ある音楽馬鹿の徒然カキコ♪...みゅう太

 

 

ハンス・ロット - 2004年11月12日(金)




昨日はコンセルトヘボウ管弦楽団とともに
私がこの秋楽しみにしていた(微妙に…という感じなのだが)
ハンス・ロットという知られざる作曲家の「交響曲第1番」の
日本初演を聴きに行った。


近代・現代の音楽を指揮・初演したら天下一品の
沼尻竜典(ぬまじりりゅうすけ)さん指揮の日本フィルの演奏。
サントリーホールである。


これは面白かった。

つい先日、この日本初演とタイアップ?するように
この曲のCDが発売され
それを2〜3回聴いてから行ったが、
やっぱり実演で聴く、というのははるかに多くのことを体験させてくれる。

沼尻さんと日本フィルの演奏が初演とは思えない水準で
実にわかりやすい、明快であったこともあるのだろうけど。
(「初演だな」と思わせるちょっとしたポカもあったけど。苦笑)


この曲は最近、音楽ファン、というより
マニア?の間でちょっとしたブームをよんでいるようで
音楽雑誌など見ると、あちこちで宣伝している。



このハンス・ロットという人、私はそういう宣伝を見るまで知らなかった…
と思っていたのだが、マーラーの評伝などを読むとよく出てきていた人なので、私が見過ごしていただけだ。

ロットはウィーン生まれ、
若き日のマーラーの、ウィーン音楽院時代の友人で
大変早熟で天才音楽家としての将来を嘱望されていた。
(ブルックナーにとても認められていた。)

しかし音楽院の卒業・作曲コンクールなどでも何の賞もとれなかったり、
全然楽壇から認められなかったりして
ついには発狂し、25歳で死ぬ、という悲劇的な人生を送った。


この交響曲はわずか20歳の時に書いた曲で
彼の生前、一度も演奏されなかったそうだ。



さて、その音楽。
まず誰が聴いても思うだろうことは
ワーグナーやブルックナーにそっくり。

特に第1、2楽章はそうである。
弦楽器の霧のようなトレモロ(ブルックナーの曲はいつもこうした開始の仕方をする。ベートーヴェンの「第9交響曲」の冒頭がそうだ。)で始まり
パイプ・オルガンの如く金管楽器のコラール風のメロディーが鳴り響く。

そして、ナゼかCDではわからず、実演で初めて気づいたのだが
第3楽章スケルツォのテーマがマーラーの第1交響曲のスケルツォのテーマと
ほとんど同じなのである。
しかしこのスケルツォ楽章のスタイルはほとんどブルックナー。
実に面白い。隣に座っていた男性は「ぷぷっ」と笑っていた。
私もその気持ち、わかる。(マニアック?)
その後の展開も、急にウィンナ・ワルツがでてきたり、と
すごいハチャメチャぶり。

第4楽章もマーラーの、そう第2交響曲のフィナーレの最初の部分とか
同じく第8交響曲の第2部前半のように、
静かな中、木管楽器や数少ない楽器たちがモノローグのように
断片的なメロディーを紡いでいく様子だ。



「ブルックナーとマーラーをつなぐ作曲家」
といったようなコピーが宣伝の中で書かれていたが
まさにその通りなのである。


それと聴いていて、このロットの音楽、
とても正直である。
彼がいかに繊細で傷つきやすく、悲愴的な感覚をもちあわせていたかが
まっすぐに、手ごたえあるかたちで伝わってくる。
(特に第2楽章)
若いせいか、またコンクールなどに出して認められたい、という意識のせいかフーガがこつ然と出現したり、冒頭のテーマがかなり綿密に全楽章にはりめぐらされて、最後に大々的にコラールとして再現されたり、

やりたいこと、伝えたいことはすべてつめこみました、という感じだが、
有名な作曲家の若書きの曲(たとえばメンデルスゾーンやブルックナーの第1交響曲とか)
に比べたら、ずっとしっかりした曲になっているのではないか?
と少なくとも私は思った。



ところでマーラーはこのロットの曲の譜面を
その後、音楽院の図書館で何度も借りていたそうである。

それなのに一度もこの曲を指揮していないというのは
(マーラーは当時の大指揮者でもある。今の小澤征爾さんと同じくウィーン国立オペラの総監督をしていた。その時代は黄金時代と言われている)
どういうことだったのだろう?
そしてこれほど似ている部分が多発する、というのは
どういうことなのだろう?

とちょっと我ながら嫌らしいが
邪推してみないではいられない。


それにしても面白い体験だった。


クラシック音楽というのは一種の考古学みたいなところがあって
こういう発見で今まで把握していた音楽史が
急に変わってきてしまう、というのはよくあるんだよな。









...

ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団・来日! - 2004年11月09日(火)




私がこの秋、もっとも楽しみにしていた
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団が来日公演を行った。


今秋の東京、クラシック音楽シーンはタイヘンだ。
サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル、
(あの)ゲルギエフ指揮ウィーン・フィル、
そしてマリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
のいわゆる「世界三大オーケストラ」が三つ巴で東京に集結しているのだ。

(もっとも「世界三大」がこの3つで良いのか?という論議もあるだろうけど。ベルリンとウィーンは誰も異論はないだろうし、コンセルトヘボウをここに入れるのに賛成のファンは反対をかなり上回るだろうと思う。「いや、それはシカゴ交響楽団じゃないか?」とか「ドレスデン・シュターツカペレだろう!」と言う人はいると思うが…)


私ももちろんベルリン・フィルに畏敬の念をもち
ウィーン・フィルにも限りない愛着があるが
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団というオーケストラが特に好きだ。

私が世界で一番好きなオーケストラは2つ。
このコンセルトヘボウ管弦楽団とドレスデン・シュターツカペレなのだ。


上記にあげるオーケストラたちは
技術的にももちろんこの上ないものをもち、
この上なく音楽的(息遣いが限りなく自然、ということ)で、
その上に、ちょっと聴けば、すぐどこのオーケストラだかわかる
他に2つとない独自の音を持っている。
とにかく質が高い。


私は特にコンセルトヘボウのまろやかで深い、
レンブラントの絵に見る光と影、たっぷりとした油絵の、
身近なものでいえばマイルドブレンドのカフェ・オレのような
要するに「ヨーロッパ」を体現しているような
あたたかい品格ある響きが好きなのだ。


今回、マリス・ヤンソンスという名実共に現代最高の指揮者を
首席指揮者に得て奏でたベートーヴェンとブラームス
(それぞれ第2交響曲だった。)は本当に素晴らしかった。


ベートーヴェンの第2交響曲なんて、
もしかすると聞き飽きるくらい聴いているし、
ことに最近のベートーヴェン演奏といえばピリオド(古)楽器による
テンポはこうじゃなきゃいけない、フレージングはこうじゃなきゃいけない、
はたまたベートーヴェンの生前の楽器の弾き方が今のものと違うから
こういう風に弾かなきゃいけないとか、(ヴィブラートをかけるな、とか)
そういう風潮・流行が全盛の中、
(もっとも私はこういう姿勢はしっかり考察した上で、尊重すべきだと思っている)
それを考えることがバカバカしくなるくらい真っ向勝負の演奏で、
確かな、そして今目の前に曲が誕生している瞬間に立ち会っている、
と錯覚するくらい素晴らしく生きたベートーヴェンだった。


剛速球をハートのど真ん中になげられた気分。しびれた…。


弦楽器の深く奥行きある響き、
時にデリケートに、時にホールを圧倒するパワーで。
(しかし決して音は割れない。耳をつんざくようなことはない。いつも均衡がとれていて響きはまろやかだ。)
木管楽器の艶やかな、そして驚くほどの息の長さ深さ。
そう、私は今回特にこの管楽器群の、一人一人のソロが弦楽器群と拮抗できるくらいはっきりとした、
そしてオーボエ、フルート、クラリネット、ファゴットが融けあいながらも
まったく違う特徴ある音色を主張するさまに改めて感銘を受けた。



本当に素晴らしいオーケストラ。
こういう無二の個性、そしてクォリティの限りない高さを
こういう世知辛く、セカセカした時代に保持できる、
大切にできる、ということがなんと羨ましいことか。



翌日のR.シュトラウス「英雄の生涯」もぜひ聴きたかったが
哀しいかな、ここは私の財政不足…。


残念っ!!





...




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