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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年03月15日(木) ナニワの謎/『怪盗対名探偵 フランス・ミステリーの歴史』(松村喜雄)ほか

 仕事が長引いて帰宅が遅れる。
 あぶく銭が手に入ったので、久しぶりに女房を誘って外食でもするかと、餌を持って帰る親鳥の気分で帰ってきたのだが、なぜか部屋のどこにも女房の姿がない。
 パソコンは点けっぱなし、前のテーブルには食べ掛けの焼肉が置きっぱなしになっている。
 なんだかメアリー・セレスト号のような状況で、いったい何があったのかと、あたりを見まわすと、女房の携帯電話がない。もしかして待ちくたびれて一人で食事にでも行ったのかと、コールしてみると、女房はすぐに出た。
 「なんだ、外、出てたのか?」
 「うん、そうだよ」
 「今どこだい?」
 「ウチの近く。もうすぐ帰るとこ。……なんでいきなり電話してくるん?」
 「いや、仕事がないなら食事にでも行こうかと思って……」
 「なんで!? 貧乏やなかったん!?」
 ……確かに給料日前の生活は楽じゃないが、テメエの夫をホームレス寸前みたいな言い方するなよ。

 帰宅した女房と、どこで食事したいか相談する。
 女房は仕事があるのであまり遠出はできない。
 「食事はね、ガストかロイヤルがいいの」
 「どっちがいいんだよ。ちゃんと決めろよ」
 「『超少女明日香』の2巻が出てるはずなんだよな。『積文館』にはなかったんだろ? じゃ、『ホンダ』に行こうか」
 「じゃ、食事はロイヤルだね。デザート食べてもいい?」
 「いいよ。先に本屋寄っていこう」
 「うん、探したい本もあるし」
 「何を探してんだ?」
 「……秘密」
 「なんで? はっきり言えよ」
 「……『ナニワ金融道』」
 「……なんでいきなり!?」
 「こないだ『明日香』探しても見つからなかったから、代わりに1巻買ったの……」

 よくわからないのは、女房がどうしてよりによって『ナニワ金融道』を選ばねばならなかったかということだが、理由は永遠の謎である。

 本を買いこんで、ロイヤルホストでチキンカツを食べる。女房はハンバーグ。
 食事中、女房は『笑点の謎』に読み耽り、私は『石ノ森章太郎キャラクター図鑑』2巻に没頭する。
 ……ウェイトレスさんは変なカップルだと思ったろうなあ。



 女房は仕事があるので、本屋の前で別れて、私はもう一軒、馴染みの本屋を廻る。一気にン万円使っちまったが、これでも買う本絞っちゃいるのだ。

 帰宅して風呂に入りながら本を読む。

 松村喜雄『怪盗対名探偵 フランス・ミステリーの歴史』。
 昭和61年度日本推理作家協会賞評論賞受賞作。600ページはある大著だが、面白くて一気に読んだ。
 筆者は江戸川乱歩の従弟半にあたる。子供のころから乱歩の薫陶を受け、日本で出版されたミステリはことごとく読破し、飽き足らずに、海外ミステリを原書で読むためにフランス語を学んだというツワモノである。
 ……でも羨ましい環境だよなあ。偏見かもしれんが、これが清張だとミステリファンにはならないのではなかろうか。私も親戚に乱歩が一人ほしいぞ。
 私もそれなりにミステリファンを自認してはいるので、ミステリの歴史については中島河太郎や九鬼紫郎、ハワード・ヘイクラフトの著作なんかで一通りお浚いはしている。だから羅列される海外のミステリ作家の名前で知らないものはない。
 でも名前を知ってるということと、読んでるということは別だ。
 ……白状しよう。私はジョルジュ・シムノンのメグレ警部シリーズは『男の首』と『サン・フィアクル殺人事件』くらいしか読んでいないのである(あと短編を少々)。
 S・A・ステーマンやボアロー&ナルスジャックは一冊も読んでない。ミステリファンが聞いたら、「えっ!? 『マネキン人形殺害事件』や『悪魔のような女』を読んでないの!?」とバカにされるのは必定だ。持ってはいるんだけど積ん読になってんだよねえ。……20年くらい前から(-_-;)。
 本を読むのにも「縁」というものはあると思っている。人間、逆立ちしたって、一生のうちに読める本なんて、十万冊いかないのだ。ちょっと興味をもって読み始めたはいいけれど、何となくそのまま放りだしたって類のものはいくらでもある。それをもう一度読む気にさせよう、ってのが評論の使命の一つではなかろうか。
 松村さんの批評は、日本のミステリが英米の影響下にあるという通説に真っ向から反対して、むしろフランスミステリに源流を置いている。その論理にはやや我田引水的なものも感じないではないが、確かに乱歩の『怪人二十面相』シリーズに『ファントマ』や『ジゴマ』の影響を感じないわけにはいかない。
 『ファントマ』の表紙絵を見てビックリしたのは、そのいでたちがシルクハットに覆面で、二十面相のイラストにそっくりだったことだ(実は原作小説にそういう描写はない)。イラストだけに留まらず、逃げる怪盗と追いかける探偵の活劇パターンを、乱歩はフランスのロマン・フィユトン(新聞小説)からそのまま自分の通俗小説に移植したと言っていい。
 ……それが巡り巡って、『ルパン三世』や『キャッツ・アイ』、『怪盗セイント・テール』にまで及んでいるのだ。これは冗談でも何でもなく、昔見た映画で、ジャン・マレーのファントマと、それを追うルイ・ド・フュネスのジューブ警部の関係が、あまりにルパンと銭形にそっくりだったので驚いたこともある。
 コナン・ドイルよりもモーリス・ルブランの方がトリッキィであり、ルパンシリーズを冒険小説と見るのは不当だ、という筆者の意見にも賛成だ。ホームズとルパンはある程度読んでいるから、その比較は容易だ。例えば『ホームズの冒険』と『怪盗紳士ルパン』『ルパンの告白』『八点鐘』を読み比べてみればよい。犯人が仕掛けるトリックとしては、ドイルよりルブランの方が相当凝っている。
 目からウロコが落ちたのは、ジュール・ヴェルヌをSF作家としてではなく、ミステリ作家として捉えていることだ。もちろん、ヴェルヌがSFの鼻祖であることを否定するつもりはないが、『八十日間世界一周』の最後のどんでん返しを一つのトリックと見るなら、それはまさしくミステリのものである、という指摘には思わず首肯した。
 こういう評論読むと、俄然、積読本の中から読み逃してたミステリを引っ張り出してきたくなっちゃう。で、ステーマンの『マネキン人形』とサジイの『ジゴマ』、枕元に用意したけど、今度こそ読み通せるのだろうか。 

 マンガ、青山剛昌『名探偵コナン』31巻。
 小学館漫画賞受賞は遅すぎた感じもする。読者の心を掴む要素はちゃんとあるのだ。相変わらずトリックには無理があるし、犯人があまりにも犯人っぽくはあるけど(^^)。
 笑えたのは裏カバー見返しの「青山剛昌の名探偵図鑑」。31人目ともなるとネタが尽きたか、「遠山左衛門尉景元」だと。
 ……多分、青山さん、テレビ見てただけで、原作小説は一冊も読んでないな。「私のオススメは『遠山の金さん捕物帖』」なんて書いてやがるが、陣出達朗の原作は『すっとび奉行』とか『はやぶさ奉行』とかの『〜奉行』シリーズであって、『遠山の金さん』シリーズとは言わないのだ。山手樹一郎の小説版なら少し近いが、こちらも『遠山の金さん』で、「捕物帖」という言葉はない。……こりゃそのうち鞍馬天狗や旗本退屈男も出してくるかも知れんな。

 マンガ、矢野健太郎『ネコじゃないモン! ミレニアム版』10巻(完結)。
 ♪おっはよっで、始まるっ、まったねっで、お休み、そして、好っきよっで、も一度、ネコじゃないモン♪
 ……最近、谷山浩子も聞いてないなあ。
 女房に冷ややかな目で見られつつ、シツコク買いつづけてた『ネコモン』も、やっと完結。今読み返すと作者と登場人物は真剣に恋に悩んでるつもりかもしれんが、相当支離滅裂で、その時々のイキオイに引きずられてストーリーが右往左往している感じが強い。というか、絵の演出力がないので、話が薄っぺらになっていくのだ。カッコつけのキャラ、多過ぎだもんなあ。
 じゃあ、今は画力も演出力も上がったかなあと、巻末の新作を見ると……。
 クサイ演出は変わっとらんわ(-_-;)。作者、もうトシなんだから無理してコギャルを主人公にするなよ。
 でも当時の私がなんでこんな恥ずかしいシロモノに入れこんじゃったかというと、登場人物と年齢が全く同じだったからである。しかも似たような恋愛沙汰やってたし(^_^;)。ああ、青春ってバカなんだよなあ!!
 「昔ハマって読んでたことが今になると恥ずかしいマンガベストテン」、なんてのを作ってみてもいいかも知れんな。とりあえず私の場合、この『ネコモン』に小山田いくの『ぶるうピーター』は絶対にランクイン(^o^)。

 『石ノ森章太郎キャラクター図鑑 volume002[仮面ライダー+中期作品編]』
 第1巻からほぼ一年ぶりの第2巻発売。編集に時間が掛かったのか、それともよっぽど売れなかったか。メディアファクトリーのショウタロウ・ワールドシリーズも売れ行きが厳しいとも聞いたし、原作がちゃんと売れてくれないと、『仮面ライダーアギト』や『キカイダー・アニメ版』の続編も、『009』のアニメ化も苦しくなるからなあ。
 しかし改めて思うが、石森さん、手塚治虫の執筆量に負けないくらいの作品数があるんじゃないだろうか。手塚作品もとても全作読破は難しいが、石森作品もこうしてカタログ見ているだけで、ああ、あれもこれも読んでない、というのがゴロゴロあるのである。何しろ私は『リュウの道』をまだ通して読んだことがないのだ。ってこればっかだな。
 『仮面ライダーアマゾン』が単行本になっていないのは、ページ数が少ないせいなのかな。あれだけテレビの原作を担当しておきながら、石森さん自身がマンガ連載を行っていないものも多い中(『ビッキーズ』や『ポワトリン』のマンガ版、見てみたかったなあ)、この『アマゾン』はペン入れこそ石川森彦に任せはしたものの、下書きは石森さんの手になるものなのである。なんとかショウタロウワールドの第3期に収録して欲しいんだがなあ。
 晩年の描けなくなった時期の作品は哀れで見返すのも辛いが、初期、中期の傑作群は今見ても充分楽しめる。SF作品に比べて、ギャグマンガは今イチ評価が低いが、『ちゃんちきガッパ』はぜひ再版して欲しい傑作だと思う。今や忘れられかけているこの作品が、ちゃんと2ページ使って紹介されていたのがうれしかった。
 ……でも女房の好きな『シロクロード』は紹介されてないな(^o^)。

 マンガ、MEIMU『キカイダー02 SGE』。
 ついうっかり買っちまったが、これ、あくまで「スペシャル・グラフィック・エディション」ということだから、普通の単行本をあとで出すんだろうか。
 ……1900円もしたぞ。2巻以降もこの薄さ、この値段で出すんだったら客はちょっとばかし怒ると思うが。
 キカイダーやダークロボットがエヴァンゲリオンモドキの生物的デザインになっちゃってるのもなんだかなあ、という感じだが、光明寺ミツ子の弟のマサルが、謎の美少女って設定に改変されてるのはただのウケ狙いと違うか。いや、美少女出すのはいいのよ。MEIMUさんの描く女の子キャラ好きだし。ただ……ネーミングがねえ……ヒナノはねえだろ、ヒナノは(-_-;)。

 マンガ、『藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版』8巻(完結)。
 パーフェクトといいつつ『中年スーパーマン左江内氏』は未収録。中公愛蔵版ではちゃんと収録されてたのに、なんでやねん。
 更に巻末に『絶滅の島』があたかも藤本さんの遺作であるかのように収録されているが、これは同タイトルの作品を改稿したもので、既に1988年の中公愛蔵版『SF全短編』に収録されている。初出一覧で「1995年8月てんとうむしコミックス」とあるのは間違いだ。小学館は、こういう書誌的なことにはひどく無頓着なところがあるんだよなあ。
 ホントの遺作の『異人アンドロ氏』、「ビッグ・コミック」に載った時には「新シリーズ!」ってアオリがついてたんだよなあ。一作一作、雑誌掲載時にリアルタイムで読んでたものが多いので、当時の思い出と相俟って切なさがいやでも募る。
 石森さんも藤本さんも、病気になってからは極端に作品数が減っていった。『ドラえもん』だけで手いっぱいになっていたのだ。死ぬ少しまえのインタビューで、「手塚さんの『火の鳥』みたいな大長編SFを書いてみたい」と語っていたのが思い出される。それは中絶した「四万年漂流」などへの思いもあったのかもしれない。
 『ドラえもん』はもういいからもっとSFを、と思っていたのは私だけじゃないはずだ。

 マンガ、岡田康則『ドラえもん のび太と翼の勇者たち』。
 藤本さん亡きあと、『南海大冒険』『宇宙漂流記』『太陽王伝説』と続いてきた中では、一番よい出来。やっばり駄目な少年が努力するってパターンは継承しないとね。
 それでも表情一つとってみても、単調に見えて微妙に線を変えて複雑な心理を表現していた藤本さんに比べれば、雲泥の差があるが、それを言うのは酷というものだろう。ただエピソードを詰め込みすぎて、イカロスレースや、イカロスの島探索があっという間に終わってしまうのは感心しない。お子様は長い間は画面に集中していられないからどんどん場面転換させようという考えなら、とんだ考え違いだ。子供は速い展開を望んでいるのではなく面白い展開を望んでいるのだ。画面の密度を上げることに最近のドラえもん映画は腐心していない。
 映画、未だに観に行くかどうか迷っているのである。

 手塚治虫『ブラック・ジャック豪華版』16巻。
 ああ、今日はなんでこう昔を懐かしまねばならないマンガばかり読んでるんだ。年取っちゃったのかなあ、やっぱり。
 初期の傑作、と言うか、この作品が圧倒的好評で迎えられたために連載が決定した『ミユキとベン』が、やっと収録、というのはどういう事情があったのか。雑誌掲載時は「ブラックジャックの正体は誰も知らない。ただ彼は今もどこかで奇跡のメスを振るっているだろう」というナレーションがラストのコマに入っていたはずだが、さすがに16巻まできて今更それはないだろうということなのか全面カット(本名「間 黒男」ってのも分っちゃってるしな)。
 でもこれがかえってラストに余韻を醸し出しているのだ。怪我の功名ってところかもな。
 ラストを飾る『過ぎ去りし一瞬』は、唯一の中編。『サンメリーダの梟』というタイトルでアニメ化もされたけど中身は殆ど別物になっていた。
 多分描いてる途中で構想が変わったのだろう(手塚治虫にゃよくあることだ)、前半と後半で主役が変わっちゃうというとんでもない話なのだが、ラストで『鉄腕アトム・キリストの眼』を髣髴とさせるシーンが出てきたのは手塚さんのファンサービスかも。

 マンガ、高橋留美子『うる星やつら・コピーdeデート』。
 山口勝平と高橋留美子のインタビューが目的でまだ買ってる雑誌版『うる星』。依然持ってたやつは人に貸してるうちに所々抜けてしまっている。文庫でもう一度揃えなおしたいんだけど、18巻もあるから古本屋で買うしかない。
 しかし今見返してみても、『うる星』に出てくる女性キャラって、性格的に男に敬遠されても仕方のないやつらばかりである。連載当時、よく「うる星の男キャラってどうしてバカばっかりなんですか?」という質問がファンからされていたが、あたるほどのバカでなければ性格ブスのラムと付き合ったりはできまい。
 『めぞん一刻』の響子さんもそうだが、男が付き合いたくない女の要素、嫉妬、ひがみ、鈍感、無意識の傷つけ、そんなものをやたら持ってるのである。で、未だに『犬夜叉』のかごめでそれやってるのな。
 高橋さんは「あたるに絶対ラムのことを好きだと言わせない」と禁じ手を作って物語を作っていったそうだが、端から見てはっきりそれと分るものを言わないでいるのは白けるだけだ。
 私の場合、『うる星』はやっぱり映画版第2作『ビューティフルドリーマー』で終わっちゃってるのだ。

 ……こんなに読んでちゃ寝る時間がなくなるのも当然だな。気がついたら時計は2時なのであった。というわけで女房が買ってきた『ナニワ金融道』1巻にまでは手が出ないのでありました。


2001年03月14日(水) さて、勝ったのはどっち?/『HUNTER×HUNTER』11巻(冨樫義博)ほか

 ホワイトデーである(昔は「クッキーデー」とか「マシュマロデー」って呼び方もあったがすっかり消えたな。お菓子屋の陰謀だってことがこのことからもはっきりとわかるな)。

 期待してる人も、石投げつけたい人も、両方いるだろうからあらかじめ言っとく。
 今日はノロケるぞ。読みたくないやつぁ、さっさとご退場願おう。

 儀式だイベントだというのは所詮は欺瞞なのであまり好きではないのだが、かと言って、人の思いに背を向けたいというわけでもない。「お返し」はちゃんと用意してある。

 バレンタインデーの前に、「アンタ、欲しい?」と女房が聞いてきたが、これは「あげたい」という言葉の裏返しである。私も決して素直な人間ではないので、「くれるならもらうよ」とそっけなく答えたものだった。
 女房はどうも私とのコミュニケーションを一種の「勝負」だとみなしている向きがあるのだ。女房のアタマでは、自分の方からアプローチすること、即ち「負け」ということになるらしい。
 その辺の発想が私にはよく分らんのだが、なんとか私の方から「チョコ欲しいよう」と言わせようとしている時点でもう「負け」てるようなものだ。私は実際、女房がくれる気がないならもらいはしないし、仮にくれなかったからと言って別に気を悪くしたりするわけでもない。
 そういう執着のなさが女房には暖簾に腕押し、糠に釘で気に入らないんだろうが、それが私の自然なのだから仕方がない。逆に私が粘着質な性格で何かにつけ執着するタイプだったら、そのほうが女房は困ると思う。

 今日も女房が「私のこと、好き?」と聞いてくる。
 いつものことで私も「好きだ」なんて言ってやらない。「オレが浮気するとでも思ってるのか?」と言い返す。
 「今日は職場で私のこと考えてた?」
 「考えてたよ」
 「ほんと? 忙しいのに私のこと考えてられたの?」
 「いや、そんなヒマなかった」
 「……ウソついたの?!」
 「違うよ。お前のことは心の基本にあるんだ」
 「なんかウソっぽい……」
 「冷蔵庫にホワイトデーのブレゼントがあるよ。よしひとさんの分も買っといたけど、それもお前にやる」
 「なんで?」
 「よしひとさんには改めて別のを買うよ。古くなったのあげるわけにはいかないし」
 「私には古いの渡すんだ」
 「今はまだ買ったばかりじゃないか」
 「中身はなに?」
 「さあ。忘れた」
 冷蔵庫からお返しを持ってきて女房に渡す。女房、早速中を見て確かめる。包み紙を破り、箱のフタを開ける時の女房の目がランランと光る。いや、ホントにお菓子には眼がないのだ。
 クランチチョコミックスと抹茶ロールクッキー、そう言えばそんなの買ってたなあ、と今更ながらに思い出す。
 女房、そのまままたフタを閉めて引き出しの上に置く。
 「なんだ、食べないのか?」
 「すぐには食べないよ」
 あとの楽しみに取っておくということか。多分私が寝入ったあとで食べるつもりであろう。美味しそうに食べる様子を私に見られると「負け」になると思っているのだ。
 ……だからその時点でもう負けなんだってば。
 つくづく解りやすい性格してるやつだ。
 
 ……自分で書いてても思ったが、私は基本的にはタラシだな。親の血か。
 
 マンガ、冨樫義博『HUNTER×HUNTER』11巻読む。
 前巻の重大発表、子供が生まれたことと、アニメが3月で終わることだった。……引くほどの話題じゃないよなあ。
 明朗マンガのフリして始めておきながら、さすがは冨樫、期待を裏切ることなく、幻影旅団のあたりからまた『幽遊白書』の「仙水編」の時みたいにコワれ始めてきた。もう随分、テレビアニメ向きじゃなくなってきたなあ、と感じていたが、今巻15ページのノブナガや、154ページのクラピカのアップはすでに少年マンガのワクからはみ出した作者自身の狂気の顔になっている。
 こういうキャラクターが頻出するようになると、もう主役のゴンに活躍の場はない。しかし、私としては冨樫さんはヤケになっちゃった方が面白いと思っているので、ストーリーが迷走しても構わない。作画レベルも決して落ちてはいないし、このまま順調にコワれていってくれることを期待するものである。



 漫然とテレビのニュースなど見る。
 ここしばらくニュースをまともに見てなかったので、ここらでチト世界情勢でも、と『ニュースステーション』にチャンネルを合わせると、久米宏の白髪がえらく増えている。……私はいったいどれだけニュースを見ていなかったのだろうか(^_^;)。
 森降ろしの話題が未だに続いている。
 誰が言い出したか、景気対策が先で総裁選なんぞやっとれるかい、というよく分らん論理で六月まで政権が伸びるかもということである。総裁選をあと回しにしたって景気対策できるとも思えんが、具体的な方策も示さず、それで話を都合のいい方に無理矢理通そうってのが国民をナメとるね。でもなめられても仕方ないくらい、国民だって大した識見もなく「森やめろ」コールを繰り返してるだけである。
 キャスター連中も憤ってるが、どうせマスコミもなぜここまで森総理を嫌っているか、原因なんか忘れているに違いない。というか原因なんてあったのか。
 もはや「怒り」の雰囲気だけが先行していて、報道としての姿勢は完全に失われている。松本サリンの冤罪事件のころからちっとも変わっちゃいないのだ。
 愛知で女の子を放置して餓死させた両親の公判の報道も、偏向が目立つ。
 被告の母親に取材して、なんとか「娘を甘やかして育てたのが悪かった」という証言を誘導して引き出す手口がいやらしい。子供を死なせて平気な馬鹿親は昔だっていたろうに、それがあたかもイマドキのヤンパパ・ヤンママのせいであるかのように仕立て上げようとしてるんだものな。
 そうやって誰かを悪者に仕立て上げなきゃ自分たちのアイデンティティが保てないくらいに、日本のマスコミの思想的基盤は脆弱なのである。結局、弱い犬ほどよく吠えるってやつだからな。
 ああそうか、テレビのニュース番組丹念に見なくなったのは、久米宏も筑紫哲也も、その正義派ヅラを見てると吐き気を催すからだったな。
 女房がニュースを一切見ようとしないのもひとつの見識ではある。

 『唐沢俊一のキッチュの花園』読む。
 キッチュ、という言葉自体、もう八十年代の遺物のような印象を持ってはいたが(その点を考えると、この本の売れ行きが心配ではある)、世間からキッチュな物件が消えてなくなったわけではない。
 誰も言わないからはっきり言っちゃうが、福岡の街中はまさしくキッチュの花園である。キャナルシティなんて存在そのものがキッチュと言ったっていいくらいのものだ。天神だとジークスあたりがそれらしいか。ともかくちょっとうろつくだけで、妙なもの、変なものが目に付いてしまうのである。
 私は唐沢さんのように変なものを集める趣味はあまりないのだが(と言いながらよく探すと変な物が部屋のあちこちに転がってはいるが)、カタログ的に見せられるとちょっと欲しくはなってくる。
 コンドームに、こんなに変り種があるとは知らなかったなあ。知ってても使うとは限らんが(^o^)。シンプソンズ型コンドームなんて使いたくもないわ。
 アナル用コンドーム、「ナイスガイ」、そもそもなぜ必要なのか用途が分らん。妊娠の心配もなかろうに、何から何を守るというのだ? それともコンドームに関する私の基礎認識自体が間違っているのだろうか。
 ウチにあるモノは多分一つもなかろう、と思っていたが、健康器具のコーナーの「ネックストレッチ」、たしか女房が昔、使ってたような気がする。女房も健康のためには命もいらぬってとこがあるので、ムダなものをよく買うのである。20年前なら、たとえユリ・ゲラーに命じられなくともきっと、ルームランナーとぶら下がり健康器を買っていたに違いない。
 先年つぶれた「大分ネイブルランド」には、「炭坑夫グッズ」がやたら売っていたが、あれなんか唐沢さんが見たら狂喜したかも知れんな。残念ながら人にやっちゃって、「炭坑夫ボールペン」も「炭坑夫スプーン」も手元にゃないけど。
 ……スプーンの柄の先に、真っ黒でリアルなヘルメットかぶった炭坑夫の首がついてんですけど、そんなもんでコーヒー飲む気になれるやつ、いるんだろうか?


2001年03月13日(火) 少女しか愛せない/『NOVEL21 少女の空間』(小林泰三ほか)ほか

 仕事帰り、坂道を自転車漕いで登っていると、後ろから追い越してきたバイクのヘルメットがぽ〜んと飛んで、私にぶつかりそうになった。
 いや、軽く書いちゃいるが、マジで危なかったのだ。坂道は結構急勾配で、片側は工事中で深い溝があり、しかも西日が真正面から照らしていて、視界がホワイトアウトしていたし。
 でも目が悪くいつ危ない目にあってもおかしくない私が今まで殆ど事故にあったことがなく、注意深い女房の方が事故にあうというのは、やはり日頃の行いの差というものであろうか。

 テレビで『伊東家の食卓』を見ていて、女房と口喧嘩になる。
 私はこの番組、ああ、こういう裏ワザあったのか、今度やってみよう、とか、なんでこんな面倒臭いもんに鐘鳴らしてんだよう、とか思いながら見るのが好きなのだが、女房は大っ嫌いなのだそうだ。
 「なんで? 結構役に立つじゃん」
 「シロウトが妙にカッコつけて喋ってんの見るのヤなんだよ!」
 確かにテレビが素人に侵食されて行く状況と言うのは見てて面白いものではないが、これは別にそれを見るための番組じゃないと思うけどな。
 更に『踊るさんま御殿』見ていて口論。「妙にハラハラしてしまった時」という題を見て、
 「俺たちもしょっちゅうまわりの人をハラハラさせてるよなあ」
 と言うと、女房、
 「なんで?」
 とキョトンとしている。
 「『なんで』って、よくバカやるんで、みんなの前で喧嘩になりかけたりするじゃんか」
 「あんたが?」
 「お前がだ!」
 ……自覚がないやつはこれだからなあ。
 そう言えば先日、練習の帰りに、鈴邑君の新車のテールランプを見て、「これって、遠ざかるから赤く光るの?」
 と聞いてた。
 ……車のライトが「ドップラー効果」起こすか! もちろん、このギャグはあさりよしとおのマンガ『がんまサイエンス』がもとネタだが、女房はアレを真実だと思いこんでいたのである。ウソではない。女房の天然ボケは軽く西村知美や釈由美子を凌駕しているのだ。

 徳間デュアル文庫『NOVEL21 少女の空間』読む。
 「少女」というキーワードが物語のオルガナイザーとして機能し始めたのは、80年代のロリコンブームを経てからだろうと思う。
 いや、もちろんそれまでにだって少女を主役とした小説や映画、マンガは数限りなく作られていたわけだし、印象に残る少女キャラクターは少なくなかった。
 『若草物語』は、『不思議の国のアリス』は、『秘密の花園』は、『少女パレアナ』は、と、一世を風靡した少女たちを思い浮かべるのは簡単である。
 けれど、それら外国文学の少女たちと、わが現代日本の「少女」たちとは何かが微妙に違う気がする。いずれは大人になるはずなのに、なぜか少女は少女のままで永遠にあり続けるような……そんな幻想を少女たちに対して私たちは託してはいないか。
 『少女の空間』とはよくもつけたタイトルだと思う。少女にとって時間はあまり意味を持たない。そこにあるということ、空間をいかに占有するかということ、そこに少女たちの価値はあるように思うからだ。
 ……なんかワケのわからん前振りしちゃったな。んじゃ一作ごとに感想など。

 小林泰三『独裁者の掟』
 うひゃあ、こりゃまた、とんでもない傑作が生まれたもんだなあ!
 冗談ではない、これくらい一読して感嘆し、一文一文を吟味するように味わい、何度となく読み返しては心が打ち震えるのを感じたのは、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』短編バージョンを読んで以来のことだ。
 この短編集のコンセプトは、「ハイブリッド・エンタテインメント」、つまりは異なるジャンルの「混血」を目指したものだ。過去の作品の中で例をあげればアジモフの『鋼鉄都市』みたいな「SFミステリー」がそうで、本作もその流れの上にある。
 混血が差別されるのは世の常で(うわあ、危ないこと言わはる)、「SFミステリー」は、SFファンからもミステリファンからも「邪道」扱いされてきた嫌いがなきにしもあらずだった。
 しかし、そういうコテコテのSFファン、ミステリファンでも、この作品にはきっと納得するに違いない。今年の星雲賞短編部門最優秀作がこれでなかったら、私ゃ世のSFファンの目を疑うぞ(ああ、またなんて挑戦的なコトを……)。
 ストーリーは、一人の少女が世界を支配する独裁者の総統を倒す話なんだけど、構成と叙述の妙が絶品。全短編の中で、この作品だけが少女が大人になることの意味を問うている。
 多分、少女は少女であるということだけで「罪深き存在」なのであって、それを償うために大人になるのだ。世の少女たちがみなその業を背負って生きているのだとすれば、彼女たちの居場所はこの世のどこにもないということになる。
 少女である証を渡された少女もまた、新たにその業を背負ってしまったのだ。その事実は、あまりにも切なく、悲しい。

 青木和『死人魚』
 『インスマウスを覆う影』と『猫目小僧・妖怪水まねき』を足して2で割ったような作品。と言っても出来は悪くない。
 現代の怪異談として、うまく纏まっている。

 篠田真由美『セラフィーナ』
 本アンソロジー中、唯一の女性による「少女」の小説。
 「ロリコンブーム」以来、「少女」を語るのは常に男だった。しかし男がどんなに少女の「秘密」を解き明かそうとしても、そこに予め「少女」と言う括りがある以上は、男の描く少女像は常に幻想が実体に先行してしまう。
 「『少女』は一個の絶望である」と作者は言う。この一言で目からウロコが落ちた。「少女」とは文字通り「女」ですらないのである。異形であり、フリークスであり、男たちは明らかに少女を玩具化していながら、それを幻想のオブラートに包んで誤魔化していたのである。
 昔、大林宣彦の映画にハマリつつも何か胸がむかつくような居心地の悪さを感じていたが、その正体にようやく気がついた。『はるか、ノスタルジィ』で石田ひかりは「少女をなめんじゃないよ」と嘯くが自分自身を「少女」と語ることが何よりの欺瞞だった。
 少女であることの苦しみなど、大林宣彦にはカケラも理解できていなかったに相違ない。
 だから少女は常に心に武器を持つ。男に弄ばれ、嬲られ、苛まれて、何一つ抵抗できずに、ひたすら媚びるしかない立場でありながら、それでも男にはむかう武器を心に持っているのである。
 本作ではそれが実にイヤなかたちで具象化されているが(^_^;)、確かに少女はああいうモノも持っちゃいるなあ、と納得させられてしまうのであった。
 そうだよね、天使って、飛鳥了なんだよね。

 大塚英志『彼女の海岸線』
 さて、本家本元「ロリコンマンガ」のパイオニアの一人、白倉由美作品のノベライズ。と言っても私は原作の方は読んだことない。
 日本には昔から「マレビト」の伝説が伝わっている。つまり「異界」からの来訪者である。本作のヒロイン未生も、「キツネ少女」という設定からして、正しくそのマレビトにほかならない。
 彼らはみな、どこか(たいていは海の彼方か山の奥)からフラリと現れ、幸運を与えたあと、去っていく。『古事記』の少名彦名命や豊玉比売に始まり、民話の『鶴の恩返し』に至るまで、異界の住人たちは「どうしてそこまで」と言いたくなるほどに人間に尽くしてくれた末に去るのだ。
 いや、そもそも彼らはなぜ人間界に来なければならなかったのか。伝説はたいていその理由を明かさないが、実は明かす必要がないのだ。それは彼女たちが「少女」であること自体にあるからだ。
 男は一度は少女を抱かねば男にはなれないのだ。いみじくも本作で「ライナスの毛布」と譬えたごとく、「少女」とは男にとって「支配できる母親」に違いないのだから。



 二階堂黎人『アンドロイド殺し』
 このアンソロジー中、最低の作品。しかも他の作家とのレベルがあまりに違いすぎるほどの駄作。
 編集者もこの作品の扱いに困ったのではないか。巻頭にはとても置けないし、あまり前の方に置いたのでは、読者が脱力して、あとの作品を読む興味が失せてしまう。トリを取らせるなんてとんでもない。最後から二番目に置かれているのが、編集者の苦衷を思わせるではないか。
 題名見ればわかると思いますが、これ、アガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』のパロディーなんですよ。つまり犯人が○○○ってやつで、まさかそのまんまじゃないだろうなあ、と思ったらそうだった。
 それだけじゃ芸がないから、もう一つどんでん返しつけるんじゃないかなあ、でもそれがまさか「○○、○○○は、○○○○○○」って結末じゃねえよなあ、と思ってたらその通り。
 断定してしまおう。この作家はバカだ。この人、手塚治虫ファンクラブの会長だった経歴があるが、どうもマンガ的な感覚で小説を書いてるんじゃないかって感じがする。というのが、構成の破綻の仕方が手塚治虫そっくり(^_^;)。
 前半のSF部分が結果的に無意味なあたり、サービスでいろんなエピソード詰め込みすぎて構成が無茶苦茶になっちゃう手塚さんの癖そのまんまなんだものな。それでも手塚さんの場合はマンガだから読めるが、小説でこれやっちゃ馬鹿晒すだけだよ。
 アンソロジーってのは恐いんだよね、作家としての力量が他作家とモロに比較されちゃうから。それにしても、SF作家がミステリーを書くと佳作をものにするのに(アジモフの『黒後家蜘蛛の会』や筒井康隆の『富豪刑事』)、ミステリー作家がSF書くと駄作しか書けない(高木彬光の『ハスキル人』とかな。山田風太郎は例外)のはなぜ?

 梶尾真治『朋恵の夢想時間(ユークロニー)』
 「ユークロニー」って初めて聞く単語だぞ。「夢想時間」ってどういうことだ。小説の内容から判断すると、過去の心的外傷みたいな感じだが。哲学か心理学用語なんだろうけど、そうなるとその辺の哲学事典か何かを調べないと分らんのだろうか。
 過去の過ちを時間遡行することで償おうとするパターンはよくあるし、それを時間それ自体が妨害しようとするってのも、ありきたりといえばありきたりなんだけど、空間が変形し溶解していく描写でぐいぐい読ませる。
 それにしても梶尾真治がSF短編集のトリを飾る時代になったんだなあ。と言っても梶尾さんも五十歳過ぎてるんだから当たり前だけど。

 CSで映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』見る。
 なんと監督があの『朝生』の田原総一郎だ。一応清水邦夫が協力監督してるけど、70年代の青年たちが自らの肉体と言葉をもてあまし、にもかかわらずその無力さに打ちひしがれて沈黙して行く過程を象徴的に描いていて面白かった。
 石橋蓮司が若い。そしてよく喋るのがいい。
 加納典明が若い。そして全く喋らないのがいい。
 桃井かおりがいい。モノクロ映像のせいかも知れないが、こんなに美人だったかなあ。
 でも漂泊の果てに言葉を捨てた彼等が若き日の田原氏だとすれば、今の田原氏、なんであんなに喋ってるのか(^o^)。

 仕事でくたびれ果てていたので、電気を消してぐっすり寝ようとしたら、女房が「恐いから電気を消すな」と言う。
 日ごろ「電気代がもったいない」と言いながら、夜は電器点けっぱなしでないと眠れんというのは矛盾してないか。
 構わず部屋を真っ暗にして寝る。女房の悲鳴が多少うるさいが10秒で私は寝付くので関係ない。おかげで久しぶりに7時間眠れました。



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藤原敬之(ふじわら・けいし)