5月、落ち着いて来た。。

忙しすぎる日々が続いていたが、どうやら落ち着いて来たらしい。
今の職場は1月〜12月という単位なので3月が年度末ではないが、
毎月締めがあり、部署発足から1年半近くたって、
たまりにたまってた案件がどんどん終わっていくようで、
ここ数ヶ月は月末がほんとに大変だったのだ。。

で、3月の通院日前日の25日以降、設定がおかしいのか、
windowsへのログインパスワードを入れてクリックして起動しても、
アウトルックは見れない、ネットは見れない、、という状態になった。
とはいえ、忙しすぎてすっごい疲れているので原因をつきとめようにも面倒。
って、実はD・A・Iのライヴがあって予習復習していたり、
「スウィングガールズ」にはまっていて、映画は3枚組、
ライヴ盤も買ったのでそれを見るのに時間を割いていたのだが(^^;

4月頭の週、やっと暇な時間が出来たときに、職場でネットサーフィンする。
それで、我がおのでら酒店のHPより母親が入院中との事を知る。
驚きのためか、すぐに携帯で実家に電話してしまったくらい。
父親があたし宛でメールしたらしいが、そのメールが見れないから
もちろん、そのことは知らなかった。

あらためて、どうにかしなきゃと思うが、急な寒暖の激しさにより、
鼻風邪が悪化し、早退したり、仕事を休んで一日中寝たり。
そしてその週の土曜日、ちょっとは良くなったのでと行動していたら、
かなり疲れてしまい、夜には発熱(_ _;)
自然治癒を目指すが熱は下がらず、翌明け方頃に
解熱剤を服用するのだった。

とはいえ、その色々と行動していたときにISDNのモデムの上に
載っているものをどけて、コードを抜いて拭いて、
再度接続しなおしてみたら、、
メールもネットも出来るようになったのだった(^-^)

これにはめでたしめでたしだったが、その翌々週、
電話が使えないことを知る。
いつからだろう、、もしかしたら電話も3月終わりから
使えなくなってたんだろうか。。(-ー;)

原因は、接続したときに「カチッ」と音がするはずのコードの一部が
なくなっていることだ。
とはいえ、結構前からこの状態だったけど、、
それでも電話使えてたんだけど、、

このGWに帰省した際、親が必要ないコードを2本くれた。
そのうちの1本が電話用だったらしく、それを接続したら、、
ちゃんと使えるようになり、これまた、ほっとしたのだった(^-^;

で、そのGW中の帰省について。
ソメイヨシノはまだ咲き始め、良くても五分咲きぐらいだ。
ということでなのか、秋田の角館に母親のお兄さん夫婦と行く。
かなり込んでいて、行ったらちょっと散りはじめだったが。

二日目は、正月の矢沢あいに続いて、今度はいくえみ綾を
読み出し、全2巻の某コミックスだけ持って帰ることにした。

帰省中の恒例で町内散歩で1時間ほど歩いたが、
ほんとに汚い、大きな雪の固まりがまだまだ残っているのに、
桜は咲いていて、周りの山々は上のほうが緑がかっていて、
冬と春と初夏が混同している感じだ。
夕方には組の花見にちょっとお邪魔して、今回、家では
出されてない山菜料理とか、色々と食べる。

今回、行き帰りともに夜行バスだったため、田舎にいたのは
たった二日だったが、ま、これぐらいが良いんだと実感。

ちなみに、母親のたった3週間ほどの入院中、
2回も手術をしたのに、すごく元気だった。
そもそも、1回目は患部が小さすぎて削れなかったんだとか、
執刀医の腕はどんなもんかね?

それと、2月になくなった従姉妹の葬儀の時に使われた写真や
母親が親戚連中と撮った写真を見せてもらった。
少しは実感出来るようになった。


さて、仕事はもちろんだが、経済状況も3月末に某ローンが終わり、
長く、高い最後の山をやっと超えることが出来た。
とはいえ、部屋の更新があってちょっとやばいかもということで
そういう意味での融資はあるが。
ま、経済的にも、体力的にも、精神的にもかなりひどかった
あの日々を考えれば、まるっきり逆、全ての面で落ち着いた。

これから何をしよう、何か新しいことをはじめようか。。
まずは、新しい服を買ったり、久々に電化製品を買ってみたり、、
その前に今月はライヴが二公演、それも平日だ。
自分のペースで楽しんで行こう。
2005年05月07日(土)

悲しい出来事。

人は生きている限り、必ず老いていくもの、
そしていつかは必ず死んでいくもの。

今回は、とうとう来てしまった、
とてつもなく悲しい出来事について。


XXXちゃん、母方の従姉妹、
享年29歳(早生まれなので誕生日が来ていればだが)
岩手県盛岡市出身 2月2日死去 病名:子宮癌

当初は4日が通夜で、5日は友引だから6日が葬儀とのことだったが、
まとめてやってしまう、ってことに変更になった。
3日が通夜で、4日が葬儀ってことなのかな。

午前中トイレに立った際、ついでのように黙祷してみた。
「あなたの分も、というわけじゃないけど、生きてみるよ。
ここしばらくは無理せず、それなりにだけどやってます。」
、、、てなことを唱えていたら、じわりじわりと涙が溢れてきて
結局1分も出来なかったが。

仕方なく、午後になってからもう一度、黙祷する。
おそらく今頃、火葬されて空に上っている頃だろうか。。


思えば。
子供の頃からバレエを続けていて、
10代半ば、高校を退学してスイスへ留学。
そのときに白血球が少なくなるという病気になりバレエを断念。
帰国後はモデルの仕事へ。

美少女コンテストでおなじみのオスカープロモーションに
所属していた東京在住時は恵比寿に住み、近くにあった店で
ばか高い野菜を買っていたこともあるそう。
ちょっと歩けばもっと安い店があったのに。
あたしが記憶しているところでは、雑誌だと、ヘアカットや
ストレッチの特集で見たぐらいかな。

故郷岩手で放送されたという某TV番組のビデオでは、
第三回国民的美少女コンテストで入賞者で、
一時期はベイビーズというグループでも活動していた
某女の子と一緒にレッスンしている模様や、
上手くもなく下手でもない歌をレコーディングしていたり。
子供の頃から通ったバレエ教室に遊びに行くシーンがあったり。

オスカーを退いたとあとは盛岡に戻り、
仙台の事務所に所属して東北を拠点に活動、
ときどきはジャズダンスの講師などもしていたよう。

そんな矢先に発覚した子宮ガン。
三年間の闘病生活、一度は克服して通常の生活が出来た時期も
あったけど、昨年夏終わりに再発。
きっと大変とか、辛いとか、そんな言葉で表せる以上に
壮絶なものだったんだろう。

その、克服して普通の生活をしていた頃に、
あたしはDWLで安比高原に行ってお泊りする予定で、
もしかしたら会うことができたかもしれない。
結局はその二年前くらいの母方の祖母の葬式か、一回忌のときが
最後だったのかもしれない。


三連休の初日、母親から電話があり、葬儀の様子を聞いた。
今回、市議会議員であるお兄ちゃんが新聞に告知を出したそうで、
場所は某ホールを借り切って、という結構なものだったようだ。

そもそも、兄が市議会議員(あの覆面レスラーが同僚にいる)なら、
父は陶芸売り、祖父は写真家でエッセイスト、叔父には直木賞作家。。
よぉく考えないまでも、親戚では一番の芸能一家だ。

葬儀で使われた写真は、バレエをやっていた頃のもの、
モデルとして雑誌の表紙になったもの、
全てプロにとってもらったもので、
本当にすごくきれいなものだった。
葬式というにはふさわしくない、
でも、彼女の人生としてはある意味ふさわしい、
最後の最後まで華やかなものになったようだ。


盛岡というと、2歳で患った足の火傷の手術のために
岩手医大に入院したのが小学校四年。
退院後も、中学の頃までは一年に一度という割合で通院していた。
大人になってからは、民生、ドリ、ELTと、3回も
ライヴで岩手県民会館に行き、親戚宅にお泊りした。
で、上記のDWLは行けず。。

3月の三連休の頃に行ってみようか、と母親から言われている。

身近な人の死というと、最初の派遣先のお仲間だった人が
白血病で、やはり、当時ぎりぎり20代だったと思うが、亡くなった。
ちょうど二年前の今頃のこと。
うちのほうだと二年でも三回忌だけど、どうなんだろう。

いずれにしても、あたしは生きている。
今までも、これからも、死へと向かって生きていくんだろう。。。
2005年02月18日(金)

より自分らしくあるために / さお