無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年03月27日(火) 今日も伏字、明日も伏字/『トランジスタにヴィーナス』2巻(竹本泉)ほか

 年度末で仕事がゴタゴタしてくる。
 どれくらいゴタゴタしてたかというと、○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○。○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○。○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○。
 ……なんだかホントに戦時中の検閲みたいだな。戦後民主主義の最大の罪は、自分たちが戦前とは形を変えただけのファシズムを標榜しているのだという自覚を、本人たちから取っ払ってしまった点にあると思う。
 この伏字は「自主規制」という形をとっちゃいるけど、ストレートに書けば必ずファシストたちの目の敵にされてしまうのだ。具体的になにかを書かずとも、2001年という時代に、どれだけの既知外どもが跳梁跋扈していたかの証拠になろう。

 サッポロビール記念館『ビールのポスター』見る。
 戦前までビールのポスターはたいてい手描きの絵で、写真は殆ど使われなかった……というのは知ってたが、実際にその絵を見てみると、他にいろいろと気がつくこともある。例えば、その絵のモデルさん。
 絵だから、完全にオリジナルのキャラクターかというとそうではなくて、殆どが写真を模写したようなリアルな和服美人、しかも映画女優のスチールあたりを勝手に使ったと思しいものばかりなのである。著作権とか気にならない時代だったんだろうけど、面白いのは、「ニセものだからちょっと違う」という感じで、微妙に変えてあるところなんだよね。
 最も初期の1915年ごろのポスター、顔を見る限り、それは栗島すみ子だったり(知ってるかな? 日本初のアイドル女優であり、芥川龍之介の小説に出てくるくらい古い人です)、山田五十鈴(ホントに長いよな、芸歴)だったりするのだ。しかも、よく見ると、胴体と顔の向きがあってなかったり、比率があってなかったりする。つまりこれ、もともと胴体の絵と、顔の絵と別物だったのを、合体させて作ってるんだね。80年前のアイコラかい(^^)。唐沢さんの『キッチュの花園』で取り上げてもいいようなネタだよなあ。
 惜しいのは、この本を編集したのがオタクだったらもっと面白かったのにな、ということである。ポスターをただ収録してるだけで、少しも解説もツッコミもつけていない。……自社商品にツッコミはつけんか(^^)。でも一言くらいコメントが欲しかった。
 初期のポスターの中には、でっかいビール瓶に寄り添って立つセミヌードの女性が描かれているものが一枚だけあるのだが、後書きを読むと、「当時どのような反響を巻き起こしたか、記録されていないのが残念である」と、ちょっと編集者の本音が出てるところが微笑ましい。
 「ミュンヘンビール」のポスターなんて、外人の子供がビール飲んでたなあ。これまさか、子供でも飲める酒って意味なのか?

 光文社から『山田風太郎ミステリ傑作選』として、文庫シリーズ全10巻が刊行され始めた。風太郎ファンとしてはこれはもう買うっきゃないのだが、代表作はたいてい読んでいるのである。
 第1巻の『眼中の悪魔』、もうウチに何冊あることやら。昔、江戸川乱歩が「うちには『陰獣』が何冊あるか分らない」と言ったとかいう話だが、似たような状況の本はウチにもたくさんある。長編の場合はあまり重ならずにすむが、中短編は編集のしかたによってどうしてもダブリが出てしまうのである。それだけ評価が高い作品だということだから、ファンに取っては嬉しいことじゃあるんだけど。
 『眼中の悪魔』もそうだが、『黄色い下宿人』のような無駄のない短編を三十になったばかりの年齢で書けるというのは凄い才能だ。風太郎ミステリのファンは忍法帖シリーズを馬鹿にし、忍法帖ファンは風太郎の本格ミステリ作家としての才能を無視する傾向があるが、この二者の幅の広さこそが、風太郎の面白さの本質なのである。
 名探偵もののパスティーシュは数多いが、『黄色い下宿人』はその中でもベストに数えてよいくらいである。ホームズ失敗談って設定、熱心なシャーロキアンは嫌うかもしれないが、これくらい上等な出来映えなら満足するんじゃないだろうか。やっぱ「ジュージューブ氏」が最高っスよ(^^)。残念なことに、その面白さは日本人にしか解りそうにないんだけどね。昔、栗本薫のエッセイでこの作品の存在を知って、懸命に探したけどどうしても見つけることが出来ず、旺文社文庫の『虚像淫楽』に収録されたときに狂喜したこともあったなあ。

 『SF Japan』2号、マンガと対談だけ先に読む。
 マンガ、伊藤伸平『天使の微笑み 悪魔の頭脳』、女マッド・サイエンティストものだが、SF雑誌に載るギャグマンガって、どうしてこう吾妻ひでおの亜流になっちゃうのかな。横山えいじしかり、とり・みきしかり。で、みんなマイナー作家のコースを突っ走っちゃうとこまで同じだ。いいのか? それで。
 あさりよしとおやあろひろしはも少しメジャーかもと思ってたが、だんだん仲間になってきた感じだな。唐沢なをきは『スピリッツ』に書いてる限りは安泰であろう。
 いや、マイナーが悪いってことじゃなく、マイナーのくせに亜流になっちゃまずいだろう、ということだ。オリジナリティのないマイナーはただのクズだし。
 で、もう一本の森脇真末味の『ナビゲーターから一言』はフレドリック・ブラウンと。ということは藤子・F・不二雄か。SFギャグでこの二つのパターン以外のものも見てみたい気はするが。諸星大二郎の『ど次元物語』みたいなものとかね。
 上遠野浩平と三雲岳斗の対談、若手のホープ(うぷぷ)同士の激烈バトル……という感じにはならない。私より五、六歳年下なんだな、この二人。イマドキの若い人たちは大人しいねえ。
 確かに上遠野さんも三雲さんも、私より若いのによくSFを読んでいる(というか、私が読んでないだけなんだが)。でもなにか違和感を感じるのは、上遠野さんが「ジャンルとか歴史なんてどうでもいい」と言いながら、「SF」に拘っているという矛盾である。なんだか、第一オタク世代にどうしてもかなわない第二世代のオタクが、仕方なく否定的言辞を用いてるんだけれども、それが結局は自分のコンプレックスを顕在化させることになってしまってるって感じがするんだよな。
 「『ペパーミントの魔術師』は、ヴォネガットの『猫のゆりかご』」……って言われても、どこがどうそうなんだかよく分らないなあ。ただ、「乗り越えようとする意識がないから過去の作品が使える」と上遠野さんが言ってるのは、明確に自己欺瞞である。「乗り越えられないからパクってるのだ」という第三者が見れば明らかな事実に気づいてないのだな。ちょっと上遠野さんにガッカリした。
 読者にSF史を遡って本を読まねばならない義務はないが、作家が過去の作品に敬意を払うことをしないのは、ただの怠慢だと思うけどなあ。

 帰宅すると女房が珍しく買い物をしている。でも買ってきていたのはインスタントラーメン。
 「おカネないから」とトボケたことを言う。「お金を使いたくないから」だろう、この守銭奴め。
 買い忘れている本があるので、本屋に行くことにする。女房は仕事で行けないので、また僻む。
 「どうせおいしいもの食べるんでしょ」
 何を食べたか解らないのが気に入らないらしい。なら解るようにしてやろうと、本屋を回ったあと、女房のバイト先のリンガーハットに行く。
 仕事中だから親しげに会話するわけにもいかない。何気なく太めん皿うどんを注文し、さりげなく、ほーら、この本買ったよーと見せびらかすつもりでテーブルの上に表紙がわかるようにして、竹本泉の『トランジスタにヴィーナス』2巻を置いた(さりげなくもなんともないがな)。
 すると、料理を運んできた女房が、ボソッと「それ、もう買った」と言う。あっ、こいつはまた本を買って私に隠していたのだ。ウチでは私と女房がお互いに同じ本を買ってしまうことがよくあるのだが、それを避けるために出来るだけ行動をともにし、私が本を買った時は「これとこれは買ったよ」と必ず報告しているのに。
 それでもダブリが出るのは、100%、原因は女房にあるのである。買ってきてそのまま本の存在自体を忘れてしまうのだが、どうしてそんなことが可能なのか。この鶏頭め。
 で、普段はケチ臭い女房が、こういうムダ遣いをした時だけはテメエを棚に上げて「気が合うからいいじゃん」と言い訳するのである。別にお前と気なんかあってねーや、ボケが。女房について私はよく「人間としてどうかと思う」というが、これは「性格」よりむしろ「能力」のことを差して言っているのである。

 『ヴィーナス』、1巻の設定を忘れてたけど、23世紀で男女間はおろか、女同士、兄弟間の恋愛もほとんどタブーのない時代になっていたのね。実際にヒトゲノムの読み取りが進んで、遺伝的に障碍者の生まれる危険がなくなれば、近親婚だって別に問題はなくなる……はずなんだけど、そうはなかなかなるまいな。結局、これってただの因習だし。
 ヒロインのイーナス、1巻に比べて胸がどんどん大きくなっていてセクシー。胸の位置をちょっと下に描くので、日本人的で意外とリアルなのだ。ちょっとタレ気味なとこまで(^^)。竹本さんのマンガが少しずつアダルトになっていくのは嬉しい限りだけど、バストトップを絶対描かないあたり、何となく脱ぎそで脱がない元アイドル歌手のような印象を持ってしまうのは私だけだろうか。竹本泉のファンって、「脱がせ」派と「脱がすな」派にはっきり分れていそうな気がするが、率直な意見を聞いてみたいものである。
 え? 私はどうかって? やだなあ、解ってるくせに。

 録画してた『仮面ライダーアギト』、今週分を見る。
 翔一の秘密を知っていたらしい女が何者かに殺害されるという、ちょっとベタベタな展開。犯人は翔一か? って、んなわけないじゃん。前にも書いたが、いっそのことホントに翔一が人殺しってことにしちゃえばいいのに。こうありきたりな設定が続くってのは、早くも「中だるみ」してきた感じなのかなあ。
 アギトとギルスとG3のドラマが交互に現れるのはいいのだが、それぞれの接点が未だに出て来ないのである。……もう1クール経とうってのに、いくらなんでも引き過ぎじゃないのか。

 LDで『ガス人間第一号」を見返す。『サトラレ』を見たためだが、若いころの八千草薫って、本気で震えるくらい美しかったのだなあ。
 実はウチの親父も八千草薫のファンだったりするのだが、親子の趣味はやはり似るのだろうか。もっとも親父が『ガス人間』見に行ったとも思えんが。
 昔、どんなシチュエーションだったかは忘れたが、お袋が親父に「あんたは八千草薫みたいなタイプがいいんだろう」とヤキモチ焼いて膝をつねったりしてたのを思い出した。お袋も女だったのだなあ。


2001年03月26日(月) アカデミーよりラズベリー/『幽霊暗殺者』(赤川次郎)/ほか

 朝から通院。
 実は今の病院、今日で最後にして、次からは父の勧める別の病院に変わるつもりなのだが、主治医にそのことは言わない。今日だってもう行かなくったっていいのだが、診断書を貰わねばならぬのでそうもいかないのである。
 待ち時間に『週刊文春』をまとめて読むのが習慣だったのだが、それも出来なくなるなあ。新しいとこ、確か『文春』は置いてなかったし。
 小林信彦の連載『人生は五十一から』と、ナンシー関の『テレビ消灯時間』だけは必ず読んでいたのに。

 マリリン・モンローに関して、小林さん、「モンロー伝説が始まったのは死後だ」と語っているが、何を今更。そんなことは別に小林さんが改めて語らんでもちょっと映画史を齧ったことのある人間なら誰でも知っている。全くの映画初心者である若者に向かって語っているのだとしたら、マリリン・モンローの名前すら知るまい。誰に向かって書いてるんだか分らん文章になっているのだ。
 若くして死んだ俳優が伝説化するのは当たり前の話だし、「現役時は大した評価はされてなかった」のはジェームス・ディーンだって同じだろう。逆に「当時の感覚」から離れて映画を見られる現代の方が、より客観的にモンローを評価できる面もあると思うのである。
 モンローをアメリカ史上最高の女優だとは思わないが、「セックスアピールだけでなく、演技力もあった」という評価に対して、小林さんほど「それはただの神話だ」と異議を唱える気にもなれない。「モンローの最高傑作は『お熱いのがお好き』だ」という意見にはちょっと賛成してもいいけど。

 新聞で「ゴールデン・ラズベリー賞」の報道。
 知らない人のために解説。これ、アカデミー賞の前日に、有志が集まって前年の「サイテー映画」を選んじゃうというものなのだ。こういうシャレが通じるところがアメリカのいいところ。日本じゃ本気で怒り出すヤツの方が多いだろうからなあ。で、受賞作は『バトルフィールド・アース』、主演サイテー賞も本作主演のジョン・トラヴォルタ。おお、オスカーとラズビーの両方を手にしたのだな。もっとも、ラズビー授賞式に出るとも思えんが。女優賞はマドンナ。彼女は昨年、「20世紀サイテー女優」にも選ばれたが、新世紀ももしかしたら受賞して「二世紀に渡るサイテー女優」のレッテルを貼られるかもしれない。めでたいことだ(^^)。
 ちなみに「アカデミー賞」の方は下馬評通り『グラディエーター』に決まったようである。でも見てないからコメントのしようがねーや。

 『柳川屋』で定番の「櫃まぶし」を2ヶ月ぶりに食べる。しばらくこれを食べることもないと思うと、なんだかもの寂しい。特上にしようかとも思ったが、検査結果が悪かったので(薬が切れてたしなあ)、松にする。
 塩浦嬢は小倉でうなぎ屋のバイトをはじめるということだが、あっちにも地元メニューがあるのだろうか。
 うなぎではないが、以前、北九州の若松に住んでいたころは、地元の「五平太そば」というのが好きだった。五平太舟というのが昔、炭坑から若松まで石炭を運ぶのに使われていて、その船の形に模した鉄板で、普通の日本そばを炒めるのである。そば粉が焦げた匂いが香ばしく、パリパリとフニャフニャの中間の微妙な歯応えが美味いのだ。
 福岡にも箱崎に似たような料理を出す店があったが、本場はやはり若松ではなかろうか。
 丁度、今日のニュースで、その五平太舟を再建して、かつての軌跡を辿る、という報道がされていたので思い出した。若松に行くことがあればもう一度食べてみたいもんだが、もう店の名前も忘れているのである。誰か案内してくれないものかなあ。

 女房にはほか弁を買って帰ってやる。
 ところがまた女房は「あんたはウナギ食べてきたんやろ」と僻む。別に抜け駆けして食ってるわけではなくて、いつも誘っているのに、出かけるのが面倒臭いと言って付き合わないのである。
 なのに土産を買ってきたのに文句をつけるとはわがままにもホドがあると、本気で怒鳴る。怒られると解っていて毎回僻むのはバカな証拠だ。バカの罰で、しばらくは土産を買ってやるのもやめにしとこう。

 赤川次郎『幽霊暗殺者』読む。
 赤川次郎をミステリとして評価するかってことを大学の推理小説研究会にいた時に論争したことがあるが、私は肯定派だった。
 「謎が解かれるためのデータが、予め読者に提示されていること」という本格ミステリの条件からすれば、赤川ミステリは殆どそれから外れてしまうのだが、現実的に考えれば、じゃあ「予め提示される完全なデータ」なんて有り得るのか、ということになる。指紋が残っていようが遺留品があろうが血液型が解っていようが、現実に犯人がつかまらないケースは多いのである。「データ」は可能性が示される程度で充分ではないか、と思うのだ。
 確かに今回の連作も、別の解決だって有り得るあやふやなものばかりだが、「こう落ちがつけば面白い!」という発想で赤川さんは小説を書いているのである……多分。
 偶然に頼ろうが、そんな設定有り得るか馬鹿野郎、というような話であろうが、おもしろけりゃそれで別に構わんじゃないか(なんか誉めてるように聞こえないかもしれないが、そんなことはないんだよ)。
 ……一応ミステリなんで、チャチでもトリックは明かさずに置くが、犯人当てなんか考えずに読むのが赤川次郎の一番楽しい読み方じゃないかな。
 ……でもウチの女房のように、謎もトリックも一切気にせずに全てのミステリを読むというのはさすがに噴飯ものじゃないかと思うが。



 DVD『ガメラ』、今日は『レギオン襲来』と『邪神(イリス)覚醒』を続けて見る。
 劇場公開時には1作目の感動が大きすぎて、2作目3作目が今イチのように思えていたのだが、連続して見ると、一作ごとに前作との差別化をどのように図ろうとしたかが解って面白い。まさに『エイリアン』シリーズに匹敵する面白さではないか。
 劇場公開時、一番不満だったのは、ともかく俳優の演技がヘタで仕方がない、というものだった。これは『ゴジラ』シリーズにも言えることだが、怪獣映画は狭義のSFの範疇には入らないもので、ファンタジーに近いものである。SFよりも遥かにそのアクチュアリティを成立させることが困難なのである。
 特撮がいかに見事であっても、それを受ける人間の演技がダメだと、その映画は死ぬ。解りやすく言えば、逃げる群集の中に笑ってるヤツがいたら、それだけで観客はしらけるよね。でもなぜかキャストが一列に並んで怪獣同士の戦いを怖がりもせず見つめてる不自然さを突っ込む批評家は誰もいない。そんなもんを約束事にしちゃった時点で日本の怪獣映画は死んだのだ。
 敵を作るのを承知で、更に突っ込んで文句をつけよう。
 目の前にでかい怪獣が突っ立ってるのに前田愛がただ見つめて「ガメラ……」とか「イリス……」なんて呟く演出も、結局は怪獣の存在を卑小化させてしまうことになるのだ。ましてや手塚とおるや山咲千里に至ってはアホにしか見えん。第一作がよかったのは、ギャオスを目の前にした時の中山忍の演技が抑制が効いていてよかったからだ……って、こればっか言ってるな。伊集院光と蛍雪次郎みたいに、大げさに驚かせちゃうのもわざとらしくなるし、怪獣に対するリアクションに現実感を持たせるのは無茶苦茶難しいのである。
 この失敗は脚本の伊藤和典がアニメ出身だということが関係してると思う。絵に演出をつける場合はセリフや演技が過剰じゃないと画面が持たないからだが、それをそのまま実写に持ちこんでるんだもんなあ。
 日本映画が海外で評価されないのは、日本映画的な微妙な演技が外国人には理解されにくいためで、『七人の侍』が評価されたのは三船敏郎の演技が派手で分りやすいからだと断言していい。じゃあ小津はどうなる、と反論する人はいるだろうが、ところがぎっちょん(←なんだこの表現は)、小津って実はモダンで派手なんだよ。……あんな不自然な演技するやつ、当時の日本人だっているものか。
 コメンタリーで蛍雪次郎が言っていたが、「役者はつい余計な演技をしてしまう」ものなのである。
 では、再見してその否定的な印象がなぜ変わったかと言うと、これが「子供」のおかげだったのだ。『レギオン』での前田亜季の「ガメラ生き返る?」というセリフ、『イリス』での「ガメラはボクを助けてくれたよ」のセリフ、子供と動物にゃ勝てないというが、このセリフには明らかにリアリティがあった。
 で、気がついたのである。ガメラは「怪獣」ではないことに。もともと、旧シリーズからガメラは怪獣ではなかったのだ。ゴジラとは違う。ゴジラがシェーをすれば顰蹙を買ったが、ガメラがガメラマーチにのって踊っても誰も文句は言わなかった。ガメラは「子供の味方」、はっきり言えば「子供の友達」だったからだ。
 新しい『ガメラ』スタッフは、一生懸命、ガメラをリアルにしようとした。しかしどうしてもガメラをリアルにしきれなかった。今回、コメンタリーで、金子修介はついに言ってしまった。「所詮『亀』だよな」……そうである。ガメラは、「カメ」であることを認めたところからしか始まらなかったのである。それを認めたからこそ、『イリス』は傑作になった。繰り返すが、ガメラシリーズは「怪獣映画」ではない。どんなにリアルに造ろうとも、ゴジラよりは『ダイゴロウ対ゴリアス』に近いのである。逆にガメラを「怪獣映画」と認めるなら、『ゴジラ』の方が「怪獣映画」ではないということになる。「モンスター映画」であるといえばいいだろうか。
 子供しか守らないエコヒイキなガメラがロリコンイリスを倒す話だと気づいた時、私は平成ガメラシリーズの中で『イリス』が一番好きになっていたのである。


2001年03月25日(日) ハカセ登場!/『カムナガラ』1・2巻(やまむらはじめ)ほか

 二週間ぶりの練習日。
 と言っても、殆ど脚本担当で通常の仕事がない私は、日頃あまり熱心に顔を出してはいない。今日はミーティングがあって練習場に行けない女房の代わりに、ロッカーのキーを預かって出掛けることになったのだ。
 でも、よしひと嬢はインフルエンザで欠席、鴉丸嬢と其ノ他君は携帯の契約とかで欠席、鈴邑くんは日曜出勤の職場に就職が決まったのでしばらく来れなくなったとか、奥さんの愛上さんもふなちゃんの手がかかり始めたとかで欠席、塩浦さんも引越しの準備とかで欠席、来られるのは桜雅さんだけである。
 これで私に何をせよというのか。
 「とりあえず柔軟と腹筋させといて。異常に体固いから」
 女房にそう言われて小雨振る中、千代町の「パピオ」に向かった。

 途中、自転車が雨で滑って、派手にこける。
 車道の端を走っていたら、後ろからププウとクラクションを鳴らされ、慌てて人道に上がろうとして上り損ねたのだ。自動車は謝りもせず(まあ追突したわけじゃないから仕方ないのかもしれんが)、そのまま行ってしまった。
 腰や肩を結構強く打ちつけたので、すぐには歩けなかったが、出血は右の掌をちょっとすりむいただけである。
 後で女房にこの話をしたら、「どうして慰謝料をとらなかったのか」と言われたが、俺は当たり屋じゃねえぞ。第一、掌すりむいたくらいで金を要求する方が犯罪だってばよ。
 「私はちゃんとおカネもらったよ?」
 「何それ」
 「だから、この夏の事故が示談になったから……」
 「おい、それ初めて聞くぞ。いつだ」
 「先月末……」
 このアマめ、金が入ったこと、私に内緒にしていたのだ。金額を聞くとまあちょっと贅沢ができる程度の金額ではある。
 「これは私のおカネだもーん、だから別に誰にも知らせなくってもいいんだもーん」てな心理なんだろうが、セコイよなあ。
 女房は貧乏生活が長かったので、すっかり性格が歪んでいるのだ。だから、たとえ私が女房のカネをピンハネしたりはしないと解っていても、どうしても隠してしまうのである。金が絡むと人が変わるとはよく言うが、女房はこれがフツーだ。永井豪のマンガに出てくる「欲ふか頭巾」みたいに一度握ったものはゴミでも離さない(と思う)。
 昔、宮部みゆきの『火者』を読んだ時に、女房が「金が絡めば親でも死んでてくれって思うの普通だよねえ」と平然と言いはなってたことを思い出したな。
 女房の外面を見て、「ちょっとマヌケだけど基本的にはいい人」だと思ってる方もいるようだが、本性はこんなヤツなので、信用したりないように。

 練習場には時間ピッタリ10時に着く。
 桜雅さん一人かと思っていたら、お友達の女の子も一人連れてきていた。
 なんと入団希望者である。ウチは基本的に出入り自由、入団試験などというものは全くないのだが、オタクや社会不適合者は多いので(^_^;)、ウッカリ入っちゃったりしてもいいのかなあ、と思う。世間話なんかしながら、どんな子か確かめてみる。
 私の得意技の一つに「カマかけ」というのがあって、気がついたら相手はプライバシーのいらんことまで喋っちゃってるってことはよくあるのだが、別にそんなことしなくてもこの子は自分からペラペラ喋るのであった。
 なんとこの子、まだ19歳なのに、○○、○○○○○○○、○○○○○○○○○○○。しかも、○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○。
 ああ、そんなことを初対面の人間に全部喋っちゃっていいの? そのあともとてもここには書けない危ない話が続出。……なんでこんな子が桜雅さんの友人なのだ? 全く正反対ではないか。
 でも、こういう屈託のない子は好きである。派手なようで、優しいところもあって、怪我をしていた私にバンソーコーを貼ってくれた。中年になると、こういう若い子の愛情に弱くなっちゃうのよ。立派なオヤジキラーになれる要素があるな、と思ったら、
 「オヤジのほうが好きですね」
 なんてことを言う。……なんか、ウチの劇団、そういうやつが多くないか。……類友?
 「キャストとスタッフどっちが希望?」
 「……どっちがどっちなんですか?」
 これくらい演劇に関して知識がないほうがかえって変な先入観がなくっていいよな。まだ芸名は決まっていないので、便宜上、彼女のことは「ハカセ」と呼ぶ。……女房の話によると、桜雅さんは人間ではなく実はメカなので、それを造ったのが彼女なのだそうだ。

 桜雅さんは相変わらず桜雅さんである。
 「昨日の地震、凄かったねえ」、と私が聞くと、
 「全然気がつかなかったんですよ」と言う。
 思わず、「どこにいたの」と聞き返すと、
 「パチンコ屋にいて、うるさかったから……」
 ……揺れは音とは関係ないと思うが。
 私はパチンコ屋に殆ど行かないのでよく解らんのだが、揺れにも気がつかないほど熱中しちゃうものなのだろうか。

 女房が意外と早く、11時に練習場にやってきた。せっかく入団者がいることでもあるし、肉練を徹底的にやる。
 もちろん私は見学だ(^o^)。
 確かに桜雅さんは身体が固い。私並に固い。上半身が90度も曲がらないというのはトシを考えるといくらなんでも固過ぎるのではないか。女房なんか足が完治してないのにそれでもジャンプ力が桜雅さんよりあるのに。
 ハカセは発声が弱い、というた顎があまり開かないのがちょっとネック。丁度島崎和歌子みたいな喋り方をするのだ。でもそれは大したキズではないので、練習次第でなんとかなろう。

 11時30分ごろ、見学の男性が来る。人数が少ない時で申し訳なかったのだが、30分ほど練習を覗いて帰って行った。見学者が居付いた例はあまりないのでこちらもあまり詳しく説明したりはしない。
 純粋な演劇青年は頭でっかちでウチみたいなお気楽な雰囲気は芝居を舐めてるようにしか見えまいし、全くな初心者はオタクな会話についていけなかったりするからだ。結局は気の合う者しか残っていかないようになっているのである。

 3時半までみっちり練習。シノプシスの打ち合わせは人数が少ないのでアイデアをちょっと出しあっただけ。女房は既にネをあげていて、第一稿を私に依頼してくる。でもホントに設定だけで殆どストーリーらしいストーリーもないのである。殆ど一から書けと言ってるのと同じではないか。また一つ仕事が増えたなあ。
 でもまあ、ハカセという強力な新人も入ったことでもあるし、本気で板に立ってくれるつもりなら書きがいはある。なんだか数年前の鴉丸嬢によく似た雰囲気の子だったなあ。……シモネタOKなところも含めて(^^)。

 帰りにトンカツ屋に寄って、二人で盛り合わせを食べる。
 今日の飯はこれで終わり。一日一食は、健康に悪いと言うが、三食食ってるとやっぱり太るのである。

 途中、私だけ家の近所の「ベスト電器」に寄って、『アヴァロン』のサントラCDを買う。やっとあの「ア〜ヴァ〜ローン」というコーラスが聞けて燃えるが、なぜか歌詞カードが入っていない。いや、どうせポーランド語なんだろうから歌えね〜だろうけどさ、原詩は川井憲次さん自ら作ったそうだし、意味だけでも書いておいてほしいよなあ。
 CD製作のエピソードがパンフで読めるのが最高。
 押井監督が曲の出来映えに感心して、「これ、どうやって作ったの?」と聞いた時に、川井さん、つい指を横に振って「ひ・み・つ(はあと)」と言ってしまったとか。かわいいぞかわいさん(←シャレ(^^))。
 歌詞が分らないので、適当にコーラスに声を合わせてデタラメに歌うのであった。
 「♪ひーひーふー、ははほ、へほーへ、あーばぁーろーん♪」
 ……バカだなあ。

 夜、広島の友人から電話。
 昨日の地震でこちらを心配して電話してくれたのだが、震源地の人間がどうして震度の低い地域の人間の心配をするかな。こっちは「死人が二人なら大したことないな」と電話も入れなかったのに。
 確かに、私の住んでる階があと1階上だったら、山積みの本やビデオが崩れてたかもしれないが。
 友人は丁度本屋にいたそうだが、本屋の店員がみんな総出で「本棚を守れっ!」と、張り付いていったそうである。……もうちっと震度が大きかったら自殺行為だと思うが。いざというとき人間はやはり冷静さを失ってしまうものなのだなあ。

 夜、福岡シンフォニックのUさんに電話。
 四月の休日に福岡市総合図書館で、羽仁進監督の文化映画の上映があるのでお誘いである。
 ついでに最近の某さんや某さんなど、共通の知人のウワサ話を、いろいろと脚色を交えて伝える。
 「○○さんは実は○○○○、○○○○○○○、○○○○○ですよ」
 「えええええっ!?」
 「しかも○○さんは、○○○○○○○、○○○○○○○○ですよ」
 「えええええええええええっ!?」
 「人生いろいろありますねえ」
 なんだか私や女房に大して事件がなくって平凡なのが申し訳ないくらいだが、そういうのがかえって他人からは羨ましがられるものらしい。羨ましがられるくらいならいいんだが、世の中には更に僻んでイヤガラセしてくるやつもいるから始末に悪いんだよなあ。
 
 マンガ、波津彬子『雨柳堂夢咄』8巻、読む。
 作品の出来にムラのあったこのシリーズも連載十年を迎えると安定してくる。よく連載が長引くとマンネリ化してつまらなくなるのではないか、と思われがちだが、基本的にこういう百物語形式の怪談は、そのマンネリを楽しむものなのである。構造そのものを変えてしまうとかえってつまらなくなるので、もうへたにあの贋作師など出さずに、毎回、別の妖怪・幽霊を出していった方がいい。
 『むさし野』などは小泉八雲の怪談・奇談の中で語られても構わないほどの名編。いくつかの別の話が一つの話に収斂されていくパターンは、岡本綺堂や都筑道夫も使っていた手だが、これまでこのシリーズにその形式が使われなかったのが不思議だ。

 マンガ、やまむらはじめ『カムナガラ』1・2巻。
 表紙絵とタイトルに惹かれて殆ど中身を知らずに買うがなかなかの拾い物。
 タイトルの「かむながら」、「神であるままに」とか「神の御心のままに」という意味の古語である。この手の神道の知識ってのは一昔前だとあまり知る人もなかったので、私のようにちょっとかじったことのある程度の者でも、そこそこ薀蓄を傾けて威張って見せることもできたんだが、最近は若い子でも専門的な知識を持っている人が増えちまって、ボロを出しちゃうことも多いのだ。
 参っちゃうよな(^_^;)。
 異世界からの侵略者とそれを迎え撃つ「剣の一族」、ただし主人公は前世の記憶を失っており、自分の能力に気づいていない、という基本設定はまあフツーだ。しかし、その記憶を失っているがゆえに自らの使う剣を制御できず、右腕を失ってしまう展開がショッキングである。
 主人公が片腕なんて、最近のマンガじゃ差し障りがあってなかなか描けなかったからなあ。作者も編集部も、本気で描こうとしてるんだってことがよく解る。ちょっと暗めの展開になりそうだけど、10巻、20巻と続いていく大河ロマンになりそうな気配である。
 ヒロインの武弥香奈多ってやっぱりタケミナカタもじってんだろうな。んじゃ、タケミカズチは誰なんだ?



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