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2004年03月14日(日) 小雨

窓の外に目を遣ると灰色の厚い雲が広がっている。家に誰も居ないことに気付く。ひどく鬱な気分になった。食欲は相変わらず減退したままで、読書も勉強も、映画も何をするにしても気分が乗らない。かなり早いが荷造りを始めた。

霧のような雨の降る中バス停へ向かう。目の前でバスを逃した。次のバスだとバイトの時間にはぎりぎりになるなと諦めながらダウンタウンまで歩く。ギャレリアの中で、バスを待とうと椅子に座りかけたとき、向うから誰かがやってくる。「えっと」誰だかわからない。続いて一緒にやって来たのはモリヒロ君だった。おそらくフェアウェルの時、バーで初めて会った彼女だろう。近況や今後の予定など含め、20分ほど話していた。久し振りのことだった。私がカナダを出る前にまた会う約束をし、バスへと向かう。バイトには余裕で間に合った。乗るはずだったバスは逃して良かったと少し思った。

昨日と同じように、静かに過ぎていった一日だった。


2004年03月10日(水) 郊外へ

早朝に目が覚める。半地下の窓から見える空はまだ暗かった。そのまま出かける用意。早く起きすぎたので当然時間が余る。家に電話する。今月中には帰ってくると思っていたらしい。実際のところいつ帰るのか、自分でもわからないのだ。旅路はまだまだ続く。

晴天。トロントへ。時間がないため珍しく地下鉄を利用。Highparkという、ブロアストリートをずっと西へ行ったところで降りる。地上に出るとすぐにHighparkという公園が見えた。葉を落とした木々が、あの日のセントラルパークを思わせる。住所の記憶違いから、逆方向に数ブロック歩いてしまい、緩やかな坂道だったせいか、その時点で予想外に体力を消耗してしまっていた。帰りに公園に寄ることは断念。目的とする某旅行会社でとりあえず手続きを済ませる。2ブロック東に、壁面にロシア語が書かれたコンビニのようなものを発見したがその文字だけを見た瞬間に拒否反応が起きる。動悸がした。読めない、わからない、いかに致命的なことであるか。

イートンセンターへ。買い物の目的は特にないので、いつもの通りマクドナルドで昼食を取り、Yves Rocherで友人へのお土産になりそうなものを適当に選ぶ。ブロアでの歩き疲れと、コートの重さで次第に疲労感が増してきたところでSEARS側から表のストリートに出てバスターミナルに向かった。散歩にはちょうど良い天気だった。地下鉄内にいた時間は長かったけれど。


2004年03月04日(木) 力抜け

フィルムを現像したが、ろくな写真が撮れていなかった。辛うじてアルバムに貼れそうなのはビクトリアパークのスケートの写真くらいで、それ以外はセンターがずれている、人物が小さすぎる、逆光、そして顔が気に入らない等の理由で、もう見る気がしない写真としてフィルムと共に封印されるところだが、他の写真とは違う思いが巡るのも事実。ピントがずれていても、笑顔がこわばっていても、その目に映っているのは確かな記憶。写真には写っていない、写真を撮った側の風景が浮かぶ。自分にしか見えない記憶として。

あいかわらず気分は沈んだままだ。いつもなら単純に感動していた春を思わせる風や、いつもと違う通りを歩いたときに聞こえる鳥の声にさえ、心を向ける余裕もない。いつもなら、心の中に大きなため息をつかせていた、ルームメイトの冷たい返事にも、反応する余裕はない。

「だから何だというのだ」。気抜け状態である。一過性のものであることはもちろん知っている。体調が思わしくないというのも原因の一つである。




2004年03月01日(月) give me some advice

昼を過ぎた頃に曇り空から雨に変わる。空気は生温かい。ここ数日は天気が変わりやすい。いっそ、空模様だけを書き連ねる日記にしようかと一瞬だが本気で考えた。冬は本当にもう戻ってこないのだろうか。

恋愛をしたことがなくても、恋愛小説は書けるというが、人にアドバイスする点でも、ある程度までは似ているのではないかと思った。根本的に人間関係における信心だとか慈悲が存在するゆえに、問題は恋愛に限ったことではないからだ。体験談というのはほとんど当てにならない。普遍的な恋愛論というのが存在しないように一つのパターンが誰にでも適用されるはずはないからだ。恋愛は生身の人間が複数関わってくるゆえにそのパターンはさらに複雑化・多様化する。小説は、基盤とする人間関係の上にあくまで自由な想像に徹すればいい、それだけの違いである。

他人の、まして私なんかの意見を聞きたがる、恋する人間達が未だに理解不能である。美しい恋愛小説のような物語を現実に求めているのだとしたら、その時点で自分は現実世界に生きている人間で、他人に作られた主人公でもないことに気付くべきだと言いたい。たいていは理想と現実のギャップに苦しんでいるだけだ。その理想とは何だ。自分は神でもなければ他人を操ることなど不可能である。要は、「愛している」のか「愛されたいだけ」なのか一度でも自分に問いただしたことがあるかどうかだ。あまりに単純すぎる結論である。


2004年02月29日(日) 偽り

ただ一つの思いに執着しているだけの自分に気付いたとき、自分に対する偽りの罪の重さに打ちのめされる。人と人との間に、偽りの流れ込むことができる空間は目に見えずとも常に開かれているのかもしれない。一方的にそれを閉じることも、閉じたように見せかけることも不可能なのだ。それぞれが認識の上で、その空間の存在を知ることで初めて、偽りそれ自体は全て流れ去ったかのように見えるだけである。しかし、そこに他者の存在しない自分自身という空間に偽りがあるとしたら。それが見つかったとしたら。どこから生じたのかさえ分からないとしたら。罪であることを認めるしかない。自分自身を裏切った罪。自分自身に偽られたその未熟さ。偽る事を無意識に許した自分を悔やんだら、もうくり返すことは意識的に選択されないはずだ。


川村 |MAIL