無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年04月02日(月) 桜の森の満開の下/『イギリス人はおかしい』(高尾慶子)ほか

 どひゃあああ。に、日記が、日記が消えてるうううう!
 現在これを書いているのは4月4日の午後6時20分。昨日の夜、日記が開きにくいなあとは思っていたのだが、故障があったらしくて、2日の分からまるまる消えてしまったのだ。
 この年度初めで仕事も忙しいってのに、「エンピツ」の野郎、なんて事故を起こしてくれるのだ。おかげで今日一日で三日分の日記を書かねばならなくなってしまったではないか。
 ……愚痴ってるヒマはないぞ。二日前に書いた文章なんか殆ど中身を忘れてるが、なんとか思い出して書こう。



 今日から年度初めである。
 ワープロだのなんだの、職場に持っていかねばならない荷物も多いので、タクシーを利用する。
 道端の桜を横目に見ながら、そろそろ七分咲きかなあ、昨日女房を花見に連れていかなかったのは悪かったなあ、などと考える。週末まで桜が咲き残っていたら、『ブルースブラザース』のDVDを買いに行くついでに花見としゃれこもうかな。
 そう言いながら、気温はここ数日まだまだ肌寒い。昨日などは雨までぱらついていたのだ。
 そんな雨の中だってのに、近所の公園では夕べも場所取りの花見客が何十組もぶるぶる震えながら毛布かぶって徹夜していたのだ。……根性あるなあ、というより、劇場アニメの初日に徹夜で並ぶオタクを嗤えねえぞ、お前ら。そんなに酒が飲みたいか。
 でも春先のイベントって言ったら、花見くらいしかないししょうがないのかもしれない。「花祭り」は地味だし、第一何か飲んだり食ったりして騒ぐって類のものでもない。『OL進化論』か何かのマンガで「食いものと結びついていないイベントは弱い」とか言ってたが、なるほど納得である。

   願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ

 西行の辞世として有名だが、これ、そんなに悲壮な歌じゃないんじゃないかな。如月は当然旧暦なのでまさしく今ごろ。満開の花の下では酔生夢死、過去も未来も星座も越えて全ての悩みを忘れていられるのだ。西行って、ただポケ〜っとしていたかっただけなんじゃないかな。
 死体なんか別に埋まってないと思うぞ、梶井。

 職場の部署が変わったので、ぶたくそ(「メチャクチャ」の意。女房がしょっちゅう使ってるが広島弁か?)忙しくなり、帰宅は午後7時過ぎ。
 おかげで『水戸黄門』の第1回、頭から見損ねた。
 私のフェイバリット黄門様は何と言っても月形龍之介なので、石坂浩二はどうにも人間的深みに欠ける。ヒゲがあるなしの問題ではないのだ。ドラマ自体は今までの設定を全てリセット、将軍家との確執からコトを始めるという骨太路線を選んで、なおかつ怪しい忍者風の者たちをも暗躍させるという時代劇エンタテインメントの定石をきちんと踏んでいる。でも役者がどうしても弱いんだよなあ。
 いくら人気があったからといって由美かおるを出しつづけるのはどうもねえ。体型は崩れてないが、エロキューションはもうボロボロで舌が回ってねえぞ。

 女房と何かやりとりをしたような気もするし、日記にも一回何か書いたような気がするが忘れた。ともかくこの日は眠くて眠くて、後半の記憶が薄いのである。後日、思い出す時があったらまた書くかもしれない。
 
 女房のネット友達が、オープンしたばかりの「ユニバーサルスタジオ・ジャパン」に行ってきたというので、早速そのレポートを覗いて見る。
 そのお友達というのも、女房同様、ダン・エイクロイドのファンで、『スニーカーズ』のポスターの前で記念写真を撮ったりして、なんとも微笑ましい。
 で、結構穴場で客が少なかったという、我等が「ブルース・ブラザース・ショー」。残念ながら雨天のため野外ショーは中止、握手会に変わったそうだが、ジェイクもエルウッドもあまり本物には似てなかったそうである。……まあ、『ベルーシ ブルースの消えた夜』ほどひどくなけりゃ許せるだろうけどなあ。
 女房に「USJに行きたいか?」と聞くと、「ちょっと」と答える。ファンとしては「モドキ」は許せない、という気分と、でも見てみたい、という気分とが内心せめぎあっているのかもしれない。
 でも「ブルース・モービル」は写真で見る限り、鉄製の拡声器もついた立派なものだったぞ。ああ、これだけでも見に行きたいよなあ。
 スヌーピーがブルースブラザースのコスプレしたポスターが展示されていたようだが、売ってるものならこれはぜひ欲しいな。よく見ると「THE BEAGLE BROTHERS」と書いてあって、これはウマイ! でも、エルウッドがスヌーピーってのはわかる気がするが、ジェイクをオラフにさせるのはちょっとどうだかねえ。兄弟逆じゃん。言わずもがなだけど、オラフはスヌーピーの弟の一人の太っちょで、スヌーピーの兄はスパイクなのである。体型で選ぶとどうしてもそうなっちゃうんだろうなあ。……じゃあ、ウッドストックは誰だ? キャブ・キャロウェイか? 

 高尾慶子『イギリス人はおかしい 日本人ハウスキーパーが見た階級社会の素顔』読む。
 以前、マークス寿子というイギリスかぶれの女性(イギリスの貴族と結婚し、離婚したのに未だにマークスなんて名乗ってんだよねえ)の書いた『大人の国イギリス子供の国ニッポン』という本を読んで頭に来たことがあった。
 なにしろ、「イギリス人には泥棒が多いが、それは盗まれる日本人のほうが油断をしているから悪いのである」ってなことを堂々と書いているのだ。そりゃ油断するなって心構えは必要だろうけど、それでイギリス人の泥棒行為を正当化しようってのは頭がおかしいとしか思えない。
 高尾さんの本もそんなアホなこと書いてるのかと思ってたら、さにあらず、イギリス人のよい点悪い点、日本人のよい点悪い点、それを客観的に捉えようとしている。福祉や動物愛護の点ではイギリスは優れているが、教育・モラルの点では最低である、と高尾さんの筆致は容赦がない。
 雇い主である映画監督、リドリー・スコットについても、潔癖症で小心者、そのくせ貴族意識だけはあるというイヤな面をはっきり書いている。
 なのに、イギリス人やスコット氏についての悪印象が高尾さんの文章からはほとんど感じられないのだ。それは、高尾さんがそういった彼らの欠点を知りつつも、やはり彼らを愛していることが伝わってくるからに他ならない。
 ……それでもちょっとだけ文句を言わせてもらえれば、イギリスの若者が堕落したのは「ビートルズ」のせいではないと思うぞ。

 マンガ、高橋留美子『うる星やつら・酔っ払いブギ』読む。
 この辺の原作、ちょうどアニメが始まったころのだなあ。でもはっきり言って『うる星』全体の中では凡作が続いていた時期だ。アニメも最初の1・2話はなかなかの出来だったが、それ以降はろくにスタッフが集まらなかったらしく、作画も脚本もガタガタの駄作が続く。
 それでもファンが離れていかなかったのは、唐沢俊一さんも『ブンカザツロン』の中で語っていたが、高橋留美子が、初めて自分たちと同じ魂の持ち主が、マンガの受け手としてではなく、作り手として現れた「仲間」であったからだ。
 「るーみっくわーるど」というキャッチコピーにもその意識は表れている。高橋作品だけでなく、作者自身が当時の我々のアイドルであったのだ。『うる星』だけではない、『めぞん一刻』の初期の頃、「響子さんの正体は?」「惣一郎さんって誰?」と胸をドキドキさせて、隔週刊の『スピリッツ』が発売される日をどんなに待ち遠しく思っていたことか。
 だから、『らんま1/2』の病気休載以降、高橋さんが何か違う方向に行ってしまった、と感じたとき、私立ちの世代は、スウッ、と冷めたのである。ちょうど『エヴァ』完結編でみんなが何も語らなくなってしまったように(^^)。
 多分それは、高橋さんは我々の代表としてマンガを描いているのだ、つまり、あのマンガは我々が送り出しているのだ、と我々は勝手にシンクロしていたのだけれど、実は高橋さんはあくまで高橋さん個人であったのだ、という当たり前の事実に気づかされてしまったからである。
 ……それくらいショックだったのだよ、「らんまのヌード」は。
 高橋留美子と小山田いくにだけはヌードを描いてほしくない、なんてアホなことを考えていたのだよなあ、あのころは。「○○ちゃんだけは絶対脱がないで!」なんて喚いてるアイドルオタクと同レベルではないか。
 それを思うと、あまり面白くない回にも目をつぶって「面白い」と思い込もうとしていた『うる星』のころが甘酸っぱく懐かしいのである。

 マンガ、尾田栄一郎『ONE PIECE』18巻読む。
 既に脇役・適役の方に魅力が移ってしまっていて、主役陣がまるで動いていない。せっかくルフィの兄貴まで出して「道標」を示してくれたのに、物語はまたアラバスタなんたらの脇道、回想シーンへとなだれこんでいく。脇道じゃ所詮ルフィの人間的成長はなく、予定調和の言動を繰り返すだけだ。
 サンジに「ナミさーん」としか喋らせないのもいい加減やめたらどうだ。マンネリの面白さを追求する類のマンガじゃなかったはずなのに。
 それはともかく、バロックワークスのキャラのいくつかはよくできている。もう、それで読んでるようなもんだけどね、私は。
 いや、Mr.2・ボン・クレーはいいっスよ。「おかまーウェイ♪」呆れるほどに意味がない(^^)。


2001年04月01日(日) 四月バカ/『ブンカザツロン』(唐沢俊一・鶴岡法斎)ほか

 最近、日記にばかり時間をかけるなと女房がうるさい。
 私の場合、一気に日記を書くのではなくて、何行か書いては本を読みビデオを見、数時間かけて書いているので、女房はその間、私と会話も出来ないと拗ねるのである。
 確かに長々書きすぎて間延びした文章になってるなあ、とは危惧していたので、今月からは出来るだけ簡潔にまとめていくことにしよう。
 ……できるんかね。

 今朝も寝坊して『仮面ライダーアギト』も『デジモンテイマーズ』も『コメットさん』も見そこなう。うわあ、体が休みに慣れてボケてしまっているのだ。休日だって寝過ごしても8時には眼が覚めていたのに。ちょいとここらで少し気張っていかないと、ぐーたらが身に染み付いてしまうぞ。
 昼から花見にでも出かけて、ついでに親父のところにも顔を出そうと思っていたのに、こないだコケたとき打ちつけた左肘がシクシク痛んで、外出する気が失せる。
 今日は結局一日寝て本読むだけの生活か。って、いつものことだけど。

 CS時代劇チャンネルを漫然と見る。『銭形平次』、『侍』、高橋英樹版『旗本退屈男』など。
 『平次』は殆ど後期のころのもの。京本政樹が一心太助みたいな役で出ていることからそれと知れる。これも相当な長寿番組だったが、最後のころは白塗りの大川橋蔵自体が他の俳優の間から浮いていて、見ていて痛々しい。当たり役を持つということは役者冥利に尽きることかもしれないが、年寄りの役に自然に移行していけなかった場合、どうしても無理が生じる。『平次』の終了も当時の報道は勇退のように書いていたが、実際はやはり視聴率の低迷だったようである。年月くらい残酷なものはないのだ。
 『侍』、郡司次郎正の『侍ニッポン』の岡本喜八監督による再映画化。……ということだが、原作もその前の大河内伝次郎や東千代之介版も私は見ていない。でもなぜか前から知ってるような気になっちゃうのは、西条八十作詞のヒットソング『侍ニッポン』の歌詞、「人を斬るのが 侍ならば 恋の未練が なぜ斬れぬ」が梶原一騎原作のアニメ『侍ジャイアンツ』の中で「球を打つのが野球屋ならば、あの子のハートがなぜ打てぬ」と替え歌されてるのを聞いてるからだったりする。
 多分もともとこの話、時代劇版のメロドラマなんだろう。それを岡本監督は三船敏郎主演の幕末裏面史、みたいに映画化しちゃったのである。……いい役者使っちゃいるけど、木に竹を接いじゃったような印象になってるのはそのせいなんだろうな。
 『旗本退屈男』、よくもまあこんな忘れられてた珍品を放送するなあ。市川右太衛門のイメージが定着していて、誰が演じたって非難されて当たり前だろうに、さらりとやってのけている高橋英樹はむしろ清々しい。原作のイメージには意外とこちらの方が近いようにも思う。
 丁度ゲストに『ウルトラQ・バルンガ』で奈良丸博士を演じた青野平義氏、『機動警察パトレイバー』の榊班長役、阪修氏が出演していた。穂積隆信氏の知的悪役ぶりも楽しい。
 何気なく見流していたドラマも、今見返すといろいろ発見があって面白い。やはりテレビも映画も文化的財産として残していかなければならないのだ。

 21世紀研究会編『人名の世界地図』、これだけ人名の語源が纏まった形で出版されたのは珍しいのではないか。とても全部は書けないのでいくつか感想を。
 「チャップリン」に「牧師」という意味があると初めて知った。『偽牧師(ピルグリム)』って映画、自分の名前に引っ掛けて作ったのかどうかわかんないけど(アチラの人も自分の名前の由来を知らないことが多いらしい)、チャップリンならそれくらいのことしそうな気がする。
 『奥さまは魔女』の「ダーリン」はホントは「ダレン」で、別に愛する人、という意味ではないそうだ。となるとあれを「ダーリン」と訳した日本語訳者の功績はとてつもなくでかいことになる。なんたって『うる星やつら』にまで影響与えてるんだからねえ。
 世界的には伝統的な名前を継承している国が殆どで、日本のように新しい名前がどんどん生まれる例は少ないようだ。

 唐沢俊一・鶴岡法斎『ブンカザツロン』読む。これについても書きだしゃキリがないくらい面白い。ちょっと誤植が多いのが気になるけど(「森繁久也」って誰だよ)。
 オタク第一世代と第二世代、という分割の仕方が正しいかどうかは疑問もあるのだが、自分がやはりオタク創世記のケツっぺたにいたのだなあ、ということは確認出来る。女房が鶴岡さんと同い年なので、お二人の会話がちょぅど私と女房の会話にシンクロしてくるのである。おかげで女房が私のどこが好きでどこが嫌いかも見えてくるってのがどうもね(^_^;)。
 「オタクは『道』より『術』」、つまりはテーマよりメソッドってところには共感してるんだろうけど、実際には唐沢さんも「道」的なことは結構語られているのである。私も似たようなもんで、気がつくと女房への言葉に説教が混じる。黙ってりゃこれで女房にも尊敬されるんだろうになあ。
「道」を志向しちゃう人間ってのは結局、自分がバカに見られたくないと思ってるだけのバカなのだ。
 「バカ」どうしの雑論、と作者たちが語っているように、どの時代だって、世の中を本当に動かしているのはひと握りの天才ではなく衆愚である。自分が衆愚であることを自覚したところからしか時代は見えて来ない。ただ、時代の見えないバカも多いことは多いんで(見えなくってもいいんだけどね)、その点、「いいバカ」と「悪いバカ」が世の中にはいる、という鶴岡さんの指摘には共感できる。もちろん「いいバカ」というのが「オタク」を差すことは言うまでもない。
 一言で言ってしまえば「オタク術」ってのは「考現学」であるわけで、データの収集それ自体に意味があると考えているようなものだ。私がこうやって日記に愚にもつかないことを書いているのも、この2001年の日本人の生き方の一例を世に残すことの意義を思うからに他ならない。存在することにのみ意味はあり、あとの理屈は勝手についてくるってのが、3歳以降の私の人生哲学である(大げさな)。テーマがどうとか、ビジョンがどうとかはあまり考えていないのである。たかが一素人の日記ではないか。
 この日記を読んでくださる方々から、過分なお褒め(あるいは批判)を頂くことは多いが、書いてる本人はバカやってる、という自覚しか持っちゃいないのです。現代においては、こういった形で他人に関わろうとすること自体、バカ以外のなにものでもないってことでしてね。だから「凄いですねえ」とか「読みがいがあります」とかいう言葉よりも、出来れば「それ、違うんじゃない?」と言っていただける方が、バカたる私には嬉しいのですが。

 なんだかんだでちょっと長目になっちゃったな。一日分のネタって、たとえ寝て過ごしてたって、書き出せばいくらでもあるものなのだ。面白い文章になってるかどうかはともかくとして、芝居をやろうって人間がネタの一つも思い出せないというのは情けない、という意識があるのである。
 だから劇団のホームページに書きこみが出来なくなったのはマジで悔しい。ああ、早くホトボリが冷めんかな。そしたらこっちの方はウラ日記にしてもっと濃い話が出来るんだけど。


2001年03月31日(土) 藤村俊二はよかったけれど/舞台『ラ・テラス』ほか

 わああ、ね、寝過ごしちまった。
 起きたのが八時過ぎ、『幻のペンフレンド2001』の最終回、せっかく再放送やってたのに録り損ねちまった。仕方がないので途中からテレビにかじりついて見る。
 『六番目の小夜子』を見た後だと、どうしても見劣りがしてしまうのはいたしかたないか。『小夜子』の出来がよかったのが、NHKにしては稀有であったのである(こらこら)。ドラマはやはり時代との関連無しには語れない。「学校の怪談」を巧みにドラマの中に組みこんだ『小夜子』に比べて、「ネットが人間とアンドロイドをすりかえて人類を支配しようとしている」という設定はどうしても70年代の名残にしか思われない設定なのである。さらにはキャラクターの配置も今一つで、後半、主人公とアンドロイドの少女以外のキャラクターの存在感がどんどん希薄になっていったのが痛い。ラスト、敵基地の突入の時、ほかのキャラが邪魔にしかなっていないのだ。
 それにラスボスがひさうちみちおってのはいったい何を考えているのか。黒板にイラストまで描きだしたときには頭抱えちまったぜ。裏ボスにエビスが出てくるんじゃないかと一瞬、妄想しちまったよ。
 全体的に間延びした印象を受けたのは、そう長くもない原作を12回連続に引き伸ばしたせいだろう。

 『マンガジンマガジンvol.2 江川達也』読む。
 良かれ悪しかれ、江川達也というマンガ家はマジメな人である。江川さんには明確な社会認識、教育観、人間観というものがあり、児童向けマンガであろうが、エロマンガであろうが、それを打ち出そうとする。
 マイナー作品ならそれはそれで70年代マンガ風で悪くもないんだろうけれど、メジャー作品でそれをやれば、読者の反発を食らうのは当たり前だ。マンガで説教を聞きたいヤツはそうそういない。
 『タルるーとくん』と『DEADMAN』くらいしかまともに江川作品を読んだことのない私が言うのもなんなんだが、もともと江川さんの絵がアピールする読者層というのは非常に狭い範囲に限定されていると思うのだ。ヒロインはかわいらしい顔、スレンダーなボディで、でもチチだきゃデカい。これに引っかかってくるヤツって、はっきり言えばラブコメ(清純系とエロ系の中間あたりの)好きなオタク連中だよね。で、なぜ江川さんはそういう客をターゲットにしておきながら「教育論」をぶち上げるのか。
 かと言って、コチコチの本当にクソマジメな教育家に江川さんが受けがいいかというと、それも違うのである。現行の教育システムを完全否定する江川さんの意見が受け入れられるはずがない。
 言ってみれば、江川さんは釣り上げられた魚に向かって「なんで釣られたんだよ、馬鹿だな」と言っている釣り人みたいなものだ。そりゃ、魚にしてみりゃ腹立つわなあ。いくら江川さんが「洗脳されるな、自分の頭で考えろ」と言ったちころで、オタクも教育家も、さらにはそれ以外の読者も、みんな「考える」ためにマンガを読んでるやつなど殆どいない。「洗脳されることで安楽な位置にいたい」ことを無意識に選択している連中に向かって、どんな言葉が通じるというのか。江川さんの立っている位置は本当に江川さんしかいないところなのだ。
 少なくとも田島陽子と本気で言い争うのはやめた方がいいと思うがなあ。

 女房の夢の話。
 五月に東京に行く予定なのだが、当日の朝、飛行機に乗り遅れた夢だそうだ。
 当日、どういうわけか私と別行動をとり、買い物をしていた女房、気がついたら出発30分前、慌てて自転車をかっ飛ばすけれど、カードを持っていないことに気がついて万事休す、東京のこうたろうくんからも「それ見たことか」とわらわれるという、なんだかなあ、な夢。
 基本的に強迫神経症なんだよなあ、女房のヤツ。

 夜、メルパルクホールでジャン・クロード・カリエールの『ラ・テラス』を塩浦ご夫妻と一緒に見る。
 あの『小間使の日記』の、『欲望のあいまいな対象』の、『ブリキの太鼓』の、『存在の耐えられない軽さ』のジャン・クロード・カリエールですよ。ちったあ期待しようってもんじゃないですか。なのに……。
 つまんないぞ。
 原因は脚本ではない。役者と演出だ。役者はセリフを覚えて喋ってるだけで、役をまるでつかんでいない。女房が辛辣にも「みんな所詮小劇場あがりじゃん」と言ってのけたが、実際、その通りだ。
 脚本を頭の中で反芻し、別の演出プランを構築してみて、これが上質の不条理劇であるということに気づいた。不条理劇を演じる役者が何に気をつけねばならないかというと、自分の立っている位置が、実は現実とずれたところにあることを意識しなければならないということだ。それができなきゃ、そこで何が行われているのか、客に伝わりはしないのだ。
 離婚寸前の夫婦の部屋にやってくる謎の訪問者たち、不動産屋の女、傍若無人な中年男、若い色男のスケコマシ、ボケた将軍とその若い妻の織り成す群像劇。……って、私も似たような芝居以前書いてたな。
 端的に言って、不条理劇がハッピーエンドになることは絶対にないのね。彼らは殆ど最後にはこの「テラス」を去って行くのだけれど、妙な余韻を残そうとする演出は、脚本家も役者もホンが読めていないことの証拠だ。ラストは、脚本では残された二人が「時間はたっぷりある」なんてセリフを未だにはきつづけている不気味なムードで終わってるのに、なぜか演出はほのぼのムード。何を考えているのだ?
 翻訳劇を日本の舞台に移すのは本来不可能に近い。『屋根の上のバイオリン弾き』がおもしろかったのは、森繁久彌が無理にテヴィエを演じようとせず、あくまで「森繁久弥」を押しとおしたからで、それくらいの開き直りがなきゃ舞台は映えない。カリエールの『小間使の日記』を昔、吉行和子の一人芝居で見たことがあったけど、これも役を自分のものにしきれていない、つまらない芝居だった。
 今回の舞台で唯一よかったのは藤村俊二の「将軍」である。藤村さんは少しも無理をしていない。そこにいるのが紛れもなく藤村俊二であるために、カリエールはどこかにすっ飛んじゃってるんだけど、それでいいのだ(ほかの人たちは自分が演じられるはずもない役を演じようとして失敗している)。滑って倒れてソファーでそのまま寝てしまうベタなギャグで笑いをとるって、芸がないと出来ないよ。やはり鍛えられてた芸人さんは強いよなあ。
 今回の芝居、昔の友達も出てるんで悪口あまり言いたくないんだけど、もっといい役者で見たかったなあ。

 ロイヤルホストで四人で食事。
 塩浦さん、大学の単位を二つも落としたとかで、しばらく劇団の役者は無理のよう。これからは小倉に行ったっきり、アパート住まいでDVDもパソコンもない生活になりそうだとか。でも学生はいつだって時間はあっても貧乏なものである。貧乏の中でしかつかめないものもあるし(なんなんだ)まああまり道を踏み外さないようにしてもらいたいものである(^^)。就職はまだ3年先、しばらくはウチの劇団も戦力が落ちることになりそうだが、それはそれでなんとかしていくしかないな。


2001年03月30日(金) シラフでも酔える夜/『怪奇探偵小説傑作選2 横溝正史集/面影双紙』

 全く日記とは関係ないが、『幻のペンフレンド2001』のOP、「日比谷っ日比谷っ」て歌ってるように聞こえるんだが、耳がおかしいのだろうか。
 ……「日比谷」と「渋谷」の違いが分らないってネタもよく聞くけど最初に言い出したのは誰だったかなあ。

 朝は上天気だったのに、昼から大雨。先日コケた時の痛みがまだ取れていないので、通勤にはタクシーを利用。散財だなあ。
 「雨でもなんでも自転車で行くくせに」
 と女房から言われるが、そこまで無理したことはない。
 だいたい女房は、車で行けば「もったいない」と言うし、自転車で行けば「危ない」と言うのだ。脳の中身が矛盾だらけだと、要求内容が矛盾してても平気なのだな。
 「今日はどうして雨が降るって分ったの?」と聞かれたので「天気予報」と答えると、「なんだ、予知したのかと思った」と言われる。
 わしゃエスパーか。超能力の存在を完全否定するつもりはないが、SFに登場するようなご都合主義的なクレアボワイアンスの実在は眉唾だなあ、と思っているので、女房がしょっちゅう私を予知能力者扱いするのには、正直参ってはいるのである。
 確かに私は女房が考えていることを先読みして行動することはよくあるが、それは別に私にとんでもない能力が備わっているからでは決してない。……十年も一緒にのたくってりゃ、女房が何考えてるかくらい少しは分ろうってものだ。ただ、あまり見え透いた態度を女房がとる時には、ははあ、こいつは分らせようとやってるな、と気づいてノってやらないこともよくあるが。

 ちくま文庫『怪奇探偵小説傑作選2 横溝正史集』、斜め読み。
 一人の作家の作品を網羅して読むことなどは不可能に近いが、横溝正史に関しては8割は果たしているように思う。何しろあの昭和40、50年代の横溝ブームの時に出版された角川文庫だけでなく、春陽堂文庫の『人形佐七捕物帳』ほか、全集収録のエッセイに至るまで、目に付くものはたいてい読み尽くしているからである。後は『佐七』に改作される以前の原型となった『朝顔金太』などの捕物帖作品などが残ってはいるが、古本屋めぐりをしてもそうそう読むことはできなさそうだから、「入手可能なものは全て」読んだと言い直したほうがいいかも。
 今回の選集も全部読んでる作品ではあるけど、高木彬光の解題が載っていたので買った。殆ど誉め殺しのような、かえって読書欲を殺ぐような駄文なんだが、横溝正史の初期作品についてまとまった批評を行っているものは少ないのである。その意味では貴重な文章だろう。「恐るべき名作」「珠玉にもたとうべき一篇の美しい散文詩」「愛誦おくあたわざる傑作」だの、何かを語っているようで何も語ってはいない。ミステリはネタバラシができない分、批評や解説が難しいのだが、それにしても適当な美辞麗句を並べてりゃいいってもんでもあるまい。しかし、実はこの作家は何を誉めるにしてもこの調子なので、ひねくれたファンは高木さんの文章のヘタレ加減を味わいとして読むという……作者のファンが聞いたら激怒するかな。いや、悪気はありません、つい本音を言ってしまいました(^^)。

 ZUBATさんが鹿児島から来福されるので、エロの冒険者さんから「迎撃会」(なんちゅーネーミングじゃ)のお誘いを受ける。
 もちろん女房ともども喜んでホイホイと参加することにして、アクロス福岡の前で8時に待ち合わせ。来られたのはエロさんZUBATさんぴんでんさん、ほかにもあと何名かいらっしゃるはずだったらしいのだが、どうやらエロさんが「3月30日」を「4月30日」と連絡したらしく、いつまで待ってもお見えにならない。
 仕方なく集まった面子だけで中洲の居酒屋へ(店の名前忘れた)。
 ZUBATさんの来福の主な目的は『ギャラクシークエスト』鑑賞だったりするので、いやあ、リキ入ってるなあ、と感心してたのだが、予想通り、話は思いきり盛りあがる。
 エロさんが「なんであんな傑作が単館上映なんだあ!」と叫ぶと、ZUBATさんが「元ネタわかんないと受けないでしょう」と応酬、エロさんさらに「いやそんなことはない、『スタトレ』の名前を出さない方がヒットする」と反論。何気ないやりとりのようだが、お二人とも「オタクじゃなきゃ、あの作品の『本当の面白さ』はわかんないだろう」という認識については共通しているのである。……これまでの人生でオタクであるがために、どれほどの偏見と迫害を受けてきたかが偲ばれるなあ。
 最近のヘタレな映画についても話題が及ぶ。
 エロさんはもう長いこと海外のクソのようなSF映画を見続けてきたために、「これは見なくてもよい」というカンが働くようになったそうである。で『ミッション・トゥ・マーズ』や『アンブレイカブル』も見にいかなかったとか。ZUBATさんから「でも面白い映画を見たいという気持ちと、どれだけダメか確かめたいという気持ちと、両方ありますよね」とネタを振られてとしまったが、その昔『ゴジラ』シリーズの中では『オール怪獣大進撃』が一番好きだった私には何も言えないのであった(^_^;)。
 「こないだCSで『宇宙からのメッセージ』と『さよならジュピター』と『ガンヘッド』の三本立てやっててさあ、いやがらせかと思ったよ」というエロさんの話を聞きながらも内心思っていたのは、そもそも日本SF映画に傑作はないということであった。海外にはあるのかと言うとそれも疑問なんだけど。……スタージョンの法則は正しいよなあ。
 ぴんでんさんの話も凄く面白かったのだが、あまりにアチラに走っていたのでちょっとここには危なくて書けない。ただ一つ言えることは、ぴんでんさんの話に一番受けていたのが女房であるということである。
 話の内容、解ってて笑ってるのかなあ、と思っていたら、女房、
 「○○行ったことないから……」
 行けるか、アホウ(-_-;)。
 その後、カラオケになだれこんで、みなさんしたたか酔いながらも2時間熱唱。エロさんから「有久さん、オタク的自分と一般的な世間との折り合いつけるのうまい方でしょう」という意味のことを聞かれたが、勤務先が勤務先なだけに、それもなかなか難しいのである。
 もともと受け答えが得意な方ではないので、いろんな話題に対応できるようにと自分なりに濫読していたつもりではいた。なのにそれらの知識が私の勤務先の人々の間では人間関係の潤滑油として一切役に立たないのである。ま、考えてみりゃオタク的知識とか雑学的知識ってのははっきり「常識」と対立するもんだからな。世間ってのは基本的に「常識」以外の知識を必要としてはいないのだなあと、このごろはつくづく感じてしまっている。
 その点、ZUBATさんも仰ってたが、AIQつながりのみなさんとは「何の説明もせずに会話が出来るなんていいなあ」なのであった。

 帰宅は午前3時。さすがに疲れ果てていて、そのまま日記も書かずにバタンと寝る。外はまだ小雨そぼ降る寒さが身に染みるホドであったが、みなさんあれだけしこたま酔っていながら風邪引かなかったであろうか。女房はカルピスサワーを都合7、8杯は飲み干していたが2時間もすればケロリとしている。……化け物か。 


2001年03月29日(木) 血の収穫/ドラマ『六番目の小夜子』ほか

 1ヶ月くらい前から、やたら鼻血が出るようになったのだが、今朝もどうした拍子にか、鼻血が出て止まらなくなってしまった。
 以前医者に行ったときに貰った「ソーク」という鼻薬を射して、横になる。鼻腔の血管を収縮させる働きがある薬だそうだが、鼻血だけでなく鼻水も全て止めてしまうので、使ったあと頭が重くなるのが欠点だが、好き嫌いは言っていられない。
 女房が「脳から血が出てるんだよ。医者に行きなよ」と再三言うのだが、もうここ数年血尿やら下血やらで血を見るのには慣れているので、もう鼻血くらいでは驚かなくなっている。どうせ検査してもらったって、なにか手立てがとれるわけではないんだろうなあ、と思うと、出かける気にもなれないのである。
 普通、尿や弁が血まみれだったら、人は周章狼狽、右往左往するものだろう。私も初めはそうだった。ところが医者に何度尋ねても、「体質ですね」の一言ですまされ、「治療法は?」と恐る恐る聞いたら「水をたくさん飲んでください」で終わりじゃあ、何のために医者にかかった意味があるんじゃい、と言いたくもなるのである。
 でも私が死ぬときゃ死因はやっぱり脳溢血なんだろうなあ。

 DVD『明日への追跡』見る。
 昭和51年なんて、ついこの間じゃないか、なんて感覚になっちゃってるのも、トシを取った証拠なんだろうな。
 でも、光瀬龍の原作も読んでるし、キャストの顔にも見覚えはあるのに、ストーリーの方はコロリと忘れているのである。まあ、地球に移住しようとした宇宙人が、中学校に生徒のふりして潜入するうちに、地球人の少年との間に友情がうまれるという、ありふれていて記憶に残りそうにもない話ではあるんだけど。
 さりげなく「番地名が違っているのに裏で繋がっている二つの家」、という江戸川乱歩が散々使っていたトリックが出てくる。区画整理がデタラメな東京だけの現象かと思っていたら、舞台は鎌倉。全国各地にそういうところはあるのかもしれないが、ミステリのトリックとしてはこれ、少々アンフェアな気がしないでもない。
 宇宙人同士の争い、一方が「金持ちの恥知らず」で、もう一方が「貧乏だけど誠実」という余りにも社会主義的な図式の設定に思わず笑う。宇宙人もマルクスを読んでるのか。こういうところにもまだまだ「戦後」は生き残っていたのだなあ。
 女房が「昔の中学生って、みんなこんなに老けてたの?」と聞く。まあ俳優だから必ずしも当時モノホンの中学生ってわけでもなかったんだろうけど、ヒロインの斎藤とも子などは劇中では中二という設定だったのに、実際には中学一年であった。……確かに老け顔かなあ。
 しかし当時は私も中学2年だったが、テレビの中学生たちと自分たちとの間に違和感は全く感じなかった。今の子供たちの方が、スタイルはよくなったかもしれないが、顔は童顔が増えたということなのではないのか。脳に栄養が行き届いてないせいかも、なんてことはあまり言いたくないけど(もう言っとるがな)。

 DVD『六番目の小夜子』6話〜12話(完結)、やっと見終わる。
 うーん、見終わった感想を一言で言えば「学園青春友情ドラマちょっとオカルト風味」って感じかなあ。「サスペンスホラー」というキャッチフレーズとは微妙にズレてる。
 ラストが今一つすっきりしないのもどうもねえ。いくつかの事件の犯人はわかったものの、オカルティックな現象についての解明は「分らない」の一言で済ましたまま。あえてそうしているのは分るんだけど、それが必ずしも「余韻」に繋がっていかないのが残念なのだ。
 謎が謎のままで終わってもそれは構わないんだけど、それを登場人物が気にしている描写くらいはないと、結局は視聴者に不満を抱かせるだけになる。これは脚本段階でのミスなんだろうな。
 それでも本作が『愛の詩』シリーズ中、というより『少年ドラマシリーズ』中、屈指の傑作であることに間違いはない。映像、音楽、演技、それぞれの要素が見る物をぐいぐいその世界の中に引きこんでいく手腕は、旧『少年ドラマシリーズ』を遥かに凌駕する。……子役の演技力ってのも向上したんだなあ。古尾谷雅人や多岐川由美、富士真佐美といったベテランの中で、少しも引けを取ってないのだもの。栗山千明なんか、『死国』のころは一本調子で少しもいいと思わなかったんだけどな。私的には特に美人とも感じなかったんだけど、だんだん「いいな」と思えてくるのは単純なことだけど、ちゃんと普段の「表情」をつけさせているからなんだよねえ。
 ホラーをホラーとして成立させるためには、役者にただ沈痛な表情さえさせてりゃいいってものでもない。普段の顔と恐怖の顔、そのコントラストをハッキリさせる必要があるのである。

 夜、ようやく鼻血も止まる。血が抜けた分、血を補給せねばと『ロイヤルホスト』で食事。割引券があるので、少し安くすむ。
 本屋で、星里もちる『危険がウォーキング』新装版全3巻を見つける。既にコミックスを持ってはいるんだけど、新作書き下ろしの帯に惹かれて3巻だけ買う。
 最近、星里さんの作品はドロドロと救いのない話が多くてちょっとイヤだったんだが、久しぶりの新作は、少しもそんな気配がなく、ひたすら明るく元気である。パパがずっと着ぐるみ着たまんまなギャグも健在だし。こういうの、少年誌でもっと描いてくれないかなあ。

 ホームページのために今日はLD『飛びだす冒険映画 赤影』を見ながらメモをとる。殆どがテレビシリーズからの流用なのだが、新撮部分もあり、天津敏さんも再び甲賀幻妖斉を演じている。でもやはりセリフにどんな字をあてたらいいかが分らない。でも「忍法風水陣」って、これ以外の字は思いつかないよなあ。



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藤原敬之(ふじわら・けいし)