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2004年02月26日(木) leave to start

厳しいことを厳しい口調で言われてから2日ぶりにバイトへ。甘えを許していた自分を叱咤してくれる存在があることはありがたいことなのだと自分に言い聞かせつつも、闘争心だけは表情から隠せない。そしてそれは決して憎悪から来るものではないのだ。表情の奥にあるのは、二度と自分を甘やかさない決意と、二度と相手にちょう笑させる余地を与えないという意地ともいえるものだ。

先週もそうだったが、「風に乗って春の香りがする」。本当に、もうすぐそこに来ているとしか思えない。手を伸ばせばそこに存在するもの。

手を伸ばせば届いていた。あんなに近くにあったのに。そして離れても、いつかまた巡り巡って再び近づき、顔を見合わせ、その瞬間に互いの過去を重ねる。もう一度手を握り締めあうために、再び離れる。気の遠くなるほどに延々と続く時間。しかし空白にしてはならない。


2004年02月22日(日) 感情

最近は一日二食の生活が続いている。しかも2回とも全く同じメニューだったりする。栄養、美味、手軽という三要素を常に心がけ、美食より知食を重んじているゆえに、95%はベジタリアンメニューであるが、同じものを食べ続ける点では知的食生活からはほど遠い。流通経路を少し変える必要がある。鳥fluにもBeefにも、影響を受けないにしても。

感情を抑えるのではなく、自分の中で起きてしまった感情を、必要なときにのみ言葉、態度に表すことができるかどうか。それが、要は大人か子供かである違いだろう。感情を抑えろとも、自分に謙虚になれとも、相手に遠慮せよとも言っていない。状況を冷静で公正な目で判断せよと言う意味だ。自分の目、相手の目、隣人の目で見ることを忘れてはいけない。自分に素直になるという意味を取り違え、好き勝手に振舞うことが許されると思っているらしい。もっとも、やっかいなのは謙虚と遠慮の区別がつかない輩だ。その根拠はあまりに多様であり、普遍的な善悪の区別のように教育されることも矯正されることも不可能に近いのだ。

いつしか、作り笑顔ではなくなり。

Do something every day that you don't want to do; this is the golden rule for acquiring the habit of doing your duty without pain. ―マーク・トゥウェイン




2004年02月21日(土) 感傷

感傷的になるのは勝手だが、いつまでもそれに浸っていると進めないだけでなく、破滅へと追いやられる。繊細さゆえに感じる、感傷は何も生み出さない。感傷的な詩や歌があっても、それは哀傷がいつしか時に彩られ一種の美を備えた記憶となり、感傷を抱いたことそれ自身に対する歓喜をも伴ったときに描かれてものであり、感傷それ自体から直接生まれたものではない。センチメンタリストを私は信じない。

ちょうど、旅立とうとしていたそのときに、ルディから一通の手紙を受け取る。なんだかんだ言っても、現実は面白い。どこを向いても、そこには駆け回る人たちで一杯。


2004年02月20日(金) 遠い

昨日に続き、温かい。昨日は見上げて深呼吸したくなるほどの青空。そして、何より日差しに熱を感じる。これじゃまるで「春」。目を閉じると、まるで春の陽気のもと、京都の疎水沿いを散歩しているような幻想が現れる。春といえば京都なのだ。記憶。懐かしさに春を求める。それでも本当の春は、まだ遠い。

律子さんの家にお茶に呼ばれる。すごく優しい方。そして良い奥さんという雰囲気でいっぱい。私には備わっていないだろうほどの本当に暖かな親切さが嬉しかった。

今日は雨。雪も解け始めていた。ここでは珍しくも、コートの繊維を通して不快なほどの湿気を感じる。バイトの帰りなどは、視界が霧で覆われていた。はるかに高い空までも覆っていただろう。


2004年02月15日(日) nothing but

会話だけではなく文章までも支離滅裂であることに、最近になってようやく気付く。会話は、相手の流れに乗せられやすいこともあるが、せめて文章にしたためる際は、完全に理路整然であることを心がけたい。読む習慣以上に、書く癖がなかったことが何よりの原因ではないか。

癖といえば、口癖。最近多いのは"I have nothing"という、この生存をも否定し得る、究極にネガティブな3語のフレーズ。のように、書いてみて一瞬思ったが、消極的な意味ではもちろん使っているつもりはない。むしろ、"nothing"に重きを置いてよいと思うからだ。今の人生は満ち足りているか。Yesとはいえないだろう。手に入れたいものは数え切れぬほど存在する。だけど、今のところそれが足りないからといって、決して不満ではない。手に入る可能性が残っている限り、生き続けることができる。野心を持って目標に向かうことができる(つまりはより長く若者でいられる?)。

今幸せか、と聞かれると幸せだと答えるだろう。なぜなら何も持っていないからだ。人は永遠を欲する。永遠の美貌だとか愛だとか富だとか。しかし、心のどこかでは、それらはいつか尽きるものだと分かっている。物事には終わりがある、と自分に言い聞かせる。あきらめ。しかし尽きないものがある、それが"nothing"だったり。そこでは喪失の悲しみを知らない。

書くことがないので、仏教にもある話を挙げました。メールを読みながら聞いていた、ケミストリーのsecond to noneに入っている曲の歌詞に、ふと気付かされたのがきっかけ。ちょど今の自分だろうと。


川村 |MAIL