無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年07月20日(水) 人生ホリエモン/『MORNING GIRL』(鯨統一郎)

 定時に退社、電車に乗ると、車内がずいぶん空いている。
 どうしてかなあ、と首をひねっていたが、「学生の数が少ないのだ」ということに気づいた。小・中・高校生は今日が終業式で、午前中で帰ってしまっているのである。
 今年が初めての電車通勤であるから、こういう「変化」にも当然初めて気づいたわけで、他愛無いことではあるが何だか新鮮である。
 それでも何人かは高校生は乗っていて、その会話が何となく聞こえてきた。
 「お前、『アベノ商店街』って知ってる?」
 「聞いたことあるような気はするけど」
 「ダメだな、そこで『ガイナックスの?』って答えなきゃ」
 もちろんそこで「『アベノ商店街』じゃなくて『アベノ橋魔法商店街』だよ」なんて野暮なツッコミはしないのである。オトナになったなあ(←コドモでも見ず知らずの人にそんな突っ込み入れたらアレだと思われます)。

 車内広告で、『仮面ライダー響鬼』の細川茂樹&渋江譲二さんが三井グリーンランドまでトーク・ショーに来られることを知る。期日が8月14日で、盆のど真ん中なのだが、入場無料だし、ちょっと行ってみたい。ただ、PPPのメンバーを誘っても興味を示してくれそうなのがカトウ君とよしひと嬢くらいしかいないのである。いまいち盛り上がらないかもしれない(笑)。
 最近カトウ君は鬱が続いてるし、こういうのを気晴らしにしてくれたらいいんだが、スケジュールはどうかね? メール読むのも苦しそうだからこうして日記に書いてるけど、更新が長いことなかったし、まだ読んでくれてるかなあ。


 しげは夕方から映画『アイランド』の試写会で、中洲の明治安田生命ホールへ。しげが試写会に行くとは珍しいことだが、別に自分からハガキを送ったわけではない。私の同僚が三枚当たったので、そのうち一枚を分けてもらったのである。しげはユアン・マクレガーが結構好きなので、渡りに船であった。
 映画が終わったころに待ち合わせの約束をしたので、その間、私は時間つぶしに博多駅・天神をウロウロする。っつても寄ってるとこは全部本屋だ。色気がないこと極まりないが、あっても困るな。
 博多駅の「GAMERS」「紀伊国屋」、地下鉄で天神に移動して「福家書店」「紀伊国屋」「ジュンク堂」。これだけ回れば、買い控えしているつもりでもついついあの本この本と手が伸びて、自然、鞄の中は本でギュウ詰めになる。
 今回は、マンガも買ったが、主に活字本を10冊くらい買いこんだ。これだけ買っても、読むスピードだけは昔と変わらず早いので、一週間くらいで読みきれる。若いときに速読の修行はしておくものだと内心自画自賛。これで、日記に読んだ本の感想を全部書ければいいのだが、そこまでの時間は捻出できない。この日記はマンガと映画を優先してるので、そこはどうにもしょうがないのである。

 ホールには9時に到着。外見は普通のビルなので、劇場入り口っぽいところはない。狭いロビーには階段とエレベーターしかなくて、そこからバラバラとお客さんが出てくるが、しげの姿は見えない。最初に出て来る客はエンド・クレジットが始まると同時に椅子を立った連中だ。しげも私も字幕は最後まで見るので、おおむね3分はタイムラグが生じる。案の定、しげはほぼ最後に出てきた。しかし会うなり、「はい」と手渡されたのはヤクルトの「タフマン」。
 「なんだこれ?」
 「主催がヤクルトだったんだよ。ほら、書いてあるっしょ? 『いい男キャンペーン』って。だからあげる」
 上映の前に前説があって、そこで全員に配られたとか。軽く三百人くらいはいたと思うが、その殆どは女性である。なんか主催者と観客の感覚の間にズレがあるよ
うに思うが、まあ、貰えるものは何でも貰うのである。

 晩飯は近所の「カレーハウスCoCo壱番屋」で。夏カレーということで、「ニラもやしと挽肉の旨辛カレー」を注文。あまりココイチのカレーは好みではないのだが、これはモヤシがシャキシャキしていて、適度にあまりコクのないルーが滲みていて、なかなか美味かった。



 実は私は、一時期、毎年リニューアルされるタカラの「人生ゲーム」を追っかけて、十作くらい買い続けていた時期があった。
 「人生ゲーム」についての解説は要らないと思うが、バージョンアレンジで様々な「人生ゲーム」が発売されていることを知らない人は意外に多い。イラストレーターを変え、設定を変え、人生の目標も単に大金持ちになるだけじゃなくて暗黒街に君臨したりスーパーヒーローになったり千変万化、驚きかつ大笑いの、老若男女が楽しめる趣向で次から次へ、時には一年間に数作のハイペースで発売されていたのである。それが面白くて十年くらい前になるが新作が出るたびに購入していたのである。けれど、あまりに種類が多いので、トテモ追いかけきれずに止めてしまった。
 だいたいアレを買って一緒にゲームをするったって、相手はしげしかいないのである。アレは四、五人いないとなかなか楽しめないもので、しげと二人だけでやっててもだんだん寂しい気持ちにとらわれていくのだ。なんたってしげの性格は基本的にバクチウチで、ハイリスク・ハイリターンが好み、おかげでしょっちゅう破産して貧乏農場に送られるハメになるのである。そのあとイライラするしげをなだめなきゃならないんだから遊びが遊びにならない。島本和彦のマンガそのまんまである。かと言って、「人生ゲームやろうよ」って、んなことで友達や知り合いは誘えないしなあ。
 ところが、今度九月に発売される予定の「人生ゲーム M&A」(なんとシリーズ37作目)、監修にあのホリエモンが参加するんだって(すまねえ、本名、何て言ったか忘れた)。内容は会社を興し、経営者となったプレーヤーが合併や買収などを経て、企業価値を高めていくというイカニモなものなのだが、その金額の単位が桁外れなのである。
十億、百億冊どころか、一兆円札まである。そんなんで遊んでも、所詮はフィクションなんだから、ちとやり過ぎって気はしないでもない。「成功して億稼ぐなんて簡単ですよ」なんてサラリと言っちゃってるホリエモンの顔を思い浮かべると、なんかハラが立ってくるし、現実に立ち返ったときに、かえって空しい気分に苛まれちゃうヒトもいるんじゃないかという危惧もありはする。けれど、話題性はもうこれまでのシリーズ中でも抜群なのは間違いないのだ。
 少なくともこれが子供をターゲットにしてはいないということは明白で(つか、もう何十年も前から「人生ゲーム」シリーズは子供を置いてけぼりにしているんですよ、そこの奥さん旦那さん)、だからこそ私はこれが究極の人生ゲームになるかもしれないという期待もしてしまうのである。久しぶりに購買欲をそそられる作品に出会えたのだ。これは仮に「買ったままやらないで置いとく」ことになっても、記念に買っとかなきゃならんのじゃないかという強迫観念に捉われかけているのだ。
 しかもイラストは『新しい単位』『毛髪川柳』の五月女ケイコさんである(東京まで、シティボーイズの舞台に客演してるのを見に行きまでしたってのに、今の今まで読み方を勘違いしてました。「サツキメ」じゃなくて「ソオトメ」さんとお読みするのですね。すみません)。こりゃもう買わいでかってなものなのだが、先述した通り、買ってもうちには一緒に遊ぶ相手がいないのである。誰かうちに遊びに来ませんか。狭いけど。


 グータロウ君の日記で、私の昨日の日記について「差し障りがある」と書かれてしまったので一言。
多分、これから先、何か困っちゃうような事態に発展はしないので、そんなに心配はいらないよ。アレに関しては「厳しく批判してくれ」って頼まれたからやったんで、あえて敵を作るためじゃないのだ。別に私が縁を切ったわけじゃないし、多分いろんな会合でこれからもドッグさんとは会うし。批評は批評。ドッグさんはそのあたりのリクツが分からない人ではないよ。妙な憶測はドッグさんに対して失礼だ。
 あの書き方じゃ、私が誰彼なしに喧嘩売ってるように見えちゃうが、温厚で人当たりがよくって人の悪口なんか滅多に言わないというのが、普段の私に対する職場での上司・同僚の評価なのである。職場にいるときゃ、映画や芝居に関する感想ですら、辛辣な表現は避けてるんだからねえ。猫かぶるときはかぶってバレないように生活してるんだから、破滅の道を歩んでるような誤解はしないようにね。
 私信だな、こりゃ。


 マンガも読んだが、最近はその感想は書いても小説の感想はなかなか書けなくなっているので、前述したことと矛盾はしてるが、今日はたまには小説もということで。
 いやね、もう一つ小説の感想が書きにくい理由を挙げるとね、読む本がミステリーやSFに偏ってるんで、ネタバレしないように書くのってムツカシイのよ。

 鯨統一郎『MORNING GIRL』(原書房)。
 タイトルは多分、ショーン・キャシディ(『刑事コロンボ』ファンの私には俳優ジャック・キャシディの息子としての印象の方が強い)のデビュー曲『素敵なモーニング・ガール』から取られているのだろう。「モーニング娘。」の方ではないと思う。ウンチク好きのこの作者にしては、そのあたりの説明が作中にないのが首をひねるところである。
 どうしようもない駄作も多いこの作者の新作をどうしても追いかけてしまうのは、やはりデビュー作『邪馬台国はどこですか?』の印象が鮮烈だったからである。荒唐無稽に聞こえる論理のアクロバットの向こうに、「もしかしたら一抹の真実が含まれているかも」と感じさせるものがあって、それがあの連作ミステリの魅力になっていた。
 だから、「人はどうして眠るのか?」という、生命の根源について問いかけていると言ってもいいこの謎に、いったいどんな解答を出してくれるのか、ワクワクしながら読み進めていったのだ。
 ところが本作はミステリではなかった。未来宇宙を舞台にしたSFとして書かれていた。SFとミステリは本来別の手法によって成り立っているものだが、この背反するように見える二者を見事に融合させている作品は決して少なくはない。鼻祖アシモフの『鋼鉄都市』は言うまでもなく、本邦の『キッズ・ピストルズ』シリーズや『バルーン・タウン』シリーズは充分成功例と言えるだろう。
 ある一定のSF設定・法則が仮構され、そのワク内においてのみトリックが成立するときにSFとミステリは美しいランデブーを果たす。では『MORNING GIRL』はどうであったか。いきなり決め付けてしまうが、残念ながら、本作もまた鯨作品の駄作群にまた一つ名を連ねる結果になってしまっている。
 本作がSFとして描かれたのは、リアルなミステリとしては結局「眠り」の謎を解明することが不可能だったためなのだな、と断定せざるをえない。すなわち、「SFなら何でもアリだな」という「逃げ」を売っているのである。実際、1/3も読み進めないうちにネタはすぐに割れる。かなり鈍感な人でも、主役の二人、スティーヴとダイアンの間に生まれた子供の「名前」を聞いた時点で、「ああ、これもアレネタだったんだな」と気づくだろう。
……なんかもうね、「もう止めて」って言いたいくらい、使い古されたネタなのね。客ナメてるだろ、鯨! 鯨さんがこの場にいたら、そう罵倒して、スリッパでアタマをパシーン! とひっぱたいてやりたくなるくらい、陳腐なのである。
 「小説は文庫で買う」がモットーな私だが、およそ「原書房」という、有名とまでは言えない出版社から発行されている本作、どこかの出版社に買い取られて文庫になるまでには時間がかかるだろうなと、思い切ってハードカバーで買ってしまったが、1600円をドブに捨てた気分である。もう、ここいらでやっつけ仕事はやめて、鯨さんにはもちっとマシなミステリを書いてほしいんだけど、もう才能が枯渇しちゃったのかなあ。いくらなんでもちょっと早すぎるよなあ。
 しかし、「人類がどんどん眠らなくなっていく」って言っても、身体的影響がなけりゃ特に問題にしなかったり、喜ぶ人もある程度の割合でいそうな気はするけどなあ。少なくとも私は本が読めるようになるから絶対喜ぶ。
 政府は民衆がパニックにならないように、ウソでも「睡眠時間がゼロになっても問題はありません」と情報操作しようとすると思う。政府に委嘱された研究チームがやたら「眠りがゼロになれば人間は死に至る」という決めつけを繰り返しているところがまず、設定にリアリティを感じられないのである。

2004年07月20日(火) 湯浅憲明監督、死去
2003年07月20日(日) もう今更ロリコン犯罪にも驚かないし/『バジリスク 甲賀忍法帖』1巻(山田風太郎・せがわまさき)ほか
2002年07月20日(土) 漫画映画復活!/映画『猫の恩返し』/『ああ探偵事務所』1巻(関崎俊三)/『美女で野獣』1巻(イダタツヒコ)ほか
2001年07月20日(金) 一人で見る映画/映画『千と千尋の神隠し』


2005年07月19日(火) 明日更新できるかどうかは分からない/『サーティーガール』1・2巻(岩崎つばさ・カワイシンゴ)

 さてまた、1ヶ月ほど間が空いてしまったが、まあ、いろいろ忙しかったりバテテたりしていたのである。その間の事情については、更新できたらします。
 でも、映画や演劇やマンガの感想書いてたらキリがなさそうだな(笑)。
 洋画の話題作では『バットマン・ビギンズ』がドンデン返しが利いててまあまあだったくらいで、『宇宙戦争』は原作の精神壊しちゃってて骨がねえし、『スター・ウォーズ シスの復讐』は「所詮は痴話喧嘩かよっ!」てな感じで卑俗だし、予測通りではあったけれども今のハリウッド映画じゃ金掛けたってこの程度のウス味のものしか作れない。だったら『さよならさよならハリウッド』のウッディ・アレンみたいに小粒の秀作を量産してほしいもんだ。
 逆に日本映画は一般の評価は低かろうと、『逆境ナイン』『姑獲鳥の夏』、ともに面白かった。『逆境』はマンガの面白さを実写に移すことには決して成功はしていないけれども、単体としてよくまとまってるし、なにより藤岡弘、がいい(笑)。『姑獲鳥』は、映像化不可能なトリックをある趣向で一応はクリアしている。ただ、それに気づかない一般客の方が多いんじゃないかとは思うが(笑)。一番ツボにハマッたのは『イン・ザ・プール』。伊良部一郎の胡散臭さは、テレビ版の阿部寛よりより松尾スズキの方がずっといい。もっとも出番が主役って言ってるワリにすごく少なかったけど。『電車男』は部分的に映像の面白さが目立つくらいで、話自体は他愛無い。でもだから「総オタク化」が進みつつある現代人には受けてんだろうな。
 あ、でも『戦国自衛隊1549』はやっぱりSFファンには薦めません。福井晴敏の原作は読んでないけど、映画はお話そのものがもう矛盾ありまくりで正視に耐えない。役者もいい役者さんすらヘタクソに見えるのはどうしてくれるってなくらいで。
 芝居は寺山修司の『奴婢訓』の再演がやっぱりショッキングだった。これだけのものが20年前に作られてるんだから、現代の演劇人はもっと自己反省して頑張らないとね。テレビで見た演劇ではラーメンズの『アリス』が意欲的でしかも面白かった。見てない人には何のことだかわかんないだろうが、「風が吹いたら桶屋がボーカル」ってギャグがもうツボにハマッてよう(笑)。
 えーっと、語り忘れはないかどうか。
マンガと小説に関してはもう読んだのが半端な量じゃないんでパス(涙)。『蟲師』や『デスノート』の新刊についても書いときたかったんだけどね。


 このところしげはずっと、「エコロジーな缶詰ワールド」(ラクーンドッグさん主宰の劇団である)関係でモメていて、一緒に続けるか辞めるかとか、ゴタゴタしたあげく、ついに昨日、ケンカ別れのような形で正式に辞めてしまった。
 その間の事情については、私は殆どしげからしか聞いていない。一方的な主張だけを聞かされているわけだから、どうしたってドッグさんの方がワルモノになってしまう。聞いてるだけだとあまりにドッグさんが理不尽な行動を取っているようにしか聞こえない(つか、社会生活が営めているとはとても思えない)ので、逆にしげの言葉の信憑性が疑われてしまうのだ。これではとてもどちらがいいの悪いのって客観的な判断はしかねる。
 演劇関係者なんてものは根拠のないプライドだけは高いものだから、所詮はどっちもどっちってとこなのだろう。少なくともしげにトラブルを回避しようとする意志と判断力が欠けていたことは事実だ。本人は冷静なつもりでも、感情を優先させた言動を繰り返していたことは話を聞いただけで分かる。しげはすぐに「言葉が通じない相手」とドッグさんを非難するが、だいたい、「コトバは相手に通じるものだ」という幻想に囚われている時点で、演劇人としては失格ではないか。
 結局はお互いのコトバがすれ違いまくったのが原因なのだなということがしげのこの発言から理解ができる。

 言葉とは自分の意志を伝える手段ではなく、相手の意識をある方向に誘導するための手段である。あるいは、自分の言葉が相手にどう受け取られるかを見て取ることで、お互いの「文化」としての「言語フィールド」を確認するための手段である。間違っても、「話しあえばいつかは理解しあえる」なんて考えちゃいけない。
 その人の言葉はその人のこれまでの生活環境、経験によって培われた独自のものであるから、実は自分以外の人間には全く通じない。それが「通じている」ように錯覚するのは、表現上、「コトバのカタチ」が共通しているからにすぎない。自分の使う言葉の概念が相手のそれと一致しているわけではないということを常に自覚し、相手の言語フィールドがいかようなものであるかを類推し、自らのフィールドも相手に類推させるようにして喋らないと、そもそも会話というものは成立しないのだが、その自覚のない人間がいかに増えていることか(最近の「言葉の乱れ」の原因はこの点にある)。一つの言葉が、相手によっては「傲慢」と「謙虚」、全く逆に受け取られることだってあるのだが、イマドキの若い人は、“そんなことも知らない”。

 ドッグさんの芝居を見てみると、ひとりよがりで自家撞着な表現が続出していて、「ああ、この人も言葉に対する自覚がないのだなあ」ということが見て取れるのだが、こういう人がコミュニケーション不全のしげと会話を成立させることは至難なわざだろう。自分の方にも表現の不手際がどれほどあるか、具体的には理解できていないに違いない。逆にしげとの会話の中で「自分の言葉がいかに無力であるか」ということに気づければ、もちょっとマシな芝居が書けるようになるんじゃないかと期待してたんだけど。
 福岡の演劇ウェブサイとなどをいくつか見てみると、ドッグさんの芝居、とんでもなく酷評を食らっている。ウチの劇団への批判などかわいいくらいのものなのだが、その原因がどこにあるか、表面的な演技力不足に起因する程度にしかドッグさんは考えていないのではないか。それどころか「演劇の基本が理解できていない」ほどのテイタラクなのだが、自らの謙虚さが高慢に受け取られる可能性だってあることに理解が至らない状態が続くのであれば、今後もマトモな芝居は書けまい。残念ながらそこまでのスキルをドッグさんに求めるのはムリだったようである。別に演劇人でなければそこまでのスキルは必要ないんだけどね。
 こういう言葉についての「常識」も、昔はいちいち口にする必要がなかったんだけどなあ。


 連休前に仕事がひと段落着いたので、出勤してても精神的には結構ラク。
 仕事の合間に時間もできたので、東京のグータロウ君ともメールのやりとり。私の携帯はもちろん私の私物ではあるのだが、しげには全て内容をチェックされている。そのことを書いて送ったら、グータロウ君は驚いていた。あちらのご家庭では、奥さんはいちいちそんなことはされないらしい(つか、それが普通だよな)。
 だいたい、メールの内容をいちいち心配するというのは「浮気性な男」を夫に持った妻だけだと思うのだが、私のどこをどう見たらそれに該当するというのか。それに私が本当に浮気をするのであれば、もう一つ携帯を使って、しげに見つからないところに隠しておく。けれど、そんなめんどくさいことまでして浮気したがる性格かどうか、私を見ていれば分かりそうなものだ。
 つかよー、お前とつきあってるだけで精神的にも肉体的にも疲労しまくりだってのに、なんでさらに疲れるような人間関係をさらに構築せにゃあならんのか。俺は「浮気で癒される」なんて幻想を信じられるほど落ちちゃいねーぞ。
 そのへん、納得できないあたりもしげのココロが壊れている証拠なのである。


 マンガ、岩崎つばさ・カワイシンゴ『サーティーガール』1・2巻(白泉社)。
 日立のオール電化キャラクターが人気を呼んでのコミック化。ちょっとは広告マンガも入ってるが、殆どは“突撃爆走主婦”湯神リリコ(30歳)と、人語を喋れてパソコンも自由自在のスーパーキャット・ジョーズ、そして湯神家のゆかいな人々およびご町内のみなさんのドタバタを描いたギャグマンガだ。
 登場人物がやたら多くて、思いっきり丸っこいアニメ絵なもので、パッと見、キャラクターの区別がつきにくいのだが、何度か読み返していくと、猪突猛進でオトコマエな湯神家のヨメ・リリコに、猛烈にお喋りで家事能力ナシの長女・加奈子、しっかりものだけれど食い気爆発の次女・奈緒子など、個々のキャラクターの区別がついて面白くなってくる。
 ジョーズが喋れることはリリコだけのヒミツなのだが、実はパソコンを介して奈緒子とジョーズがマブダチになっているのが笑える。リリコは小学校の教師だったのだが、教頭とトラブって辞職、今は専業主婦の生活。家計を助けようとネットでイラスト販売をしようとしたジョーズとリリコが大喧嘩したことなどもジョーズは奈緒子に愚痴るのだが、まさかそれが自分ちの飼いネコと義理の姉のことだとは想像もつかないのだね(当たり前だ)。同棲中のカップルだと思っているのである。ついに家出したジョーズの告白に、奈緒子は「そんな女とは別れろよ!」と頭をかきむしるのだが、だからそれはキミの義姉なんだったば(笑)。
 このあたりのエピソードが面白いのは、ちょっとSFっぽくなってることもある。家出して、野良ネコの群れに取り囲まれたジョーズを助けるために飛び込んでいったリリコに、じょーずを触媒にして、突然、猫語が理解できるようになるのだ。この設定がさらに展開していったら、広告マンガ初のSF大河ドラマになりゃしないかとちょっと期待したのだが、すぐに普通のご近所ドタバタマンガに戻りました。ま、そりゃそうだわな。
 でも、まっすぐで凛々しくて、、天に代わりて不義を打つ(笑)リリコさんの活躍を読んでるだけでも清々しい。こういうマンガならまさにテレビアニメに向いてると思うんだが、日立以外のスポンサー、付けようがないからかえって難しいかもなあ。

2004年07月19日(月) 脳髄のとろけた女
2003年07月19日(土) 水害という名の人災/DVD『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX/笑い男編』
2002年07月19日(金) 踊る大脂肪/映画『MIBⅡ』/『ワイド版 風雲児たち』3・4・5巻(みなもと太郎)ほか
2001年07月19日(木) 天ブラサンライズ/『吼えろペン』1巻(島本和彦)/DVD『サウスパーク無修正映画版』ほか


2005年06月02日(木) 見えるものと見えないもの/『こころ』(夏目漱石×榎本ナリコ)

さてまあ、何と言うかそりゃもう「おめでとう」としか言いようがないのであるが、別に知り合いでもない有名人についてそんなふうに言うのも変ではあるから「へええ」と言うのが妥当であるかもしれないのだが、『名探偵コナン』のマンガ家青山剛昌とコナンの声優高山みなみがご結婚あそばされていたそうである。終わり。
いや、それで終わっちゃわざわざ日記に書くほどのことはないのだが、『コナン』の作中に高山みなみが本人自身の役で登場してたり、高山みなみの写真集の帯に青山剛昌が熱烈な応援メッセージを寄せていたりしてたのは結婚の伏線だったのかなあと思いながら、これから先、愛妻に喋らせることを念頭にコナンの台詞がねっとりしたものになっちゃったりしたらやだなあ(特にコドモぶりっ子コナンな)とか、『ミスター味っ子Ⅱ』がアニメ化されたらまた高山みなみには味吉陽一をアテてもらわなきゃなんないんだから、声優引退だけは極力避けてもらって、でも子作りは年齢的にギリギリかもしれないからちゃっちゃと済ませてもらって早めに現役復帰させてくれよとか、余計なことばかり考えているのである。


 「雑学」や「豆知識」が、会話の潤滑油になることもあれば、逆に論争のタネになってしまうこともあるという好例。
 「『万里の長城』は宇宙から見える唯一の人工建造物である」というのは、少年誌のコラムなんかにもたびたび取りあげられていて、私たちの世代にとっては常識のようなものだったのだが、それがいささかアヤシイ、と言われ出したのが数年前のことである。
 というのが、2003年10月、中国の宇宙船「神舟5号」で初飛行した楊利偉飛行士が、「『万里の長城』は宇宙からは見えなかった」と発言して、中国では小学校の教科書を書きかえるほどの大騒動になっていたのである。
 そのニュースを聞いた時には、これもよくある「常識のウソ」の一つだったのかなあ、と漠然と考えていたのだが、事態はこの先、更に紛糾することになる。
 2004年11月、国際宇宙ステーションに滞在していたリロイ・チャオ飛行士が宇宙から撮影した写真には、見えないはずの「万里の長城」がしっかり写っていたというのだ。それ以来、中国では「見える・見えない」論争が続いているというのであるが、要するにこれは「どの程度の高度までなら見えるのか」「天候によって見え方はどうなるのか」「肉眼とカメラの目の差はどうなのか」とか、それらの要素が複合されて見えたり見えなかったりするだけの話ではないかと思う。
 それに、「雑学」の面白さというのは、その真偽がどうかということよりも、そのネタを面白いと感じる人々の心理の方にあるので、実は「万里の長城」が見えるか見えないかという実際はどうでもよかったりするのである。つまり、「中国の人々」が「万里の長城が見える」ことにいかに固執しているか、という現象の方が面白いのだ。
 中華思想の白髪三千丈のお国柄だから、ご先祖様がこれだけのものを造ったんだぞって威張りたい気持ちは理解できないわけでもない。こっちだって素直に「すげえなあ」とは思う。けれど、何も「宇宙から見える」とまで主張することはない。そこまで言っちゃうとかえって滑稽だ。まるでモンティ・パイソンの「貧乏自慢スケッチ」(今は成功者となった人々が、若い時いかに苦労したかを語るうちに、ありえないことまで捏造して語ってしまう)みたいに、主張がエスカレートしてしまっていて、周囲から失笑を買うことにしかなってない。そのうち、「火星からでも見える」とか言い始めるんじゃないか(笑)。
 おクニ自体が自我肥大してしまうと、民衆の誰一人として自らのおかしさ、異常さに気が付かなくなってしまうものだが、戦前の日本がまさにそうであったように、今の中国も同じ轍を踏んでいるのである。中国人のメンタリティの幼稚さというか民度の低さはこのところのいろんなデキゴトで白日のもとに晒されているが、こういう論争にまでそれが表れてるというのが可笑しい。中国に対して腹を立ててる日本人は多いと思うが、こちらまでヒステリックになって嫌悪感や憤懣をぶつけて相手と同じレベルまで落ちてやる必要はないんで、ここは一つ、オトナの余裕を示して大いに笑ってあげればいいと思うんだがどうかな。


 マンガ、夏目漱石×榎本ナリコ『こころ』(小学館)。
 小説のマンガ化はたくさんあるけれども、『こころ』に着目した例ってのはあまりないんじゃないか。時代を現代に移してはいるが、ストーリー展開やセリフはかなり原作に忠実である。だからこそ、「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」というKのセリフなどは現代人のセリフとしては違和感を感じてしまうのだが、まあ、時代錯誤な人間はいつの時代でもいるものだし、かえってそのことが登場人物たちの性格を際立たせている結果になっている。
 もちろん、「マンガ」という「形象」を伴っているがために、「私」も「先生」も「K」も、原作のように複雑で多様な解釈の成り立つ人物ではなく、ストレートに感情を吐露する人間として表されてはいる。その「単純さ」を嫌う読者もいるとは思うが、そもそもコミカライズや映像化というのは、作者の解釈が極めて限定された方向に働くものである。『エヴァンゲリオン』の流れの上にある榎本ナリコのキャラクターデザインは、センシティブな上に狂気の匂いすら孕んで、危険で蠱惑的だ。
 特筆すべきは、夏目漱石自身が「失敗」と呼んでいる構成上のミス、後半の「先生の遺書」のボリュームだけが異常に肥大してしまった点が改善され、バランスのよい物語になっていることだろう。おかげで原作の「私」は「先生」に比べてすっかり陰が薄くなっているが、榎本ナリコの描く「オレ」は、充分「先生」に対抗するキャラクターとして屹立している。
 更にもう一人、やはり原作では陰の薄い「お譲さん」こと「静子」が、「肉体」を持ったことの効果は大きい。漱石は必ずしも身体描写が得意な作家ではなかったので、ここにコミカライズされるべき意義を見出したのは榎本さんの慧眼であっといってよいだろう。まさか「先生」と「静ちゃん」のセックスが見られるとはなあ(映画では例があったけどね)。
 二人の恋の結末も、原作とは違っている。「現代ならば」、彼らの問題がどのような結末を迎えるべきか、それを明白に示した点で、今回のマンガ化は見事な「思想小説」になっている。ブンガクファンも読むべし。

2004年06月02日(水) 年齢は関係ないのだ。
2003年06月02日(月) 人間みんなどこか狂ってるけどな/『るくるく』1・2巻(あさりよしとお)
2002年06月02日(日) 天動説健在/『ブレーメンⅡ』3巻(川原泉)/『殉教カテリナ車輪』(飛鳥部勝則)ほか
2001年06月02日(土) レトロポリス/アニメ映画『メトロポリス』(2001)


2005年06月01日(水) いいんだぜ/映画『オペレッタ狸御殿』

 あまり何やらの会員になったりするのは好きではないのだが、演劇関係となると話は別で、実はここ数年すっかり気に入ってしまった劇作家兼演出家の「G2」さんの(「さん」を付けないと、とても人の名前だとは気がつかれないね)「G2プロデュース」のホームページに会員登録をしている。
 月変わりのDVD販売も楽しみなのだが、毎月の特集記事が充実していて、更新が待ち遠しいのである。

 今月は何と中島らも一周忌特集。
 G2さんの語る「らもさんの思い出」が、語ってるG2さん自身がらもさんの優しさを思い出しながら泣いていて、それを読んでるこちらも自然と泣けてくる。

>(G2)らもさんはメチャクチャをするので、わかりにくいけれど、根はものすごくいい人でね。たとえば劇団の打ち上げでアンケートの読み合いっこをしたときに、誰かの失敗に突っ込んだのは、おもしろいから読まれるんです。でも、誰かが落ち込むようなのが読まれると、らもさんは、その人をほめるようなアンケートを探して、さりげなく読む。それもちゃんと笑いもとったりしながらね。そういうふうにして、人が傷つくことを、すごく避ける人でした。
>それが「いいんだぜ」というその曲に出てるんです。「いいんだぜ、いいんだぜ」の繰り返しのあとに、「君がめくらでも、君がびっこでも」と放送できないような言葉ばかりがずーっと続いて、最後に「いいんだぜ」で終わる。それだけの歌だけど、ものすごい深い愛を、ものすごい汚い言葉を並べて表現している。それを聴いて、一緒に行ったキッチュも泣いてました。

 どんなに大らかに生きているように見える人でも、心のどこかに何かの「傷」を持っているものだ。だから人はその「傷」を人前にさらすまいと、身の周りに幾重もの「盾」を「構えて」生きようとする。そうするしか仕方がないのだが、そうやって傷を守るために構えた「盾」だって、決して傷つかないわけではない。構えれば構えるほど、外界からの攻撃が増すことだってあるのだ。
 いつかその「盾」はボロボロになり、剥き出しになった心は、深く、これ以上はないというほどにズタズタにされてしまう。そうなってしまった人をどうしたら救えるだろうか。「頑張れ」とか「大丈夫」とか、生半可な言葉は絶対に届かない。「癒し」なんて流行語は屁の役にも立たない。けれど、らもさんの言葉は、そういう人たちにもちゃんと届いていたと思う。
 『いいんだぜ』の歌詞はこんなだ。

 >いいんだぜ いいんだぜ
 >いいんだぜ いいんだぜ

 >君がドメクラでも ドチンバでも
 >小児マヒでも どんなカタワでも
 >いいんだぜ

 >君が鬱病で 分裂で
 >脅迫観念症で どんなキチガイでも

 >いいんだぜ

 >君がクラミジアで ヘルペスで
 >梅毒で エイズでも おれはやってやるぜ
 >なでてあげる なめてあげる ブチ込んでやるぜ
 >君がいいヤツで だからダメなヤツで
 >自分が何をしたいのか 全然わからなくても

 >いいんだぜ

 >君が黒んぼでも 北朝鮮でも
 >イラク人でも 宇宙人でも
 >いいんだぜ おれはいいんだぜ
 >HEY’BROTHER&SISTER
 >君はどうだい

 >いいんだぜ

 いちいちどこがどう泣けると説明しだしたらキリがなさそうなのでやめるが、一つだけ言わせてもらえるなら、「いいんだぜ」、であって、「いいじゃないか」ではない点が、とてもいい。
 「いいじゃないか」と主張する歌はいくらでもある。本人は差別も偏見もない態度のつもりで悦に入っているのだろうが、それはとんだ間違いで、本気で自分に「傷」があっても「それでいいのだ」と肯定しているわけではない。単に開き直って、自己弁護の自己陶酔に陥っているだけである。
 それに対して、らもさんの「いいんだぜ」は、本気で人間を等しく全肯定している。「いいんだぜ」という言葉は、上の立場から見下ろしているわけじゃない。同じ立場の人間として、いや、“人間はみなダメだからいいんだ”という人間観で、“みんなを愛している”のだ。だから、らもさんの言葉が心に届かないことはない。
 正直に告白すれば、私は「君が鬱病で 分裂で 脅迫観念症で どんなキチガイでも」のところで、しげのことを思い浮かべて泣いてしまったのである。私がしげのことを「イカレてる」とか書くと、「自分の奥さんのことをそんなに悪く書くなんて」と文句を付けてくる人がたまにいるが、私はしげがイカレてることを隠さなきゃならないことだとは考えていないからこそ「イカレてる」とはっきり書くのである。しげがイカレていることが私たち夫婦の間で何の障碍にもなっていないのに、どうしてそれを秘匿したり「言い換え」たりする必要があるのだろうか?(まあ、しげが家事をしないのは困ったことなんだけど、それが原因で我々が別れたりするようなことにはならないので)

 常日頃、酔っ払いの悪口ばかり書いてるのに、アル中だったらもさんを賞賛するのは矛盾じゃないか、と仰る方もおられるかもしれないが、私ゃ確かに酒や酒飲みはキライだが、「人」が嫌いなわけではない。
 らもさんという人の何に感激しているかと言うと、普通、人は、立派になりたいとかマトモでありたいとか、言葉としての聞こえはいいが、つまりは人よりも頭一つだけでも「上」でありたいと思っているものなのに、そういう衒いが全くないどころか、“できるだけ人よりも低くありたい”と考え、かつ実行していたからなのだ。
 マトモな人にはこういうリクツは理解しがたいかもしれないが、らもさんは、「世の中のダメな人々を愛するために、自分が率先してダメになった」人である。酒もやった、薬もやった、人としてはどんどんダメになっていって、だからこそあれだけ人を好きになれた。馬鹿とののしる人はいるだろうが、そんな「上からものを言う人」には決して人を愛することの真実は見えてこないだろう。
 こんな豊かな人格をお持ちの人に、魅力を感じないではいられないのだ。

 もう一つ、特報で、後藤ひろひと作・松尾貴史主演、『BIG BIZ』『BIGGER BIZ』に続く第三弾完結編『BIGGEST BIZ ~最後の決戦! ハドソン川を越えろ~』の製作発表も。
 松尾貴史のモノマネとトリック・スターぶりを存分に発揮した、日本には珍しい「ギャグ」だけで「涙」や「感動」の要素がカケラもないこのシリーズ、1作ごとに設定も構成も展開もどんどんエスカレートしてきているので、これで完結となればいったいどんなことになるやら期待は大。
 これまでのキャストに加え、篠原ともえが初参加とか。この人が結構な「役者」であることは先刻承知なので、ナマで見られるとなればもう、女房を質に入れてでも見に行かずばなるまい(いや、ちゃんと一緒に行きますよ。言葉のアヤですって)。
 けれど、会場を見ると、これまでは一作目、二作目とも西鉄ホール、福岡での公演だったのが、北九州芸術劇場に変更されている。ああ、また北九州に「取られた」(泣)。もう、地方公演のある芝居で、見たいやつの大半はリバーウォークにばかり来やがるし。そりゃ、舞台の造りが違うから仕方がないんだけど。こないだの『シティーボーイズ』の舞台を見ても比較できるんだが、音響効果を考えた設計と言い、客席の傾斜と言い、東京公演の天王州アイルよりも北九州芸術劇嬢の方が頭一つ分くらい上なのである。
 福岡・博多は何してるんだ、という苛立ちの声を挙げるのもだんだん空しくなるくらい、九州演劇の中心地は確実に北九州に移ってしまっている。「演劇振興」を掲げた末吉北九州市長の努力が実ったと言えるんだろうなあ、儲かってはいないと思うけど。北九州演劇祭もすっかり定着しているし、これでまた旅費を少ない家計から捻り出してかなきゃならないのである。


 AMCキャナルシティで、映画『オペレッタ狸御殿』。
 脚本が『はれときどきぶた』ほかの浦沢義雄、監督が『ピストルオペラ』ほかの鈴木清順ということで、主演のちょっとオタクが入ってるオダギリジョーは「『ルパン三世』のコンビだ!」と狂喜したそうだが、別に『ルパン』を引き合いに出さなくても、この二人、もともと師匠と弟子の間柄なのである(兄弟子にやはり『ルパン』の脚本家・大和屋竺がいるね)。
 物語の筋は往年の『狸御殿』シリーズを踏襲しているから、極めて単純で、人間の若君と狸姫の種族を越えた(笑)恋を描き、命を落とした姫を救うために、若君が秘薬を求めて決死の冒険を……というものだが、単純なだけに、あまりクセのある脚本家・監督に任せちゃうととんでもない映画になりかねないのだが、やっぱりそうなった(笑)。
 定番の筋ではあっても、浦沢脚本のことだから、若君の雨千代(オダギリジョー)が実の父の安土桃山(平幹二朗)に命を狙われる理由が「ワシより美しいから」だったり、狸姫の命を救う秘薬が「極楽かえるの鳴き声」だったり、こういうナンセンスを書かせたら浦沢さんの右に出る人はいないのだが、いかんせん、そういうシュールなギャグを生かすためのテンポが、既に老齢の鈴木清順には生み出せない。
 そういうテンポを作るためにも、「オペレッタ」なんだから、ミュージカルシーンが大いに盛り上がってくれないことには困るのだが、これがまるでうまくいっていない。浦沢さんの作詞はもうハチャメチャで楽しいのだ(由紀さおりの「生まれ変わってもびるぜん婆あに生まれたい」って、アンタ生まれた時から婆あなのか、と大爆笑)。けれど、肝心の大島ミチルと白井良明が作ったメロディーが、もう作曲家として恥ずかしくないのかと言いたくなるくらいのクズ曲ばかりなんである。記憶に残るメロディーってのがどんなものなのか、ちったあ『サウスパーク』を見習ってくれ。オダギリジョーとチャン・ツィイーのダンスシーンも退屈なだけだぞ。
 といっても、ミュージカルのツボを外しまくった金子修介監督の『恋に唄えば』に比べればはるかにマシではあるのだが。薬師丸ひろ子の美声がこんなにいっぱい聞けるとは! 実際、この映画は平幹二朗・由紀さおり・薬師丸ひろ子の三人で“持っている”のである。
 
 正直な話、私は鈴木清順の熱心なファンとは言いがたい。一応、『ツィゴイネルワイゼン』以降の作品なら全て見ているけれども、日活時代の作品をせいぜい四、五本しか見ていないからだ。
 芸術とか映像美とか、そんな小賢しいホメ言葉が陳腐に聞こえるくらい清順監督の映画は「ヘン」なので、これはもう、私の感性としては当然「大好き」なんだけれども、どういうわけか見るチャンスを「外して」しまっていて、見損なってる映画が多いのである。エアポケットみたいな感じね。
 そのうちのいくつか、例えば『けんかえれじい』や『殺しの烙印』を見ただけでも「このカントクはイカレてるわ」ということはすぐ分かる。……と言っても、若い人は全然わかんないんだろうなあ。ヘタすりゃ、『ルパン三世(新)』の監修してたり、『美少女仮面ポワトリン』に神様役で出演してたことすら知らないかも知れない(何かのクイズ番組のレギュラー解答者として出演していて、いつもトンチンカンな答えばかり言ってたこともあったなあ。印象に残っているのは、「デブな俳優」というヒントに「岸井明」と答えてたこと。司会の紳助は目を白黒させていたが、無理もない話である)。
 だから、と言い訳するつもりはないのだが、私には鈴木清順という人があまりよく分かっていないのであって、面白いなあと感じている部分も、つまんないと感じている部分も、双方ともに印象批評の域を出ないのである。
 今回はそういうわけなんであまり突っ込んだ分析ができてないのですが、どうかご勘弁。

2004年06月01日(火) まだ眼が痛いのよ(+_;)。
2003年06月01日(日) 再開シンクロ日記(^o^)/映画『あずみ』
2002年06月01日(土) マトンウォーズエピソード0(^o^)/『ボンバーガール』1・2巻(にわのまこと)ほか
2001年06月01日(金) あえて美人殺しの汚名をきて/『「彼女たち」の連合赤軍』(大塚英志)


2005年05月31日(火) 出た出た糖が♪/映画『コーラス』

 先月の健康診断の結果が届く。
 通院もここんとこずっとサボってるし、薬も飲むのやめちゃってるから、あまりよくはなかろうなと思ってはいたが、やっぱり尿糖が+1。肝脂肪も相変わらずたっぷりこんと付いている。
 普通なら再度の精密検査が促されるところで、実際診断書には病院への紹介状も付いてはいたのだ。けれども、病気がひどい時には尿糖が+3、血糖値も主治医から「いつ死んだっておかしくないですよ」とまで脅されていた時期に比べれば、遥かに病状は“安定”しているように思えるのである。「なんだあ、プラス1じゃん」ってなもんで。ホントはそう言って放っといとくのがよくないってこと、分かっちゃいるのだが。
 それより気になるのは、もう四年連続で身長が縮み始めていることで、一年に1ミリから2ミリ、確実に縮んでいっているのだ。このままのペースで行くならば、850年もすれば私の身長はなくなってしまう計算になるが大丈夫だろうか。


 二子山親方(元大関貴ノ花)が、昨30日、口腔底がんのため死去。享年55。
 早過ぎる死、とは誰もが口にするだろうが、それを一番痛感しているのは兄の花田勝治氏(先代二子山親方・元横綱初代若乃花)だろう。
 私はこの十年ほどの花田家のゴタゴタについては全く興味がない。ワカノハナ・タカノハナと言われて連想するのは平成のボケ兄弟の方ではなく、親子ほども歳の離れた勝治・満兄弟の愛憎渦巻く相撲人生の方である。兄の鬼のようなシゴキに耐え、大関昇進を果たすまでの経緯は、小学館の学習雑誌に絵物語で紹介されるほど、我々の世代にはポピュラーな「偉人伝」の一つであった。
 しかし、貴ノ花が結局は横綱にはなれなかったことが、この兄弟の「物語」を、「未消化」のままで残すことになった。相撲ファンの中には、その物語の結末を「息子たち」に託したがっていた人も多かったようであるが、私に言わせるなら、貴ノ花と貴乃花は全くの「ベツモノ」である。親子の世代の違いとか、時代の違いとか、その程度の言葉では言い表せないくらいに「相撲」の概念自体が変わってしまった、そんな印象なのだ。陳腐な表現で申し訳がないが、「相撲からロマンが消えてしまった」のである。
 たとえ前時代的で封建的であろうとも、先代二子山親方の「シゴキ」と、それに耐えた貴ノ花の「我慢」や「辛抱」が、そのロマンを支えていた重要な要素であったことは否めない。別にシゴキが正しいとか言いたいわけではないが、「心・技・体」の一致が伝統として関取に求められる角界において、「辛抱」の精神は、実に保守的で、伝統に相応しいものであったのだ。先代の花田兄弟の「人間、辛抱だ」のCMは流行語にまでなったが、この台詞を堂々と言える相撲取りが、今、角界にいると言えるだろうか。相撲は死んだ、と感じているのはそのせいなのである。


 ダイヤモンドシティで、映画『コーラス』。
 不良、落ちこぼれだらけの学校を、一人の教師が音楽を通して更正させていく――という、どこかで聞いたことがあるようなオハナシであるが、これが日本映画なら主役の先生は若い熱血先生、なるところだろうが、そこは何と言ってもフランス映画である。主役の教師にハゲデブの冴えない中年を持ってくるという意外性。これがリアルかつユーモラスで実にいいセンスである。
 子供たちに音楽を教え始めるのも、自分が作曲家崩れの落ちこぼれなもんだから、「こいつらを利用して、俺の作った曲を歌わせてやろう!」という自分の欲望に忠実なだけで、教育の理念がどうのとか、そんなことはこれっぽっちも考えていない俗物なのである。意外や意外、この「音楽教育」が功を奏して、生徒を更正させることができるのだが、その手柄をやはり俗物な校長に奪われて、この先生、おおいにムカつくのである。どっちもどっちだわな(笑)。
 生徒たちも、一応、コーラス自体が楽しくなって先生の言うこと聞くようになるのだが、決して先生をソンケイするようにならないのがよい。こういう映画を見ると、スーパーマンモドキのキャラしか出て来ないハリウッド映画よりも、フランス映画の方がよっぽど日本人の感性にしっくり来ると思うんだけど、どうしてみんなアメリカ~ンなウス味にばかり群れ集うかね。


 Yahooの掲示板で、『Zガンダム』の感想など見る。
 案の定、賛否両論で、賛の方はともかく、否の方はかなりヒステリックである。たいていは「なんだあのダイジェスト版は」というものだが、初見の感想でも書いた通り、あれは通常言われるダイジェスト版とはまるで違うのだ。と言うより、「ダイジェスト版だ」と思ってしまった瞬間に、あの映画の本質も面白さも見失う仕掛けになっている。
 例えば殆どの批判者は、「あれでは世界設定も人間関係も分からないではないか」という、ムカシのファースト三部作の時にも散々口汚く言われていたことを書きなぐっている。しかし、私が不思議でならないのは、『Z』を見たことがない客に対してもあれだけ「分かりやすい」構成と演出がなされているというのに、どうして「テレビシリーズを見ていないと分からない」と断言する連中がやたらいるのかなあ、ということなのである(実際、初見でも面白かったという意見も多いというのに)。テレビシリーズを見ているファンは、どうしてもカットされている部分を知っているものだから、脳内でその部分を補って、「この描写がないと意味が繋がらないではないか」と考えてしまうのだろうが、逆にカットされた部分を思い出してしまうと、新作部分との整合性が崩れてしまうことになる。だからあれは「ディレクターズカット版」であって、あれ以外の描写は存在してないの。
 例えばレコア・ロンドとカイ・シデンの出会いだってカットされているのだけれども、それがテレビシリーズの通りであったとは限らない。というか、あの描写なら、「レコアが捕らえられた牢獄にカイもいた」と解釈して何の問題も生じない(カイが誰だか分からない、という人には唐突に見えるだろうが、だから「ファースト」のストーリーだけは知っておく必要があるのだ。「続編」なのだから、『Z』から見ようってのはさすがに無理である)。また、幽閉されて再び戦うことを逡巡していたアムロが、次のシーンではもうカツと行動を共にしているのは、小気味よくすらある。あの展開の早さゆえに、「アムロの迷いや愚痴はただのポーズで、実はティターンズに反旗を翻す機会を狙っていた」という解釈が成り立つ。あれならアムロはヒネた中年にならずにすむわ(笑)。「新訳」とはそういうことなので、同じ絵とセリフを使いながら、テレビシリーズとはキャラクターの設定も意味も全く別物になっているのである。だからテレビのことは忘れなさいって。
 そもそも、そのように怒る人たちは、何をどこまで理解できれば気がすむのであろうか。もともとの『ガンダム』シリーズを全て理解しており、その上で『Z』は説明不足だ、とでも言いたいのであろうか。だとしたらその人はかなり傲慢な人間である。これも有名な話であるが、テレビシリーズでは、「ミノフスキー粒子」の説明すらなされたことはないのである。オタクはすぐにガイドに頼るから、「ミノフスキー粒子が分からない」とヒトコトでも言えば、鼻息吹かしてウンチクを垂れまくるが、そもそも『ガンダム』シリーズの「物語」を楽しむのに、ミノフスキー粒子を理解していることが絶対必要条件であると言えるだろうかね? 『Z』に関して言えば、冒頭のナレーションで示されている「ティターンズとエゥーゴの対立」が理解できていればそれで充分で、キャラクターは全てそのどちらかの陣営に所属するように「分かりやすく」配置されている。シロッコの登場シーンを見て、こいつが「ティターンズ側だ」と気づかない者がいるだろうか? いたらそいつは小学校低学年以下の理解力しか持っていないと判断されても仕方あるまい。
 笑っちゃうことに、「映画になってない」という批判をしている人もいたが、これくらい「映画を知らない」発言もない。「映画」の概念なんてそんなに簡単に規定できるわけもないし、富野監督は富野監督自身の映画理論に則ってあの「映画」を作っている.それが自分の映画観と反しているからといって、「映画になってない」と断言することがいかに傲慢な行為か。「映画じゃない」というセリフは、口にした途端に映画ファンの仲間うちから「馬鹿」と断定されてツマハジキにあう運命にあうことを、ちょっとでも映画関係の本を読んだことがあれば感得できることなのであるが、何百本と映画を見続けていてもそのことに気づかない半可通も巷には結構いるのである。こういうやつは決まって自前の「映画論」とやらを得々と語り始めると止まらないので、鬱陶しくて仕方がない。こういうのの意見は一切無視してよいのだ。
 「全編新作画でなぜ作らなかったか」という批判については、気持ちは分かるが、そもそも「旧作の作画を使って、新しい物語・映画が作れるか」というのがあの映画のコンセプトなのだから、お門違いの批判だとしか言いようがない。だからあれは「新訳」であって「新作」じゃないんだってば。「あこぎな商売しやがって」という類の批判にもならない下らない批判についてはもう、何をか言わんやである。なんかもう、常識的なことを言わなきゃならないのは気が引けるんだけどさ、あの映画に対する「批判」をしたいのなら、まさにその「新訳」された箇所について、「こういう編集の仕方をした方が面白いぞ」という具体例を出せなきゃ話にならないのよ。それができてる批評がただのひとつもないというのはどういうわけなんだろうかねえ。

2004年05月31日(月) 思い返すことども。
2003年05月31日(土) 追い込み日記/サボっていた男
2002年05月31日(金) 病気はハンデじゃないってば/映画『スパイダーマン』/『ミステリー民俗学者 八雲樹』1巻(金成陽三郎・山口譲司)ほか
2001年05月31日(木) 多分まだ20世紀は終わっていない/DVD『なぞの転校生Ⅱ』



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藤原敬之(ふじわら・けいし)