすい絵解き話に置き換えられていた。 (↑私はものすごく簡略に書いていますので、詳しくはこれから出る音楽雑誌などで読んで下さい) こういう、よく最近では「読み替え」と言われる、 作品の中に流れる、潜むテーマを思い切って設定を変えたりすることで視覚的に示していく、 という演出は、やりすぎて、時としてわざとらしくてうざったく、閉口することがあったり、 時としてすごく新鮮でハッとさせられることがあったり、 結局はその演出家の才能や力量で結果が大きく違うものなのだけど、 今回のカーセンの舞台は・・・まあよく出来ていた部類でしょうね。 これだけ設定を変えているのに、首尾一貫して世界を新たに成り立たせてしまうのは、やっぱり感心しないではいられない。 上手い「例え話」にしちゃったもんだな、と思う。 正直始まった時は「またこんなのか。」と思ったけど 彼の構想を理解するとっかかりを見出せば、 あとは結構自然について行けて、終ってみれば面白かった!見事につじつまがあって解決した!めでたし! という具合だった。 (ごめんなさい。見てない方にはわかんないですよね。) 「新・タンホイザー」という別の作品を観たとでもいえばいいのかな、この感覚。 でも、このオペラ、こんなに単純明快にわかったようなつもりになっていいのか? ということと、 例えば「巡礼の合唱」のメロディーなんかが序曲をはじめ、随所で流れる中、 やっぱりこの中世風・教会風の旋法にこの現代的な舞台・衣装は合わないだろ、無理があるだろ、 と抵抗があったりもして、結構複雑な思いだった。 それと全体の構想が思い切ってる割には、各キャラクターの造型は意外にありふれいていて、新味に乏しいのでは・・・。 面白かった、といえば小澤さんの指揮するオーケストラ。 小澤さんを聴くのは、まさしく前回の「オペラの森」での「エレクトラ」だったから 丸2年ぶりだ。 元気になって良かった(^^) 病気をしてそうしようと思ったのか、 ウィーンのオペラで何かをつかんだのか、定かでないけど 「あれっ?」と思うくらい随分動かない指揮ぶりになっていた。 そして彼の指揮で引き出される音が以前にも増してしなやかで、 ふくらみのある、ふくよかに歌うものになっていたのが嬉しかった。 オペラによりふさわしいものになったというか。 「面白かった」というのは、そういうふくらみのある響きを出しているにもかかわらず、 小澤さんが指揮すると、普段聴かれるワーグナーとは「異質」といってもいいくらい 透明で近代的な音がするということ。 この透明さは前回のR.シュトラウス「エレクトラ」を瞬時に思い起こさせ、 人によっては「こんなのはワーグナーじゃない」と言われそうだけど ここまで見事に小澤色(私はこれこそが日本独自のオーケストラ・サウンドと呼びたい) で成り立っているオケの音を聴いて感嘆しきり。 素晴らしく厚みがあるし、ワーグナーの音楽特有の腹の底から響き渡る重低音から、妖しくキラキラと輝く高音まで、これは超一級の指揮者と超一級のオーケストラじゃないと出せない立体的な見事な音にはマチガイないのだが、 普段聴くワーグナーとは全く「色」が違う。 透明無色なワーグナー。 私には大いに新鮮な魅力があったけど。 そして興味深く思った。 よく小澤さんが言う「ボクは実験をしてるんですよ」という答えのひとつが これなんじゃないか、と思ったりもする。 ところで歌手はいいのと悪いのと色々。 タンホイザーのステファン・グールド(私はカナダ人なのだからスティーヴンと読むんじゃないかと思うが)はヘルデン・テノールらしい素晴らしい声。 ここ数年、かつてルネ・コロ以外まったくワーグナーを歌うテノールがいなくなってしまった頃を考えると、クリスティアン・フランツだとかロバート・ギャンビル、ロバート・ディーン・スミスとか、安心して聴けるヘルデン・テナーが何人も出てきた最近は嬉しい限り。 エリーザベトのムラータ・フドレイも、かつてのシェリル・ステューダーを思わせる強く透明でよくのびる声。役にふさわしい凛とした清純さ。 ヴェーヌスのミシェル・デ・ヤングは知名度の割には「こんなもんかな」という感じ。 これだけ名のある歌手が冒頭からいきなり裸で出てきたのには驚いたし、その体に似合った妖艶な声だな、とは思ったけど。 あとはまあまあ。 もっともヘルマンを歌ったバスの地声のようなノド声のような響きがイヤだった。 全く感心できず、残念だったのは合唱。 この人たちにはハーモニーを作ろうという意識がないのか。 各人がなりたてるだけで、ハーモニーからおのずと生まれる音楽のふくらみがまったくなくて、やかましくザラザラ耳障りだけだった。 ... 祝!A.シフ、久々の来日 - 2007年04月05日(木) 先日、●●音楽事務所から(←別に隠すことないんだけど) 家に送ってきたDMに嬉しいニュースが。 2008年3月、ピアニストのアンドラーシュ・シフ来日。 いや、メチャクチャ嬉しい。 大ピアニスト、9年ぶりの来日である。 時々日記に書いているように、 私が現存のピアニスト中、最も好きで尊敬しているのが ポリーニとシフ。 ポリーニは2年に1度くらいの間隔で来日しているが、 シフは9年ぶりだ。 なんといっても1997年、東京オペラシティのオープニング・シリーズで 彼がやったシューベルトのピアノ・ソナタ全曲演奏会+ペーター・シュライヤーとの3大歌曲集での体験が忘れられない。 (私は計9回のうち、4回行った。) 「シューベルトはどんな音楽を書いた男だったか」 ということを絶対的な世界をもって私に教えてくれたシリーズだった。 そこにあたかも演奏家が介在しないような、 シューベルトの音楽そのものだけがホールに存在し、 それが私たちに向かって語りかけてくる、といった体験だった。 (この言い方は海外でもシフの論評によく出てくる) モーツァルトとはまた違ったかたちで、 喜びも楽しいことも、すべてはかなく哀しみの色を帯びてしまう、 まさにシューベルト自身が言った 「僕は楽しい音楽など一度も聴いたことがない」 という言葉がそのままあてはまるような音楽。 彼の好きなベーゼンドルファー・ピアノの甘く歌うようなトーンが シフの演奏をますますそうしたものにしていた。 その2年後にやはり東京オペラシティで聴いた、 前半スカルラッティのソナタを13曲、 後半ハイドンとシューマンのソナタというリサイタルも忘れられない。 まるで宝石箱から様々な色や形をした光り輝くダイヤやらルビーやらサファイアを取り出して見せてくれるようなスカルラッティと、 いつもの機知に、より率直さが勝ったハイドン、 激烈だけど響きの均衡を決して失わない、情念が怪しく底光るような瞬間が明滅するシューマン。 全く違った3者の対比と、一貫した流れの両立。 シフの類稀な変幻自在なタッチが、そういう演奏を可能にする。 鍵盤芸術の粋をここに見た気がする。 そしてシフを他のピアニストと区別する「静けさ」のオーラ。 鳴っている音よりも、あたりに漂う静けさの方が雄弁に語る音楽。 何で9年も来なかったんだろう? もっとも毎年リリースされるCDでは、ベートーヴェンのソナタの目の覚めるような素晴らしい演奏を堪能していたけど。 でもやっぱり実演に接したかったから ともあれ、めでたい。 ...
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