続・コンセルトヘボウ - 2006年12月15日(金) 先日(だいぶ前になってしまいますケド)、 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の音の素晴らしさについて感激したことを書きましたが、 その演奏会の批評だとか、ファン・ブログなどを見ると、 「コンセルトヘボウ管弦楽団の音は変わってしまった。もうあの類稀な音は世界から消えつつあるのだ。」 といった意見が多くてビックリしています。 いや、ビックリしているというのは半分嘘で、 私も「変わってきたなあ」とは思っていました。迎合しているワケじゃなくて。 でも「変わってきた」のは2年前にヤンソンスが首席指揮者に就任して、その直後の来日公演で既に感じられたことで、それは多くの人がそう思っていたのでは? コンセルトヘボウ管弦楽団の音が「変わった」のは、実はかなりさかのぼること1990年くらい?、前首席指揮者のリッカルド・シャイーとのコンビで初めて来日した時にも、 というかその時の方がむしろ強く感じましたね。 と言いつつ、この時私は初めてコンセルトヘボウ管弦楽団を実演で聴いたのだけど。 CDで慣れ親しんでいた、ベルナルト・ハイティンクが指揮したこのオーケストラの何ともまろやかな音が随分威勢のいい、ちょっと荒っぽいくらいの音になってしまっているように感じ、「なんだ。コンセルトヘボウ管弦楽団なんてこんなモンなのか。」 と思ったのを覚えています。 でもその後シャイーと何回か来日公演があり(毎回聴いたワケじゃないけど)、 CDなんかも継続的に聴くにつけ、随分元の音に戻ってきてるなぁ、などと感心していた後、2002年彼らのコンビで最後の来日公演を聴きました。 曲はマーラー「交響曲第3番」。 あれは本当に感動的でした。今でも耳の中に響きが残っています。 あの時に「これがコンセルトヘボウ管弦楽団の本来の音なんだ。」と 変な言い方ですが、すべてが解決したような気がしました。 しかし大体、「本来の音」なんて私が知っているわけがありません。 「本来の音」?それはどれ? じゃ、なぜそう感じたのか? なぜかはよくわからないし、説明もできないけど あの時ホールを満たした音には、 CDで昔のコンセルトヘボウ管弦楽団の演奏を聴く時どんな指揮者が指揮しても(アーノンクールでもクライバーでも)、絶対に存在している音の手ごたえと、 シャイーとともに20年近く作り上げてきたであろう、その時しか聴けない音とが 両方とも同居していました。これは確信をもってそう思います。 言ってみれば、これが「伝統と革新」というものだと思うのです。 私は先日ヤンソンスの指揮で聴いたコンサート、 確かにシャイーの時に比べてもまた違った方向、 響きがクリアで明快で前にせり出してくるような感じが一段と強くなったな、 とは思いましたが、 彼らの持っている音の柔らかさ、奥行き、あと「品格」ですね、 これがなくなったとは感じませんが。 「変わってきた」けど変わっていない手応え。 もちろん、昔の音に愛着を持ち、感傷的になる気持ちはわからないではないけど。 きっとシャイーの時と同じく、時がたつともっと音が落ち着いてくると思うな。 あ、でもひとつ思い出したのは、 ヤンソンス、オーケストラとの関係がいいのが余程嬉しいのか、 「彼らとはこんな音も出せる。あんな表現もできる。」 って随分無邪気な指揮をしてるな、ってとこが時折ありました。 これがマゼールだったらさぞかし嫌味な演奏になるだろうな、と思いつつ (マゼールさんゴメンなさい) やっぱりヤンソンスだと「見得をきる」ように音楽を後ろから駆り立てても、マゼールのようにはならず、 あくまで誠実な音楽になるのだな、と感心していました。 ... コンセルトヘボウ管弦楽団の音を「世界遺産」に - 2006年12月04日(月) どっかのパクリのようなタイトルですけど、 ナマで聴いた人はみんなそう思ってくれるんじゃないかなあ。 マリス・ヤンソンス指揮のロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団。 11月30日、サントリーホールの公演を聴いてきました。 (アップ遅っ。曲はドヴォルザーク「交響曲第9番・新世界から」とストラヴィンスキー「春の祭典」) どうしてこういう柔らかくて奥行きのある、マイルドな、深くて品格のある音が出るのか? オーケストラの伝統の業に感動し、ひたすら陶酔した夜でした。 ...
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