今日本日ようやく修士論文を提出する事が出来ました。 長い長い戦いも終わりを告げました。
ギリギリまで鈴木敏夫教授の推敲が加わり、英文の論文要旨を1対1で添削指導でした。 ご多忙の中わざわざ私1人のために時間を裂いてご指導・ご鞭撻くださった、 鈴木敏夫教授に感謝の意を示します。
研究を進めるにあたり、戸田保幸助教授の指摘は的確で、何度も研究の手助けとなりました。 大変ありがたいアドバイスでした。ありがとうございました。
4年の時から面倒を見ていただいた竹見哲也助手は、この1年間はアメリカにおられたので、 じかに会って研究を進める事はできませんでしたが、メールというかたちにしろ、 最後までしっかり研究の指導をしていただきました。ほんとうにありがとうございました。
研究室内においては、何度も助けていただいたM2の森脇嘉一君に非常に感謝致します。 また解析方法など細部に渡りアドバイスをくれたM1の平山修君に心から感謝致します。 M2の福井君、杉口君、柴田君、栗岡君、M1の長澤君、加守田君、真田君、福井君、 B4の中面君、岩下君、田中君、井上君、有藤君、佐々木さん、D3のエルワンディさん、 いろいろ何かとお世話になりました。有難うございました。
| 2002年03月06日(水) |
外側と内側の相互作用 |
髪を切りに行きました。
JR茨木駅のすぐ近くにあるSTA'Zというお店です。
店長は女の人で、ラップ調の音楽が鳴ってていて、いい感じです。
へそをだしている美容師さんもいます。
僕の担当の人は男の人で、色々な話をしました。
彼は、一度見習の時期に美容師の仕事を辞めて、それから工場で働いて、 その後再び美容師の仕事に戻って来た、と言っていました。
歳はもう30歳くらいで、親から「結婚はまだなの?」とよく留守電に入っているそうです。
僕は、「結婚なんてまだまだ後でもいいですよ」と応援めいたことを言いました。
本日のカット料は、ホットペッパーのクーポンを使用して30%OFFです。
髪を軽くしてもらいましたが、気持ちまで軽くなったようです。ポジティブシンキング。
9時に起きる。 いつもより遅め。
ぐずぐずしてから、したくして走る。 いつもは30分のところを25分で終える。
なにも気にしないでその辺にある服を来て大学へ行く。 途中で朝ご飯となるカレーうどんとヨーグルトを買う。
大学ではパソコンの前でヌボォーとしながらインターネットと朝ご飯。 MSNのニュースなひとことやニュースセレクトを読む。
「ブッシュあほや。アメリカぼけや」って独り言。
「最近おとなしいですね?どうしたんですか?」 と今日も別の後輩から言われる。
後輩達は素直だ。
| 2002年03月04日(月) |
用意されていない素の心の中 |
卒業まで1ヶ月を切る。 人生最後になるであろう学生時代が1ヶ月弱となる。
3・3はひな祭りだったけど、今日は普通の日。 武富士の放火の犯人も見つかった。 他人事だが良かった良かった。 悪はかならず裁かれなければならない。 そう思う。
まだ寒いが近頃はもう花粉の季節。 5年前から始まった花粉症は今年も猛威を振るう。 そのため集中力が無くなる。 ティッシュが無くなる。 やる気が無くなる。 良いこと無い。
論文をまとめるのがおっくうだ。もう嫌だ。 マイナスはマイナスをよんでしまうな。実感。
音楽でも聴いてリラックスしてから始めましょうかね。 でも、「リラックスする音楽って何だろう?」って結局悩んでしまう。
こんな時は一日中風呂に入って歯磨きしたいな。 優雅にラジオでも聴きながら。
ソルトレイクオリンピックが、 それとなく始まり、それとなく進行し、それとなく終った。
なんでソルトレイクが盛り上がらなかったのか、 それとなく解った気がした。
先日、本屋で最近文庫化された「神の子どもたちはみな踊る(村上春樹)」を見つけた。
僕にとっては待望の文庫化であった。 よく「待望の2ndアルバム」とかいうキャッチコピーを見かけても、 「誰も待望なんてしていないよ」って思ってしまうのだが、 僕にとってはこの文庫化は本当に「待望」であった。
それで僕は自分の過去に「待望」ということをしたことがあったかと考えてみた。
遠足や旅行やなにかの大会は自分の事であるから、誰しも「待望」するかもしれない。 でも、他人事の場合は所詮は他人事なのでそこまで「待望」したりするものではないと思う。 だから「待望の2ndアルバム」とかいうフレーズは、「嘘っぽい」と思ってしまう。
僕は昔からこう考えているから、今まで他人事を全然「待望」した覚えが無いのだろう。 もちろん、ドラクエ3をスリするほど「待望」していないし、 チューブのベストアルバム・TUBESTも「待望」していない。
このような状況の元、人生で初めての「待望」を 「神の子どもたちはみな踊る(村上春樹)の文庫化」によって果たすのである。
「この単行本が出てからようやく彼のファンになった。 単行本を買うほどのお金を使うのがもったいない。」 というのが、ただ僕が「待望」した理由であるかもしれない。 そんな下らない理由であるかもしれないが「待望」ということにはかわりは無い。
大学のサーバーが休憩(停電)していたので更新できませんでした。 だから一気に3日分をアップしようと思っているのだが、 4月から就職する身にとっては更新が不定期になりそうな感じがする。
だからこの際3月から不定期にしてもいいのだが。 そない書くことも無いし。実は結構あるけど書く気が無いし。花を入れる花瓶も無いし。
そして結局は、こんないい加減な感じで3月のスタートを切ろうと思う。 ある女の子から「もっとラクに生きたら?」って言われたし。 「それもそうかな」って思うには思うし。うみうし。意味なし。
最近の日記が理論的過ぎたせいかあまり評判がよろしくなかった。らしい。 どんなことでもバランスは必要なので、今日は「気軽に散歩」みたいな感覚で書こうと思う。
ちょいと前のシャワー+歯磨きという日記を見てくれたお友達の鉄さんが、 それをちょっとパロディって、シャワー+あんぱんという日記を書いていたが、結構おもろかった。
なかなか人は色々な事を考えるものだなぁって思った。
僕はそれをもう少し発展させようと考えた。
「ごはん×ふりかけ」 これは絶対に「+(たす)」では駄目だ。「×(かける)」で、かけなければならぬ。
「腹÷知人」 これは知人から友達に昇格できるか否かの瀬戸際。 これも絶対に「÷(わる)」で、わらねばならない。
でも、こんなことを考えても本当に何にもならない。 まったくもってどうしようもない。 僕はラジオを聞きながら、料理をしながら、思った。でも、
「おっ、これって『ラジオ+料理』やん。これはかなりいいね。爽快」
って悦に入って、鼻歌交じり。
カラオケ、ボーリング、TVゲーム、四六時中友達とのお気に入りの芸能人の話。
これらは楽しいですよね。結構ね。僕も昔とてもTVゲームをやったしね。 でもこれらが楽しみの本質だろうか?やはり違う気がする。いや違う。
楽しいと思ってこのようなものばかりで楽しみを得ていたら、 とても空虚感・虚無感が募らないだろうか? これらの楽しみは得やすく、楽しみとしても薄く軽い楽しみである。
本来僕らはそんな薄く軽い楽しみを求めている訳ではない。 僕らはもっともっと厚く重い楽しみを求めているはずである。 それは何か?それはなんであろうか? 僕はそれは「成長」だと思う。 僕が一番楽しいと思えるときは、「成長を実感できる時」であるからだ。
しかし、「その成長を実感できる時」とはどんな時だろうか? それは、今まで立ち向かえなかったものに、立ち向かえるようになった時であり、 そのことはまさに「善」を意味している。
自分がその時に「善」だと認識していることをできるのが、一番楽しいのだと思う。 そうすることで、自分は成長していると実感できるからでもある。 でも、その「善」を繰り返していけば、それは慣れて、「当たり前」になる。 そうすればまた考えて、別の「善」を求めていかねばならない。 それまでの「善」は「当たり前」になり、自分とっての「善」ではなくなるからだ。
また、労力やお金や時間に縛られて、いやいやながらしているあたかも「善」である事は、 それは本当の「善」ではない。 そのような価値観を越えて、自分の心からできる「善」が本当の「善」である。 いやいやながらしている時点で、それは甘えがあり、力の余地があり、「悪」なのである。
当然、自分の甘えは「悪」であり、それに立ち向かうのは「善」である。 ここでいう「善・悪」は絶対的なものではない。 そのときの時代・状況・自分自身で常に変化する。 常に変化する「善」というもの、それを実行できることが一番楽しいことであると思う。
単純に考えると、甘えでもなく、強制でもなく、色んなことを考えて、自分が、 「これをすべきだ」と心底思えたことを、その時にやれることが「善」である。 「善」は常に変化するので、常に自問自答し、それを追い求めねばならない。 そうしないと人間的に成長できない。
人は何故哀しくなるのか?
それは自分ではどうにでもならなくて、そして納得できないことを、 受け入れなければならないからである。 具体的にそれはどういうものであろうか。 ある人は言う、哀しい本質は「裏切られること」だと。
確かにそれは頷ける。裏切られること自体は、自分でどうにでもならなくて、 納得できないことであり、ただ受け入れなければならないからである。
でもそれが本質であろうか。僕は違う気がする。 その「裏切られる」という中には原因があり、 その原因は自分がもっている可能性があるからである。 「自分があのようにやってしまったことが、実はあいつを裏切らせた原因なのかもしれない」 と自分を省みる余地がある。
だから、「裏切られる」ということは、なってしまえば確かに自分ではどうしようもないが、 「裏切られる」前にどうにか出来たかもしれないし、だから、納得できなくて、 受け入れられないことではない。 だから哀しみを感じる物事の中には、自分を省みる余地がないほうがより本質的だと思える。 それは何か?それはどのようなものであろうか?
僕はそれは「死」だと思う。自分にとって大切な人の「死」だと思う。 これはどう考えても、原因に自分が入り込む余地が無いし、それに自分を納得させられない。
僕達は、ただその「死」を受け入れるだけである。そして、ただ哀しむ。 哀しい本質は「死」にある。
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