太鼓の達人 - 2005年01月25日(火) 今、私たち夫婦のアワ・ブームなのが これ↑。 今ごろかよっ! って感じですが。 2人でかなりはまっています。 近くのショッピングセンターの中にゲームセンターならぬ アミューズメント・スペースができて そこでいつしかハマッてしまったわけです。 毎週末ドンドコドンドコやってます。 今のところ、私の連勝。 当たり前よ、音大出がトーシロに負けてられっかいっ、 てな妙なプライドが私を燃え立たせる。 でも、あれ、結構難しいですね。 指定された叩くところが、なんだか音楽の自然なリズムとあってなかったりする。 無理があったりする。 …あれ?今日はこの話↑を書こうとしてたのではなかった… 実は昨日、「太鼓のスーパー・ウルトラ・超・太鼓の達人」をサントリーホールで聴いたのです。 その名はペーター・ザードロ。 現代最高のパーカッション奏者と言われ、 かつて幻の大巨匠セルジュ・チェリビダッケ指揮のミュンヘン・フィルの黄金時代を支えたティンパニストでもあり、 「怪物」の名をほしいままにした、恐るべき演奏家だ。 私は彼を数年前に、ギドン・クレーメル一座(?)が上演した ピアソラのタンゴ・オペラ「ブエノスアイレスのマリア」で聴いたことがあったし、 アルゲリッチとネルソン・フレイレが共演したバルトークの「2台ピアノと打楽器のためのソナタ」のCDで、知っている人も多いのじゃないだろうか。 実はザードロが来日するなんて全然知らなかったのだが 名古屋フィルが久々に東京公演を、しかも今常任指揮者を務めている沼尻竜典さんが指揮して、R.シュトラウスの「英雄の生涯」をやるというので 楽しみにしていたら、なんと!ソリストがザードロだったのです。 曲は20世紀ドイツの作曲家フンメルのパーカッション協奏曲。 いや〜〜〜〜!!!凄かった。 音の強さ、色合い、リズムの変幻自在なことも去ることながら 叩いている姿が凄かったし、カッコよかった。 堂々たる巨体に黒い半袖の解禁シャツ、金のネックレス。 それに角刈り頭。ほとんど職人さんだ。 それが周囲にあるありとあらゆる打楽器、 マリンバ、シロフォン、シンバル、スネアドラム、ボンゴ、大太鼓、他名前のわかんない小物楽器までをどれもこれも目にも止まらぬ早業で叩きまくる。 ちょっと目をザードロから離して、指揮者やオケに向けていると、 もう次に彼を見たときには違うスティックを持って違う楽器を叩いている。 それに音が多くなってくると、スティックの柄の部分から、自分のヒジまで動員して的確に叩く。 そのリズムに全く狂いはない。 音だって聞こえるか聞こえないかの優しい弱音から ホールの床を揺るがすような大強音までものすごい幅広さだ。 このダイナミックな演奏にひたすら圧倒されました。 いやー、満場の観客が盛り上がったこと盛り上がったこと。 打楽器はおわかりのように、ドレミファなんて音階などないわけだから (マリンバなんかは除いて。) 勝負はリズムや音の質や強弱しかないわけです。 それであれだけ圧倒されるんだからなぁ…・ いやいや恐るべし。 彼が「太鼓の達人」をやったらどんなスコアがでるのだろう? う〜ん、やらせてみたい。 ... 音楽馬鹿への道 その5 - 2005年01月21日(金) また前回からだいぶ時をおいてしまったので 過去文を読み返してみた。 小学校高学年になり演奏委員会でアコーディオンを弾いたり 鼓笛隊で副指揮をやったり 「中途半端な自己顕示欲」というところで終わっているが ハタと気がついた。 私は小学校時代、学芸会(1年おきだったから3度あった)において 実に3度とも主役をやっていたのだ。 2年生の時「鼻の短いゾウ」 4年生の時「こぶとりじいさん」 6年生の時は身体表現みたいな出し物で冬に入る前、コツコツ餌を集めるアリの頭領の役をやった。 おお、自分が役者の養成所に行ってみようなどと思うようになったのは レッキとしたルーツがあったのだ。 全然気づいてなかった。。。 話が少しそれたが 自己顕示欲はあっても中途半端だったためか 人前でピアノを弾くことはしなかった。 ばーちゃんに強制されるピアノが嫌いだったから、というよりも 鮮やかに弾けるワケでもないし、 人前で披露するにはピアノは難しすぎた。 すんごい緊張するし・・・。 ちゃんと弾けなくて「なーんだ」と言われるのが怖かった。 担任の先生は私にさかんに伴奏させようとした。 音楽の時間の歌の伴奏や 学年合唱の行事の折の伴奏。 でも私は弾かなかった。 ガンとキッパリ断るのでもなく 「う〜ん、ちょっとそれは…」みたいな感じで なんとなく返事を先延ばしして、結果いつもやらなかった。 ところでこの頃、両親はというと ばーちゃんが自分たちより子供の教育に口を出すので かなり腹をたててたようだが 「でもまあ、孫可愛さのことだから仕方ないか…」と 私には「いいじゃない、ピアノは面白いよ〜」のような感じなことを言っていた。 でも私は解放されたくて仕方がなかった。 しかしこの時代のばーちゃんは元気だった。 ピアノを教えている生徒も 幼稚園児から主婦まで30人くらいいたのではないかな。 明るくて裏のない、話好き世話好きな九州女性だったから 生徒にはえらく好かれていたな。 ...
|
|