無責任賛歌
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| 2001年02月04日(日) |
HOME,SWEET HOME/『犬の気持ちは、わからない』(押井守) |
二日続けて女房の夢を見る。 いったいどうした、私に何があったんだ。 幸いなことに内容はもう覚えてはいないが、間違っても「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ」というものではあるまい。どちらかというと、女房から「アンタはなんで私の夢を見ないんだ〜」とネチネチ絡まれ続けたせいであるように思う。
体調がまあまあ元に戻ったので、これなら映画に行ってもよかったかな、という気にもなるが、大事を取ったほうが無難である。 日記を読み返していても思ったが、こうしょっちゅう体を壊していては社会人として落第の烙印を押されたって仕方ないなあ、という気もしてくる。実際そういう扱いを受けること多いしな。でも烙印押す方には立派な人がお揃いなのかというと、そうでもないことは歴史が証明している(大げさな)。 昔、アイアコッカだったか誰かが「太ったやつは自己管理がなってない証拠だから、企業のトップにはなれない」なんてトボケたこと言ってたが、これを真に受けて(というか利用して)デブ差別やってた企業人は多かったように思う。でもアメリカ人やヨーロッパ人の社長にそんなにスリムなやつが多かったかというとそんなことはないのは見ての通りだ。食わなくっても太る体質のやつはいる、ということすらわからんバカがトップに立ってた時代があのバブル期だったわけである。 要するに人間というものは、お偉いさんは特にそうだが、下の者を縛る口実が常に欲しいのである。つまらんイデオロギーの強制は社会を崩壊させる要因に過ぎないということが解らんのかなあ。 私は最近はソドムとゴモラの町ですら、神の勝手なきまぐれで滅ぼされたに過ぎず、ホントはそんなに退廃的じゃなかったんじゃないかという気がしてきている。
ネットを覗きながら、BGMに『懐かしのTV番組テーマ大全集』をかけたりしていると、何とも懐かしい気分になる。大半は昭和30年代のもので、私が記憶しているはずのないものなのだが、そう感じてしまうのは、創世記のテレビが持っていた「大らかな若さ」とでも言えばいいような雰囲気のためであるように思う。 中学校の頃、担任の先生から「『ブーフーウー』って知ってるか?」と聞かれてハイと答えたのが私を含めて二、三人しかいなかった。年譜を見ると放映終了が昭和42年である。前年に『ウルトラマン』が放映されていたことを思えば覚えていてもおかしくないんだが。人によっては思い出せる最初の記憶が七、八歳のころ、というやつもいて、いくらなんでも人生無駄に生き過ぎてるんじゃないかと思うんだが、逆にあまりに恥晒しな毎日を送っていたのでキレイサッパリ忘れてしまっているのかもしれない。 子どもの育児日記を付けたり、ビデオカメラで撮りまくる親をバカと呼ぶのは簡単だが、子どもが大人になったときに、「おまえは昔ねえ」と言って苛める材料としては有効である。私もそれでどれだけやられたことか。自己反省の機会を与えるためにも「記録」は必要である。
女房のアルバムをふと覗いてみる。幼稚園か小学生のころだろうか、どの写真の女房もみな笑顔だ。こまっしゃくれていて、いかにも生意気な顔だが、それでも子どもらしい屈託のない笑顔である。 こんな笑顔、結婚して一度も見てないな。 気がついたら泣いていた。 夢に女房が二日も続けて出てきたのは、やはり私自身の思いのせいかもしれない。
押井守『犬の気持ちは、わからない』、昔、実家で犬を飼っていたときのことを思い出しながら読む。 実際、犬や猫って、何も考えてないよなあ。『パト』や『攻殻』でハードなイメージのある押井さんだが、もちろん私生活の顔もあるのであり、犬好きゆえの横暴な頑固親父、という感じはそばにいたらヤなやつだろうが、人としては共感できる。『101匹バセット大行進』はもし作られたなら、絶対見にいくんだがなあ。絶対スポンサーつかないだろうなあ。
昼過ぎて、鈴邑、愛上夫妻+ふなちゃん、塩浦嬢来る。 ふなちゃん、昨日節分用に買った豆の付録の鬼の面(赤塚不二夫作画)に見入っている。はや、オタクの片鱗が芽生えたか? みんなで公演のビデオ(編集前)を見るが、何か言いたげでズバッと言いきれない感じが強い。と言うか、どのように批評するのがベストなのか、その方法がまだ身についていないのだ。
「演技が下手」と言葉にするのは簡単なのだが、どこがどう下手なのか、どうすればよくなるのか、それを指摘しなければ、意味はない。 例えば、人形役の桜雅嬢、ラストで本を読む時は仕方がないとしても、人形でいる間はメガネを外させるべきだった。本人の目が見えようが見えなかろうが、「おすましリカちゃん」じゃあるまいし、メガネかけたアンティーク人形があるものか。それを指摘しないということは、メンバーが桜雅嬢を「見捨てている」のと同義である。本人がそれをイヤだと言っても、それを説得するのが周囲の役割である。……私ゃまさか本番までメガネかけるとは思いもしなかったのよ。 桜雅嬢だけをまな板に乗せてしまって申し訳ないが、役者に限らず、スタッフがそれぞれに、何をするのが自分の役目なのかを考えることは、明らかに今後の課題である。 私は簡単に「あいつ、言うこと聞かないなら切っちゃえ」みたいなことを言ってしまって、それはそれであまりよくないのだが、仲間のフリしてお互いに妙な遠慮をして、言いたいことも言わないのは芝居を作る上では逆効果だろう。 たしえば私が「『ロミオとジュリエット』のロミオをやるぞ!」と言ったら誰も反対しないのか。「鏡で自分の顔を見ろ」とハッキリ言わんでどうする。私の心を傷つけたくないと思ったとしても、せめて「体重を三ヶ月以内で30キロ落としたら配役することを考えてやってもいい」くらいのことは言わないといかんだろう。もちろんそれを私が実行できたとしても「やっぱアンタじゃミスキャストだからダメ」と言うだけの冷静な判断が必要になるのである。 今回の脚本、ウチのメンバーにアテ書きしたものでないために苦労をかけてしまったことは私の反省点である。しかしアテ書きしたらアテ書きしたで、「なぜ私がこんな役?」的な不満が出る可能性は常に有り得る。 ロデムさんのシノプシス、プロットのみでドラマはまだない。次回作に使うとしたら、ウチのキャストに合うように相当改変せねばならない。かと言って、「やりやすい」ように改変されると思ってもらっても困るのである。ドラマがあくまで虚構の物語である以上、そこに登場する人物はどんなにリアルに見えてもやはり「理想」を体現したキャラクターであることは紛れもない事実であるのだ。 簡単に演じられる役なんてない、ということを肝に命じてもらいたい。
ビデオを見たあと、塩浦嬢の似顔絵を描く。ホームページに今度メンバーの顔を載せるのだが、写真がイヤな人は似顔絵を載せることにしたのだそうな。 二点ほど描いたが、塩浦嬢、どうも今イチ気に入らない様子。そこで女房に、「おまえ描け」と命令する。……念のために言っておくが、女房に絵心はない。完璧にない。彼女のデッサン能力は幼稚園でストップしたままである。 案の定、出来あがったイラストを見て、一同大爆笑。ピカソやダリも裸足で逃げ出すほどの傑作である。そのうちホームページに載るだろうが、その出来映えを堪能していただきたい。 私も諸事情で顔写真は載せられないので、美形バージョンと毛虫バージョンを描いたら、みなが毛虫バージョンを選ぶ。くそ。
塩浦嬢は一足先に帰り、残りのメンツで夕食。今日は女房手製のカレーである。 女房には何度も注意しているのだが、具はたっぷり入れるくせに、カレー粉をやたらケチるので、毎回コクもなく薄いスープのようなカレーにしかならない。 鈴邑君、やはり「醤油貸して下さい」と言い出す。見るに見かねて私がカレー粉と隠し味にソース等を注ぎ足して、何とかカレーらしくなる。毎回こうだからなあ。少しは料理も上達して欲しいもんだが。
鈴邑夫妻、夕方には帰る。次会う時にふなちゃんはどれだけ大きくなっていることか。 CSで『ダロス』を見ているうちにウトウト。今日は早寝だ。
| 2001年02月03日(土) |
笑いの王国/『かめくん』(北野勇作)ほか |
今日も女房はずっと寝ている。昼夜逆転してるだけでなく、確実に一日12時間は寝ている。 いいなあ。 でも私も実は具合が悪くて仕事を休んで寝ていたのだ。すると、珍しくも久しぶりに夢に女房が出てきた。私はめったに女房の夢なんか見ないのだが、何を急にトチ狂ってしまったのだろうか。 ところがこの夢、夢のクセに何の飛躍もないのである。ただただ女房とのごく普通の日常が続くばかり。退屈した私が冒険でもしようと思い立つのだが、どう冒険していいのかも分らない。「夢の中でもおまえとだとロマンの一つも思いつかんのだなあ」とタメイキをついた途端、目が覚めた。 ……うーん、以前から女房との二人芝居がやれたらなあと思ってたんだが、深層意識は既に「それは無理」と答えを出しているのだろうか(^_^;)。
パソコンにしがみついて、劇団のホームページの方の日記を懸命にこちらにコピーする作業。 12月から11月と遡っていきながら、自分の過去の文章を読み返していくが、昔のことってホントに忘れているものである。備忘録のつもりもあって書いてきたが、こりゃマジで役に立つわ。 単にこういう事実があった、ということだけではない、当時の感情が、多少の誇張があるとはいえ、文章からにじみ出ているのである。しかし、俺って、ウケねらいとは言え、ここまでぐーたらに自分のこと書かなくてもいいんじゃないかという気がしてくるなあ。でも真実を書くと、はっきり言ってシャレにならんのだ。 感動させる文章、泣かせる文章、そういうものは実は意外と簡単に書ける。ただ、笑わせることはやはり至難のワザだ。これは意外と気づかれていないことだが、「泣き」のためのマニュアルは日本人は共通して持っているが、「笑い」については、そのフォーマット自体、実はまだ確立していないからだ。 こう言いかえればわかりやすい。ある対象に対して「泣く」ことについてはタブーが殆ど存在しないが、「笑う」ことについてはそれが存在しているのだ。 事故現場や葬式の最中に「笑う」ことはタブーだが、お笑い番組を見ながら泣いたって、そりゃ感覚が違うだけだろう、泣く人もいるさ、で済まされる問題である。タブーがないだけに、人は泣かそうと思えば泣かせやすいのである。 なぜ「笑い」についてだけタブーがあるのか? 「泣き」と「笑い」がなぜ対照語として対置されているのか? 「泣き」が基本的に対象とのシンパシーを築こうとする感覚であるのに対し、「笑い」は対象を拒絶し差別化することで成り立つ感覚である。当然、対象からの「反逆」が有り得るのは後者だけだ。「笑い」が人々の間に共通感覚として受け入れられるためには、その笑われる対象が明確に「差別されている」にもかかわらず、「これくらい別にいいじゃん」と考える人間の方が多いことが大切なのである。 政治家が「笑われる」対象として選ばれやすいのは、世間のみんなが彼らが「権力者」であることを知っており、その権威を引き摺り下ろしたい衝動を我々が共通して持っているからにほかならない。 だから、「弱者」に向けられる「笑い」はしばしばタブーとなる。それは多数の人々の共感を得られないからだ。 「日記」を読み返して自分でもビックリしたのは、私のからかいの対象が見事なくらい「強者」にしか向けられていない点だ。これはかえって、嫌味ですらある。実のところ世の中の出来事や人々は簡単に「強者」と「弱者」に分別できるものでもない。複雑な状況を解き明かすわけでもなく、世間一般の常識に基いて「強弱」を規定した上に行われる「笑い」は実は大した批評性を持っていない。 ……なんかそんなコムズカシイことまで、自分の日記を読み返しながら私は思っていたのである。大げさなこっちゃ。
本棚をあさってみると、女房が読んだあと適当に突っ込んだままで、私がまだ読んでなかったマンガの類がゴッソリ出て来る。(その感想は明日書こう。今日はもう眠い)
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で、続き。つい200番をゲットしてしまった。何人かにしか存在を教えてないのにカウント数がこれだけあるということは、少しは面白がってもらえてるのだろうか。反応を聞いてみたいが、読者の感想を書きこめるようなコンテンツは作れないのかな。
北野勇作『かめくん』、デュアル文庫も次から次へと毛色の変わったモノを出してくれるなあ。私はハヤカワSFのJAシリーズ、角川文庫ジュブナイルシリーズ、あるいはソノラマ文庫に一番ハマった世代なので(ハヤカワの銀背には間に合わず、富士見ファンタジア文庫には今イチ燃えきれない)、このシリーズにはその頃の古きよきSFの雰囲気があるので、できるだけ買って行こうと考えているのである。 この物語、設定はあるがメリハリのあるストーリーは特にない。と言うよりストーリーを必要としない。「木星戦争」に投入するために開発されたカメ型ヒューマノイド・レプリカメ。その一人(?)、「かめくん」の、地上での日常と思惟を坦々と語っていくというものだ。 カメは結局カメだから、何か深い思索ができるわけでもない。ただのんびりとカメでいるだけである。しかし、ただのんびりと暮らしたことのある人なら気がつくことだと思うが、世の中はあまりにも苦しみ悩み、切なくなっている人たちで溢れかえっているのである。 宇宙での戦いから帰還し、再び宇宙に旅立って行く。今度は無事帰還できるか分らない。つかの間の休憩の間の出来事。 普通の日常が描かれているのに読後の印象がどうにもやるせないのは、この、人の好い、りんごが好きで、司書のミワコさんが好きで、平凡な日常が大好きなかめくんに、多分もう二度と会うことがないからだ。 こういう「何となくSF」(今私が名づけた)、大好きなんだなあ。こういうのも書いてみたいなあ。
マンガ、『ワンピース』17巻(尾田栄一郎)、ドラム島編、やっと終り。アラバスタ編もできたら3巻以上かけずにまとめてほしいなあ。でないといつまで経っても「ワンピース」の謎にたどり着けないぞ。でもこのままだと、最後の仲間、「音楽家」が登場するのは20巻以降か……? 既にポスト・鳥山明が尾田栄一郎であることはハッキリしてるのだから、リタイアさせるような仕打ちを編集部がしないことを望むまでである。 『Q.E.D.』6巻(加藤元浩)、これも買っておいて女房が勝手にどこかにしまい込んでいたもの。主人公の燈馬想の妹が登場。エピソードごとに出来不出来が激しいが、今巻も多少、これは無理があるなあ、という感じが強い。偶然に頼り過ぎるトリック、底の浅い人間関係、プロットやストーリーの弱さももちろんだが、画力がミステリーに向いていないのもネックかも。……でも何話かに一つ、傑作書くこともあるんで、やめられないんだよなあ。 『ダーリンは生モノにつき』5巻(吉原由起)、女房が思いきりハマって読んでるエロマンガ。もう5巻か。人気あるんだろうなあ。愛上さんも好きって言ってたし。二人ともこれはエロマンガではないと言い張っているが、「ちんこの曲がりぐあいも好きだよねーねー」なんてセリフが出てくるマンガがエロマンガでないとどうして言えよう。でも不思議だよな―。女の子って、「ちんちん」とか「ちんこ」とは口に出せても「ちんぽこ」は言えんのだ。世代によっても違うのかな。 『ネコじゃないもん!』9巻(矢野健太郎)、惰性で買ってる第9巻、80年代前半の風俗、時代感覚を思い返すのには役立つか。主人公たちがデートが「名画座」に行くってのがいかにも時代。そうかあ、この頃の東京にはまだ名画座があったんだなあ。レンタルビデオでも下火になった今、もうちょっと持たしておいてくれれば、かえって今の方が名画座に行こうって若者も増えたかもしれないのになあ。 『こち亀』123巻(秋本治)、25年前、ジャンプの新人賞を受賞した第一作の頃に、「『こち亀』は21世紀まで続くだろう」と予言していたら、バカ扱いされてたろうな。しかし未だに記号的な女しか書けない人だなあ。纏ちゃんみたいに活動的なキャラはまだ生きてるんだが。でも酔っ払った左近寺が「ときメモはギャルゲーじゃなくて純粋RPGだ〜」と叫ぶあたりは笑った。そうだったのか(^o^)。 『藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版』7巻、シリーズなんでカットされるかと思っていた『夢カメラ』シリーズ、ちゃんと収録されていてよかったよかった。『スーパーマン左江内氏』は収録されるのかなあ? 巻末の藤本さんのご長女の解説で、藤本さんが「『ドラえもん』を止めさせてくれないんだ」と述懐していた、というのは、ああ、やっぱりなあ、という印象である。「手塚さんの『火の鳥』のような大長編を描きたい」と口にした時、ファンから「『ドラえもん』は大長編じゃないですか」と言われて苦笑いされていたというエピソードもどこかで見たか聞いたかした気がするが、藤本さんの心の葛藤を思わせる。
夕方になって起きてきた女房に頼んで買い出しに行ってもらう。2500円しか渡してないのに、ほか弁を四人前も買ってきて、しかも頼んでおいた飲み物の類を買い忘れている。なぜもう少し慎ましやかに食えんかなあ。金がいくらあっても足りんぞ。 喉あめを舐めながら、DVDで『ヤン・シュワンクマイエル短編集』を途中まで見る。
夜、電話があって、鈴邑・愛上夫妻来る。ふなちゃんまた大きくなって既に10キロ。抱き上げると重い重い。 「よだれ垂れますよ」と心配するお母さん。 「赤ちゃんなら当たり前じゃん」 愛上さんの話によれば、「汚いから赤ちゃん嫌い」という若い人も多いのだそうな。そんなのが子ども作ったりする世の中なんだよなあ。愛上さん、母親として世間の親子の絆の不在に関する憤懣を怒涛のごとく語る。でもあまりつっぱりすぎて無理はしないでほしいものである。 ゆっくりとパソコンでホームページを見てもらったり、公演のアンケートの感想などを見てもらう。更に一緒に前回の公演のビデオを見る予定だったが、突然鈴邑君の携帯に電話がかかって、用事が出来て帰宅することに。 というわけで明日もまたお二人(と赤ちゃん)は、ウチに来ることになったのであった。
で、今日はこれで打ち止め。……今までで一番長く書いたかな。
| 2001年02月02日(金) |
ゆっくり休もう/舞台『人間風車』ほか |
朝から喉が痛い。 声がマトモに出ないし、部屋の中が乾燥していて咳が止まらなくなりそうなので、風呂に入り、女房のイソジンを借りて何度もうがいする。 昔から風邪を引いたら風呂に入るなとよく言われていたものだったが、湯冷めさえしなければ、血行がよくなってかえって体によいそうだ。昔からの生活の知恵なんてのも意外とあてにならないもんだよなあ。 ふと、排水溝を流れていく赤茶けた液体を見ていて気がつく。今まで、この溝のところに赤くこびりついていた垢の正体は流れきれなかったイソジンだったか! 私はあまりこの手のうがい薬を使ったことがないので何のヨゴレか分らなかったのだ。してみると女房のやつ、口を漱いだ後、お湯できちんと流しておかなかったな。汚ねえやつめ。
その女房はよくここまで眠れるなあ、というほどに寝ている。結婚して足かけ十年、いくら言ったところでもうこの性格は変わりようがないので、起こしはしない。起こしたところでどうせ悪態ついてこっちの世話しようとしないのは目に見えている。具合が悪い時に無理矢理体力使って、癇癪を起こして、ますます疲れるのはご免被りたい。 ああ、奥さんがもう一人欲しいなあ(いや、浮気がしたいという意味でなく)。 てなわけで、熱っぽい体を布団に横たえて、一日過ごす。ゆっくり休んでなきゃいかんと言うことは分っていながら、ついビデオなんかを見たりする。私は既に本中毒、映画中毒なので仕方がないのだ(冗談ではなく、二日も本を読まないでいると禁断症状が出る。眩暈がして指先が痺れてくるのだ)。
昨日届いたばかりのビデオ『人間風車』、舞台を見に行ったときはオペラグラスを忘れて行ったので、私の拙い視力では表情はほとんど分らなかったし、二役、三役をどのようにこなしていたかもサッパリだった。役者さん、みんないい表情しとるわ。 売れない童話作家、生瀬勝久、いつもはふざけたギャグみたいな童話しか作らない彼が、斉藤由貴と恋に落ちたことから、一世一代の感動的な童話を書き上げる。しかし、その童話が賞の選考に残った頃から、逆に彼の運命を翻弄し始めて……。「運命の歯車が狂い始める」というのは演劇のパターンであると同時に人生の醍醐味でもある。何だか最近の自分自身の事情とも重ね合わせて、身につまされながら再見。 阿部サダヲの知恵遅れの演技、やっぱりいいなあ。女性ファンが圧倒的についたというのもよく分る。 ナマの迫力はないものの、ビデオは細部を見直すことができるので、聞き損ねていたギャグも確認できてよい。特に劇中劇の童話のタイトルが全て確認できたのは収穫であった。『鉄の爪兄弟』『狼酋長』『人間発電所』……タイガーマスク世代には感涙ものであるが、やっぱり童話のタイトルじゃないよな、これ(^_^;)。 ビデオで見返しても楽しめるようなら、その舞台は充分成功作である。女房の反応が今イチだったので、ビデオで見たらつまらんかなとも思っていたのだが、そんなことはなかったのでひと安心である。女房が乗れなかったのは、劇中劇を多用した二重構造の仕掛けが見えすぎたせいだろう。特に童話であるはずの劇中劇が「ギャグでつないで最後に泣かせて」といった、80年代小劇場演劇っぽいのには違和感を感じてしまったのではないか。 舞台で、俳優がセリフ自体は相手の俳優に向かって語られているはずなのに、カラダはしっかり観客の方を向いていることが多々ある。これを芝居における約束事と受け取れるか、不自然と受け取ってしまうかで、演劇に対する興味を喚起されるかそうでないか分れてしまうことがある。もちろん、観客へのアピールという点から、大抵の演出家は不自然さはさておいて大抵前を向かせたがる。 昨日の『菜の花の沖』なんか、カムチャッカのロシア人たちと、高田屋嘉兵衛が船に乗って別れるシーンなのに、両方が同じ船の甲板にいて、嘉兵衛だけが後ろに下がり、同じ観客の方を向いて手を振っている、という不自然極まりない演出をしていた。でも客にケツ見せるより、不自然でもそっちの方が正解だったりするのだ。 『人間風車』でも、クライマックスでは主役三人が前を向いている。しかし、それが不自然に見えないのは、彼ら三人が、その同じ視線の先に、劇中劇の主人公である「ダニー」のイリュージョンを見ているからである。 ああ、この手があった。というか、この程度の演出、思いつかないとなあ。ウチの芝居の欠点の一つに、この辺の「観客不在」があるのだ。やはり芝居は数をこなして見に行かないとなあ。金はかかるけど。
鴻上さんの『恋愛戯曲』も、中島らもの『虎をつれた女』も、見たいけど月に何本も行けんので、今んとこ諦めてるのだ。……でも、行きたいという人がいたらメールで連絡下さい。ホームページの掲示板にはもう書きこまないので、演劇情報もこれからはこっちの日記に書きます。
DVD『サウスパーク』6・7巻、ようやく日本の放映分に追いつく。でも例のポケモンのパロディ、『チンポコモン』が収録されている気配はない。アメリカ発売のDVDには収録されてるというから、カットされたんだろうが、日本でのバッシングを気にしたというより、どうせあのカントクたちのことだから、無許可で勝手にパロったに違いなく、訴えられるのがイヤだったんだろう(^_^;)。 しかし見られないとなると見てみたいものだなあ。AIQのどなたか、購入してないものだろうか。 7巻から、恒例だった監督たちのイントロダクションがなくなっている。これも何か抗議があったのではないかとうがった見方をしたくなる。ある程度の「悪意」を許容できない社会は一種の全体主義社会と言ってよい。差別の錦の御旗の下に言論統制を行う風潮、アチラもコチラも変わらないのだろうか。
一端昼寝をした後、熱は引いたようなので、昼間ずっとメンバーのある女性から頼まれた秘密の仕事にとりかかる。 今度失敗したら私の命はない。嘘だけど。
女房、5時過ぎてようやく起きてくる。案の定、買い物を頼むとしぶるので、「ならいい!」と怒ると、悪いと思ったのか牛丼を買ってくる。 ……意外と優しいじゃん、と女房のことを見直してはいけない。女房は更に何人前も弁当やサラダを買いこみ、冷蔵庫の中に隠していることを私は知っているのだ。
女房とDVD『六番目の小夜子』を4話まで一気に見る。テレビ放送の時は何話か見逃しているので初見のシーンも多い。しかしワンシーン、ワンカットに「少年ドラマ」のエッセンスが凝縮されていることに驚嘆。これは『愛の詩』シリーズなのにメイキングでスタッフ・キャストの誰もが『少年ドラマシリーズ』と言っているのがご愛嬌である。 果たしてこれはミステリーなのかホラーなのかSFなのか、栗山千明扮する謎の転校生、佐世子の正体も亡霊のように思わせながら普通の女の子のようにも見え、更にエスパー?という展開すら見せつつ、二転三転するストーリーが秀逸。 民放でキムタクのトレンディドラマ見てるひまがあったら、ちゃんと受信料払ってNHKを見よう(^o^)。
夜になっても喉のいがらっぽいのは収まらない。でも明日は仕事も半日だけだし、何とかなるかな。でも女房は『鴉』のビデオの編集、どうするんだとせっついてくる。休日もゆっくりは出来ないかもなあ。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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