ある音楽馬鹿の徒然カキコ♪...みゅう太

 

 

恐るべき境地 - 2006年06月02日(金)



アルバン・ベルク四重奏団のコンサートに行きました。


感動。。。


恐るべき境地にありますね、彼ら。
聴いていて空恐ろしいほどでした。

ピアノでいえばポリーニとか、そういうほんのひとつまみの
「選ばれし者」たち。


もちろんこのカルテットはもう随分前、
それこそ1980年代からカルテットNo.1の名を欲しいままにしてきた王者だったし、
私もその間何回か聴いて、その度に「すごいな。。。」と感心してたけど
今回ほど感銘を受けたことはない。


モーツァルトの弦楽四重奏曲2曲と
バルトークの弦楽四重奏曲1曲という組み合わせ。
モーツァルトは、いわゆるハイドン・セットと呼ばれる
ハイドンに捧げた、モーツァルトが珍しく「苦労した。試行錯誤の連続」と告白している、複雑に書かれた野心作の中のニ短調(K.421)の曲と、
そういう時期を経てから、再び簡潔明朗に書かれた練達のニ長調(K.499)の曲。

バルトークが最晩年、ナチズムを避けてヨーロッパから去ろうとしていた時期の、
全編、暗い悲しみと慟哭に満ちた(全楽章にメスト−“悲しみ”という表記があります)曲です。


後半のバルトークも、私は身を切られるような思いで、重い静けさを受け取りながら聴いていましたが、
(私は、彼らが80年代中頃に録音したバルトークのCDを、学生時代、あれはなんだったか?FMで早朝に流していて、それを全部録音して聴いていました。その時に「いつか彼らの演奏するバルトークをナマで聴きたい。」と夢見ていて、それを今の今まですっかり忘れていた。彼らが演奏しだしたと同時にそれを思い出しました。)
すごかったのはモーツァルト。


モーツァルトを聴いて、「すごかった」って感想を書くくらい、
ふさわしくない、野暮だ、
ってことはない気がしますが、ほかに何と言えばいいのか、ちょっとわからない。


ニ短調…って調性は、モーツァルトの中でも「これは」ってものが多く、
たとえば超有名な「ピアノ協奏曲第20番K.466」がそうだし、
オペラ「ドン・ジョヴァンニ」がそう。

モーツァルトが「短調」で書く曲はひたすら暗く、ドス黒い。
誰もよせつけない独特の「パトス」… ベートーヴェンや、その後のロマン的な音楽とは全く質の違う、「情念」とはまたちがうもの… そんな暗い暗い出口の見えない暗さ。

誰がやったって、モーツァルトのこのニ短調の弦楽四重奏曲はそういう音楽だけど
アルバン・ベルク四重奏団の演奏は、一体この音楽にどこまで連れて行かれてしまうのだろう、と背筋が寒くなるほど凄味があった。
凄味と言ってしまうとなんだか強引な感じがするけど、そういうよりは
透明で精密な分、いつのまにか静かに吸い寄せられていく、という感じ。


ニ長調の方、といえば、この「ニ長調」という調性もまた、
「フィガロの結婚」だとか、明るいのだけど
先日の日記に書いたように、明るく透明に音楽が羽ばたけば羽ばたくほど
悲しくなってくる曲が多い。
なぜ明るく純粋なものが悲しみにつながってくるのか、
わからない。
でも、その感じを分かってくださる人は多いはず。


アルバン・ベルク四重奏団の「ニ長調」弦楽四重奏曲は、
それをいつもより、もっともっとはっきりと実感させてくれるものでした。




...

滅びと復活 - 2006年05月30日(火)




今日の朝刊で「グリーンランドの氷が溶けている」と記事がでていました。

もちろん今に始まったことではないけれど
地球温暖化がいよいよ目だったものになっていることは誰の目にもあきらか。

朝食を食べながらのナナメ読みだったので、正確ではありませんが
「科学者じゃなくても温暖化のことはわかる。極北の地では住民が生活の中で異変を肌で感じている。」というようなことが書いてありました。

それは極北の地じゃなくても、この国にいたってわかる。

ここ数年の気象の変動…
夏の猛暑、ったって子供の頃はここまで暑くなかった。
豪雨、ったってこんなにすさまじい被害をだすほどじゃなかった。
ここ数日の関東、五月晴れもロクになく、もう梅雨に入ってしまったのかしらん?
ていうのもそういう一環なのか?と疑ってみたりもします。
そういえばこないだの冬は超寒かったし、東北や北陸では記録的豪雪だったわけだけど、それもそうなのか?

キリがない。


生物もそう、こんな花、前から咲いてたかな?ってのも多いし、
夏になって鳴くセミも、確か「シャーシャー」鳴くクマゼミは昔は関西しかいなかったんじゃ?と思うけど、近年は家の周りでも聞けたりする。


「地球シュミレーション」ってやつによれば、あと50年もすれば日本は亜熱帯、
元旦くらいにやっと紅葉がきて、5月には真夏になってそれが10月まで続く、とか言ってたし。


この星が滅んでいく、なんて実感をまさかこんな歳で味わうとは思わなかった。
そんな「宇宙戦艦ヤマト」みたいなこと…。



昨日NHKの「思い出の名演奏」って番組で
(あれは1986年か?87年か?)
ジュゼッペ・シノーポリ指揮フィルハーモニア管弦楽団の来日公演で演奏した
マーラーの「交響曲第2番・復活」をやっていました。


マーラーという人は、若いときから「死」や「滅び」に敏感…というよりとらわれていた人で、そうは名言していないし、表面上はそうは聴こえなくても、いつもそこから逃避するような音楽ばかり書いていることは誰にもよくわかることだと思います。

その逃げ込む場所が「自然」(交響曲第3番)だったり、「天国」(交響曲第4番)だったり。


この「復活」という交響曲も、第1楽章は「葬礼」という曲から発展したものなのですが、
その「葬礼」を書いた後、マーラーはそうした「死」から逃れたくてたまらなかった。

彼は、というか、おおざっぱに言ってベートーヴェン以降の多くの音楽家には
「音楽の中で思考する」
「音による思考の発展が音楽であり、ドラマとなる」
といった考えを持った人が多く、マーラーはその最たる人物でした。

彼は音楽の中で「死」から逃れるためにはどうしたら良いかを模索し、もがいていた。

そこで出会ったのが、当時の大指揮者ハンス・フォン・ビューローの葬式で聞いた
クロプシュトックという人のコラール、「よみがえるだろう」という一節。

「甦る」!
「人は甦るために死ぬのだ」!
それが彼が見出した光明であり、自分の問いに対するひとつの解答。
そしてそれを終楽章のテキストとし、
「交響曲第2番・復活」が作曲されていきました。


しかし、シノーポリもかつてこれに対して言っていましたが、
この言葉にしがみつくマーラー、
なんだか滑稽…とはいわないまでも、
ちょっと目をそむけたくなるような感じがする。

なんだろう?多分、自分の弱い部分やあまり見たくない部分を、この音楽の中に影のように見てしまうから?



随分久しぶりに見て聴いた、シノーポリの指揮するオーケストラからでてくる響きには
(たとえテレビを通じてでも)
「今」の自分の、滅びへの恐れを気づかないわけにはいかない何かがありました。






...




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