無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年02月13日(火) 明日寂しい思いをする人は読まないで下さい/『コロンブスの航海』(J.P.チェゼラーニ)ほか

 気温は低いが日差しはまあまあ、このくらいの気候が私には一番しのぎやすい。睡眠も充分取っているので、朝も何とか起きられる。このまま雨が降らずにいてくれりゃあ万々歳なんだが。

 明日はバレンタインデイであるが、若者は起源たる殉教者バレンタインのことも知らず、「なんで女の方から男の方にコクらないかんと?」みたいな他愛無い文句を垂れていたりする。
 私なんぞはワケシリ顔で「あんなもん日本のチョコレート会社の策略だよ」なんてヒネたことを言うもんだから、若者から「夢がない」などと叩かれてしまうのである。もちろん、その仕立てられた「夢」とやらに乗っかってくれる連中がいないことには製菓会社の屋台骨は崩れてしまうし、ひいては景気の不振にもつながりかねないわけだから、世の女性が「うふ〜ん、あの人、私のこと振り向いてくれるかしら? ドキドキ」なんて腐れた頭を悩ませていることについて、いささかの文句をつけるつもりもない。押井守じゃないが「人間は虚構にのみ生きる価値を見出す」ものであるから。
 何にせよ、この程度の虚構にうかうか乗せられるってこたあ、誰ぞの言い草じゃないが平和な証拠である。もちろん、頭の中が平和なだけであって、こういう連中ほど、悪辣な為政者の手にかかれば自由自在に洗脳されて醜(しこ)の御楯と化し、「大君の辺にこそ死なめ」と死んでいくのである。……生まれた時代によっては私もその一員だったかな。
 でもハタチになろうってのに未だにサンタをマジで信じてるやつがいるのが日本人の現状だと言ったら(ウソではないぞ)、日本の為政者は喜ぶだろうか、悲しむだろうか。多分その「事実」から目を背けるんだろうな。

 女房から一日早くバレンタインチョコをもらう。ビニールカップにチョコを流しこんで、その中にフルタのチョコエッグのペット動物コレクションを仕込んでいる。芸が細かいんだか雑なんだか分らんな(^_^;)。
 先日よしひと嬢からもチョコをもらったので今年の収穫は多分この二個で打ち止めである。まあ妻帯者なんだからこれで満足せねばな……ってこのトシになってまだ何か期待しているのか。

 『國文学』の3月号、四方田犬彦が川端康成と映画の関係について紹介している。文学者と映画の関係、今やその間はいびつに乖離していて、活字と映像は別物、と解釈するのはごく当たり前、という感じの論評も多く目にするようになったが、かつての日本において、この二者は極めて近しい関係にあった。と言うか、文芸活動の一手法として映画が捉えられていた時代が結構長かったのである。
 四方田氏も指摘しているとおり、谷崎潤一郎がハリウッド喜劇の翻案的な『アマチュア倶楽部』を脚本執筆、制作したのを皮切りに(主演女優に手をつける第1号ともなったが)、大正から昭和初期に映画に関わった文学者を挙げていけば相当な数に上ることは間違いない。
 川端康成が五所平之助と組んだ『狂った一頁』、もう二十年来見たいと思いつつ未だに機会を得られないが、『カリガリ博士』などドイツ表現主義の影響下にある相当シュールな代物だと言うことは耳にしていた。実際、川端康成は、映画化された『伊豆の踊子』などのイメージから、純愛ロマンの作家と勘違いされている向きがあるが、立派な変態小説家である。……だから『伊豆の踊子』の原作じっくり読んでみなさいってば。教科書なんかじゃヤバイ表現相当カットしてるけど、明らかにあの学生、十四歳の踊子に肉欲感じてんだから。
 四方田氏、数ある『踊子』映画化の中で西河克己監督、山口百恵主演版が唯一、賎業としての踊子を描いている、と評価している。慧眼だなあ。昭和49年、私があの映画を始めて見たとき(11歳だよ……)、鮮明に記憶に残ったのは、ラストシーン、学生と別れた踊子がお座敷で酔客に抱きつかれ、顔を顰めるストップモーションであった。無論、その後踊子は、体を売る生活に入っていくのである。当時、ウチの親は「『伊豆の踊子』ならいいよ」、とおそらく田中絹代版を連想したのであろう、私が見に行くことをいとも簡単に許可したが、そんなインモラルな映画だったとは夢にも思ってなかったに違いない。つくづく親の無教養に感謝する次第である。
 いや、川端康成がヘンタイであるという話だ。それは作家としては全然悪いこっちゃない。変態と言うよりはっきり既知外と言った方が当たっている。『雪国』だって『古都』だって『山の音』だって、作者が幻聴幻視を起こしながらそのまんまのイメージで書いてんのよ。だからこそこの人の作品は小説も映画も海外の評価が高いのである。だって既知外の表現って、国の文化にとらわれない分、普遍性があるんだもの。

 『コロンブスの航海』(ピエロ・ベントゥーラ絵 ジァン・パオロ・チェゼラーニ文 吉田悟郎訳)読む。みんなアメリカ風に「コロンブス」と発音してるが、当時のスペイン語の発音で本人が実際に喋っていたのは「コロン」、生まれ故郷のジェノバの発音なら「コロンボ」、この本の原題でも「コロンボ」と表記されている。まあこの辺の知識は有名か。
 大型絵本の体裁なので、サンタ・マリア号の断面図なんかが描かれていて、本文よりそちらのほうに目が行く。船室は食料その他の荷物で手一杯で、船長のコロンブスの個室はあっても、船員部屋は全くない。90人からの船員はどうやって暮らしてたんだって、当然荷物の隙間を探して寝るのである。食料は長い航海の間で腐るものも多く、そうなると船の中は常に異臭が漂う状態になる。航海中何度も暴動が起こりそうになったということだが、そりゃそうだよな。
 一行がアメリカに着いて、現地人の「ハンモック」を見て、「これなら船の上でも寝られる!」ということでコロンブス以降の航海には船の上にハンモックが吊られることになったそうである。タバコがインディアンの文化だったってのは知ってたけどハンモックもだったのね。
 コロンブスは現地人に歓待されるが、その30年後にこのときの現地人は全て虐殺されることになる。恩を仇で返す、という感覚すらない。この時代の常識は「弱い者からは奪え」であるからだ。……今でも変わってないか(^_^;)。
 世界各地の侵略と虐殺の歴史を紐解いていけば、侵略を行ったことのない民族など存在しないことに気づく。それらは結局、「別に当時は悪いことでもなかったんだから仕方ないじゃん」という「未必の故意」と判断すべきものであって、それを責めだしたらキリがないのだ。なのに、どこぞのお国は他国の侵略についてはギャーギャー非難するくせに、自分達の過去の侵略行為については目をつぶってやがるんだよな。

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 仕事が長引いて帰宅が遅れる。しまった、『アルジュナ』録り損ねた。一時期沈滞気味だった「オタアミ会議室」が、このアニメのおかげで再び盛りあがってきているだけに見逃すまいと思っていたのになあ。エコロジーにかぶれた河森正治監督のコワレぶりが、往年の『マクロス』ファンにはイタくて仕方がないようだが、何を今更。ラブソングが宇宙人にカルチャーショックを起こさせるなんてアイデアを思いついた時点で既にイタイ人だったと思うがな。当時私は既に大学生だったが、『巨人の星』に突っ込み入れながら見るのと同じように、『マクロス』も笑って見てたぞ。高千穂遙が「ガキの恋愛描いてないでもっと大人になれよ」と言わずもがなの批評してたな。
 しかし意外なことに、河森監督、これがテレビシリーズ初監督なのだそうな。そう言われれば、『マクロス』も『エスカフローネ』も原作・脚本で監督は別の人に任せていた。『KENJIの春』は監督だけれど単発である(あれもどこか頭のネジが一つ飛んじゃってるようなアニメだったなあ。猫じゃなくて人間でやれよ、『銀河鉄道の夜』と違って実録なんだからさ。妹のトシが妙に色っぽいのがかえって不自然だぞ)。
 ……だとしたら河森さんもまだまだ新人、あまり突っ込んだって仕方ない気もするがなあ。
 『地球防衛家族』の方だけでも見ようかと思ったが、女房が『ついでにとんちんかん』の再放送のほうを見ていたので断念。無理して見ねばならぬほどの出来でもないし。『とんちんかん』、久しぶりに見るので声優などほぼ忘れている。そうか、アンディは島津冴子さんだったか。『アニメトピア』好きだったなあ。しかし漫画のギャグをアニメに移行するのはつくづく難しいと思う。間がまるで違うので笑えぬこと夥しい。特にジャンプ系列のギャグものは『Dr.スランプ』以降、『ONE PIECE』に至るまで、ほぼ全滅状態である。下手に原作ファンがついているので、アニメ的にいじれぬのがネックなのだろうな。絵柄もすっかり変えたかつての『ど根性ガエル』のようなことはもはやできないのだろう。……湯浅政明が作画した『ONE PIECE』なんか見てみたい気はするが。

 仕事帰りにコンビニで買ったハンバーグシチューとサイコロステーキで晩飯。女房、昼はインスタントラーメンで済ました模様。先日5個入りパックを買っておいたのだが、「醤油とんこつはうまいね」と言うので見てみるともう2個も減っている。非常食用のつもりだったんだが、そう言われると私も食べたくなる。
 女房が寝た後(別に寝静まるのを待ってたわけでもないが)一つ作って、目玉焼きと一緒にラーメンにぶっ掛け、ラーメンライスにしたところ、食べようとした瞬間、寝床から女房の「何食べよると〜」の声。……日頃一回寝入ったら、押しても引いても絶対起きないクセに、どうしてこいつは食い物の匂いにだけは反応するかな。結局、女房に半分以上平らげられる。まあ、カロリー高いし、半分くらいで丁度いいんだけれど。

 DVD『バスター・キートンボックス』五枚組、一部だけ見る。
 『キートンの文化生活一週間(マイホーム)』、あの台風で家が大回転する有名なギャグ・シークエンスのある本作、ロスコー“デブくん”アーパックルとのコンビを解消した直後の主演作なのである。しかも既に監督。初手から過激なギャグ作ってた人なんだなあ。当時の短編、設定があるだけで後はギャグでつなぎ、ストーリーの整合性は無視、というのが定番だったことがよく分る。何しろせっかく建てたマイホーム、壊れた途端にキートン夫妻は「まいっか」とそのままほったらかして去っていきジ・エンドなんだものな。
 『強盗騒動(悪太郎)』も脱獄犯に間違えられたキートン、警官から逃げ回るのはいいけれど、最後は濡れ衣を晴らすのかと思えば、結婚して終わりってどういう終わり方だ。もちろん、面白いからいいんだけど。
 チャップリンよりスラップスティックに徹しているのに日本での人気にえらく差があるのはチャップリンに作曲の才能があったことも大いに関連していると思う。NHKで放送される時もそうだが、伴奏が全く映像に寄与していないのである。アメリカも自国の文化に自信持ってるなら、もう少しまともな音楽つけたらどうだ。
 一編に見てしまうのはもったいないので、今日はこれだけ。続きは明日である。


2001年02月12日(月) 来年の『ゴジラ』はあるのか/『アニメージュ』『ニュータイプ』3月号

 一昨日買った『アニメージュ』『ニュータイプ』をやっと読む。
 テレビの新番組でこれは、と思えるものは殆どない。相変わらずやおいかロリコン向け要素満載の、まあ、私が燃えるにゃちょっと二の足を踏む類のものばかりだ。かと思うと、『サラリーマン金太郎』アニメ化って、誰が見るんだそんなもん、という企画もあり。でもこんなのがマニアックなやつよりかえって視聴率稼いだりするんだよな。制作会社も手抜きして作ったってそれなりの日銭が稼げるとなりゃ、こんなクソみたいな企画でも立ち上げたくなるんだろう。……しかもスタッフ表に監督名が書いてない。多分制作はしてるけど未だに責任者が決まってないということだな。『真ゲッターロボ』より酷い状況だな。
 『コメットさん』アニメ化。おいおいマジか? 今時の若い連中は九重佑三子版はおろか、大場久美子版すら知るまい。ましてや原作があの横山光輝御大であることすら。実は私も原作をまともに読んだことがない。出来れば横山さんの絵柄できちんとアニメ化して欲しいもんだが、『魔法使いサリー』みたいに妙に淡いピンクの色ばかりが強調された、無表情なものになりゃせんかと心配である。旧作もオープニングだけはアニメだったけど、それより落ちる出来にはして欲しくないなあ。
 『逮捕しちゃうぞ』新シリーズもどうせ福岡じゃやるまい。以前テレビ局に勤めてたウチのメンバーの話によると、たとえ系列局であっても、東京で放映しているものを地方で放映しないこともあり(たいていは地方の番組がブッキングされるため)、特にアニメ関係は編成会議で落とされることが多いそうである。その点を考えてみてもまだまだ世間のアニメに対する偏見は強く、逆に「テレビQ」(テレビ東京系列)の偉大さは際立つのである。何しろ福岡のテレビQの社屋の壁面、どでかくポケモンだものな。少しは見習え「F○S」(T○S系列)。
 『ARMS』は原作読んだことないのでどんなのか分らん。でも原作者は『スプリガン』の人だよなあ。あれは漫画も大したことなかったし、アニメも今時インチキがバレバレの「ノアの箱舟」出すなよ、なにトチ狂ってんだ大友克洋、という感じのバカ映画だったし、期待は出来んな。

 結局、期待したくなるのはもっぱら劇場あるいはオリジナルものばかり。というか、今年の豊作ぶりはどうしたことだろう。2001年に合わせて、各社が総力を結集して来たかのようだ。
 サンライズの『カウポーイビバッブ 天国の扉』、ジブリの『千と千尋の神隠し』、マッドハウスの『メトロポリス』、もうこれだけで『ナウシカ』と『マクロス』と『うる星2』が出揃った1982年に匹敵するのではないか。
 しかも今年は既に押井守の『アヴァロン』(実写だけど)公開、シリーズ継続中の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』や『名探偵コナン 天国へのカウントダウン』はおそらく水準以上、となれば「アニメ新世紀」を本気で謳ってもあながち的外れではあるまい。
 更に『ポケモン』『デジモン』『ドラえもん』の「3モン」(^o^)もあるんだよな。これは時間の余裕があれば見に行くかも。
 『少女革命ウテナ』『エクセル・サーガ』のJ.C.STAFFは、OVAで富沢ひとしの『エイリアン9』をアニメ化。これも作画レベル次第で「買い」だ。
 こうなると庵野秀明の新作アニメがまだ企画進行中のままなのがじれったい。早いとこ『蒼きウル』完成させろよう。

 『アニメージュ』、新作情報以外の記事では、脚本家の浦沢義雄のインタビューが圧巻。デビューが『カリキュラマシーン』と『なんでそうなるの?』だとはなあ。もういいおトシなのに、未だにその頃の先鋭的な感覚を持ちつづけているのがすばらしい。
 浦沢さんのテレビシリーズはヒットすることが解りきっているので(1クールなんてことはまずなく、最低一年、2、3年の作品もザラ)、とてもビデオ録画してられないのだが、それでも気がつく限り見るようにはしている。去年の『ごぞんじ月光仮面くん』が局側のテコ入れで失速しちゃったのは惜しまれるが、自由に書かせれば、傑作しか書かないという稀有の人なのだ。
 『バビロンの黄金伝説』だって、公開当初は旧作なんかとやたら比較されてまともに評価されなかったが、今、虚心坦懐に見れば実に面白い。宇宙人の千年の思いも屁とも思わぬルパンの自由人ぶりがよく出ているのである。……言っちゃなんだが『カリオストロの城』はルパンとして考えるとやはり駄作だよな。ルパンが小娘に拘る理由が分らない(描写が不充分である)ので、「ただのロリコンはルパン、テメエの方だろう」とどうしても突っ込みたくなるのである。
 宮崎駿と浦沢義雄の一番大きな違いは、ハッタリのあるなしであろう。もちろん浦沢さんのほうが「ない」のである。
 インタビューでも浦沢さんは「人間を描くことに興味はない、芝居がかった芝居は嫌い」とはっきり言っている。実際、舞台で「芝居がかった芝居」をやると覿面に客は確実に「引く」。それが役者の自己満足に過ぎないことを客は一発で見ぬくからだ。
 平田オリザの提唱する「現代口語演劇」は「芝居」を極力殺ぎ落とすことで舞台を成立させているが、ドラマらしいドラマが一切起こらず、二時間見続けることが退屈であるにもかかわらず、目が離せないという、極めて不思議な空間を作り上げている。恐らく浦沢さんはこの平田氏の「静かな演劇」も見ているに違いない。演劇に実は「ドラマ」は必要なく、「アイデア」の連続さえあれば、映画も舞台も成立する。そのことは、既に初期のチャップリン、キートンが証明してくれていたことではなかったのか。「泣き」の要素、即ち「人情」はこのアイデアの連続をともすれば中断させてしまうのである。
 本格探偵小説などは、実はドラマを一番作りにくい欠点を持っている。何しろ「謎とき」というのは基本的に「盛りあがらない」ものだからだ。だからミステリ作家は無理矢理「名探偵みんな集めてさてと言い」という状況を作り出し、長々と衒学的な長広舌で場を持たすことをよくするのである。
 浦沢さんがミステリーのパロディものをやってくれると面白くなるだろうなあ。『ルパン』でそれをちょっとやって見せてはくれてたけど。

 今日は女房は朝から仕事の打ち合わせ。
 私は父に呼び出されて、背広を仕立てに店屋町までお出掛けである。今年は母の七回忌であるが、父はわざわざ礼服を仕立てるというのが嫌いなので、普段も使える背広を新着したらどうか、と持ちかけてきたのである。普段着でいいなら殊更作る必要はない、と断ろうと思ったのだが、さすがに親父はその辺の私の気持ちは見抜いている。
 「もう予約したから来い」
 有無をも言わせぬというのはこのことか(^_^;)。誕生日のプレゼント代わりということなので(とうに過ぎとるがな)、仕方なく承諾。
 約束では「呉服町の寿屋の前」で待ち合わせ、ということにしていたのに、念のため直前に電話すると父は「博多駅の前」と勘違いしている。
 「二回も確認したろうが? 寿屋の前って」
 「違おうが。博多駅の前て言うたやないか」
 「お父さんは何も言うとらんやないね」
 「お前とギロンしようとは思わん」
 私が博多弁を使うのはもう父との間だけなので遠慮がない。人によっては私と父はとても仲が悪く見えるかもしれんが、この会話には実は翻訳が必要なのである。
 「お父さん、寿屋の前で待ち合わせにしてよかったの?」
 「いや、博多駅の前にしてくれてた方が覚えやすかったなあ」
 「そうすればよかったね、駅から歩けば話もできたし」
 「まあ、積もる話はそのうちゆっくりしよう」
 ……全然そんな会話になってないじゃないか、と思う向きには博多の文化は永遠に分らないであろう。博多弁はストレートなもの言いが特徴的でありながら、言葉と心の乖離がとてつもなく大きい言語なのである。
 で、もちろん待ち合わせは「寿屋の前」。
 自転車をすっ飛ばして10時に父と会うと、父は手提げ袋に以前プレゼントした藤田まことのサイン入り『必殺!』巾着を使っている。父は、会うたびに必ず私が贈った時計だの帽子だの、そういうアイテムを使っているところをさりげなく見せる。なかなか奥ゆかしいことではあるが、しばらく経つとどこへやったか忘れて別のものを買ってたりするので、苦笑することもしばしばである。
 色弱で私には色がわからぬので、生地の見立てはすべて父に任せる。ごくごく地味なものを選んでくれたようでありがたいことである。
 女房からバレンタインのチョコを預かってきたので、父に渡すと苦笑される。これももちろん喜んでいるのである。
 私も父も嬉しさというのはあまり表面に出さない方なので、女房などはかえって嫌われてるのではないかと誤解するようだが、本気で嫌ってるのなら私も女房と別れているだろうし、父も無理矢理にでも別れさせているだろう。
 「いい嫁さんもらったなあ」というのを「お前が選んだんなら仕方がない」としか言わないのが博多人なのである。……こんなん確かに女房にゃ分らんのも分るんだがなあ。かと言って、今更親父に「素直に言え」なんて言うのも無理な話だし。

 帰りに切手と封筒を買おうと思っていたのに、財布を忘れていたことに気づいて慌てる。で、父におごってもらう。不思議だなあ、ン万円の服を親父に仕立ててもらったのは恥ずかしくないのに、三百円おごってもらったのは恥ずかしいぞ。金額の多寡ではないとするとこれはいったいどういう心理なのかな。

 切手と封筒は『シティボーイズ・ライブ』と『地球防衛企業ダイ・ガード』のDVDの全巻購入予約特典のプレゼント応募用のものである。『シティボーイズ』の方の特典は、未公開のライブビデオだとか。2月末までの応募なので、シティボーイズファンなら『ウルトラシオトシオハイミナール』『夏への無意識』『真空報告官大運動会』の3枚のDVDを慌てて揃えるがよろしい。今年のゴールデンウィークのライブはぜひ東京まで見に行きたいものだなあ。メンバーの中で、お金貯めてぜひ東京に行くって人、いますか? チケットは毎年即日完売なんで、ご連絡は今月末までにお願いします。

 帰宅した直後に女房も帰宅。なにやらいろいろとパンフレットをもらってきているが、いわゆる接客マニュアルというものであろう。客の中には店に絡むのが趣味のようなやつもいるので、小心者の女房に仕事が勤まるかどうか心配ではあるが、店長さんがしっかりしていれば、そう大層なことにはなるまい。
 不景気ではあっても、人手が足りないのはどこでも同じで、下働きをうまく使いこなせない店長もやはりダメの烙印を押されるのが今の風潮である。記憶力がなくドジではあっても基本的に真面目な女房を使いこなせないとすれば、その店も大したことはない。
 無理ならやめればいいとは簡単には言えぬが、ガマンのしすぎはよくない。女房には、自分がどこまでやれるかを考えてくれればそれで十分である。

 ホームページに載せるためのイラストなどを描いているうちに眠くなり、昼寝。女房は「せっかくの休みなのに一緒におしゃべりもできない」と不満げだが、急激に眠気が来たのだ。
 昼寝の時に見た夢というのは結構覚えているものである。
 何と今日は私に『ゴジラ』の新作の脚本が依頼される夢。マニアからは「大層な夢見てんじゃない」と叱られそうだが、見たものは仕方がないのである。
 ゴジラが出現したということで、政府はその対応に追われるのだが、その無策ぶりに責任を追及された首相が、事態の真っ只中であるにもかかわらず悲痛のあまり自殺してしまうのである。……夢から覚めて思ったが、これまでのゴジラ映画、そういったゴジラの脅威に対抗する人間側の悲壮感を描いた作品というのが第一作を除けば皆無だったのではないか。
 第一作に散見する「死」のイメージ、実況中継をしながら死んでいくアナウンサー、戦争未亡人が幼子を抱えて「もうすぐおとうちゃんのとこへ行くのよ」と呟くシーン、何より、芹沢博士の「さよなら」のセリフ、彼らは本来「死ななくていい」人々であった。
 実はゴジラに対抗する人々が、善玉であろうが悪玉であろうが、死んでいくのは、ドラマとしては予定調和の域を出ないのである。ゴジラに向かって「ゴージラー」と叫びながらツブされるバカを描いてなにが面白い。作り手の自己満足しかそこにはない。
 ゴジラに神だか自然の脅威だか核の恐怖だか帝国主義だか、何の象徴を見出すも自由だが、そこに映像としてのインパクトを持たせようと思うなら、「無作為に」、「無辜の人」が死ぬ様子をきちんと描かなければ効果はない。それができないのは所詮ゴジラ映画が子供だましに堕していることを証明することにしかならないのである。
 『ゴジラ×メガギラス』中の秀逸な描写は、メガギラスが町の人々を襲うシーンに、恐怖のイメージが復活しているところである。それだけに惜しく思うのは、ゴジラ自体でそれがやれていない点だ。だから結局「ゴジラ」は、メガギラスという「悪」を倒す、「正義の味方」的な位置から遠く離れられない。『ゴジメガ』が構造的に平成ガメラシリーズのマネになっていることを否定することができないのである。
 それにしてもゴジラの脚本、私家版でいいから書いてみたくなったな。で、「東京ゴジラ団」もしっかり出すと(^o^)。

 夜、知り合いのUくんから電話。
 何でも今朝方、竹下(ウチの近所だ)で事故があって友達が死んだとか。その友達の方はもう顔を覚えてはいないのだが、ハタチは過ぎていたはずである。車を盗んで、パトカーに追いかけられて、踏み切りに突っ込んだ末、同乗者の若い子二人も巻き添えにしての死だったという話であるが、いい大人が何を考えていたのか。
 今晩が通夜だと知らされたが、いくら昔の知り合いだからといって、そんなアホウのところに香典持って行きたくはない(特に私に連絡があったわけじゃなし)。遺族はおそらくこれから補償で大変になるだろうが、そういうバカを育てた責任をとるのは当然のことであろう。
 Uくんには、昔、言葉の行き違いで随分迷惑をかけたことがある。そのうちヒマな時にでも遊びにおいで、ただし赤ん坊を連れてきたら命の保証はない(本が上から落ちてくるので)と話をする(^_^;)。

 女房、私が相手をしてやらなかったので、ふてくされて寝ている。腹を減らしているだろうと肉を焼いてやるがあまり食べない。父と会って、知り合いと電話して、楽しそうなのに自分と一緒にいても楽しそうじゃない、とふてくされているのである。
 最近その手のストレスがたまっているようだが、私は女房のそばで無表情で何のリアクションもしないのが心をゆだねている証拠なのだが。おかげで女房の顔を見るたびに眠たくなってホントに寝てしまうのである。会話がしたけりゃ、そっちから話しかけてくれ。


2001年02月11日(日) 水の中の失楽/アニメ『も〜っとおじゃ魔女どれみ』1・2話ほか

 今日の練習に間に合うように、ほぼ徹夜して次の芝居用のシノプシスを書き上げる。原稿用紙にすればせいぜい数枚のものだが、それでもポイントをしぼってドラマとしての盛りあがりが分るように書かねばならぬので、これは結構しんどい。
 やっと書き上げたのは朝の7時で、さすがに練習にそのまま顔を出すのは体力が持ちそうになかったので、原稿だけ女房に渡して、泥のように眠る。
 目覚めたのは昼の2時。さて、打ち合わせはどうなったかとパピオに向かう。
 今日は久しぶりにほぼ全員が揃った由。
 ふなちゃんはもう何か意味不明な言葉を喋り始めている。「ずっと見てても全然飽きないんですよ」と愛上嬢、幸せそうである。鈴邑君はふなちゃん抱きながら全く無表情だが、娘さんをポーカーフェイスに育てるのは考えものだと思うぞ。
 残念ながら鴉丸嬢と其ノ他君は所要で早引けしたそうですれ違ってしまったが、女房からの超巨大バレンタインチョコを手にして、その重量感に圧倒されていたとか。
 牛乳パックを型に、ただぶっといだけのチョコの塊をもらっても、あまり嬉しかないと思うんだが。塩浦嬢のダーリンにも同じようなのをプレゼントしたそうだが、本当にどうやって食べるのだろう。
 で、肝心のシノプシスであるが。
 「どうだった?」
 「あ、あれ? ボツ」
 ……半年間、トリックを練って、実際に脚本を2稿まで書き上げてこれである。みんな厳しいなあ(T_T)。でもやりたいものをやらなければ劇団としての独自性は生まれないので、適当なところで妥協しないその姿勢は立派である。
 二週間後に会うときまでに、メンバーがそれぞれアイデアを持ち寄ることで次回作は保留と言うことに。まあ、アイデアはまだまだあるので、みんなが「これやりたい!」と言いたくなるようなものを出さねばな。
 鴉丸嬢は小林泰三の『玩具修理者』のようなものがやりたいとか。「今度は明るいものを」という意見はあるが、そう言いながらやはりどこかダークなものを志向する傾向がウチのメンバーにはなぜかあるようである。
 実は私の出したシノプシスも、純愛ミステリーをやろうとしてやはり暗くなってしまったもの。どうせボツなので、ここに披露して供養するとしよう。ただし、これを読んだ人がトリックを勝手に流用したりせんように。

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 『水の中の失楽』(仮題)

 ある水族館で、少女が紳士に語り始める。 

 茉莉が恭介と知りあったのは、その寂れた水族館だった。
 彼女は不登校の女子高生で、彼はそこの警備員だった。
 ひょうきんだがどこか寂しげな恭介に、茉莉は少しずつ惹かれていく。

 ある日、恭介のもとを一人の女が訪れる。しかしその時恭介は席を外しており、茉莉が留守番をしていた。女は唖らしく、身振り手振りで恭介の知り合いであることを茉莉に知らせる。恭介の過去を知っているらしい女の存在に狼狽する茉莉だが、ふと自分が恭介のことを何も知らないことに気づく。茉莉はこの謎の女から、恭介が戻るまでに何とか彼の秘密を聞き出そうとする。
 かろうじて知り得たのは、女がかつて恭介と深い関係にあったらしいということだけだった。しかしそれだけで十分だった。茉莉は呆然とする。
 渡したいものがある、と女は重いボストンバッグを持ってきている。しかしその中身を決して茉莉に見せようとはしない。茉莉は何とかしてその中を見たいと思い、女の注意をそらそうとするが、どうしてもそのバッグを手放そうとはしない。

 何も知らない恭介が戻ってきて、女を見て驚く。女の名前が葉子であることがそこでわかる。恭介は葉子のバッグを引ったくるように奪うと、どこかへ去っていく。後を追いかけようとするが、心臓が弱いらしく、その場にうずくまってしまう。恭介を追いかけて茉莉も出て行く。
 一人残された葉子は、ふと、何かに誘われるように水族館の奥へと入って行く。

 一週間後。
 心臓発作で死んだ葉子の再調査に、探偵の環がやってくる。葉子は実は大会社の社長令嬢であった。恭介は以前その会社に勤めていたことがあったのである。
 環は、恭介が何らかの手段で葉子をショック死させたのではないかと疑っていたが、決め手がなく、当たって砕けろとばかりこの水族館にやってきたのだった。
 恭介と茉莉は、その時現場におらず、外で言い争っていたと証言する。それは他の人間にも目撃されており、二人のアリバイは立証できたかのように思える。
 しかし、疑問は残っていた。
 あのバッグが、あの時以来、行方不明になっていたからである。また、葉子がなぜあの時外に出ずに水族館の奥へ行ってしまったのか、その謎も解けないでいた。
 環は、バッグの中身が恭介と葉子との間にできた赤ん坊ではないかと推理する。葉子は携帯の振動で水族館の奥に誘い出される。そして裏口から回った恭介と茉莉が、赤ん坊の死体を水槽の中に投げこむ。それをガラスごしに見た葉子はショック死したのではないかと。携帯は後で茉莉がそっと抜き取り、あたかも自分のものであるかのように偽装したのだ。唖の葉子が携帯を持っているとは思わないから(実際は画面を見ることはできるので、メールのやりとりをしていた)、警察も携帯が紛失していたことに気づかなかった……。
 しかし、恭介はその推理を一笑に伏す。
 なぜなら、恭介は男装した女だったからだ。精神的には男であるために、男の格好をしているのだと恭介は言う。女に女を妊娠させることはできない(茉莉はもちろん、恭介を女と知って愛していた)。更に、心臓が悪くペースメーカーを胸に入れている葉子が携帯を持っていないのは当たり前であった。
 恭介(実は恭子)は隠していたバッグを環に見せる。中身はただのガラクタだった。何でこんなものを葉子が持っていたか分らないが、自分は係わり合いになりたくなかったので、葉子は初めからバッグなんか持っていなかったかのように嘘をついたのだと。
 結局、葉子の死はただの心臓発作だったのかと落胆して環は去っていく。

 環が去った後、恭子と茉莉は熱いキスをかわす。茉莉は葉子を殺したのがやはり恭子ではないのかと責める。
 ずっと一緒にいたのに、どうやったら葉子を殺せるのかと反駁する恭子。茉莉は、恭子が持っていたバッグの中身がただのガラクタだったことが気になっていた。バッグの中身を葉子自身も知らなかったのではないかと茉莉は推理する。バッグを恭子のもとに運んでくるように頼まれただけではないのかと。
 もちろん、恭子に頼まれて。
 別に葉子を殺すつもりはなかった。ただ意味もなく重い荷物を運ばせ、葉子を苦しめたかった。自分一人が不幸であるかのように振る舞い、哀れんでもらおうと恭子にすがりついてくる葉子が憎らしかった。
 なぜなら、恭子もまた、身を業病に侵された身であったから。
 これは未必の故意による殺人ではないのか。
 恭子は答えない。

 しかし、もし、ほんの少しでも恭子に葉子への殺意があったとしたら……。
 恭子が愛していたのはやはり葉子だったのだと茉莉は気づく。

 少女=茉莉は紳士=恭子の父に語り終わる。
 恭子の父は恭子の死因が手術の失敗によるものだと知っている。助かるか死ぬかは五分五分であった。手術しなくても数年は生きられた。それを手術するように勧めたのは茉莉だった。
 数年の命を縮めることが復讐だったのかと恭子の父は問いかける。
 しかし茉莉は静かに寂しげな微笑を浮かべただけで、何も答えなかった……。 

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 題名はあくまで仮題なんで、竹本健治の『匣の中の失楽』をもじっただけ。でも展開そのものはそう悪くもないと思うんだがなあ。
 女房はトリッキーなもの自体、あまり好みではないようだし、ほかのメンバーも殺人にこだわる芝居はどうもねえ、と言ったような感触であった。
 するってえと、ミステリーやるなら北村薫や加藤朋子、はたまたはやみねかおるの線を狙わねばならんかなあ。
 よしひと嬢をミス・マープルみたいなおばあさん探偵にするのはどうか、といアイデアを出すと、女房が少し乗り気になる。その線で一本設定を考えてみようかな。

 ホームページに載せるダーリンの似顔絵を塩浦嬢から頼まれるが、どうせならそれも女房に描かせて夫婦ペアで載せたらどうか。あれ以上のインパクトはそうそうあるまいと思うが。

 さて、一部読者に人気の、今日の「桜雅嬢」情報。
 発生訓練のテキストに「寅さん」の口上を使っていたそうだが、「意味の分らない言葉とかなあい?」と聞いた途端、桜雅嬢、
「巨根って何ですか?」
 ……確かにあるんだよね、「巨根で有名は道鏡」ってセリフが。
 みんな一瞬詰まって、「パパに聞きなさい」と答えたそうだが、ホントに聞いたらどうするんだ(^_^;)。
 まあ「パパに見せてもらいなさい」と言うよりゃマシかな。それにしても、いい加減、桜雅嬢専任のオトナ教育係を誰かつけたらどうだ。

 帰りに久しぶりに「ビッグポーイ」に寄る。新メニューのハンバーグハヤシが美味い。看板通り「手ごね」しているのかどうか知らないが、肉汁が口の中でぱあっと広がるほどにジューシーなのは事実である。
 女房はと言うと、肉は食うが、野菜は食べない。「ここのはまずいから」と言うが、どこの店でも野菜は食わないのだ。多少味が悪くても、肉食ったときは余計に野菜を食わねばならぬので、サラダバーを三杯おかわり。

 帰宅して女房に特訓され、個人ホームページの表紙だけ作る。記事はまだまだ後。公開するのはもう少し先になりそうなので具体的な内容はまだこの日記には書かない。

 ようやくビデオに録っておいた『も〜っとおじゃ魔女どれみ』の第1・2話を見る。前作の『#』の展開に興味をなくしかけていたが、再びどれみ達を魔女見習いに戻したのは、確かにアザトいことではあるけれど、原点に帰ったのだと考えればそう悪いことでもない。『#』じゃ、赤ん坊の存在がドラマ上どうにも邪魔だったからなあ。どれみがあまりお姉さん、お母さん的になるのは「らしくない」印象をどうしても与えてしまっていたからなあ。
 でももうこれ以上、キャラクターを増やさないようにしないと、またセーラームーンの二の舞になっちゃうぞ。変身のバンクシーンだけ毎回長くなるだけの手抜きアニメにちょっとなりかけてるので、注意して欲しいものである。
 それはそれとして、新登場の帰国子女役の声優、英語が断然うまいが、ホントの帰国子女だったりするんじゃなかろうか。

 波津彬子『雨柳堂夢咄』4巻、案の定、ネタに詰まったのだろう、贋作師のライバルは登場しなくなる。代わりに準レギュラーになった「橋姫」のキャラクターがなかなかの出来。ようやく雨柳堂のうわ手を行くキャラクターが登場してきた印象。夢幻紳士に対する猫夫人みたいなものかな。まああの「冒険編」シリーズも後半どんどんつまんなくなって行ったけど、『雨柳堂』がそうなる心配はあるまい。ようやく次巻への興味が湧いてきたところで今日はもう寝るのであった。



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藤原敬之(ふじわら・けいし)