無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年07月19日(木) 天ブラサンライズ/『吼えろペン』1巻(島本和彦)/DVD『サウスパーク無修正映画版』ほか

 明日から三連休である。しかも休日出勤のない連休だ。
 この機会に読み損ねていた本、見損ねていた映画をたっぷり見ねばと気分は高揚。仕事を大急ぎで片付け、2時間早引けして、しげを誘って天神に食事がてら買い物に行くことにする。
 回るところは決めているが、長引いたりするようだと、しげの仕事の時間が迫ってくるので、こういう時、私は遠慮なく有給を使って休む。こう休みが多いと、他人から僻まれることもあるんだが、本気で僻むやつは精神的○○者なので、気にするひつようはない。
 「銀ブラ」って言葉はあるけれど、福岡だとやっぱり「天ブラ」になるんだろうな。中洲や川端はブラつけるほどの広さないし。その辺、博多生まれの私にはちょっと悔しい(他地方の人には解りにくいでしょうが、「天神」という町は「福岡」であって、「博多」ではないのです)。
 一緒に出かける機会も少なくなっていたので、しげがはしゃぐことはしゃぐこと。……そんなにはしゃいで、外はすっかり暑くなってるてえのに、熱射病になるなよ。

 天神に行く前に昔馴染みの本屋に寄る。小さいけれど、福岡で一番早く新刊が並ぶ穴場な本屋なので(東京発売のほぼ翌日。どういうルートがあるんだ?)、何冊か本を買う。
 どういうわけか、しげは私がこの店に寄ることを嫌がるのだ。行きに寄ると「これから出かけるのに」と怒り、帰りに寄ると「もう帰るのに」と怒るのである。小さな本屋だし、そうたいした時間はかからないのに、イヤミを言われるのは理不尽だ。
 しげ自身は、ショッピングとなると、服屋であろうと、キャラクターグッズの店であろうと、なにも買わないで冷やかしばかりしているのに。そっちの方がよっぽど無駄な時間だと思うがなあ。


 しげがまたもやロイヤルホストに拘ったので、住吉通りを回って食事。
 ロイホは数あれど、ここのロイホは、焼肉プレートがあるのが特徴。焼肉好きのしげだから、てっきり焼肉を頼むのかと思ったら、「ここは高いから」と、普通の食事。
 食事を待つ間に、さっき買ったばかりのマンガ、島本和彦『吼えろペン』1巻を読む。ちょうど主人公のマンガ家、炎尾燃と編集者が「ロイホ」で打ち合わせしていたので苦笑。
 ……と「ロイホ」を連発しているが、私は日常会話でロイヤルホストを「ロイホ」と省略して呼ぶことは全くない(福岡では「ローホ」と略してる人のほうが多いみたいだが)。……「ロイヤルホスト」でいいじゃん。無理に略さにゃならんほど長いコトバでもあるまいに、というのがその理由だ。
 同じように、「マクドナルド」も滅多に「マック」とか「マクド」とか言わない。「マクドナルド」で何が不都合だというのだ。
 いやまあ、腹を立てるほどのことじゃないんだけどね。なんだか若者への嫉妬のように取られるのもヤだからこの辺でやめよう。

 『吼えろペン』、一応キャラクターは『燃えよペン』と共通してるけれど、設定はよりフィクショナルかつギャグの方向に傾倒している。
 なにしろ、人気ゲーム「ぴかりモン」の原作者と勘違いされた炎尾燃が、反日アメリカ人に雇われた女スナイパーに狙われるってんだから。……しかも、その女スナイパーを前にして炎尾が涙を流しながら叫ぶセリフが凄い。
 地球をバックに見開きタチキリで、「世界中でゲームやアニメが何百万本売れようが、おれには1円も入ってこんっ!!!」
 ……力説することかい。……力説したいんだろうなあ(^_^;)。


 「マンガ家の熱い魂」に触れた後、余勢を借りたように(^o^)、ベスト電器と福家書店に回ってDVDや本を買いこむ。
 夏コミのカタログ本を見つけて、買おうとするが、しげが「そんなん買ってどうするん」と文句をつける。
 「いや、山本弘さんのブースがどこにあるのか探そうと思って」
 「見つけられるの?」
 「見当はつくし」
 ……で、買ったんだけど、後で読んでみたら、余りに参加者が多過ぎて、全く見当がつかないのであった。あの5cmはあろうかという厚さはダテではなかったのだな。
 珍しくしげの判断が当たった例なので、きちんと記録しておいてやろう。……負け惜しみかな。


 初め、入院している間もDVDが見られたらなあ、と、携帯用のDVDプレイヤーを買おうかと思っていたのだ。でも、退院したらもう使い道がないことに気づいて、代わりに思いきって、DVD‐RAMを買うことにする。
 これでパソコンでDVDが見られるようになったなあ。
 ……この日記も、今ちょうどDVDをかけながら書いているのである。これまではDVDをかけていると、テレビの方に顔を曲げねばならなかったので、日記を書くのにも時間がかかっていたのだが、画面の横に目をやるだけですむので大いに時間短縮になる。
 そこまでして映画を見なけりゃならんかと言われそうではあるが。

 つい散財をしたおかげで、福家書店を回った時には、ちょっとサイフに余裕がなくなってしまっていた。
 今日こそは前々から買おうと決めていた『ダイナミックBOX』、買うにはン千円ほど足りない。とりあえずしげに一万円借りようとするが、永井豪嫌いのしげはなかなか首をタテに振らない。
 「『藤子BOX』なら買うけど、どうして私が永井豪を?」
 いや、ちゃんと一万円は返すから、と言っても、なかなか納得してくれない。拝み倒してようやく一万円を借りたが、こんなことならもう少し銀行からオカネを卸しておくんだった。


 しげが「入院してる時、着替えはどうするの? 私がいちいち洗濯物取りに行かないといけないの? 父ちゃんは入院してた時、どうしてたの?」とうるさく聞くので、買い物の帰りに姉の店に寄る。
 でも時間が7時を回っていたので、片付けに姉は残っていたが、父はさっさと家に帰っていたのであった。
 仕方がないなあと帰宅すると、待ち構えていたように父から電話。
 「店に訪ねてきたごたるね。何の用があったとや?」
 「入院の時、洗濯物どうしたとかいなと思って」
 「それがくさ、病院の洗濯機があんまり汚かかったけん、外出許可もらってウチに帰って洗濯しとったったい」
 「そげんね。何日に1回?」
 「1週間に1回」
 ……親父、そっちの方が汚くないか?
 「あと、洗面用具って洗面器も要るとね?」
 「ああ、要る要る。全部持っていっとった方がよかやろうね。持っとうとや?」
 ……洗面器のない家庭なんてないと思うぞ、親父。


 マンガ、あだち充『いつも美空』5巻(完結)。
 明らかな打ち切りだけど、なんとかオチはついた。……って、今までのスジは全部映画でしたってのは陳腐だなあ。いくら打ち切られたとは言え、もう少しなんとかならなかったのか。
 でもダラダラ続いて焦点のボケた作品になるよりは、5巻で終わりってのはいいまとまり方のようにも思う。
 かといってアニメ化はまずない。


 マンガ、園村昌弘・中村真理子『クロサワ』。
 映画監督、黒澤明の伝記マンガ、という体裁を取っているが、内容的には『トラ・トラ・トラ』降板事件の真相に迫ろうというもの。
 全体的に、「よく取材している」とは言える。しかし、『スピリッツ』連載中は、「黒澤明の捉え方が一面的に過ぎる」と非難轟々だったらしい。
 しかし、冒頭、「黒澤明の米アカデミー特別名誉賞受賞」「『生きる』ベルリン映画祭銀熊賞受賞」の二つが誤報であることを指摘したことは重要な事実ではないだろうか。
 確かにマンガ家の技量の未熟さは見てすぐわかる。そのために、黒澤明のキャラクターが、マンガのキャラクターとして全く魅力的に見えないのは致命的だ。しかし、解説を担当した黒澤プロダクションの田畑稔氏が、「このマンガの黒澤明は虚像だ」と言い切ってしまうのは「表現すること」自体を否定することにつながりかねない。
 「真実なんて、描けるはずはない」ということを解説で述べてどうするのだ。そんなことは解っていることでわざわざ言わねばならないことではない。書かれているものが自分の知る黒澤明と違っているなら、「あの人は本当はこうだった」と具体例を書くしか方法はないのだ。どちらが正しいか、というより正しいと思いたいかは読者が勝手に決めることなのである。その対象となるのが実在の人物であったとしても。

 でも、本当にあるのかどうか知らないけれど、黒澤版の『トラ・トラ・トラ』も見てみたいなあ。たとえ部分的であったとしても、『パールハーバー』よりは絶対に面白いと思うのである。これも勝手な想像だけどね。


 永井豪・石川賢・風忍・筒井康隆『ダイナミックBOX』。
 『三丁目が戦争です』の復刻版がほしくて買ったのだけれど、『デビルマン』、従来の単行本ではカットされていた表紙絵や、赤ん坊が惨殺されるページなんかが復活している。それだけだけど、ファンとしてはやっぱり嬉しい。
 でもあとのはたいしたことない。キューティーハニーのクリスタルフィギュアなんて、透明にしちゃったら色っぽくもなんともないぞ。
 記念品的な意味合いが強いので、確かにファンじゃなきゃ買わんわなあ。


 DVD『サウスパーク無修正映画版』。
 関西弁版の制作がネット上で散々非難されていたが、聞いてみるとヒドイと言うほどではない。ウマイとも言わないけど。
 まあ、『ルパン三世 風魔一族の陰謀』がキャストを一新した時に起こった非難と同じで、前のキャストに思い入れが深いと、どうしても悪口言われちゃうものなのだね。演技的には結構みんな熱演してたんだけどね。
 ああ、でも英語字幕が出るようになったから、これで「アンクルファッカー」も「ブレイム・カナダ」も「カイルのババアはスーパービッチ」も原音で歌えるようになれるぞ。
 ……なってどうすんだよ(-_-;)。


2001年07月18日(水) 夏到来! ……って暑いだけだって/『夢の温度』(南Q太)ほか

 昨日までの天気と一転して、今日はピーカン。
 つい昨日まで、また大水が出て川が氾濫するんじゃないかと心配していたのがウソのようだ。マンションのエレベーターの壁には、まだ「冠水の恐れがあるのでご注意下さい」というビラが貼られたまま剥がされていないが、この上天気ではいかにもマヌケだ。
 いや、上天気どころの話じゃないぞ。
 玄関を開けるなり、ブワッと熱風が押し寄せてきて、なんだなんだと驚く間もなく飛び込んでくる、耳を劈くほどのアブラゼミの大音声。
 ……季節の変わり目ってのは、もう少しなだらかに移って行くものじゃないのか。こんなに解りやすい夏の到来も珍しいなあ。

 しかし今年も鳴いてるのはジワジワジワジワ、アブラゼミばかりだ。子供の頃聞いていたミンミンゼミの鳴き声は、福岡の町中ではとんと聞かなくなってしまった。
 でも「セミの鳴き声は?」と聞かれれば、やはり「ミンミン」と答えてしまう。子供のころに習った「せみのうた」(さとう・よしみ作詞/中田喜直作曲)でも、全く何の説明もなく、セミの鳴き声は「ミンミン」に限定されていた。
 歌の出だしは「せみ せみ せみ せみ せ みんみーん」で、まるで「せ『み』」だから「みーん」と鳴くのだとでも言いたげだ。
 ……ただのシャレじゃん。でも、これ、ちゃんと語源説の一つとしてあるのよ。方言によっては「せーみ」とか「せび」「せんみ」「しみ」「すーみ」と呼ぶ地方もあるようだから、説得力ないわけではないのだね。
 ほかにも「セミ」の語源は、音読みの「セン」が訛ったものとする説があるが、この「セン」ってのは「震える」という意味なので、昔の中国人は、セミが腹を振動させて音を響かせていることをちゃんと知っていたのだ。おお、意外と科学的。
 さて、中国でも「セミ」といえばミンミンゼミを指すのだろうか。そのへんは実はよく知らない。
 ミンミンゼミは水のキレイなところにしか住めないということだから、明らかにその棲息区域は年々狭められているのである。もう何十年かしたら、すっかりアブラゼミに駆逐されてしまっているかもしれない。


 第125回直木賞に、藤田宜永(「よしなが」って読むんだ。……今まで「せんすい」って読んでたわ。うーむ)『愛の領分』が受賞。
 小池真理子さんと揃って、夫婦受賞ってのもお初だとか。でも実は私は、お二人の作品、全く読んでいない(小池さんのホラーにはちょっと興味があって何冊か買ってるんだけど、積ん読ならぬ埋もれ読になっている)。
 読んでない人の話をなぜわざわざ日記で取り上げるかというと、この二人が強烈な猫マニアだからなのだね。
 『文藝 別冊総特集 作家と猫』という雑誌で、自分たち夫婦がいかに猫が好きか、ってことを対談してたんだけど、まあ、ペット雑誌ならばともかくも、文芸雑誌でいったいどういう読者を想定しているのかわからぬままに、陽気に「猫話」に興ずることが出来ることに半ば呆れつつ、「これも猫の魔力か」と納得もしたのだ。
 普通、作家同士の結婚って、数年で破綻するものなのだが(←偏見だけど実例多し)、この二人、妻の方が先に直木賞を受賞し、しかも収入も妻の方が多いという、離婚にはもってこいの条件があるにもかかわらず(だから偏見だってば)、未だにおしどり夫婦で有名である。
 で、どうやらその秘訣(?)は「猫」にあるようなのだね。お二人がもし猫を飼っていなかったら、夫婦円満でいられたかどうか。いささか妄想は入っているけど、これ、意外と「文学的主題」ではないかと個人的に思っているのだね。

 そういう名称で呼んでいいかどうか分らないが、世には「猫文学」というものが存在する。
 エドガー・ポー『黒猫』は、猫文学の最高峰の一つだと思うが、あれは一言で言うと、ゴシックホラーと言うよりは、「猫好きの妻と猫嫌いの夫の悲劇」である。ハインライン『夏への扉』が『黒猫』にインスパイアされているという説を私は勝手に唱えているのだが、そういった骨組みで両者を比較してみると、結構通じるものがあるんじゃないかと思うの。
 面白いことに、男と女の間に「猫」が介在した場合、文学上そこには「悲劇か喜劇か」の両極端しか描かれないのだ。普通の「猫小説」と言うものは余りない。
 猫に見入られる、魅せられる、そう言ってもいいと思うが、猫に何か人間以上の神秘性を見出している結果が、そのような小説群を生み出しているのは間違いない。
 『吾輩は猫である』の猫は批評家であるし、『三毛猫ホームズ』の猫は探偵だ。これらは喜劇だが、悲劇に目を向けると、それこそ具体例は枚挙に暇がない。日本は特に「化け猫」が『南総里見八犬傅』を始めとして、妖怪モノの定番になっている。
 それは、猫の仕草、猫の瞳の変化、それらに我々が人間の無意識を投影し、象徴させてきた結果である。猫の瞳は、我々の心の奥を覗き見る。我々は猫の前で決して心を隠していることは出来ない。猫は「サトルの化け物」であり、また全てを見通す「神」でもある。
 だから我々は猫に対しては、心をゆだねるか、拒絶するかの二つの手段しか取り得ない。「悲劇か喜劇か」の原因はそこにあるのだ。

 科学が一応、我々の周囲から「不思議」を取り払ってしまったことは、昔のような単純な虚構を我々が生み出せなくなっているということでもある。
 私たちの周りには、人を化かすキツネもタヌキもいない。
 猫は、唯一今も残っている、実在する「妖怪」なのである。

 で、今度のウチのお芝居、「猫」話なわけです。しかも典型的な。
 この話に繋げるために今まで前振りしてたのでした。宣伝でどうもすみません。具体的な内容を書かずにお客さんに興味を持ってもらうって、大変なんスから、ほんとにもう。


 休憩するヒマもなく仕事が続く。
 こういうときゃテキトーに手を抜きゃいいんだろうけど(「手を抜く」という言葉、私ゃ別に悪い意味で使っちゃいない)、かえってハイテンションで仕事しちまうのはなぜだ。自暴自棄か。

 晩飯を作る元気も外食する気力もなかったので、コンビニ弁当を買って帰る。
 しげが喜んで私の分まで食おうとする。
 昼間、買い物して米だけでも炊いてくれてれば、私ゃオカズ作るだけですむのになあ。その程度の家事すらしないやつなのだ、こいつは。
 テレビで、幼児虐待して殺した夫婦のニュースを見ていると、「妻は家事を全くせず、家の中は汚く劣悪な環境にあった」とか言ってる。実際、ウチに子供がいたら、この部屋に住ませるだけで虐待行為になるのだということはよく分る。
 ……せめて毎日ゴミだけでも捨てろよ。


 ようやく今週の『少年ジャンプ』をコンビニで立ち読み(困った客だ)。
 『ヒカルの碁』、ついに佐為が消えてしまった。
 余りにも見事な消え方で、これは単に「ヒカルのそばからいなくなった」とか、「どこか別のところに行った」なんて中途半端なものではない。「虎次郎が佐為のために、佐為がヒカルのためにあったように、ヒカルもまた誰かのために生きるのだろう」……これは、明らかに「死」のイメージである。
 だとすれば、これは『ヒカルの碁』にとって、一つの正念場だ。
 ジャンプマンガのセオリーに則れば、佐為はこのまま消えたりはしない。ロビンマスクが、紫龍だったか誰だったかが(『星矢』は熱心に読んでなかったから覚えてないわ)、ピッコロがいとも簡単に復活したように、佐為も何らかの形で復活する。
 でも、たとえ佐為が幽霊であったとしても、『ヒカ碁』はあくまで現実の物語だ。物語のテンションを落とすまいとするなら、決して佐為を復活させてはならない。そういうところに、作者はこの物語を追い込んでしまったのだ。
 佐為がいなくなって、それで物語が続けられるのか、という意見もあろう。
 しかし、最重要人物がいなくなってもなおドラマとしてのレベルを落とさずに更に長期連載を続けたマンガがこれまでにもあった。
 ちばてつやの『あしたのジョー』、あだち充の『タッチ』。
 この二作は、はっきり、ライバルがいなくなったところから新たなドラマが始まっている。
 決して楽な道ではない。人気キャラに寄っかかっていれば、とりあえずの人気は取れて、連載を続けることはできるからだ。しかし、どんなにファンがついていようと、『キン肉マン』や『聖闘士星矢』や『ドラゴンボール』を傑作と呼ぶことはできない。それは、マンガファンとしての良心の問題でもある。
 作者にその良心があるならば、更に『ヒカ碁』が長期連載を試みるのならば、これからのドラマこそが、本当の『ヒカルの碁』の始まりとなるだろう。それは、ヒカルにとっても、作者にとっても、茨の道であろうことは想像に難くない。アホな編集なら「佐為はいつ再登場するんですかあ? そろそろ出さないと人気落ちちゃいますよう」などと言い出しかねないからだ。
 でも、そんなアホな要求に屈する作者たちではあるまい。そう信じられるのは、今までの、ある意味ジャンプのセオリーを崩しつつ、ここまできたという実績ゆえだ。
 ……正直言って、原作のほったさんが、こんなところにまでドラマを追いこむとは思ってもいなかった。……まだまだ私の見方は甘かったのだなあ。
 世のマンガファンよ、端倪すべし。


 マンガ、南Q太『夢の温度[夏祭り]』。
 前々から読んでみようかどうしようかと気になってた南Q太。
 先日読んだ『20世紀少女マンガ天国』で、「かわいい女の子が激しくセックスするマンガ」とミもフタもないことを書かれていたので、かえって面白いんじゃないかとまとめて作品集を買い込んでみたのだ。
 こういう「賭け」に近い衝動買い、言ってみれば私の「カン」なのだが、結構このカン、外れない。
 うん、アタリでした。今まで読まずにすませていたのがもったいなかったなあ。これはイイよ、ほんとに。

 とりあえず、「かわいい絵でやりまくり」という印象は本作にはなかった(^.^; )。
 南Q太の絵は、明らかに江口寿史の流れの上にある。ヨシモトヨシトモやガロ系の漫画家もちょこちょこ入っているようだが、均質な線で描かれる人物、ハイライトの少ない目、引き結んだ口を表す下唇の線などは特徴的だし、主要キャラ以外の人間をこれでもかというほどにブサイクに描くあたりの差別性も江口風だ。おかげで、その絵だけで主人公たちのセックスが純愛に見えてしまう効果がある。実際、ドラマ的にもある意味純愛ではあるんだけど。

 28歳までずっと処女のままの教師、町子。周りの独身男はダサイというよりは汚らしく気持ちの悪いヤツばかり。少し頭がコワレかけている母親からまで結婚を迫られて、本当になにげなく、町子は教え子のアキと関係を持つ。
 「淋しくて誰でもよかったのかも」
 そう呟く町子だったが、ここまでは、従来のマンガにもよくあるように、「赤い糸」で結ばれた相手を求めるオトメの陥りやすい罪悪感。これからあと、それこそありきたりのマンガなら「本当の恋人はこの人だわ」と思いこもうとするか「私の運命の人は他にいるわ」と旅に出るかするものだが(笑)、本作は違った。
 ムズカシイことを考えることはやめて、ただヤルよーになるのだ。おいおい(=^_^=) 。

 でも、そんなもんでもいいよな。男と女の仲って。

 差別的かもしれないが、顔がよければ男と女の壁なんて結構、乗り越えられる、ということでもある。外見だけじゃ駄目、なんて言うから話がコムズカシクなるんであって、顔だけでいいじゃん、ということになれば拘りはグッと減ったりもするのだ。
 進歩的と呼ばれるような女性が、どんなに「誰でもよかった」に対して、拒否感、罪悪感を抱こうと、事実は男と女は「誰でもいいから」相手を選んでいるのである。
 逆に、相手を「誰でもよくない人」「唯一の人」なんて認識したりすると、男と女の不幸は始まってしまうのだ。
 モラルとか思いこみを捨てたところからしか恋愛は始まらない。大島渚の『愛のコリーダ』がただただセックス描写のみが続くにもかかわらず、世間の通念とは違って堂々たる純愛映画になっていたように、セックスはそれだけで愛となるのだ。

 それで今、ちょっと思いついたミニ小説。

 何となく振り向いたぼくと彼女の声がはもった。
 「ねえ、しよ」
 プッ、と噴き出して笑ったあと、ぼくたちは二回、セックスした。

 ……たった三行だけど、ちゃんと小説になってるなあ。うーむ、セックス恐るべし。
 

 マンガ、臼井儀人『クレヨンしんちゃん ファミリー編』。
 コンビニ用の雑誌マンガ。
 単行本、持ってるのにわざわざ買ったのは、プレゼント付き、と書いてあったからだったが、よく読んでみると「抽選で500名」だった。
 クソ、表紙に騙されたぜ。
 でも同じテーマの作品ばかり集めると、ルーティーンギャグの変遷もわかって面白かったけど。「『しんちゃん』を読んだことない」って人にはまずこの雑誌を読ませるというのも手かも。


2001年07月17日(火) 何年ぶりかの酒の味/『水木しげる貸本漫画傑作選 悪魔くん』上下巻

 最近、早寝をする癖がついてしまっているので、目覚めるのも必然的に早くなってしまった。
 8時、9時にはもう寝てしまっているので、起きるのが3時、4時。
 ちょうどその時間帯にしげが仕事から帰ってくるので、必然的にパソコンの奪い合いになる。
 なんだかなあ、私の方がウチにいる時間が短いんだから、私に譲ってくれてもいいじゃんか、お前は昼間使えるんだし、と主張するのだが、しげは「私の寝る時間がなくなるじゃん!」と怒るのである。
 ……ちょっと待てや、しげが帰宅してすぐに寝たとして、昼間も寝続けて、で、仕事に行く時間になっちゃうとしたら、やっぱり一日の半分以上寝てる計算にならんか?
 一日、12時間以上寝てるやつが、起きてるときずっとパソコンにかじりついてたら、そりゃ、家事する時間がないのも当たり前だ。
 だから、「寝る時間がない」なんてウソをつくなよ。単に人より寝過ぎてるだけじゃないか。家事をちゃんと手伝った上で、自分の主張をしろと言ってるのに、なんでそうワガママばかり言えるのだ。
 でも、最近私も疲れ気味なので、しげを怒鳴りつける元気がない。と言うわけで、結局パソコンはしげが使い続けることになるのであった。
 日記の更新が遅れるのは全てしげが悪いのだ。
 罪滅ぼしに、私の入院中、日記のUPを続けてもらわなきゃ割が合わんよなあ。


 空はどんより雨模様。
 おいコラ、昨日で梅雨明けじゃなかったのか。
 天気予報じゃまだ晴れ時々雨なんて言ってやがるぞ。

 ふと、気がついた。

 今日は、しげに成人病センターまで、職場に提出する私の診断書を取りに行ってもらうように頼んでいる日である。
 しかし、外は雨(が降るかもしれない)。
 雨が降ってる時には結構大切な用事があっても外に出ようとしないのがしげだ。

 いや、それ以前に、しげは「診断書を取りに行かねばならない」こと自体忘れてはいないか。
 記憶力に関しては鳥にも劣るしげのことである。その可能性は大だ。
 職場から電話をかけて確かめてみるという手はある。
 しかし、仮にしげが電話に出なかったとして、それが外出しているためであるのか、それともグータラ寝てるだけなのか、どちらか判別がつかないではないか。

 私は今までのしげの過去の言動を心の中で反芻した。
 しげを信頼すべきか否か。

 そして、私はしげを信じた。

 絶対、忘れてるに違いないと。

 会議や他の仕事もいろいろ残ってたんだけど、同僚に押しつけ、いやいや任せて、職場を早退した。
 で、帰宅してみると。

 「……なんで、早く帰ってきたん?」
 きょとんとしたしげの間抜けヅラがそこに。

 私は思う。
 私くらい、自分の妻の性格、言動を見ぬいている夫はいないだろう。くくくくく((((T-T*))))。

 心の中でしげにムチを打ちつつ、西新の成人病センターまで診断書をもらいに行く。しげは本来自分が一人で行かねばならないのに、二人で行くことになってはしゃいでいる。……少しは罪悪感を持てよ。

 用事は5分で終わり。でもウチから行き帰り1時間ずつかかるんだよなあ。
 なんかムダだ。
 帰りにまた「ひなっ子」に寄って、「串膳」を頼む。
 鶏尽くしの御膳で、唐揚げ、串焼き、吸い物となかなか趣向を凝らしているが、中でも「鶏わさ」というのが特に美味。鶏のササミのタタキをわさび醤油で食べるものだが、固からず柔らかからず、噛んだ時のクニュッとした触感が絶妙。
 メニューに「カルーアミルク」とあったので、なんだこれは、なにかミルクに果汁でも混ぜたものかなと頼んでみる。
 お、意外と美味しいじゃん。

 ……と、一気に飲んじゃったのが失敗。

 これ、カクテルだったのね。
 私は糖尿で酒は一切飲まないが、もともと酒にはく極度に弱い体質で、三三九度のおちょこの日本酒で酔っ払ったというヤツなのである。
 いやもう、からだ中が熱い。
 頭が腫れあがるようだ。
 結局、酒が抜けるまで1時間かかっちまった。
 あとで調べてみると、カルーアミルク、アルコール度数は9度しかないそうである。……それで酔っ払うかな、普通。

 外はいよいよ雨降り。
 酔っ払いの頭には少しは涼しくなって、かえってありがたい。
 文房具屋とベスト電器を回って、ファイルやキーボードカバーなどを買う。西新、滅多に来ることはないけど、結構モノを揃えやすいなあ。
 金文堂で本を買いこむ頃には外は土砂降り。仕方なく雨宿りに、隣のハンバーガー屋に入る(店の名前は忘れた)。
 
 晩飯がハンバーガーというのは味気ないけれど、仕方がない。
 雨が小降りになるまで、買ったばかりのマンガなどを読みながら過ごす。 
 帰宅は結局、午後8時。帰りつくなり、今日も早寝をするのであった。……で、やっぱり朝起きると、しげがパソコン使ってて、私には何もさせてもらえないのであった。 


 マンガ、横山光輝『仮面の忍者赤影』1巻。
 昔持ってたコミックスは紛失したりボロボロになってたり、というわけで、文庫になったのをいい機会に、改めて買い直し。
 表紙の絵が妙にキレイでなんだかアシスタントに描かせたっぽい。
 病気して以来、『殷周伝説』なんか、横山さん自身の線は震えまくっていて、昔日の流れるような線とは程遠くなってるからなあ。
 久しぶりに読み返してみると、山田風太郎忍法帖にヒントを得ているとはいえ、やはりそのストーリー展開の妙には堪能させられる。
 赤影たちの敵となる、甲賀霞谷七人衆、これが実に魅力的なのである。
 ホームページを立ちあげる時には、赤影テレビ版のコーナーも作るつもりなので、ここでちょっと原作キャラとの比較をしておこう。

 <原作>甲賀幻妖斎   <テレビ>甲賀幻妖斎(天津 敏)
    黒童子         悪童子  (大城 秦)
    鬼念坊         鬼念坊  (芦田鉄雄)
    朧一貫         朧一貫  (阿波地大輔)
    夢堂(ゆめどう)典膳  夢堂(むどう)一ツ目(汐路 章)
    ガマ法師        蟇法師  (近江雄二郎)
    土蜘蛛         闇姫   (岡田千代)
    傀儡甚内        傀儡甚内 (波多野博)

 ある程度、名前を拝借してはいるけれど、キャラクターがまるで変わっちゃってるのも多いんだよね。というか、実はドラマよりマンガの方がよっぽどリアルだったりするのだ。
 ガマ法師が操る巨大ガマ、ドラマでは火まで吐いてたが、原作はガマ法師が長年育てたというだけのガマ。
 ドラマの魔神像は巨大ロボットだったけど、原作では幻妖斎の集団催眠で動いているように見えただけ。荒唐無稽にも理由がなきゃならないっていう横山さんの拘りなんだよなあ。ドラマと比べてどっちがいいかってのは一概には答えられない。
 ドラマとなにが一番違うって、原作の甲賀幻妖斎、戦国大名六角義治の雇われ忍者なんだよね。忍者は所詮大名のパシリってシビアな見方が横山さんにはあったのだ。
 だから七人衆、実は赤影たちと戦って立派に死ぬ者ばかりではなかったりする。
 凧を操って空を飛ぶ黒童子は、燃える凧に巻きこまれて事故死、傀儡甚内も雷に打たれて死ぬ。朧一貫は捕虜にされるくらいならと自殺しちゃう。
 いつの時代も下っ端は悲しいよなあ。 


 マンガ、水木しげる『悪魔くん』1・2巻。
 テレビドラマ化された方じゃなく、後の少年ジャンプ連載、『千年王国』でリメイクされることになるオリジナル貸本版。
 いや、前に太田出版から出てたデカ本で買ってたんだけど、もう『悪魔くん』は私の精神的支柱なもんで。
 実は私は革命主義者(笑)なんだが、それはマルクス主義に基づくものではなく、『悪魔くん』に依拠するものなのである。……ってことはサタニストなのか、私ゃ(^.^;)。
 よく読むと、悪魔くんがホンモノの悪魔を呼び出してまでして、この世に築き上げようとした万人が兄弟となる平和な王国ってのがどんなんだか、よく分らないんだよね。リメイク版ではそれが「子供による統治」と具体的に描かれることになるのだけれど、さて、貸本版を描いていた時点で、水木しげるがそんなことを考えていたかどうか、どうも疑わしい。
 悪魔くんの12使徒も、後に描かれたものと当初の構想とは大きく違っていたのではないか。貸本版が途中で打ち切られたものだとしても、既に「梟女」などは登場していなければいけないはずなのに、影も形もないからである。
 私自身は、水木さんが当初考えていた「地上の天国」は、『原始さん』で表されたような「文化のない世界」だったんじゃないか、なんて適当に考えているのだが、もちろん根拠はない。
 ヤモリビトがいみじくも喝破したように、「悪魔くん」は「悪魔」以上の「悪魔」なのだ。自分の使徒を作るためなら殺人も厭わない超神童なのだ。人間のくせにエリートだとか、金持ちだとか、どうでもいいことに拘っているやつに対しては容赦しない子供なのだ。
 「悪魔」は極めて原初的な存在である。全てを「原始」に帰す。そこからもう一度、人間の歴史をやりなおす。それが水木さんの考える「楽園」だったのではないかという気がしてならない。
 ……って、それ『エヴァ』じゃん(^^*) 。



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