無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年04月02日(月) 桜の森の満開の下/『イギリス人はおかしい』(高尾慶子)ほか

 どひゃあああ。に、日記が、日記が消えてるうううう!
 現在これを書いているのは4月4日の午後6時20分。昨日の夜、日記が開きにくいなあとは思っていたのだが、故障があったらしくて、2日の分からまるまる消えてしまったのだ。
 この年度初めで仕事も忙しいってのに、「エンピツ」の野郎、なんて事故を起こしてくれるのだ。おかげで今日一日で三日分の日記を書かねばならなくなってしまったではないか。
 ……愚痴ってるヒマはないぞ。二日前に書いた文章なんか殆ど中身を忘れてるが、なんとか思い出して書こう。



 今日から年度初めである。
 ワープロだのなんだの、職場に持っていかねばならない荷物も多いので、タクシーを利用する。
 道端の桜を横目に見ながら、そろそろ七分咲きかなあ、昨日女房を花見に連れていかなかったのは悪かったなあ、などと考える。週末まで桜が咲き残っていたら、『ブルースブラザース』のDVDを買いに行くついでに花見としゃれこもうかな。
 そう言いながら、気温はここ数日まだまだ肌寒い。昨日などは雨までぱらついていたのだ。
 そんな雨の中だってのに、近所の公園では夕べも場所取りの花見客が何十組もぶるぶる震えながら毛布かぶって徹夜していたのだ。……根性あるなあ、というより、劇場アニメの初日に徹夜で並ぶオタクを嗤えねえぞ、お前ら。そんなに酒が飲みたいか。
 でも春先のイベントって言ったら、花見くらいしかないししょうがないのかもしれない。「花祭り」は地味だし、第一何か飲んだり食ったりして騒ぐって類のものでもない。『OL進化論』か何かのマンガで「食いものと結びついていないイベントは弱い」とか言ってたが、なるほど納得である。

   願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ

 西行の辞世として有名だが、これ、そんなに悲壮な歌じゃないんじゃないかな。如月は当然旧暦なのでまさしく今ごろ。満開の花の下では酔生夢死、過去も未来も星座も越えて全ての悩みを忘れていられるのだ。西行って、ただポケ〜っとしていたかっただけなんじゃないかな。
 死体なんか別に埋まってないと思うぞ、梶井。

 職場の部署が変わったので、ぶたくそ(「メチャクチャ」の意。女房がしょっちゅう使ってるが広島弁か?)忙しくなり、帰宅は午後7時過ぎ。
 おかげで『水戸黄門』の第1回、頭から見損ねた。
 私のフェイバリット黄門様は何と言っても月形龍之介なので、石坂浩二はどうにも人間的深みに欠ける。ヒゲがあるなしの問題ではないのだ。ドラマ自体は今までの設定を全てリセット、将軍家との確執からコトを始めるという骨太路線を選んで、なおかつ怪しい忍者風の者たちをも暗躍させるという時代劇エンタテインメントの定石をきちんと踏んでいる。でも役者がどうしても弱いんだよなあ。
 いくら人気があったからといって由美かおるを出しつづけるのはどうもねえ。体型は崩れてないが、エロキューションはもうボロボロで舌が回ってねえぞ。

 女房と何かやりとりをしたような気もするし、日記にも一回何か書いたような気がするが忘れた。ともかくこの日は眠くて眠くて、後半の記憶が薄いのである。後日、思い出す時があったらまた書くかもしれない。
 
 女房のネット友達が、オープンしたばかりの「ユニバーサルスタジオ・ジャパン」に行ってきたというので、早速そのレポートを覗いて見る。
 そのお友達というのも、女房同様、ダン・エイクロイドのファンで、『スニーカーズ』のポスターの前で記念写真を撮ったりして、なんとも微笑ましい。
 で、結構穴場で客が少なかったという、我等が「ブルース・ブラザース・ショー」。残念ながら雨天のため野外ショーは中止、握手会に変わったそうだが、ジェイクもエルウッドもあまり本物には似てなかったそうである。……まあ、『ベルーシ ブルースの消えた夜』ほどひどくなけりゃ許せるだろうけどなあ。
 女房に「USJに行きたいか?」と聞くと、「ちょっと」と答える。ファンとしては「モドキ」は許せない、という気分と、でも見てみたい、という気分とが内心せめぎあっているのかもしれない。
 でも「ブルース・モービル」は写真で見る限り、鉄製の拡声器もついた立派なものだったぞ。ああ、これだけでも見に行きたいよなあ。
 スヌーピーがブルースブラザースのコスプレしたポスターが展示されていたようだが、売ってるものならこれはぜひ欲しいな。よく見ると「THE BEAGLE BROTHERS」と書いてあって、これはウマイ! でも、エルウッドがスヌーピーってのはわかる気がするが、ジェイクをオラフにさせるのはちょっとどうだかねえ。兄弟逆じゃん。言わずもがなだけど、オラフはスヌーピーの弟の一人の太っちょで、スヌーピーの兄はスパイクなのである。体型で選ぶとどうしてもそうなっちゃうんだろうなあ。……じゃあ、ウッドストックは誰だ? キャブ・キャロウェイか? 

 高尾慶子『イギリス人はおかしい 日本人ハウスキーパーが見た階級社会の素顔』読む。
 以前、マークス寿子というイギリスかぶれの女性(イギリスの貴族と結婚し、離婚したのに未だにマークスなんて名乗ってんだよねえ)の書いた『大人の国イギリス子供の国ニッポン』という本を読んで頭に来たことがあった。
 なにしろ、「イギリス人には泥棒が多いが、それは盗まれる日本人のほうが油断をしているから悪いのである」ってなことを堂々と書いているのだ。そりゃ油断するなって心構えは必要だろうけど、それでイギリス人の泥棒行為を正当化しようってのは頭がおかしいとしか思えない。
 高尾さんの本もそんなアホなこと書いてるのかと思ってたら、さにあらず、イギリス人のよい点悪い点、日本人のよい点悪い点、それを客観的に捉えようとしている。福祉や動物愛護の点ではイギリスは優れているが、教育・モラルの点では最低である、と高尾さんの筆致は容赦がない。
 雇い主である映画監督、リドリー・スコットについても、潔癖症で小心者、そのくせ貴族意識だけはあるというイヤな面をはっきり書いている。
 なのに、イギリス人やスコット氏についての悪印象が高尾さんの文章からはほとんど感じられないのだ。それは、高尾さんがそういった彼らの欠点を知りつつも、やはり彼らを愛していることが伝わってくるからに他ならない。
 ……それでもちょっとだけ文句を言わせてもらえれば、イギリスの若者が堕落したのは「ビートルズ」のせいではないと思うぞ。

 マンガ、高橋留美子『うる星やつら・酔っ払いブギ』読む。
 この辺の原作、ちょうどアニメが始まったころのだなあ。でもはっきり言って『うる星』全体の中では凡作が続いていた時期だ。アニメも最初の1・2話はなかなかの出来だったが、それ以降はろくにスタッフが集まらなかったらしく、作画も脚本もガタガタの駄作が続く。
 それでもファンが離れていかなかったのは、唐沢俊一さんも『ブンカザツロン』の中で語っていたが、高橋留美子が、初めて自分たちと同じ魂の持ち主が、マンガの受け手としてではなく、作り手として現れた「仲間」であったからだ。
 「るーみっくわーるど」というキャッチコピーにもその意識は表れている。高橋作品だけでなく、作者自身が当時の我々のアイドルであったのだ。『うる星』だけではない、『めぞん一刻』の初期の頃、「響子さんの正体は?」「惣一郎さんって誰?」と胸をドキドキさせて、隔週刊の『スピリッツ』が発売される日をどんなに待ち遠しく思っていたことか。
 だから、『らんま1/2』の病気休載以降、高橋さんが何か違う方向に行ってしまった、と感じたとき、私立ちの世代は、スウッ、と冷めたのである。ちょうど『エヴァ』完結編でみんなが何も語らなくなってしまったように(^^)。
 多分それは、高橋さんは我々の代表としてマンガを描いているのだ、つまり、あのマンガは我々が送り出しているのだ、と我々は勝手にシンクロしていたのだけれど、実は高橋さんはあくまで高橋さん個人であったのだ、という当たり前の事実に気づかされてしまったからである。
 ……それくらいショックだったのだよ、「らんまのヌード」は。
 高橋留美子と小山田いくにだけはヌードを描いてほしくない、なんてアホなことを考えていたのだよなあ、あのころは。「○○ちゃんだけは絶対脱がないで!」なんて喚いてるアイドルオタクと同レベルではないか。
 それを思うと、あまり面白くない回にも目をつぶって「面白い」と思い込もうとしていた『うる星』のころが甘酸っぱく懐かしいのである。

 マンガ、尾田栄一郎『ONE PIECE』18巻読む。
 既に脇役・適役の方に魅力が移ってしまっていて、主役陣がまるで動いていない。せっかくルフィの兄貴まで出して「道標」を示してくれたのに、物語はまたアラバスタなんたらの脇道、回想シーンへとなだれこんでいく。脇道じゃ所詮ルフィの人間的成長はなく、予定調和の言動を繰り返すだけだ。
 サンジに「ナミさーん」としか喋らせないのもいい加減やめたらどうだ。マンネリの面白さを追求する類のマンガじゃなかったはずなのに。
 それはともかく、バロックワークスのキャラのいくつかはよくできている。もう、それで読んでるようなもんだけどね、私は。
 いや、Mr.2・ボン・クレーはいいっスよ。「おかまーウェイ♪」呆れるほどに意味がない(^^)。


2001年04月01日(日) 四月バカ/『ブンカザツロン』(唐沢俊一・鶴岡法斎)ほか

 最近、日記にばかり時間をかけるなと女房がうるさい。
 私の場合、一気に日記を書くのではなくて、何行か書いては本を読みビデオを見、数時間かけて書いているので、女房はその間、私と会話も出来ないと拗ねるのである。
 確かに長々書きすぎて間延びした文章になってるなあ、とは危惧していたので、今月からは出来るだけ簡潔にまとめていくことにしよう。
 ……できるんかね。

 今朝も寝坊して『仮面ライダーアギト』も『デジモンテイマーズ』も『コメットさん』も見そこなう。うわあ、体が休みに慣れてボケてしまっているのだ。休日だって寝過ごしても8時には眼が覚めていたのに。ちょいとここらで少し気張っていかないと、ぐーたらが身に染み付いてしまうぞ。
 昼から花見にでも出かけて、ついでに親父のところにも顔を出そうと思っていたのに、こないだコケたとき打ちつけた左肘がシクシク痛んで、外出する気が失せる。
 今日は結局一日寝て本読むだけの生活か。って、いつものことだけど。

 CS時代劇チャンネルを漫然と見る。『銭形平次』、『侍』、高橋英樹版『旗本退屈男』など。
 『平次』は殆ど後期のころのもの。京本政樹が一心太助みたいな役で出ていることからそれと知れる。これも相当な長寿番組だったが、最後のころは白塗りの大川橋蔵自体が他の俳優の間から浮いていて、見ていて痛々しい。当たり役を持つということは役者冥利に尽きることかもしれないが、年寄りの役に自然に移行していけなかった場合、どうしても無理が生じる。『平次』の終了も当時の報道は勇退のように書いていたが、実際はやはり視聴率の低迷だったようである。年月くらい残酷なものはないのだ。
 『侍』、郡司次郎正の『侍ニッポン』の岡本喜八監督による再映画化。……ということだが、原作もその前の大河内伝次郎や東千代之介版も私は見ていない。でもなぜか前から知ってるような気になっちゃうのは、西条八十作詞のヒットソング『侍ニッポン』の歌詞、「人を斬るのが 侍ならば 恋の未練が なぜ斬れぬ」が梶原一騎原作のアニメ『侍ジャイアンツ』の中で「球を打つのが野球屋ならば、あの子のハートがなぜ打てぬ」と替え歌されてるのを聞いてるからだったりする。
 多分もともとこの話、時代劇版のメロドラマなんだろう。それを岡本監督は三船敏郎主演の幕末裏面史、みたいに映画化しちゃったのである。……いい役者使っちゃいるけど、木に竹を接いじゃったような印象になってるのはそのせいなんだろうな。
 『旗本退屈男』、よくもまあこんな忘れられてた珍品を放送するなあ。市川右太衛門のイメージが定着していて、誰が演じたって非難されて当たり前だろうに、さらりとやってのけている高橋英樹はむしろ清々しい。原作のイメージには意外とこちらの方が近いようにも思う。
 丁度ゲストに『ウルトラQ・バルンガ』で奈良丸博士を演じた青野平義氏、『機動警察パトレイバー』の榊班長役、阪修氏が出演していた。穂積隆信氏の知的悪役ぶりも楽しい。
 何気なく見流していたドラマも、今見返すといろいろ発見があって面白い。やはりテレビも映画も文化的財産として残していかなければならないのだ。

 21世紀研究会編『人名の世界地図』、これだけ人名の語源が纏まった形で出版されたのは珍しいのではないか。とても全部は書けないのでいくつか感想を。
 「チャップリン」に「牧師」という意味があると初めて知った。『偽牧師(ピルグリム)』って映画、自分の名前に引っ掛けて作ったのかどうかわかんないけど(アチラの人も自分の名前の由来を知らないことが多いらしい)、チャップリンならそれくらいのことしそうな気がする。
 『奥さまは魔女』の「ダーリン」はホントは「ダレン」で、別に愛する人、という意味ではないそうだ。となるとあれを「ダーリン」と訳した日本語訳者の功績はとてつもなくでかいことになる。なんたって『うる星やつら』にまで影響与えてるんだからねえ。
 世界的には伝統的な名前を継承している国が殆どで、日本のように新しい名前がどんどん生まれる例は少ないようだ。

 唐沢俊一・鶴岡法斎『ブンカザツロン』読む。これについても書きだしゃキリがないくらい面白い。ちょっと誤植が多いのが気になるけど(「森繁久也」って誰だよ)。
 オタク第一世代と第二世代、という分割の仕方が正しいかどうかは疑問もあるのだが、自分がやはりオタク創世記のケツっぺたにいたのだなあ、ということは確認出来る。女房が鶴岡さんと同い年なので、お二人の会話がちょぅど私と女房の会話にシンクロしてくるのである。おかげで女房が私のどこが好きでどこが嫌いかも見えてくるってのがどうもね(^_^;)。
 「オタクは『道』より『術』」、つまりはテーマよりメソッドってところには共感してるんだろうけど、実際には唐沢さんも「道」的なことは結構語られているのである。私も似たようなもんで、気がつくと女房への言葉に説教が混じる。黙ってりゃこれで女房にも尊敬されるんだろうになあ。
「道」を志向しちゃう人間ってのは結局、自分がバカに見られたくないと思ってるだけのバカなのだ。
 「バカ」どうしの雑論、と作者たちが語っているように、どの時代だって、世の中を本当に動かしているのはひと握りの天才ではなく衆愚である。自分が衆愚であることを自覚したところからしか時代は見えて来ない。ただ、時代の見えないバカも多いことは多いんで(見えなくってもいいんだけどね)、その点、「いいバカ」と「悪いバカ」が世の中にはいる、という鶴岡さんの指摘には共感できる。もちろん「いいバカ」というのが「オタク」を差すことは言うまでもない。
 一言で言ってしまえば「オタク術」ってのは「考現学」であるわけで、データの収集それ自体に意味があると考えているようなものだ。私がこうやって日記に愚にもつかないことを書いているのも、この2001年の日本人の生き方の一例を世に残すことの意義を思うからに他ならない。存在することにのみ意味はあり、あとの理屈は勝手についてくるってのが、3歳以降の私の人生哲学である(大げさな)。テーマがどうとか、ビジョンがどうとかはあまり考えていないのである。たかが一素人の日記ではないか。
 この日記を読んでくださる方々から、過分なお褒め(あるいは批判)を頂くことは多いが、書いてる本人はバカやってる、という自覚しか持っちゃいないのです。現代においては、こういった形で他人に関わろうとすること自体、バカ以外のなにものでもないってことでしてね。だから「凄いですねえ」とか「読みがいがあります」とかいう言葉よりも、出来れば「それ、違うんじゃない?」と言っていただける方が、バカたる私には嬉しいのですが。

 なんだかんだでちょっと長目になっちゃったな。一日分のネタって、たとえ寝て過ごしてたって、書き出せばいくらでもあるものなのだ。面白い文章になってるかどうかはともかくとして、芝居をやろうって人間がネタの一つも思い出せないというのは情けない、という意識があるのである。
 だから劇団のホームページに書きこみが出来なくなったのはマジで悔しい。ああ、早くホトボリが冷めんかな。そしたらこっちの方はウラ日記にしてもっと濃い話が出来るんだけど。


2001年03月31日(土) 藤村俊二はよかったけれど/舞台『ラ・テラス』ほか

 わああ、ね、寝過ごしちまった。
 起きたのが八時過ぎ、『幻のペンフレンド2001』の最終回、せっかく再放送やってたのに録り損ねちまった。仕方がないので途中からテレビにかじりついて見る。
 『六番目の小夜子』を見た後だと、どうしても見劣りがしてしまうのはいたしかたないか。『小夜子』の出来がよかったのが、NHKにしては稀有であったのである(こらこら)。ドラマはやはり時代との関連無しには語れない。「学校の怪談」を巧みにドラマの中に組みこんだ『小夜子』に比べて、「ネットが人間とアンドロイドをすりかえて人類を支配しようとしている」という設定はどうしても70年代の名残にしか思われない設定なのである。さらにはキャラクターの配置も今一つで、後半、主人公とアンドロイドの少女以外のキャラクターの存在感がどんどん希薄になっていったのが痛い。ラスト、敵基地の突入の時、ほかのキャラが邪魔にしかなっていないのだ。
 それにラスボスがひさうちみちおってのはいったい何を考えているのか。黒板にイラストまで描きだしたときには頭抱えちまったぜ。裏ボスにエビスが出てくるんじゃないかと一瞬、妄想しちまったよ。
 全体的に間延びした印象を受けたのは、そう長くもない原作を12回連続に引き伸ばしたせいだろう。

 『マンガジンマガジンvol.2 江川達也』読む。
 良かれ悪しかれ、江川達也というマンガ家はマジメな人である。江川さんには明確な社会認識、教育観、人間観というものがあり、児童向けマンガであろうが、エロマンガであろうが、それを打ち出そうとする。
 マイナー作品ならそれはそれで70年代マンガ風で悪くもないんだろうけれど、メジャー作品でそれをやれば、読者の反発を食らうのは当たり前だ。マンガで説教を聞きたいヤツはそうそういない。
 『タルるーとくん』と『DEADMAN』くらいしかまともに江川作品を読んだことのない私が言うのもなんなんだが、もともと江川さんの絵がアピールする読者層というのは非常に狭い範囲に限定されていると思うのだ。ヒロインはかわいらしい顔、スレンダーなボディで、でもチチだきゃデカい。これに引っかかってくるヤツって、はっきり言えばラブコメ(清純系とエロ系の中間あたりの)好きなオタク連中だよね。で、なぜ江川さんはそういう客をターゲットにしておきながら「教育論」をぶち上げるのか。
 かと言って、コチコチの本当にクソマジメな教育家に江川さんが受けがいいかというと、それも違うのである。現行の教育システムを完全否定する江川さんの意見が受け入れられるはずがない。
 言ってみれば、江川さんは釣り上げられた魚に向かって「なんで釣られたんだよ、馬鹿だな」と言っている釣り人みたいなものだ。そりゃ、魚にしてみりゃ腹立つわなあ。いくら江川さんが「洗脳されるな、自分の頭で考えろ」と言ったちころで、オタクも教育家も、さらにはそれ以外の読者も、みんな「考える」ためにマンガを読んでるやつなど殆どいない。「洗脳されることで安楽な位置にいたい」ことを無意識に選択している連中に向かって、どんな言葉が通じるというのか。江川さんの立っている位置は本当に江川さんしかいないところなのだ。
 少なくとも田島陽子と本気で言い争うのはやめた方がいいと思うがなあ。

 女房の夢の話。
 五月に東京に行く予定なのだが、当日の朝、飛行機に乗り遅れた夢だそうだ。
 当日、どういうわけか私と別行動をとり、買い物をしていた女房、気がついたら出発30分前、慌てて自転車をかっ飛ばすけれど、カードを持っていないことに気がついて万事休す、東京のこうたろうくんからも「それ見たことか」とわらわれるという、なんだかなあ、な夢。
 基本的に強迫神経症なんだよなあ、女房のヤツ。

 夜、メルパルクホールでジャン・クロード・カリエールの『ラ・テラス』を塩浦ご夫妻と一緒に見る。
 あの『小間使の日記』の、『欲望のあいまいな対象』の、『ブリキの太鼓』の、『存在の耐えられない軽さ』のジャン・クロード・カリエールですよ。ちったあ期待しようってもんじゃないですか。なのに……。
 つまんないぞ。
 原因は脚本ではない。役者と演出だ。役者はセリフを覚えて喋ってるだけで、役をまるでつかんでいない。女房が辛辣にも「みんな所詮小劇場あがりじゃん」と言ってのけたが、実際、その通りだ。
 脚本を頭の中で反芻し、別の演出プランを構築してみて、これが上質の不条理劇であるということに気づいた。不条理劇を演じる役者が何に気をつけねばならないかというと、自分の立っている位置が、実は現実とずれたところにあることを意識しなければならないということだ。それができなきゃ、そこで何が行われているのか、客に伝わりはしないのだ。
 離婚寸前の夫婦の部屋にやってくる謎の訪問者たち、不動産屋の女、傍若無人な中年男、若い色男のスケコマシ、ボケた将軍とその若い妻の織り成す群像劇。……って、私も似たような芝居以前書いてたな。
 端的に言って、不条理劇がハッピーエンドになることは絶対にないのね。彼らは殆ど最後にはこの「テラス」を去って行くのだけれど、妙な余韻を残そうとする演出は、脚本家も役者もホンが読めていないことの証拠だ。ラストは、脚本では残された二人が「時間はたっぷりある」なんてセリフを未だにはきつづけている不気味なムードで終わってるのに、なぜか演出はほのぼのムード。何を考えているのだ?
 翻訳劇を日本の舞台に移すのは本来不可能に近い。『屋根の上のバイオリン弾き』がおもしろかったのは、森繁久彌が無理にテヴィエを演じようとせず、あくまで「森繁久弥」を押しとおしたからで、それくらいの開き直りがなきゃ舞台は映えない。カリエールの『小間使の日記』を昔、吉行和子の一人芝居で見たことがあったけど、これも役を自分のものにしきれていない、つまらない芝居だった。
 今回の舞台で唯一よかったのは藤村俊二の「将軍」である。藤村さんは少しも無理をしていない。そこにいるのが紛れもなく藤村俊二であるために、カリエールはどこかにすっ飛んじゃってるんだけど、それでいいのだ(ほかの人たちは自分が演じられるはずもない役を演じようとして失敗している)。滑って倒れてソファーでそのまま寝てしまうベタなギャグで笑いをとるって、芸がないと出来ないよ。やはり鍛えられてた芸人さんは強いよなあ。
 今回の芝居、昔の友達も出てるんで悪口あまり言いたくないんだけど、もっといい役者で見たかったなあ。

 ロイヤルホストで四人で食事。
 塩浦さん、大学の単位を二つも落としたとかで、しばらく劇団の役者は無理のよう。これからは小倉に行ったっきり、アパート住まいでDVDもパソコンもない生活になりそうだとか。でも学生はいつだって時間はあっても貧乏なものである。貧乏の中でしかつかめないものもあるし(なんなんだ)まああまり道を踏み外さないようにしてもらいたいものである(^^)。就職はまだ3年先、しばらくはウチの劇団も戦力が落ちることになりそうだが、それはそれでなんとかしていくしかないな。



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藤原敬之(ふじわら・けいし)