無責任賛歌
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| 2001年03月23日(金) |
ストレス解消!/映画『サトラレ』/『犬夜叉』20巻(高橋留美子)ほか |
ふう、明日から連休、今日でやっと一息ついた。 いろいろとシバリのかかった仕事してるせいで、ここ数日は顔面が痙攣しまくってたんだが、休みに入った途端に収まってしまった。心因性なのは明らかなので、ひどくなるようなら医者に罹らにゃならんかなあ、失神するようにストンと落ちちゃうのも病気なのかなあ、と、いったん気にし始めると、どんどん気になっていくのである。 とりあえずまだ意味不明な言葉を口走ったり、同じ言葉を繰り返したり同じ言葉を繰り返したり同じ言葉を繰り返したりはしていないと思うのでほちょぷってん、日常生活にうんがらな支障を来たしてはいないし支障を来たしてはいないだろうが、ほりゃっぴうるぴっぴょで大丈夫だとは思うが、用心に越したことはないし用心に越したことはないので、うげうがぷりたんへてかるぴ、大丈夫だろう。
今日は夜、一緒に映画に行こうと約束していたのに、女房、蒲団を被ったまま出て来ない。何度声を書けても起きないので、諦めて今日出かけるのはやめようかと思っていたら、8時になってやっと起きてくる。てっきり出かけるのかと思ったら、映画の時間に間に合わないから行きたくないと言う。 ウチから天神まで自転車で30分で行けるのに、9時の上映にどうして間に合わないのか、言ってる意味が分らない。ゆっくり行ったって45分で行ける距離なのに。だが、毎回女房は寝過ごすと頭がパーになるので、もう間に合わないと思いこんでしまっているのである。 こうなるといくら「まだ充分間に合うよ」と言っても聞く耳持たない。押し問答をしても仕方がないので、また一人で出かけることにする。 8時10分にウチを出て、天神東宝に着いたのは8時40分であった。映画は9時10分からなので30分も早い。全然余裕であった。
映画は『サトラレ』。 『踊る大捜査線』『スペーストラベラーズ』に続く本広克行監督作品。なんだかんだと文句つけながらやっぱりこの人の映画、好きなのかな。毎回設定だけは興味引くんだよなあ。 でも東宝は興行的には既に本広監督に期待はしてないようだ。天神東宝では一番小さなコヤで、百人、入らないんじゃないか。やっぱり前作の『スペトラ』がコケたのが影響大なのだろう。 金曜の夜で少しは客が多いのか、場内は30人ほど。殆どが女性同士のグループで安藤政信のファンと思しい。一人で来てる男性も若干名。天神東宝名物の(と言うほどのもんか)「むき栗」を買って座席に陣取る。 出だしのツカミはまあまあ。24年前の飛行機事故でたった一人助かった少年、これが後の「サトラレ」になるのだなあ、とは当然予測されることなんだが、救命隊員の「サトラレ発見!」のセリフで、ああ、この世界では「サトラレ」が認知されてるのだなあ、というのが解る仕掛けになっている。……救命隊員の中にオモシロ事件の特番なんかで結婚詐欺師とか暴力亭主とかやたらと犯人役を演じてる鼻の大きな優男風のヒトが出てたが、あの人なんて名前なのかなあ。 でも冒頭から空撮は延々続くわ、かけつける隊員をスローモーションで延々映すわ、音楽はまだ状況がはっきりわかんないのにやたら荘重だわ、意味なくくどい描写は今までの本広克行映画と同じ。たいていの映画評でも今までこの「くどい」描写をなんとかせい、という批判が出ていたのに、この監督、それがいいのだと信じきってるらしい。 ともかく、これ以降、「あ、このカット要らない」「ここ3分カットできる」ってシーンが続出。ああ、たるい。 それでも前半は思念波が外にもれまくりな主人公の周囲で右往左往する人々を描いていて、しかもその俳優たちに芸達者をそろえてるものだから実にいい味が出ているのだ。病院の食堂のオヤジなんか、ほんのチョイ役なのにこれを高松英郎が演じてる。 サトラレを監査する役の鈴木京香も、実にいい表情をする。最初は全くサトラレの安藤政信から相手にされてないのに、これも仕事だからと近づいていくうちに逆に惚れられてしまう。でもその思念波がストレートに伝わっていながら気がつかないふりをせねばならない時の嬉しいような困ったような引きつった表情がかわいい(はあと)。で、その表情もサトラレに「かわいい」と思われちゃうのだ。どうすりゃいいんだか(^^)。まあ全く精神分析医に見えないというネックはあるんだけど。 でも最高にいいのはサトラレのばあちゃん役の八千草薫である。 いいよいいよと聞いてはいたけど、ホントにこんなにいいとはなあ! この映画を見て全く泣かなかった庵野秀明が唯一「八千草薫がいい」と言っていた理由がよく解る。イマイチな脚本を八千草さんの演技が十全にカバーしているのだ。これはもう「理想のおばあちゃん像」と言ってよいであろう。どんなにいいかは映画をまだ見てない人のために書かないでおくけど、『ガス人間第1号』と合わせて私はこの二本を「八千草薫SF二部作」と呼ぶことにしたぞ(^^)。 しかし後半、物語がコメディからシリアスに転換していくあたりから、脚本の齟齬が露呈していく。ドタバタコメディで処理するならともかく、シリアスにしちゃうと、サトラレの思念があたり障りのない「いいひと」的なレベルを超えないことの不自然さが露呈してくるのだ。人間の心って、きれいごとばかりのはずがないからね。それで映画はもう一人のサトラレを出して、欲望だの憎しみは全部そいつにおっかぶせちゃった。 でも、これって姑息な手段なんだよなあ。本来、主役一人にサトラレ的特徴は集約させるべきなのにそれを分散させているってのは、結局、この監督が客に迎合しているからなのである。いや、それよりもっと悪い。監督は堂々とこれを「泣きの映画」と宣言してるのだから。 客は汚いものなど見たくはない。サトラレが心の奥底の黒い思念を周囲に振りまくキャラであったら、客は拒否反応を起こして決してそいつに感情移入しない。だから、主役はあくまで純粋で子供のような心の持ち主と設定する。そうすることで、サトラレの悲しみを観客は自分の悲しみであるかのように感じて泣くことができる。姑息と言うより卑怯な手段かな。 当然、「そんな純粋な人間が現実にいるか」という思いを抱くやつも出るだろうから、「いや、決して人間を表面的に捉えてるわけじゃないんですよ」と客とヒヒョーカをだまくらかすために、もう一人の「醜い」サトラレを出した、と、そういうことなのですね。 しかし、この程度の欺瞞で客を泣かせることが出来ると監督が考えてるってのは、あまりに客をバカにしてはいませんかねえ? でも会場の客たち、泣きまくってたんだよなあ。ああ、なんでみんなこんなにコロリと騙されちゃうのかなあ。 人間は誰でもどこかドス黒いものを持ってて、それを含めた上での人間なのである。それを認識しない人間描写など、ただの差別だ。これを見て無条件で泣く客ってのは、自分自身の醜い部分から目を背け、他人の欠点だけを糾弾して平気でいられる無自覚な偽善者である。 さて、ならばエラソーな口叩いている私自身がどうだったかというとしっかり泣かして頂きました(^o^)。だって私は偽善者だもの。 多少他の客と泣き所が違うとは言え(私が映画見て泣くのはたいてい「悔し涙」で、今回も「あんなばあちゃん欲しかったなあ」である。ウチのは祖母さんもお袋も因業ババアだったしな。だから好きだったんだけど)、泣いたことに変わりはないから偽善者であることは否定できんわな。で、その偽善者的なところも人間のドス黒い部分なので、目くじら立てずにお互い許しあいましょうよ。さあ、みんなで泣いてりゃ恐くないよん。 本広監督、なんで庵野監督と対談したのかなあ、と思っていたら、実はこの映画にも『エヴァンゲリオン』の影響があるのである。このサトラレって、結局「ボクをいい子だといってよ」「ボクを好きになってよ」っていうキャラなんで、やっぱりシンジくんなのである。で、実際に「うん、君はいい子だよ」って言ってもらえるという「癒されたい人間」にとってはもう嬉しい映画。これでラストが「あんたって気持ち悪い」で終わってたら凄かったと思うが、まあ迎合映画でそんなことは絶対しない(『エヴァ』にはまって、そのあと憑き物が落ちたように「『エヴァ』なんてさあ」といってたオタクは多いが、よく見てりゃ最初から「癒されたいオタク」に冷水を浴びせるドラマを庵野監督が作ろうとしてたのは一目瞭然だった。だからラストで怒るくらいなら自分のオタクとしての洞察力のなさを恥じるべきなのである。あくまで癒されたいオタクさんはこの『サトラレ』や『ギャラクエ』系の映画だけを見ていればいいのだ)。 なんかこう書いてると見る価値ない映画のように聞こえるかもしれないが、そんなことはないのである。「癒され系」の映画を否定したいわけじゃなくて、「それ一辺倒じゃ困る」と言いたいだけなのね。例えば世界のアニメが全てディズニー製作になっちゃったらイヤじゃないですか? 欠点も多いが、ラストまでサトラレが自分自身がサトラレであることに気がつかずに終わる点は「嘘」=「虚構」の力を信じていることの表れであろうから評価できるし、少なくとも八千草薫の絶品の演技はぜひ見ていただきたいものだ。演出のクドさを一人の女優の爽やかな演技が緩和している稀有な例を見ることが出来ます。
映画の帰り、どうせ女房が拗ねてるだろうと、土産にコンビニで串カツを買って帰る。帰宅すると案の定「面白かった?」と聞いてくるので、土産を渡して「うん、最高だった! お前もレディースデイに見て来いよ」と言う。 「泣いた?」 「泣いた泣いた。八千草薫がよくってさあ」 「ああ、死んだんでしょ」 「……どうしてそう思うの?」 「だってあんた、人が飛んだか死んだかすると泣くもの」 そういう見切り方はないよなあ。でも否定が出来ない(^_^;)。 多分、女房が『サトラレ』を見ても泣くことはまず有り得まい。女房の性格、庵野さんによく似ているからである。
マンガ、高橋留美子『犬夜叉』20巻。 アニメ化されたおかげで少し物語が延命している感じだが、本来、高橋さんはこういう妖怪同士の戦い(といいながら実質的にはジャンプ的なトーナメント対決)は合わないと思うんだがなあ。「必殺技」まで出て来たんじゃ白ける。「ライバルのインフレ現象」がもう相当進んでるし、『らんま』の時もそうだったけど、終わりどきを見失ったマンガは辛いよなあ。
『キネ旬』4月上旬号、アメリカ映画のオールタイム興行収入トップ100のリストが載っていたので、漫然と眺めていて驚いた。 いや、1位はもう周知の通りタイタニックなんだけど、殆どの作品が70年代以降、いや80年代以降に集中しているのに対し、例外が2作品だけあるのである。 33位の『風と共に去りぬ』と49位の『白雪姫』であり、どちらも1930年代の製作。 物価を考えると、今の10分の1、いや20分の1くらいの入場料金でこの記録である。実質上のトップ2はこの2作と言っていいのではないか。 どのくらいその映画がヒットしたかというのは、興行収入ではなく、どれくらいの人が見たか、ということだと思うのに、入場者数が公表されることは少ない。特にアニメーションや特撮は入場者には子供も多いので、興行収入で比較するのはどう考えても不公平である。 この3月のヒット映画も、『キネ旬』は『キャスト・アウェイ』と『東映アニメフェア』がともに30億突破は確実、と言っているが、なら、より客が入っているのは『アニメフェア』の方だろう。
出かけている間に、よしひとさんから女房に電話があったらしい。 なんでもこのところずっとインフルエンザで寝こんでいるとか。当然今度の練習も参加不可。公演の疲れが溜まってたのかなあ。 パソコンも開けぬほどの状態らしいので、せめて電話で連絡したのだとか。 ううむ、せっかくよしひとさんのシノプシスでいくことになったのに、相談がなかなかできないなあ。しかし風のウワサで「先なんて考えてない」とか恐い話も伝わってきてるがちゃんと形になるのだろうか(・・;)。
| 2001年03月22日(木) |
DO YOU REMEMBER?/『梶原一騎伝』(斎藤貴男)ほか |
探偵作家・水谷準と俳優・新珠三千代、死去のニュース。 どちらも好きな方だったので、何か書こうと思って、ふとカンが働いて唐沢俊一さんの裏モノ日記を覗いてみたら、しっかりお二人について語られている。しかも私が書こうと思っていたエピソードまで同じ。 まさしくシンクロニシティってやつなのだが、世代が近いと、その人物に対するイメージというものは自然と似通ってくるものなのだろう。 とは言え、好きな人がなくなったというのに他の人が書いているからと言って書くのをやめるのも変な話である。特に日頃「ミステリ」という一般的な呼称を使いつつも、本当に好きなのは「探偵小説」なのだ、と思っている私が(エラそうに)、水谷準の死に何の反応もしないというのは、ファンとしての名がすたる。というわけで、唐沢さんのとあまり話がダブらない程度に書いとこう。
「水谷準」という名前を聞いてもピンと反応する人は殆どいなくなってしまったのではないか。 戦前、モダニズム文化の発祥、探偵小説の牙城として一世を風靡した雑誌『新青年』の編集長も勤めたが、創作、翻訳にも健筆を振るった。『お・それ・みお』や『カナカナ姫』などの幻想探偵小説は今でも各種作品集で読むことができる。丁度角川文庫で『新青年傑作選』が復刻されていた矢先だったので、興味のある方は読んでみてもらいたい。
代表作の一つ、『恋人を喰べる話』はこんな筋である。 浅草の歌劇団に通い詰める一人の青年がいた。彼はその歌劇団の踊子の一人、百合亞という名の少女に恋していたのだ。青年はやがて百合亞と知り合い、心を交わし合う。しかし百合亞は病魔に冒され、余命幾ばくもない身となった。百合亞はさりげなく青年に自分を殺してくれるように頼む。 「私の首を絞めて下さらない? そしたら私はきっといい児になれますわ……」 数刻後、百合亞は青年の腕の中で息絶える。 青年は百合亞を庭に埋め、その上に無花果の木を植えた。 数年の後、青年自身も胸を病み、死の床で友人に一個の無花果の実を振舞う。 「君も僕の恋人の肉を食べては見ないか……」
大正15年にして「ユリア」というネーミングもすごいが、清廉さと凄惨さの入り混じった独特の作風がご理解頂けただろうか。 筋を全部明かすのはあまりよいことではないが、謎解きものではないし、他の傑作短編もまだまだあるので、そのガイドということで今回は諒とせられたい。 タイトルから「サガワくん」や「レクター博士」みたいな猟奇的人肉くらいの話かと思った人もいるかもしれないが、そう思わせておいてさらりと流すオチが秀逸なのである。 水谷準はあの「金田一耕助シリーズ」の横溝正史の畏友としても知られる。私の手元には、横溝正史の『真珠郎』の復刻版があるのだが、これが題字・谷崎潤一郎、序文・江戸川乱歩、口絵・松野一夫という大変なもので、その装丁を担当しているのが水谷準なのである。 表紙を「紫」の絹地で覆い、「横溝の作品はいつまで経っても完成されない。紫という色は悟り切れない人間臭い色である」と、賞揚する。でもその「人間臭さ」はそのまま水谷自身のことでもあった。水谷は「紫の弁」をこう結ぶ。 「横溝よ、この次には、俺が浮浪人生活をするようになったら、精魂を打ち込んだ装丁をしてやるよ。長生きをしようぜ」 横溝正史は1981年に79歳で死んだ。水谷準は丁度20年、友よりも余計に長生きしたことになる。享年97歳。
唐沢さんは「今まで存命であったことに仰天」と書かれていたが、横溝正史が死んだ時に、「最後の探偵作家死す」の活字が新聞に踊り、「まだ水谷準と西田政治と渡辺啓助がいるぞ」と憤慨した記憶がある。 西田政治は1984年に91歳で死んだ。 渡辺啓助は現在101歳、新作こそないものの、作品集が未だに再刊され続けている。
新珠三千代が夏目漱石の『こころ』(1955年・市川崑監督版)のヒロインだった、と知ったら、テレビの『細うで繁盛記』しか知らない若い人(若くもないか)はビックリするだろうか。 今月の『キネ旬』で、偶然にも車谷長吉がこの『こころ』を「駄作」と切って捨てているのだが、そういう意見が出ても仕方がない面がある。何しろ、第一部の「先生と奥さん」、そして第三部の「私とお嬢さん」、その間十年以上の時が隔たっているのに、演じているのは同一人物、つまり先生は当時44歳の森雅之で、奥さんが24歳の新珠三千代であったのだ。 トシとってからのシーンはともかく、原作の設定でいけば第3部の「私」はハタチ、お嬢さんは17歳である。……森雅之にツメエリの学生服ってのはいくらなんでも無理があった。 でも、新珠三千代は違ったのですね。下宿に帰ってきた「私」と「K」(若き日の三橋達也!)を出迎えて駆け足で玄関に飛び出してきた時の笑顔……「可憐な女学生」というのはああいうのを言うのでしょう。……コギャルも少しは見習え。 十年後のシーンでは一転して「先生」の苦悩の理由が分らず眉をひそめる奥さんの心痛を微妙な仕草で演じきっていました。いや、うまい人でしたよ。 演技の幅ということでなら、岡本喜八の『江分利満氏の優雅な生活』の奥さんも忘れられない。道を歩いている時にまっすぐ前を向いていながらその眼はどこか空ろでたゆたっているように見える。それに対して夫の江分利満氏(小林桂樹)、彼は現代人の空虚さにため息をついて、いかにも戦中派らしく苦虫をつぶしたような顔をしている。二人は実に対照的で、ああ、新珠さんは自分の現実以外は夫すら見ようとしない女を演じているのだな、と気づいて、舌を巻いた覚えがある。 晩年は他の女優同様、舞台に活動の中心を移してテレビや映画に出なくなったのは寂しいことであった。
唐沢さんが紹介している新珠さんの精神病院でのエピソードは実はデマで、出典はフランスの小話である。だから別に新珠さんでなくても、浅丘ルリ子でも三田佳子でもいいのだが、何となく新珠さんだとそれらしく聞こえてしまうのも人徳と言うものだろう。 唐沢さんはかなり簡略化して書いているので、その全貌を(^^)。
京都で映画の撮影中、右眼にものもらいが出来てしまった新珠三千代、ある人の紹介で、嵯峨野にある眼科医へ、撮影所の助監督を伴って出かけていった。 ところが近くに眼科医と同姓の神経科があった。もちろん二人は迷わず神経科の方へ(^_^;)。 院長が出て来て、新珠さん、美しいポーズですっと立ち、サンローランの絹のハンカチをちょっと眼のあたりに当てて挨拶、 「新珠三千代でございます」 すると院長先生、助監督に小声で聞いたことには、 「このかたはいつから自分を新珠三千代だと思いこんでるんですか?」
ちなみにこの話が紹介されてた本は、『シャボン玉ホリデー』や『8時だヨ!全員集合』の構成作家だった故・前川宏司の『猛爆ドジ全集』である。 唐沢さんに教えてさしあげてもいいのだが、誰かがもう言ってそうだし、でしゃばるのもなんだからやめとこう。
斎藤貴男『梶原一騎伝』読む。 私を含め、現在30代後半から40代の人間で、梶原一騎作品に熱中したことのない人間は皆無だろう……って書き出しで始められないんだよね、これが。実は梶原作品で完読したことのあるもの、皆無なのである。 『巨人の星』も『あしたのジョー』も『愛と誠』も、拾い読みしかしていない。というか子供のころはハッキリ嫌いだった。物心ついた頃からテレビアニメと言えば『鉄腕アトム』『鉄人28号』『8マン』『宇宙少年ソラン』『遊星少年パピイ』などなど、SFづけで宇宙や未来に夢をはせていた子供にとって、たかが地上の野球やボクシングごときのすったもんだが面白いはずがない。唯一好きで読んでいたのは『タイガーマスク』だったが、これは覆面プロレスラー同士の戦いを怪獣ものと同じような感覚で見ていたからである。「ちびっこハウスの子供たちのために」という偽善性は子供の眼にもイヤらしく見えていたのだ。 「東宝チャンピオンまつり」では、『巨人の星』だけ退屈なのでロビーに出て終わるのを待っていたという生意気なガキぬだった私である。それらの作品が全て「カジワラ印」だと知った後は、飛雄馬やジョーについて熱っぽく語る連中を知性のないバカなのだと断ずるようにまでなってしまった。 大学生になった頃、ガキの頃は偏見でものを見てたかもしれないなあ、真面目に読んでみようか、と思って読み始めたことがあったのだが、『巨人』も『ジョー』もやはりつまらなくて読み進められないのである。ともかくセリフが臭い。キャラクターがみな自分に酔いしれているばかりのバカ揃いでどう感情移入せよと言うのか。 三十を過ぎてもう一度挑戦してみたら、このときは発見があった。『ジョー』の中で琴線に触れるシーンが結構あったのである。 特に、ジョーが初めて紀子と二人きりで語り合い、「拳闘が好きなんだよ、真っ白な灰になって燃え尽きる……」というジョーのセリフと、「矢吹君にはついていけない」という紀子のセリフ。二人の男女のすれ違いの描写が見事であった。 ところが、そういった私が「いいな」と思ったシーン、それらはことごとく梶原の原作にないものだったのだ。 『タイガーマスク』の怪人たちの原案や、『聖書』についてのルリ子さんの話、『あしたのジョー』のドヤ街の子供たちとの交流、これらはみな作画を担当した辻なをきやちばてつやのオリジナルだったのである。 あの『ジョー』の感動の最終回も、梶原の原作無視の結果だったのだ。というより、原作がどんどん手抜きになっていくので、オリジナルにせざるをえなかったと言った方が正しい。 ちばがキャラクターを掴めなくて梶原に質問する。 「葉子はジョーが好きなんですか?」 適当に答える梶原。 「そのうちわかるよ」 しかし梶原は全く葉子の心情を描かない。仕方なくちばは最後に葉子に告白させる。 「好きなの、矢吹くん! 私のために行かないで!」 ……しかし、ジョーは葉子の制止を無視してホセとの試合に赴く。試合が終わり、グラブを葉子に渡す。 「あんたにもらって欲しいんだ」 そしてジョーは白い灰に……。 ここには梶原の原作は全く使われていない。原作は丹下段平が戦い終わったジョーに「お前は試合にゃ負けたがケンカには勝ったんだ」と声をかけて終わるものである。……どこが面白い、こんなもん。 この評伝は懸命に後年スキャンダルにまみれた梶原一騎の魅力を浮かびあがらせようと「子供の魂を持った人だった」と強調しているが、さて、「子供」ってことが下らんマンガ原作を書き、暴力や脅迫で良心的なマンガ家たちをつぶそうとしたことの免罪符になるのだろうか。 いみじくも選挙に出ようとした梶原に、その母が「あんたはファシストなんだから、政治家になるもんじゃない」とたしなめたというのは、さすが息子の本質は見抜いている、といったところか。 梶原マンガが面白かった、というのは幻想ではないのか。「飛雄馬の目がホントに燃えてやがる」と笑って楽しむならともかく、本気でアレに「猛烈に感動する」連中って、いささかヤバイと思うのである。
4月からの卓上カレンダー、『ひめくりあずまんが』、女房が本屋で見つけてもの欲しそうにしてたので買ったのだが、単行本からの再録のイラストぱかりであったので拍子抜け。セリフをちょっ変えてはいるがそれもそんなに面白くない。 ……しかしウチには「机」も「テーブル」もないというのに、女房はどこに置こうというのだろうか。
晩飯は近所のカレー屋「ココイチ」で季節メニューの「あさりカレー」を食べる。辛さや量を選べるのはいいのだが、単価が高いのがこの店のイマイチなところである。 「ココイチじゃなくてイマイチだな」というシャレを思いついたが、女房に言ったってジト目で見られるだけだから言わない。 女房はそのまま仕事に行くので、今日は映画はナシである。物足りないので馴染みの本屋を廻り、電気屋で安売りのS‐VHSビデオテープを30本買いこんで帰宅する。この30本がひと月できれいサッパリ消えてなくるから不思議なのだよなあ。
昨日あたりから、マンションのエレベーターに防犯カメラがついている。 警備員室から中が見えるようになってるのだが、その警備員室に誰もいないんじゃ意味がないのではないか。 それにそんなものがついていたら、エレベーターに乗った時に、 「だめよ、こんなところで……」 「体はそう言ってないぜ……」 と、「ミサトとカジごっこ」が出来なくなるではないか。 ……って今までそんなことやってたみたいなこと書いてるだが、誰がやるか。
テレビ『カバチタレ!』最終回、偶然見る。 あっ、これって法律モノだったのか。どうせクソつまらんほれたはれたのトレンディドラマだと思って全くチェックしてなかったが、結構面白いぞ。 常磐貴子はクソ大根演技だし、『タイガーマスク』や『鉄人28号』の主題歌を意味なくBGMに流すし、つまんない要素は腐るほどあるのだが、罪に問えないセクハラ男を誘導して新たに犯罪を犯させて告訴するって手は、刑事コロンボ的で面白い。 深津絵里も整った顔を崩して頑張っている。常磐貴子のツッコミが弱くてテンポが合わないのが難だけど。 でも無茶苦茶面白いから見てねと人に勧めるほどじゃないのであった。原作マンガは『ナニワ金融道』の青木雄二で、女房も興味があるみたいだったから、そのうち読んでみようかな。 ……で、「カバチタレ」ってどんな意味なの。
夜中に仕事から帰ってきた女房、もう眠っていた私をたたき起こしてムダ毛の処理をさせようとする。 「起こしたらやってくれるって言ったじゃない!」 女房はそう主張するのだが、私はいったん眠ってしまうとそれ以前のことをたいてい忘れているので覚えがないのである。 とは言え、「そんなん知るか」と言えばまた拗ね始めるのは分り切っているので、しぶしぶ始める。しかし夜の夜中、3時も回ってるってのに、女房のムダ毛を毛抜きでプチプチ抜いてる私って、何なんだろうか。 馬鹿なのだろうな(-_-;)。
| 2001年03月21日(水) |
『GQ』余燼/映画『アンブレイカブル』/『さすらいエマノン』(梶尾真治)ほか |
『ギャラクシー・クエスト』の余韻がまだ残っている感じで出勤。 ツラツラ考えるに、あれをパロディ映画と呼ぶのは全く当たっていないのだな。日常ではダメだったやつが、ひとたび非日常の状況に放りこまれた途端、大活躍するという、『ドラえもん』映画版のような堂々たる冒険映画の系譜に連なる物語なのである。 だからこういう映画が当たると、たいてい「日本ではどうしてこういう映画が作れないのか」と利いた風な口を叩くやつが出ると思うが、そういうヤツらには「『ドラえもん』見たことないんですか?」と言ってやればよいのである。 このパターンのルーツがなんなのか、と考えてみたが、どうもこれだっていうのが思いつかない。『ゾロ』はダメ男のふりしてただけだしなあ。チャップリンは結局ダメなままだしなあ。 ニセモノがホンモノになると言うか、嘘から出たマコト、ってバターンは、『国士無双』や『三悪人』あたりがルーツかなあ、とも思うんだが。『サポテン・ブラザース』自体、『三悪人』に相当インスパイアされてる感じだし。 ルーツ探しは、別に映画の価値と直接関係はない、という意見もあるが、パクリとパロディの区別もつかんヤツがいる以上、批評する上ではきちんと考えてかなきゃならんことなのだ。
マンガ、高橋葉介『KUROKO 〜黒衣〜』1巻読む。 掲載誌の『少年チャンピオン』では既に巻末近くになっていて、あと何巻続くのかアヤウイなあ、という感じなんだけど、妖怪退治ものとしてはそれほど新味がないので仕方ないかな。新米コンビで失敗続きって設定もそんなに面白くないし。 それでも1巻買っちゃったのは巻末に『夢幻紳士』の新作が載っていたからである。一応完結しちゃってるシリーズだけど、いつ再開したっておかしくない終わり方だったし、戦後編でもやってくれないかなあ。
梶尾真治『さすらいエマノン』。 『エマノン』シリーズ第2弾。五編の中では巻頭の『さすらいビヒモス』がエマノンの設定を生かしきっていて一番面白いが、「ビヒモス」のネーミングがやっぱりタイムパラドックスの輪の中に入っちゃっているのが気になるなあ。 最終編の『いくたびザナハラード』で作者本人を出したのはちょっと悪ふざけが過ぎたんじゃないかな。エマノンシリーズは『地球はプレインヨーグルト』の系列とは別物なのである。それとも梶尾さんは電話口で始めて口を利く女性に向かって「はらほれひれ」なんて口走っちゃう人なのであろうか。チャネリングの正体の分析が面白いだけに、そのあたりの寒いギャグがちょっと惜しかった。
仕事から帰ると久しぶりに女房が料理を作ってくれている。くれたのはいいんだが、モノが何かと言うと、「鶏の唐揚げの豆腐和え」。 どういうやつかというとコンビニで買ってきた鶏の唐揚げに豆腐をぶっかけて混ぜたもの。味は鶏の唐揚げに豆腐の味……。和える意味がどこにあるんだよう(T_T)。
なんだか急に思いたって、今日もキャナルシティに『アンブレイカブル』を見にいく。これで三日連続だ(女房は二日だけど)。久しく映画館に行けなかった反動が来てるんだなあ。 福家書店で東京のガイドブックを買う。と言っても選んだのは女房で私は1ページも見てない。何が恥ずかしいって、本屋の旅行案内コーナーで、「ねえ、私ここ行きた〜い」「君が行きたいところに連れてってあげるよ」なんて会話しているカップルくらい恥ずかしいやつらはいないので、私はこんな時は女房から逃げてしまうのである。 しかし女房は外で私と手をつなぐのさえ恥ずかしがるくせに、どうして「一緒に旅行ガイドを見よう」なんてクソ恥ずかしいことが言えるのだ。謎だ。
『アンブレイカブル』、一応ラストのアレがどんでん返しというか意外な結末ってことらしいので書かないで置いてやるが、慈悲だと思えよ、M・ナイト・シャマラン。 結末がどうこういう前に、ブルース・ウィリスの「アンブレイカブル」(要するに「ダイ・ハード」ってことだ)って設定をドラマとして生かしきれてないのだ。もっと面白い展開をいくらでも作れそうなものなのに、ただラストの意外性に収斂させるためにそれらの可能性を全て放棄してしまっている。 悪人がみんななぜか赤い服を着ているとか、無意味な意味付けもやめた方がいいよなあ。前衛映画ならともかく商業映画でやる手じゃない。 『シックス・センス』はまだ登場人物たちの悲しみが伝わってくるけれど、この映画の場合、観客は「勝手に苦しんでろバカ」という感想しか出て来ない。相手役のサミュエル・ジャクソンがミス・キャストなのも大きなマイナス要因だろう。 でもこの程度の脚本でもみんな面白いのかなあ。ここにはプロットやアイデアはあってもドラマが全く不在なんだけど。
買い損なっていた『アニメフェア』『ギャラクシー・クエスト』のパンフも買う。ところが『アニメフェア』のパンフは、裁断ミスの不良品であった。帰宅して気がついたのでしょうがないのだが、改めて持っていっても取り換えてもらえるかなあ。 『GQ』のパンフはポテトチップスの袋に入っているという趣向を凝らしたもの。ミニサイズなわりに、映画バンフレットとしては情報量が多い方だが、それでも『スタトレ』との関連についての説明が不充分な気がする。
映画の帰りにロデムさんから女房の携帯に電話。 イベントのお誘いだったが、劇団の練習日と重なっているので行けるかどうかはキビシイ。ロデムさんのプロットが没になったこともお知らせしたのだが、私のものも含め、殆どが没を食らっているので、申し訳ないがカンベンしてもらいたい。屈託なく笑ってくださったが、採用されたプロットがわずか五行で、しかも作者はその先をなんも考えてないと知ったら怒りゃせんだろうか。 どうもウチの劇団の連中は女房を買い被りすぎている嫌いがある。思いつきだけで後先考えない性格だと言うことに、いい加減気づいてくれてもよさそうなものだが。
このまま行くと明日も映画に行ってしまいそうだがそこまでのことはない。明日は女房が仕事だからだ。明後日はどうか分らんが。 なんだか一日遅れで日記を書くのが定着しつつあるが、なんとか明日あたり、元のペースに戻すよう努力しよう。そうでないと、ホームページの原稿などが全然進まんのだ。 ああ、せっかく『GQ』の心地よい余韻がどこかに吹っ飛んじゃったなあ。
| 2001年03月20日(火) |
オタクの花道/映画『ギャラクシー・クエスト』/『Q.E.D.』9巻(加藤元浩)ほか |
うわあ、どうしちゃったんだろう、昼寝をして起きたら、午前中何してたか、きれいサッパリ忘れちまってるぞ。 けけけ、健忘症だろうか。久しぶりの休日で脳のニューロンも緩みきっているのかなあ。……それともまさか、クスリの副作用か。……風邪薬だからね、念のため。 えーっと、確かホームページ用の原稿を書いてたんだよなあ。でも起きてきた女房に邪魔されて、なかなか書き進めなかったのだ。それで私もふてくされて寝ちまったと……。 そのあと女房も寝ていたということは、女房のやつ、やっぱりまる一日寝てばかりいやがったんだな。なんとか寝る前の女房との会話を思い出す。 「『しりティー』どこ?」 「なんだそりゃ」 「『しりティ〜〜〜!』 ……やっと分った。昨日、映画に行ったついでに買った『私立T女子学園』9巻のことだ。 省略するのは構わんのだが、二度も三度も略語だけ繰り返したって分るものか。「シリシリ」言うから、○○○○、○○○○○ほしいのかと思ったぞ。変態。 ……そう言いながらそのまますぐに落ちやがったんだよな、こいつ。私の眠気は薬のせいだろうが、こいつの場合は天然だ。最近女房はどんどん寝太りしているが、そのうち八畳敷きまで広がっちゃいそうだ。
昼飯は何食ったかなあ。そうだ、糖尿病食の酢豚と豚肉とヒジキの和え物とふかひれスープを食ったのだった。 何だか糖尿の癖にえらく贅沢そうに見えるメニューだが、この日記を見て「よく食ってるねえ、あんた」と皮肉を言ってくるバカがたまにいるのである。当然、量やカロリーは制限されとりますがな。糖尿とは言え、栄養は摂らねばならんのだが、そこを誤解する人間が多くて困るのである。
ああ、なんとか朧気に午前中のことが思い出されてきたぞ。 結局今日は、昨日買ったマンガ読んだり、パソコンで日記書いたリしてたんだな。
マンガの感想は多過ぎるし、ざっとしか読んでないので、明日からチビチビまとめて書いていこう。今日はもっと書かねばならぬことがあるのである。 ……そうである! ついに見たのだ! 幽霊? UFO? モケーレ・ムペンペ? ちがーう! そんなベタなツッコミはいらん!(自分でしてるんじゃねえか) 福岡に来るか来ないか、危ぶまれていた『ギャラクシー・クエスト』がついに来たのだ! 今日はちゃんと女房と一緒に行ってきましたよ。第一、「『GQ』来るよ!」とはじめに情報教えてくれたのは女房なのだ。キャナルシティAMCだけの公開というのが業腹だけどな。 でも実のところ不安だったのである。ヒューゴー賞受賞だの、辛口の批評家も絶賛してるだの、前評判がこれだけ高いと、私のようなヒネクレものなど、「意外とたいしたことないんじゃない?」と拒否反応を起こしてしまうからである。 前半、確かにちょっと展開が強引だなあ、とは思った。 ティム・アレン、そんなに簡単に宇宙に出ちゃっていいの? 『サボテンブラザーズ』のスティーブ・マーティンのように、見るからにネジが一つ切れてるキャラクターならともかく、ただのお調子者がいきなり星間戦争に参加しちゃうのはモチベーションが弱いぞ。これはティム・アレンの演技力不足に起因するのだろうなあ。……と初めは思ったのだ。 でもそれには理由があったのだよなあ。 後半、ティム・アレンの顔がどんどんウィリアム・シャトナーに似てくるのである。シャトナーファンは怒るかもしれんが、彼は役者としては大根である。『刑事コロンボ』に何度か犯人役で出ているが、特に『ルーサン警部の犯罪』は、本人が「役者」として登場していその大根ぶりを如何なく披露している(今回の映画もこのネタをある程度下敷きにしているとおぼしい)。 更には『GQ』で描かれたようなキャスト間の確執、これも特に『スタトレ』ファンというほどでもない私の耳にもチラホラと入ってくるほどのウワサである。 「ウィリアム・シャトナーならホントに宇宙に出ても戦争しまくるぞ」。 推測でものをいうが、きっと『スタトレ』ファンはそう思っているに違いない。あれは多分、リアルな設定なのである。 しかし、後半からの展開は、オタクにとっては嬉し涙の連続であった。ネタバレを避けて詳しくは書かんが、「癒し」の嫌いな私が「癒された」のだ。これはまさしくオタクへの「福音」であろう。 ……『エヴァ』じゃん(^_^;)。 オタクはね、オタクはね、一生懸命ね、社会にね、順応しようとね、努力してるけどね、ホントはね、心のどこかでは思ってるんだよ、例えばね……。 どこかにホントにゴジラいねえかなって。 小ネタだけど、ドクター・ラザラスが最後まで「トカゲヘッドに賭けて」、「シェークスピア」を忘れなかったのもよかった(^^)。
で、続きである。 もちろん今日のこの機会に『ギャラクシークエスト』のパンフだのグッズだのを買ってやろうと思っていたのだが、給料日前で泣く泣く諦めたのであった(T_T)。 近いうちに改めて映画を見に来ねばな。 映画を見終わって、会場を出ようとしたら、女房が「エロさん来てるよ」と指を差す。 なるほど、足早に会場を出ようと急がれている姿はそれらしい(私は視力が弱いので人の識別はもっぱら仕草に頼っている)。ロビーで待ち構えて(通せんぼするみたいだな)二言三言挨拶するが、「あのファンが○○○ところがいいですねえ」と、やはり感動されていたようでほっとする。 お急ぎのようだったのであまり長話も出来なかったが、かと言って、どこかに流れていくには手持ちの金が三百円しかないのであった。……いや、前日また本買いこんじゃってたせいでね(^_^;)。 エロさん、お誘いできずにすみませんでした。 「それにしても、おまえ、よくエロさん来てるって分ったな」 「エロさんの仕事、明日休みでしょ? ネットの日記を見てても映画観に行くの火曜の夜が多いし、多分来てると思って。それにエロさん、途中で席を移動したでしょ? そのとき、いつも着てる服が見えたから」 「……よく、そんな、人の仕事の休みの日まで覚えてるもんだな」 「……どこの店がいつ休みかとか、気になるものなの!」 女房はてっきり浮世離れしたやつだと思い込んでいたのだが、結構、生活臭いやつだったようだ。 それにしてもホームズとまではいかないにしても、立派な探偵の才能である。これでどうして女房にミステリーが書けんのかが不思議なのだ。
マンガ、加藤元浩『Q.E.D.』9巻。 本格ミステリのゲーム性を追及し、必ずしも殺人事件に拘っていない点、また、探偵があくまで狂言回しで事件の傍観者に過ぎない点などがこのシリーズの好ましいところである。 今巻の2編は今まででも出色の出来。相変わらず線が硬質で、人間の微妙な表情を描けていない欠点はあるが、プロット、トリックともに『金田一少年』よりはずっとレベルが高い。 「ケーニヒスベルクの橋」を渡る方法があるとは知らなかったなあ。今まで私が読んだクイズの本にはたいてい「オイラーが渡れないことを証明した」としか書いてなかったぞ。「理系ミステリ」に見せかけていながら、それが実は「心理トリック」をしかける伏線になっているあたり、相当な実力である。 生意気なだけだなあと思っていたヒロインの水原可奈も、最近はだんだんかわいく見えてきた。出来れば10巻、20巻と続いて欲しいんだが。
あだち充『いつも美空』3巻。 3巻目になるというのに、作者がまだどういうことがやりたいのか分らない。ソフトボールマンガになるのか、演劇少女ものになるのか、超能力SF(^o^)になるのか。全然方向性が見えんぞ。 ……と言うか、作者も迷走してるんじゃないかな。 キャラクターの幅が狭い人だから、シチュエーションを一本ビシッとしたものにしないとシマラナイんだがな。でも展開が妙に川原泉の『笑う大天使(ミカエル)』に似てるんだがな〜。まさかああなってこうなってみたいな展開になるんじゃないだろうな〜。ちょっと心配だな〜。
夏目義徳『トガリ』2巻。 「現世での108日間で108の『罪』を集めてくること」という「シバリ」がまだ物語に緊張感をもたらすには至っていない。内容的には1巻の拡大再生産で、もう少し新しい展開が出てきてもいいように思う。
蛭田達也『新コータローまかりとおる! 柔道編』27巻(完結)。 長かった『コータロー』シリーズもついに終わり……じゃないんだよな。まだコータローの両親出て来てないし、次からは『最終章』だそうな。通巻するとやっぱり百巻越えるんだよな。……でもそれだけ続いていてもマンガのレベルが落ちてないからすごいもんだ。 今回のオチもなかなか粋である。コータローが面白いのは、ギャグなようでいて意外と本格的な格闘マンガであるからってことや、キャラクターの魅力など色々挙げられようが、ひとえにコータローが「粋」だからだ。 ……でもここまでキャラ増やしたら、最終章、収拾つかなくならんかなあ。
CSでぼんやり長谷川一夫の『源氏物語』見ていたら、音楽がまたまた伊福部昭で、馬の早駆けのシーンに『怪獣大戦争』マーチがかかっていた。……伊福部音楽は神格化されつつあるが、あの人、こういういい加減な仕事も数多くしているのである。ちょっとどうかと思うけどねえ。
| 2001年03月19日(月) |
文句ばっかり言いたかないけど/映画『ONE PIECE 〜ねじまき島の冒険〜』ほか |
朝方、『アニメージュ』と『NEWTYPE』の4月号をやっと一通り読み終わる。今回、読みたい記事が多くて、読み通すのに時間がかかってしまったのだ。……って、朝っぱらからアニメ誌読んでる中年って、そう多くないだろうな。
まずは『アニメージュ』の記事から。
『千と千尋の神隠し』、声優がようやく決まったが、主役の二人は子役なのでよく知らない。脇を声優以外で固めるのももう定番で、沢口靖子に内藤剛志とはまたどこで宮崎さんの琴線に引っかかってきたのやら。宮崎さんの役者の起用の仕方に私は基本的に反対ではないので(俳優と声優を分けて考えること自体ナンセンスなのである)、これはどう化けるか期待は大。『ゴジラ』に『ビオランテ』、果ては『竹取物語』で悪評紛々たる沢口靖子だが、演技的に云々できる映画に出ているわけじゃないから、評価は今度が正念場ってところではないかな。
『山本麻里安のうぷぷん訪問記』(なんちゅータイトルじゃ)、ジブリの高橋先輩のインタビュー。うわあ、ひさしぷりに顔見たけど老けないなあ、先輩。私のほうが年下だなんて顔だけ見たら信じられないよな。 ご自身の仕事ぶりについて、「アニメーション全般が好きだったわけではない」とか「流されて適当にやってた」とか、やたらと謙遜されているが、どの口でそれを言うか(^_^;)。高校時代、SFとアニメを熱く語り「未来は君に託した」とかテキトーなことを言って私をオタク道に突き進ませたのはこの人のせいだと言うのに。第一今回の記事でも「頭にくるのは、アニメーションをまだ子供だけのものだとか思ってる人が多い」と本気で怒ってるのである。 全然、「雀百まで」でないの。早口で捲くし立てるあの口調まで聞こえてくるわ。 前に電話でお話ししたのはもう『平成狸合戦ぽんぽこ』の頃である。今度上京することでもあるし、お会いできないもんだろうか。『千尋』の追い込み時期だろうし、難しいだろうけど。
『フリクリ』、いよいよ最終巻発売ということで、今まであまりたいした評判も聞こえてこなかったのが、大森望がエッセイで誉めている。「SF的な日常をマジックリアリズム的に受け入れて、その中で生きる人間たちのドタバタを描くっていうのが現代SFの主流になりつつあるんじゃないか」っていう意見には今更何言ってんだって気はするけど。 『パトレイバー』で太田が「レイバーがどうやって動いてるか分るか?」と言ってたが、いつの時代であろうと、個人にとって世界のあらゆるモノはその全てを把握することの不可能なSF的存在なのである。だからよく考えるとその「すこしふしぎ」な日常を切り取ってドタバタさせて見せる手法、四十年以上前から藤子・F・不二雄がやってるでないの。『フリクリ』が『ドラえもん』の構造に極めて近いことに気がついてないのかね。 監督の鶴巻和也は今号のインタビューで「『フリクリ』ではSFを断念した」と語ってるが、それは「サイエンス・フィクション」としてのSFではないということだろう。とうの昔にそんな狭い概念のSFは滅んでいるので、もちろん『フリクリ』をSFと呼ぶことに私は一切躊躇しないのである。 『NEWTYPE』の記事から。
りんたろう(いつの間にか間のナカグロはつかなくなったみたいね)の『メトロポリス』も声優が決定。ティマ(手塚原作のミッチィにあたる)役の井元由香って『オードリー』に出てるらしいが、よく知らない。ケンイチとロックも若手の歌手ということで、このあたりは実際に演技を見てみないと出来の予想もしようがない。脇はやっばりベテラン声優陣で、ロートン博士が滝口順平(絵は手塚原作にもモデルのチャールズ・ロートンにも似てないぞ。なぜだ)。レッド公が石田太郎。ヒゲオヤジはこの人でなくっちゃの富田耕生(熊倉一雄や大塚周夫より私は好きだ)。 実のところ、このトシになってくると、映画に対してワクワク期待するという気持ちは昔ほどにはない。本当の名作、本当の傑作なんてものがそうそう生み出されるものではないということが見えてくるからだ。ではなぜ命を削る思いまでして映画館に足を運び、アニメやマンガに入れこみ、果ては自分で脚本を書いて芝居を打ったりするかって言うと、余りにもこの日本でタテのつながりが途絶えているからだ。大人はなぜアニメを見ないか。子供はなぜ過去の名作映画を見ないか。自分の狭い価値観の中だけで汲々として、他者を顧みる余裕も、その価値観を認める努力も怠っているからである。 手塚治虫の『メトロポリス』の映像化に私が惹かれるのは、単純に言えばその世代間の断絶をSFが埋められる可能性を持っていると信じているからだ。SFがただの未来予測小説などではなく、半世紀を経てもなお現実のアンチテーゼとして機能し得るものならば、大人と子供の感動は一つになろう。
庵野秀明と本広克行の対談、「21世紀になって毎日が未来」って庵野さんの発言、言ってる意味は分らなくはないが、それって自分の想像力の枯渇を表明してるのと同じだぞ。やばいなあ。 でも日本のSFがハリウッドのSFが勝てない理由が、予算の多寡のせいなどではなく、「法律」の違いだと切って捨てるあたりは、いかにも憤懣やるかたないという感じである。この怒りのエネルギーがある限り、庵野さん、次作も面白いものを作ってくれることであろう。 でも『アストロ球団』映画化はやめたほうがよかないかな(『トップをねらえ!』で「ジャコビニ流星アタック!」のもとネタが『アストロ』だと気づいたやつがどれだけいるんだ)。私は見るだろうけど。
4月からの新番組もそろそろ情報が出揃ってくる。 少女マンガ系で出来のいいのは滅多にないが『コメットさん☆』は悪い予感が当たってキャラデザインが今風にリニューアル。声優に前田亜季使ったって見る気にゃなれんな。『ARMS』、『逮捕しちゃうぞ』も福岡じゃやらないみたい。 タツノコの『ソウルテイカー』がどの程度かってところだろうか。 どっちにしろひととおりは録画してあとで見返して保存するものを決めよう。 特撮では『鉄甲機ミカヅキ』の放映が決まったみたいだが、深夜らしいし、気をつけないと見逃しちまうな。 『ウルトラマンコスモス』のテレビシリーズは劇場版の続き、という形になるらしい。となると早くて夏ごろかな。旧ウルトラシリーズに関わった恐らく最後の監督、飯島敏弘氏の脚本監督作である。これは期待しないほうが無理ってものでしょう。
休日前の最後のお仕事。これからしばらく会議は増えるが仕事自体は楽になる。ホームページの原稿なんかも少しは捗るかな。 今日も帰りにマクドナルドで「てりたまバーガースーパーバリューセット」を女房に買ってやる。昨日は二つ買ったてりたまを両方女房にやったので、今日は私もてりたまを食べる。この程度なら自分で作っても作れないことはなさそうだが、ハンバーガー(サンドイッチも)を自分で作る、という習慣自体、もう日本からは消えつつあるのではなかろうか。 ……女房の作ってくれたオニギリやサンドイッチぱくついて、花見とかピクニックしてえんだけどなあ。あまり味に期待できないもんなあ。
女房は夜から仕事だが、せっかく明日が休みでもあるし、意を決して一人で『2001春東映アニメフェア』を見に行く。 一人で行くよ、と言うと、「自分だけ」と文句をつける。だったらなぜこの間一緒に行かなかったのか。 拗ねる女房をあとに残し、キャナルシティへ。結婚以来十年、一人で映画を観に行くのは多分初めてである。でも女房は女房で、こないだ一人で『二人の男と一人の女』見に行きゃあがったんだからおあいこだよな。 こういうすれ違いが二人の間にヒビを入れていくのである。離婚は近い。多分百年後には確実に二人は一緒にいないであろう。 9時の回を覗こうとしたら、チケット売り場にメガネにデブで髪を櫛でといた形跡もないいかにもオタク風な連中がたむろしている。……って私も同類だ(T_T)。 もしやこいつらも『アニメフェア』を? と思ったが、買っていったチケットは『ギャラクシー・クエスト』であった。これは女房も見たがっていたので、今日行ってきたと知れたらますます拗ねられるので、近いうちに改めて二人で来よう。
しかし『東映まんがまつり』の頃は、五本立て、六本立てがザラで、三時間以上たっぷり楽しめたのに、今は堪え性のないガキンチョが増えたか、三本で二時間だ。でも9時過ぎなので会場にお子さまの姿はなし。それどころか全部で十人くらいしかいないがみんなカップルだ。 ……こんなことなら女房と二人で来れる時に見に行きゃよかった。でもデートするのに寄りに寄って『アニメフェア』を選ぶとは、日本もまだまだ捨てたものではない。
『ジャンゴのダンスカーニバル』、あれれ、てっきり原作の表紙をアニメ化するのかと思ったら、ちょっと設定借りただけで殆どオリジナル。でもこれが実にいい出来。 ロトスコープを使わずにダンスをアニメートできる技術は日本アニメの真骨頂。ミュージカルアニメが少なくなってきた中、短いながらもこれは貴重な一本だ。尾田栄一郎の絵って、等身がはっきりしているのでダンスさせるのに向いてたんだと発見。「いやあ、ナミさんセクシー(はあと)」とサンジ風に(^^)。 もともと東映動画って、『白蛇伝』以来一貫してミュージカルアニメを作って来たんだから、こういうの毎回やってもいいくらいなんだよな。デジタル技術による空間の描写が実写には出来ない奥行きとスピード感を演出している。
『デジモンアドベンチャー02 ディアボロモンの逆襲』、オープニングがラヴェルの『ボレロ』で始まるのは一作目からのヒキだな。この辺の細かい演出は当然ファンサービスの意味もあるわけだが、うまく合わせることが出来ればこの『ボレロ』って曲、実に使い出があるのである。 あまり熱心に『デジモン』を見ていなかった頃は、『ポケモン』のバチモンかと思っていたのだが、映画を三作続けて見て思ったのは、これは『ポケモン』との関連性は全くなく、どちらかと言えば『エヴァンゲリオン』の系譜に連なるものだということだ。 デジタルワールドからのデジモンの侵略、それを迎え撃つ「選ばれし子供たち」という設定、何より「怪獣対決」の舞台設定と画面演出が特撮を範とした『エヴァ』の系列の流れにあるのだ。 前作が「デジモンの憎しみと悲しみの内面世界」を舞台にしてしまった(この辺も『エヴァ』だな)ために、どうにもカタルシスを得られない展開になってしまったのに対し、今回は敵のディアボロモンを絶対悪として設定している。だから純粋に怪獣対決を楽しめるのだ。 アニメによる怪獣対決を描くのは無理かなあ、という常識を打ち破ってくれたのが『エヴァ』だとすれば、それを『デジモン』は更に進化させていると言ってよい。その迫力は『ゴジラ×メガギラス』を軽く凌駕している。 毎回大人が全く出て来ない(だからデジモンを倒すために自衛隊が出動したりもしない)点を不自然に思う向きもあろうが、それは敵となるデジモンの存在自体が「大人」の象徴であるからに他ならない。物語の構造自体は謎が多いようでいて実は単純なのだ。……そういう点も、「使徒」を倒さなければ大人になれなかったシンジくんとよく似ているなあ。 いやあ、映画はやっぱり予断でバカにしたりしないで、自分の目で見てみるものだなあ。
『ONE PIECE 〜ねじまき島の冒険〜』、うわあ、五対五の対決モノ、やんなきゃいいのにやりゃあがった。「ジャンプまんがの王道なんだからいいじゃん」という反論はこの場合当たらない。これで『ONE PIECE』が、サンデーの『うっちゃれ五所瓦』の完全な盗作になっちゃったからまずいのである。設定が似てるってだけなら野球マンガは全部『ちかいの魔球』のパクリかってことになるし、あまり目くじら立てたくはないんだけど、ゾロに「俺は二度と負けねえ」と言わしちゃ絶対にいけない。シチュエーションとセリフまで同じだと言い逃れが効かないのだ。 原作の第一話は本当によかったのになあ。なぜあのまま素直に冒険ものにできないのか。敵のキャラクターは、悪魔の実を食べて物理的に強くなってるだけだから、ルフィたちが一旦敗れても、どうせすぐに巻き返せるさ、という程度のやつらにしか見えない。……その辺を豪華な声優陣でゴマかしてるけど、ゴマかしきれるものじゃない(声優は本当に贅沢だよなあ。玄田哲章・林原めぐみ・青野武・田の中勇・島本須美だぜ!)。 本当の敵とは、心と心がぶつかり合うものだ。……子供にそんな難しいことは分るまい、なんていうやつは『太陽の王子ホルスの大冒険』を見たこともないんだろうな。もともとルフィってのはホルスみたいなキャラクターに成長する予定じゃなかったのか。強くなるということが誰かの犠牲の上に成り立つものであってはならないと決意した少年ではなかったのか。最近のルフィって、ただ怒りにまかせて乱暴振るってるバカにしか見えないのが辛いのだ。 でもこの映画がつまんないかっていったらそんなことはないからかえって困るのである。 途中までは物語の説明でややもたついていたが、ねじまき島に潜入してからのアクションは力技の迫力で見せてくれる。敵の城の螺旋階段ぶち壊して駆け登っていくわ、釣り天井を持ち上げ屋根をぶちぬいて一気に頂上を目指すわ、挙句はゴムゴムで砲弾を跳ね返して島全体を崩壊させるわ、おまえらみんなダーティペアか(・・;)。 でも面白くっても感動はない。初めからそういう『Dr.スランプ』的な迫力を求めるだけのマンガならいいんだけどね。『ONE PIECE』が目指してたのはそういう方向じゃなかったと思うんだが。 もういい加減シャンクスと再会させてほしいなあ。そうでないとルフィはいつまで経ってもバカなままだ。連載もどんどんつまんなくなるし、『きん肉マン』や『ドラゴンボール』と同じ運命を辿るぞ。
予告編で見たが次の『アニメフェア』は『きん肉マン2世』をやるらしい。また旧シリーズのようなヘタレアニメになるならご免被りたいが。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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