無責任賛歌
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| 2001年05月12日(土) |
今日までそして明日から/『私はスポック』(レナード・ニモイ) |
あっ、また投票ボタンが変わってる。 「押せば〜?」って、しんちゃんかい(+_+)。
福岡の映画館は、某ホ○劇場を除いて全て踏破してるつもりだが、去年新しくオープンしたばかりのワーナーマイカル福岡東(粕屋町)にはまだ行ったことがなかった。 ちょうど今日から『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』が始まるので、場所の確認がてら、二度目の鑑賞。 正直なところ、もう二度目だし、最初に見たときほどの感動はあるまい、とたかを括っていたのだ。第一今度は、同人誌のためのネタを確認するためだから、メモ書きに気を取られて、映画の話の流れについてはいけまいと思っていたのだ。 ところがぎっちょん(←古い。でもこれ語源はなんなんだろね?)。 私はルノアールのココアより甘かった(←c.江口寿史)。
メモを取るたびに、1回目には見のがしていたカットやセリフに気がつくだけでなく、あちこちに張られていた伏線にも改めて気付く。 そうか、「スナック・カスカビアン」でしんちゃんたちがオトナになったのも「匂い」のせいだったのね。
ひろしの回想シーンは子供のころ、父親銀之助との二人乗り自転車のシーンで始まり、現在の家族の自転車シーンで終わる。そうか、「家族」は21世紀も繰り返すって、この時点で語られてたんだなあ。というか1回目そのことに気付いてなかった私がバカ。 前にもここで泣いたのに、今回も泣いてしまった。しんのすけの「とうちゃん、オラのことわかる?」のセリフに続く、ひろしの「ああ、ああ」と言うセリフ、こんなに情感がこもっていたのか。 声優陣の、一つ一つのセリフに込められた思いが伝わってくる。1度目は泣けなかった「俺の人生はつまらなくねえ!」のセリフにも泣けた。なぜここまで私ははまってしまっているのだろう。でもそんなことわからなくてもいい。後半、私の涙は一瞬たりとも乾く間がなかった。
音響もまるで違っていた。 特定の映画館を非難したくはないので伏字にするが、前回『オトナ帝国』を見に行った○○○○は、スピーカーをスクリーンの裏に置いただけのクソ設備であった。 冒頭シーンのビートルが、玩具ハウスに隠れたカスカベ防衛隊を探すひろしの足音が、5.1チャンネル(多分)サラウンドで聞こえてくる。 極めつけはクライマックス、タワーを駆け上るしんちゃんのBGMだ。 こ、こんないい曲だったとは。もはや涙は止めど無く流れている。 音楽、荒川敏行と浜口史郎。この二人の名前も忘れはしないぞ。
思わずハッとしたカット。 走るしんちゃんの姿に見入っている夕日町商店街の人たち、魚屋で「お魚くわえたドラ猫」が逃げて行くのにも気付かない。 あの『サザエさん』のルーティーンに町の人たちはもう背を向けている。 『しんちゃん』と『サザエさん』のどこが違うか。 『サザエさん』は既に様式の枠からはみ出ることなく伝統芸能化している。しかし、『しんちゃん』は永遠の幼稚園児でありながら、まだ今を生きていたのだ。
「とうちゃんの足の匂いより臭い匂いはないぞ」、そう言ってしんちゃんは走る。ケンが「足の匂いでも止められない」と言っているのに、全く聞いていない。しかも、ひろしが足止めをくらって足の匂いがなくなっているのに、しんちゃんは意味もなくタワーを駆け上がって行く。 デタラメだ。 ケンとチャコが自殺を思いとどまったのも、しんちゃんの勘違いとキジバトのためだ(あんな高いところに巣を作るとはあの鳩も相当おバカ)。 こんなにいい加減で、偶然に頼った結末はない。 でもだからこそ感動を呼ぶのだ。 ケンがふとつぶやいたように、私たちは近頃走らなくなった。意味のない行動を取るのが恥ずかしくなっていた。そつなくやり過ごすのが大人になることだと思っていた。 でも無意味で、無責任で、自由で、おバカな行動が、世界を救うことだってあるのだ。『うる星やつら4 ラム・ザ・フォーエバー』で、あたるがラスト、意味もなく走って世界を救ったように。 もう一度走ろう。 ただ意味もなく、夕日に向かって。 『クレヨンしんちゃん』は別にシリアスな話に変わってしまったわけではない。やっぱり今回も今までと同じく、「おバカが世界を救う」物語だったのだ。
映画が終わって、しばらく立ちあがれなかった。二度見て、一度目以上に泣いた経験は生まれて初めてである。もう迷いはしない。私の最高のフェイバレット・アニメは文句なくこの『オトナ帝国』だ。
今回も私が泣いたので、しげが喜ぶこと喜ぶこと。 映画館の隣の「SATY」で、オムライスをぱくつきながらも、いつもはさほど映画の感想を聞こうともしないくせにやたらと「どうだった、どうだった?」と聞いてくる。 ちくしょう、また泣かせようとしてやがるな。どうもこうもねーや。 俺はお前と出会えてよかったよ。お前と一緒にこれからも生きていけるのが嬉しいよ。あの映画見ながら、そんなことを考えていたんだ。でも、そんな気恥ずかしいセリフ、お前を目の前にして言えるか。 ここで書いたからいいだろう。直接、俺の口から言わせようなんて思うな、バカタレが。
連日オタアミ会議室を覗いているが、そろそろ一通りの感想は出尽くした感がある。実のところ、肯定派、否定派も含めて、私の予想をはるかに越えた意見が現われなかったことにホッとしている。 その映画が認知、評価されるためにはとにもかくにも話題にならなければならない。しかし、いつぞやの『エヴァ』論争のように、「『エヴァ』を認めない者はアニメファンではない!」と言い切るようなファナティックなやつらが現われるようになると、その作品は正当に評価されなくなってしまう。 薄いカルトは作品を世間に認知させる推進力となるが、濃いカルトは、作品の評価を地に落とすのだ。 一見、感情的なやりとりに見えながら、『オトナ帝国』ツリーはごく冷静にそのテーマについての語り合いが続いていた。本当にこの映画が『ホルス』や、『カリ城』や、『うる星2』のように、カルトとなり得るかどうかはまだまだ未知数だが、その下地を作るお手伝いはできたように思う。 ということで、私としては最後のつもりで、今日の日記に書いたようなことを書きこみ。 ツリーを最初に起こしてから、都合、7回くらい書いたかな? でも4つのツリーで80近く書き込みがあったから、まあ10分の1、このくらいのはしゃぎぶりなら、会議室のみなさんに対して、そう迷惑にもなっていまい。
レナード・ニモイ(富永和子訳)『私はスポック』読む。 これは凄い。 自伝の類というものは、たいてい我田引水的な自慢話になるか、露悪的なスキャンダル本になるか、どっちかである。いずれにせよ、書き手の意図とは裏腹に、その伝記の作品的評価などは無視されて、ゴシップについての興味から読まれてしまうことが圧倒的に多い。 実際、「作品として」読むに値する自伝など数少ないのだ。 ましてや『スター・トレック』については、これまで数々の「ウワサ」が流されてきた。Mr.スポック役のレナード・ニモイとカーク船長役のウィリアム・シャトナーの確執などは、ある意味「常識」でさえあった。 しかし、この自伝、冒頭から度肝を抜いてくれる。なんと、「スポックからニモイに宛てた手紙」で「物語」が始まるのだ。 それからもニモイは随所でスポックと対話しつつ、自らの軌跡を客観的に捉えようとする。これはまさしく演劇における「狂言回し」の手法である。 映画『チャーリー』がこれと似たような手法を取っていた。ある俳優の回想を、記録者が質問を繰り返す形で誘導していく。ともすれば、自己弁護的になる俳優の言葉を、記録者は冷徹に問い質し、道を作っていく。ああ、そうか、これのルーツは『ハリウッド大通り』だ。 そう、これは一篇の「小説」だ。 『スター・トレック』サーガのスタッフ、キャストたちとの関わり自体をサーガとした、「創作」なのである。
エピソードの一つも紹介しないのは不親切かもしれないが、どれを選んでよいやら判らないくらい、笑える話のオンパレードなのである。 「カーン役のリカルド・モンタルバンの筋肉隆々の胸はホンモノだった」と書いてあるのを読んで、そう言えば『サタデー・ナイト・ライブ』中のスケッチ、「どっちがモア・マッチョ」にしっかりモンタルバンの名前が紹介されてたなあ、と思い出す。いや、そんな、他人のマッチョさにいちいち驚嘆して見せんでも(^_^;)。 犬猿の仲と思われてるのを承知で、ワザとシャトナーと喧嘩して見せたり。 スポックのくせにいつもユーモラスなのだ。 「スポックが恋しいか? いや、なぜなら彼はもう私の一部だから」。この言葉には素直に感動する。渥美清も寅さんについて似たようなことを言っていた。これが言えるのは、一つの役に固定されることが演技者としての死につながりかねない俳優にとっては、恐ろしく勇気がいる言葉なのである。 なのに、この「物語」の末尾は、ニモイに向けられたファンの女性のこの一言で結ばれる。 「あなた、レナード・スポックでしょ!」 感動。
| 2001年05月11日(金) |
ちょっと愚痴を言いたい夜/『荒野の出前持ち』(石川賢) |
多少の眩暈は残ってるけど、もう休んじゃいられない。 昨日までの仕事の失敗をとり返さないとなあ(←マジメ)。
また職場の上司が下手にこの日記読んだりするようなことがあると曲解するだろうから、念のため付け加えとくけど、「熱発して寝てるはずなのに、マンガ読んでるじゃないか!」という批判は受け付けねーぞ。 私は熱発してなきゃもっと本を読んでいるよ。 せめてマンガでも読んでなきゃ身が持たないくらい活字中毒なんだよ、こっちは。一日の半分以上あふあふ言って寝込んでるくせに、それでもパソコンに向かったりしてるのは、バカではあるけど、仕事サボって遊んでるわけじゃねーや。そうでもしてないと自分が情けなくて神経がもたねーんだよ。 「パソコンに座れるくらいなら出てこい!」と言いたいんだろうが、それは足腰立たないくらいヨイヨイじゃないと仕事を休むの許さないって言ってるのと同じだってこと、自覚してるか? てめーら蟹工船か。 仕事に行けない精神的挫折感から気を紛らわしてることすらそうやって曲解するくらいお前らは「健康」なんだよ。この健康バカめ。ガキのころからどんなに鍛えても体力がつかなかった者の身になってみろってんだ、この○○○。
うーむ。溜まってんなあ。だからこれ、仕事ができないヤツアタリなんだけどね。上司がこれを読まないことを切に望む(^_^;)。
それでも昨日の下手な仕事のフォローをして、早退することもなく帰宅。大分調子が上がってきたかな。来週はまた本も読めないくらい忙しくなるだろうなあ。
ここしばらくテレビもまともに見ていなかったので、東京で女子短大生が刺殺された事件についても特に関心を抱かないでいた。 東京でこうたろう君も「うちの近所なんだよ」とお子さんのことを心配されていたが、今日やっと犯人が捕まり、通り魔的ゆきずりの犯行であることが判明したようだ。 「かわいい子だから襲った」と言うのがいかにも「サルだなあ」と思わせるが、ニュースキャスターがまたぞろ「最近の若者は」と言うバカ論調で語り始めるのも業腹だ。 これって、体育系部活動のイジメが先輩から後輩へと受け継がれるのと同じで、「俺たちも昔、最近の若者はだらしないとか言われて来たから、今度は自分たちが言う番だ」と錯覚してるんだよな。こういう「バカオトナ」がやたら増えちまったおかげで「子供をきちんと教育しなければならない」という愚にもつかない論調が世間をまかりとおることになってしまう。それがイジメなんだって。 自分たちのそういった発言のせいでイジメ構造が維持されてるんだってことにいい加減気付けよ。
活字に飢えていたので、本屋に行って買い損ねていた文庫の新刊を買いこみ、ロイヤルホストで食事。ソースカツ丼を頼む。 マンガ、石川賢『荒野の出前持ち』、食事をしながら読み切る。 まあ今の目で見ればギャグマンガとしてはそう笑えもしないが、最初期の石川賢が本当に永井豪の絵に似ているのには驚いた。『ウルトラマンタロウ』や『キューティーハニー』の頃にはもうはっきり絵の違いだけでなく、テーマ性も違うことに気づくようになるのだが。でも「永井豪の絵に似ている」ことで出版社から使われていたことに対して怒らずに仕事をこなしていたというのは、石川さん、えらいなあ。プライドを本当は傷つけられていたろうに。 ふと目の前のカツ丼を見ると、いつの間にかカツが減っている。しげがくすねているのだ。……別に言えばやるのにどうしてこう、卑怯な行動に出るかな。これだから貧乏性は……。 「もう元気になった?」 と何度もしげに聞かれる。でもこちらの身を心配して言っているようには聞こえない。何となく「もう少し病気でいればいいのに」と言っているようにも聞こえるのだ。私が元気だとあまり構ってもらえないと思ってるんだろうな。あくまで自己中心的なやつである。全くもう……。
『キネマ旬報』特に面白い記事なし。 『アニメージュ』『ニュータイプ』、新番組で面白そうなものは少ない。安彦良和が『ガンダムエース』と題して、あのファーストガンダムのリメイクをマンガ化するというのがちょっと燃える。でも随分絵柄も変わってるしなあ、面白くなるかなあ。フラウ・ボウやセイラさんにまた会えるのは嬉しいけど。
夜、11:30から、生まれて初めてチャットに参加する。 お相手はオタク・アミーゴスの方々。クレヨンしんちゃんの話から、特撮の話など、目で追い、字を打ちこむのに懸命で頭がついて行かない。 みなさんに迷惑かけたかなあ、と、落ちこみながらキイを叩いていると、またぞろやきもちを焼いたしげが横からやいのやいのと声をかけてくる。 どうにも集中できないので、1時間ほどでリタイア。 でも機会があればまた参加してみたいものである。
| 2001年05月10日(木) |
仕事復帰、半分だけだけど/『× ―ペケ―』6・7巻(新井理恵) |
ふと気がついたら、この日記の投票ボタンの文句がまた変わっている。 最初はたしかしげが「読んだら押す」にしてたんだよなあ。それを「強制的」と受け取った方がいらっしゃったので、私が「長いけど面白いと思う人はココを押してください」に変えて、そしたら今度は「押してみる?」に変えられていたのだ。 当然、変えたのはしげだ。別に変な言葉になってるわけじゃないが、変えなきゃならない理由も解らない。 「別にどんな文句だっていいじゃん。なんで変えたの?」 としげに聞いたら、 「あんたが他の女の言うことを素直に聞くのが許せない」 と来やがった。 こんな些細なことを根に持つとはつくづく難儀な女を女房にしちまったもんだ。ジェラシーもここまで来るとかわいげがないんだがなあ。 でもこれ以上変えると家庭争議に発展しそうなので、このまま行きます。ご不快な方もありましょうが、まあウチの家庭を守るためだと思って、ご容赦下さい(^_^;)。 でも日記をいろんな人に読んでもらうというのはやはり面白い。トラブルもあるが、人と関わっていくものである以上、トラブルの全くないコミュニケーションというものも有り得まい。 ただ、シャレにならない喧嘩をするつもりもこちらにはないのである。見知らぬ方の日記を読みながら、いろいろツッコミを入れたくなることも多いのだが、さて、この人とは同じ土俵に立って話ができそうかな、と判断するのはこれでなかなか難しいのだ。 今のところ自分のお気に入りに入れている日記はほんのいくつかなのだけれど、映画関係の批評を書かれている方などは、『キネ旬』の批評よりも適切なことを書かれてたりして、読んでいて楽しい。更新が少ないのが残念だけれど。
今日はさすがに仕事に行く。 熱だけはとりあえず下がったしな。でもやはり半日もすると立っていられなくなって、早退する。というか仕事をしてても能率が上がらないというか、全く仕事になっていないのが自分でわかるのがツライのだ。 今日やった仕事はほぼ全部明日以降やりなおさなければならないだろう。体調は戻りつつあるが、精神は自己嫌悪でボロボロだ。 「大丈夫ですか」と同僚に声をかけてもらうたびに涙が出そうになるのをこらえる。不惑のトシだってのに、惑うことは未だ多しだなあ。
帰宅して寝ていると、しげがまた「サボリ〜」とからかってくる。 今日こそはこのアマ、いてこましたろう、と思って起きあがった途端に爆笑。 しげがとても変な格好をしていたのだ。 「なんで笑うの?」 「変な格好だからだ」 「どこが変なん」 そう言ってしげはまた変な格好をする。途端にまた私の腹の皮が捻りあがる。 「ひひひひひ、お、お、お前は俺を笑い殺す気か」 「そこまで笑うほうが変だよ」 「そんなこと言うとおまえがどんな変な格好してたか日記に書くぞ」 「いいよ?」 と許可をもらっているので、しげがどれだか変だったか、ここで書いてもいいのだが、あまりに哀れなのでやはり書かないことにする。 読んでる人はできるだけ自分の思いつくアホな格好を思い浮かべてください。「キング・タット」の比じゃないので。
大分調子がよくなってきたとは言え、あまり本などをじっくり読めるわけでもない。久しぶりに伊福部昭の音楽が聞きたくなって(『オトナ帝国』の影響だな)、『完全収録 伊福部昭』を適当に聞く。 『聖なる泉』や『マハラ・モスラ』は何度聞いてもいい。 ただ、歌詞カードがアルファベットで書いてあるのだが、耳で聞く限り、その歌詞通りには聞こえないフレーズが結構あって、未だに正確には歌えないのだ。 第一『マハラ・モスラ』自体、歌詞には「MAHAL MOTHRA」と書いてある。これじゃ『マハル・モスラ』じゃないの。 万博のテーマソングも伊福部さんが作曲してたんだよなあ。『オトナ帝国』の最初のシーンも音楽がウルトラマンより東宝特撮っぽかったのは、その関連もあるのかも。 『キングコング対ゴジラ』メインタイトル、一部歌詞を覚え間違えているところがあり、口ずさみながら覚えなおす。でも考えてみると、 病人が青ざめた顔で「あ〜し〜、あなろい、あせけ〜、さもあい」とボソボソ歌ってる姿って相当怖い。 オタクが一般的に「変なやつ」と思われちゃうのはこんな時なんだろうなあ。
井上ひさし編集の『寅さん大全』を読み返しながら、寅さん映画について記憶違いしていたことなどを正す。 ずっと思い出せなかった、寅さんが柴又に帰ってきた時に声をかける「おい、○○屋、相変わらずバカか?」の○○の部分、「蓬莱屋」だった。昔は忘れることってなかったのになあ。こんなこともなかなか思い出せなくなってきているのだ。 ついでに言えば『大全』をいくら繰ってみても、 寅さんが宇宙大怪獣ギララと対決したのが第何作だったか 書いてない(もちろん夢の中でです)。井上ひさし、怪獣をないがしろにしていることがこれで判明。やはりあの男に日本文化を語らしちゃいかんな。 ……でもホントに第何作だったっけ?
SF作家の山本弘さんから、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』同人誌の参加受け付け承諾のメールが届く。 オタアミ会議室で募集があって、すかさず参加メールを送ってしまったのだが、わずか二日で発行が決定したということは、相当数の参加者が集まったと見て間違いなかろう。でもシメキリが六月末と「ヒジョーにキビシーッ」。 それにプロの方々が多数いらっしゃるだろうから、私のようなド素人が駄文を寄せるのも本当はかなり迷惑なはずだ。それを快く承知してくださったのだから、これは本当にありがたいことである。 これで、もう一度映画を見に行く決意が固まった。書きたいことは頭の中に膨れ上がっているので、それを「読ませるもの」に整理するためにも今度は映画を見ながらきちんとメモを取ろう。おおっまるで小林信彦(別にこの人以外の評論家だってメモは取るだろうけどね)。
で、またまた怒涛のごとくツリーが伸びているFCOMEDYのオタアミ会議室、覗いてみると、やっと議長の岡田斗司夫さんが書きこみされている。 ところがどうしちゃったんだろう、一応誉めてはいるんだけど、「21世紀の限界」なんてことを言い出しちゃってる。 詳しい論旨が書かれてないのに何か意見を述べるのはまずいかも知れないが、岡田さんの『未来玩具』や『失われた未来』を読む限り、万博後のあの不安と絶望の未来を経験した身としては、素直に「家族」が21世紀のキーワードになりうるということを信じられないのかもしれない。 私も『未来』を読んで泣いた。確かに私にも「未来を信じていた」時代があったし、それがいつの間にか消えていたという喪失感を味わってきていたから、岡田さんが何を言いたいかは見当がつく気はする。 それに岡田さんは今アレしてるから、しんちゃんは特にアレなんだろうなあ、とも思うので、本当は依頼原稿とかならともかく、オタアミ会議室には書きたくなかったんじゃないかなと思うのである。 でも、事情はどうあれ、岡田さんが冷静さを欠いていることは間違いない。ある作品について「これがこの作家の限界だ」とか「この映画の限界は」と言い出すことはもっとも安易な批評方法だというのが常識だからである。実際にはそれは批評者自身の読み取り能力の限界を露呈することになるので、駆け出しならともかく、ベテランの評論家がこんなもの言いをしたら笑われてしまう。そんなことも解らない岡田さんだとも思えない。 多分やっぱり今アレなんだろうなあ、と思うと、無理やり岡田さんをあのツリーに引っ張り出そうとした何人かの人に、少しは思いやりの気持ちを持てよ、と言いたくなってしまうのだ。 書きこみしないことだって自由なんだぞ。
マンガ、新井理恵『× ―ペケ―』6・7巻(完結)。 しげがいつの間にか買ってるマンガ、ようやく完結。 私はあまり面白いと思わないんだがなあ。他人を笑うギャグがストレート過ぎて捻りがないし。「女なんて恨みとねたみだけでできてる」みたいな感じで同性に対しては特に辛辣になんっちゃってるしなあ。 だからカタルシスがあるのかなあ、しげにとっては。 イカン、こういう書きかたするとまた誤解を招きそうだ。でもフォローのしかたも思いつかんので、とりあえずそういうことにしておこう(何をだ)。
| 2001年05月09日(水) |
病気で寝ててたいして書く事ないはずなのに(^_^;)/『死神の惑星』1・2巻(明智抄) |
風邪引きさん三日目。 熱はどうやら下がったようだが、腰が立たない。三歩歩くと眩暈で倒れそうになる。 台湾に生息する「百歩蛇」という蛇に噛まれると、百歩歩かないうちに死ぬというが、それで九十九歩まで歩いてあと一歩のところで立ち止まってガマンしてるってギャグ、誰が書いてたっけなあ。 というか「百歩蛇」なんて知識、私ゃどこから仕入れたんだ。川原泉のマンガからだったような気もするが、「川口浩探検隊」だったかもしれないし、どうにも思い出せん。 ……なんか未だに熱に浮かされてるような文章だが、これを書いてる時点では、もう風邪はほぼ治っているのである。普段から熱に浮かされてるようなやつなのだな、私は(^_^;)。
というわけで今日も仕事には出かけられず。 しげは「またサボリ?」と人の心が思い切り傷つくような言葉を言ってのけてくれる。あいつはな〜、私がな〜、なに言われたって傷つかない鉄面皮野郎だと思ってるんだよな〜。休みたくって休んでるわけじゃないのにな〜、身内からそんなこと言われたら切なくて悲しくてし方がないのにそれもわからんよ〜なやつなんだよな〜。 こいつのこのセリフを聞くたびに、私は自分の心が太平洋のように広くなったなあ、ということを実感するのである。 ……十年前だったらしげの野郎、ぼてくりこかしてるよな。もっとも、そうしなくなったのは、10年間で私のほうの体力が衰えちゃったせいなのかもしれんが。
一日寝てりゃ治るだろうとタカを括っていたのが間違いだったのだろうと、医者に行こうと思うが、腰が立たないのでは自転車にも乗れない。 「しげ〜、タクシー呼んでくれない?」 「なんで!? K病院でしょ!?」 歩いても7、8分しかかからないところにあるのだから、しげの不満は一応わかりはする。でも、そんなこたぁ、こっちだってわかっちゃいることなんだがなあ。 ともかく喧嘩する元気もないので、ムリヤリタクシーを呼んでもらって医者に行く。 「付き添いはしないよ。退屈だから。その間、買い物してるから終わったらケータイに電話入れな。タクシー呼んでやるから」 優しいんだか冷たいんだかわからん(ーー;)。 ともかく逆らう元気もないのでしげの言うとおりにする。 それにしても私が病気してるときって、どうしてしげはああも生き生きとしてるのだろう。 なんだかジェリーをいたぶる時のトムのようだ。 ……いや、確かに似てるぞ。眉を吊り上げ目を輝かせて舌なめずりしてる顔なんかそっくりだ。 ……誰かブルさん呼んでくれ(T_T)。
注射一本打ってもらって、薬ももらって飲んで、後は横になってりゃいいだけなんだけれども、やっぱり一、二時間も寝てたら、退屈してくる。 寝てたら咳も比較的小康状態になるので、動いてもいいような気になるのがまあ錯覚なんだけれども、そうやって体調を悪化させてしまうのは、しげと同じ程度の脳みそしか私が持っていないという証拠である。 まあしげの脳みそは溶けててドロドロで、私のは風が吹きっさらしていて、塵になって舞ってるくらいの違いはあるだろうが。 ……大して変わらん。
で、今日もしげの寝てる隙にパソコンの前に座って、『クレしん』の評判などをあちこち覗く。 あまり健全な精神の持ち主は見るものではない巨大掲示板、2ちゃんねる、ここしばらくほとんど覗いていなかったのだが、さてどんな悪口雑言が書き込まれているのやら、と覗いてみた。 ……意外や意外、絶賛の嵐である。 映画板、アニメ板、ともに、割合的には賛9、否1くらいの割合。 その否のほうだって、まともに映画を見たとは思えない煽りや荒らしがほとんど、ほぼ貶している人間がいないに等しい。 夏目房之介さんが以前書きこみをされてた頃に、荒らしの書きこみが極端に減ったことがあったが、やはり「ホンモノ」の持つ力は強いのだなあ、と気分が心地よくなってくる。 ただ、中にはやはり「そんなに傑作?」という疑問の意見もある。 泣かないどころか白けちゃった、という感想で、理由は「なつかしさ」を喚起するためのガジェットが表面的ななぞりに過ぎない、ケンとチャコの行動原理が分らない、などの不満によるもののようだ。 しかしこれは個人の感受性の差によるものなので、映画自体の欠陥というわけにはいかない。誤解を招かないようにもう一言付け加えておくと、感動できないのは受け手の感受性が劣っているというわけではなく(劣ってる人もいるけど)、人によって感激のツボが違う、ということであるのだ。
しげを引き合いに出すと、やたら怒られちゃうのだが、しげが『オトナ帝国』を見て泣かなかったのは、あいつが人非人だからではなく(人非人でないとも言わんが)、過去に郷愁を感じるにはまだまだ若い、ということである。別に悪いことでもなんでもないのだ。 しげはあくまで自分のことを「もうオトナだよ!」と主張するかもしれんが、いっぺんあいつと直に会話した後であれを「オトナだ」と実感する者はそうそうおるまい(^^)。 こんなことを言うと恥ずかしくなっちゃうのだが、あの映画は「守るべきもの」を持っている人間にとっては心にズシンと来る映画である。日頃、能天気なしげの顔を見てると、「こいつをいざってときには守ってやらなきゃならんのか」という気になることもあるが、あの映画を見た後だと、「こいつを守ってきてよかった」と思うし、「これからも守って行こう」という気にさせられるのである。まあ気持ちだけだけどね。
他のサイトも軒並み好評、唯一、朝日新聞の「アニマゲドン」だけが「後半シリアスでしんちゃんらしくない」と見当ハズれの批評をしているだけであった。ラストでケンとチャコの自殺を食い止めたのは、しんちゃんのおバカであるのにねえ。
マンガ、明智抄『死神の惑星』1、2巻読む。 頭がぽ〜っとした状態のまま読んでるので、設定がよくわからないのだが、未来の、宇宙の話らしい(^_^;)。 『サンプル・キティ』を読んだときにも思ったが、明智さんはマキャベリスティックな女性を描かせると抜群にうまい。対する男はたいていマザコン(^^)。 しかも必ずと言っていいほど明智さんはキャラクターの「過去」を掘り下げて描くが、これがただの回想シーンに堕することなく(『ONE PIECE』と比べるとその差は一目瞭然)、世界と人間との関わりについての深い洞察があることがよくわかる。 鈴木エリザベートのキャラクター造形は特に出色。生きられるはずのなかった子供、生まれて十数年を培養槽の中で過ごし、知能自体は成長していても、全く人の感情に触れることもなければ、社会の「ルール」を知ることもなく、現実を知覚せざるを得なくなった少女。 自然と彼女の模索する「生きるための方法」は、人間の感情も含めて「データ化」することに費やされた。喜怒哀楽ですら、彼女にとっては脳によってシミュレートされた思考パターンに過ぎない。でもそれゆえに人間の心がいかに欺瞞に満ちているかを、明智さんは鈴木エリザベートが政治家へと歩んでいく軌跡を辿りながら読者に提示していくのである。 ……しげが明智さんにハマるのもわかる気がする。しげ自身、この鈴木エリザベートみたいな「感情をシミュレーションしないと生活できない」やつだからだ。もちっと社会のルールを覚えなさい。
| 2001年05月08日(火) |
38℃線突破/『なみだ研究所へようこそ!』(鯨統一郎) |
ついに熱発して倒れる。 職場に休みの連絡を入れて、あふあふ息をつぎながら万年床の上で天井を眺める。 しげに「おまえの風邪が移ったのかな」と言うと「私のせい?」と拗ねられる。 「なんでおまえのせいだよ、ウィルスのせいだろ」というと照れてモジモジしてやがる。 それはいいから。 おまえの方こそ具合がよくなったんならメシつくってくれよう(T_T)。
しかし、なんだかこうしょっちゅう休んでいると、ホントに自分が仕事拒否症じゃないかって気がしてくるなあ。 かと言って、この世で何より仕事が好きとか仕事をしてないと落ちつかないとか(そりゃワーカホリックだって)いうほどのことはないけど。
仕事もせずに寝ているだけだと落ちつかないので(一行前に書いたことはなんだよ)、頭がふらついてるのにパソコンに向かって日記などを書く。当たり前の話だが、文章自体に病気の痕跡は表れないから、日記の文は元気そのもの、それどころかやたらハイですらある。
FCOMEDYのオタアミ会議室、『クレヨンしんちゃん』のツリーがそろそろ頭打ち的記述が目立ってきたので、なんかちょっと引っ掻き回してやろうかと、幾つか「疑問」を書きこむ。 映画の批評で何がつまらないかと言えば、「この映画の正しい見方はこうだ」と決めつけてしまうことくらい読んでいて白けるものはない。作り手に映画を作るモチーフなりテーマなりがあるのは当たり前の話であるが、そんなもの受け手にとっちゃどうでもいいことなのである。 映画を見る者は百人百様、ある人が面白いと思うことが別のある人にとってはつまらなく感じることは多々あるが、それはどちらかが正しくてどちらかが間違っていると言うことでは決してない。 どうも『しんちゃん』の面白さが「まだ見ぬ未来への希望」(X星人かオノレらは)の一言に収斂されていきそうな気配があったので、「それならあれだけのなつかしネタを散りばめる必然性だってないじゃん」と、ちょっと不満を感じ始めていたのだ。
この指摘が誰からも語られないのが不思議なのだが、この「オトナ帝国の逆襲」事件そのものがしんちゃんにとっては「忘れられない思い出」となっていくはずのものなのである。 ではそれはどんな意味を持った「思い出」なのだろうか? 「思い出」……「記憶」と言い換えてもいいが、人間のアイデンティティを形成する核となるものが「記憶」であることは説明の必要もあるまい。「記憶」がなければ人は人ではいられないのだ。 つまり「過去への郷愁」は人間の自己確認としての「記憶」の再確認なのであって、それを否定することは自己の否定と同じことになる。「思い出」は消せないのだ。 しかし、われわれ人間は、ときとして、自分の記憶を「改竄」してしまうことがある。記憶違い、勘違い、忘却などがそれだ。しかしそれも実は、自分の人格を守ろうとする我々の脳の作用にほかならない。 思い出してみるがいい、「イエスタデイ・ワンスモア」はしんちゃんにとっては「オトナ帝国」でしかなかったことを。ラストでケンちゃんチャコちゃんが「バンジージャンプをしようとしていた」と勘違いしていたことを。 しんちゃんは自分の幼い脳では理解できないことを理解できるものに置き換えて認識していっているのだ。それがたとえ事実と違っていたところで構いはしない。その勘違いした「記憶」があってこその「しんちゃん」なのだから。 この映画で肯定されているのは、そうした過去の出来事を「どんな受けとりかたしたっていいんだ」という当たり前の事実に他ならない。つまりは「間違った人生なんてない」という絶対的な人生肯定である。 ひろしの人生も、みさえの人生も、ケンとチャコの人生もみな「勘違いの人生」だったことは見ていればすぐにわかる。でもその人生は決して「つまんなくない人生」なのだ。
あ、適当に書いてたけど、この論調、同人誌に載せる原稿の元ネタになるな(^^)。
予想通りわずか半日でスレッドが急に伸び出した。 どうもオタアミの人たちはそれなりの意見を持っている人が多いので、素直にこちらが意見を書いただけだと、「ふ〜ん、そうなの」で済ましてしまうことが多いので、なかなかレスをつけてくれないのである。 ふっふっふ、みんなうまいこと乗せられてやがるぜ。 ……って、こんな書き方するからしげに「策略家」などと言われてしまうのだなあ。単に「みんなはこのへんのことにあまり触れてないけどどうして?」って思ってただけなんだけどね。 でも、疑問の一つは単に私の勘違いだったので結果的にとっても恥ずかしかったのであった(^_^;)。
横になって久しぶりに活字の本を読む。 鯨統一郎『サイコセラピスト探偵 波田煌子(なみだきらこ)なみだ研究所へようこそ!』。 相変わらずつまんねータイトル(ーー;)。『とんち探偵一休さん』と言い、このセンスのなさはなんなのだろう。マジメなミステリファンなら「なみだきらこ」の名前だけで引くぞ。 まあそのツマラナサが中身にまで悪影響を及ぼしてなければ問題はないんだけれども、残念ながらミステリとしての出来は未だし未だしである。 この人のデビュー作、『邪馬台国はどこですか?』がおもしろかったのは、「歴史上の事実」という、言わば「既定のこと」をムリヤリこじつけて読み替えていく楽しさにあったのだ。でもそれを普通のミステリでやっちゃ、「ムリヤリのこじつけ」が残るばかりだ。 日本ミステリ史上、そのムリヤリのこじつけをミステリとして成功させ得たのは泡坂妻夫「亜愛一郎」シリーズ以外にない。それは泡坂氏がその世界観自体をきわめてエキセントリックに構築していたがために成功した稀有な例なのであって、普通の文体で同じことをしても失敗するのがオチなのである。 キャラクター造形が面白かったんで、最初は期待したんだがなあ。 1話目、2話目を読んで最終回のネタが読めてしまった。文章が下手なので伏線がかなりはっきりバレてしまうのである。次の作品を買って読むかどうか、かなり微妙になってきたなあ。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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