冬の旅 - 2004年06月04日(金) 先週から暑くなったり寒くなったり 嵐になったりとややこしい天気だったが このところは安定している。 少々暑いけれど、湿度は低くてカラッとしているし 気持ちがいい。 仕事は忙しいが、家に帰ればマイハニーが美味しいごはんを作って 待っていてくれる。 え?今のうちだけ? そうかもしれない。(←おい) じゃ、なおのこと今のうち楽しまなきゃな。 ところで話はコロリと変わるが 先日、ナタリー・シュトゥッツマンという コントラルト(アルトより低い声域の歌手)が歌う シューベルトの連作歌曲「冬の旅」を聴きに行った。 「冬の旅」を聴く、という行為は正直かなりの辛さが伴う。 じゃ、なんでそんなの聴くのか? といえば、ただただ素晴らしいから。(←矛盾) これは失恋した若い男の魂の遍歴をたどった24曲の歌だ。 最初は嘆きでしかなかったものが 絶望、それも出口のない深い絶望へと至り、 死や墓場でさえも彼を平安にしてくれない。 救いのない、希望の見えない音楽。 聴いているうちにその深さに自分がどんどんはまっていくのがわかる。 そして見たくない、見てはいけない人間の根源的な「哀しみ」に包まれていく。 人間は所詮、平安を得られない存在なのか? シュトゥッツマンの深々とした柔らかく広がる、 人間くさいぬくもりをもった声が そういう絶望の中にあっても、優しく見守ってくれている何かを感じさせてくれるような、そんな体験をさせてくれた。 素晴らしかった。 けど素晴らしかったという言葉では、あまりにも足りなさ過ぎるのだ。 音楽には時々こういうことがおきる。 バッハの「マタイ受難曲」やマーラーの「第9交響曲」などを聴いたとき。 しかし、それにしても最近来日する名歌手は「冬の旅」ばかり歌う。 良いのか悪いのか。 去年からバリトンのマティアス・ゲルネ、 テノールのペーター・シュライヤー、ソプラノのクリスティーネ・シェーファー、 つい先日もテノールのイアン・ボストリッジがピアノの内田光子さんと。 みんな「冬の旅」。 それらを聴きに行けなかったのは残念だが そんなしょっちゅう辛い思いばかりはしたくない。 ... ピアノのおけいこ - 2004年06月02日(水) マイハニーが「ピアノを習いたい」と言い出し、 先日から私が試行錯誤しつつ、教えている。(たまにだけど) 私は自分自身では未だによく弾くし、 毎年音大時代の仲間と発表会を開くし、 死ぬまで現役でいるつもりなのだが 今まで「教えた」ことはなかった。 でも何年か前から「教える」ことに興味が芽生えてて 定年になったら、近所の子供達でも集めて ピアノでもよし、 歌でもよし、 たまにはみんなでCDを聴いて楽しんだり、 音楽塾…みたいなものをやってみたいな、なんて思っていた。 ホントは今からでもやりたいんだけど 残念ながら時間がなくて今はムリ。 で、マイハニーは いまのところ全然譜面も読めないし 鍵盤のどこが「ド」なのかもわからないし まったくの「白紙」状態。 対する私も教えることには「白紙」状態。 はてさて、と思いつつ まずは鍵盤のどれが「ドレミファソラシ」なのか どんな姿勢で、 腕の力は抜きつつ、どこのポイントに力を集中するか なんてあたりからスタート。 彼女は今、まだ親指から小指まで「ド〜レ〜ミ〜ファ〜ソ」と弾いているだけだが、毎昼に一生懸命それだけをさらっているようだ。 正直、感心感心。 まじで弾けるようになりたいようだ。 継続は力なり、だよ。 がんばれマイハニー。 しかしかくなる私も次はどんなことを、 どんなペースでステップアップさせていくか考えなければならぬ。 今のところだけでも 自分のピアノに対して「そっか…」と気づくことも多い。 私も勉強だ。 ...
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