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2004年02月10日(火) |
be changed |
結局のところ、誰によっても彼を変えることはできなかった。今の時点での結論だ。本人さえも望んでいるにもかかわらず。しかし、変わらない彼によって、私自身は変わったと思う。これは確か。彼を見つめること、それは同時に、自分自身をも見つめることを含んでいた。どう変わったのか。端的に言えば、良くなった。それならそれでいいわけで、ありがとうと感謝して、それ以上に何もいらない。
人が人を変えるのは難しい。人が人によって変えられるのは、それに比べると容易ではないか。またもや受動・能動態の観点から考えると「変えられた」物(者)がその実感を持って初めて「変えた」という現象が認められるのであって、その逆は無いと私は考える。
今日はほとんど家の中で過ごす。夕方に息抜きに散歩、帰りにカフェで読書。日常は時が経てば非日常に変わるであろうことに気付く。もう、カナダに戻ることはないでしょう。
頭痛を昨夜からひきずっていた。バイトも終盤になったころに、ようやく収まり始める。たまにこういうことが起きる。寝ても静まらない頭痛と疲労。
数日前に、某辻仁成作品を一晩で読み切り、物語のショックから直後に吐き気がし、翌日は絶望にも似た表情を消すことができず、精神的な戸惑い、迷いを今日あたりまでひきずっていた。ケミストリーの軽いラヴソングを聞きながらメールを書いたり読んだり。C&Aの歌を、都合の良いように解釈しながら聞く。なるべく深くは考えないようにする。所詮は小説だったり歌だったり。あくまで人が「創った」ものに過ぎない。小説のように生きている人が側にいる。まるで創られた世界を、現実のものとして生きているのだ。むしろそれが本人の人生、哲学であるかのように。私にも似た傾向がないとはいえない。自分のしてきたことを、人の創った歌や物語に重ねて回想することがある。馬鹿みたいな話だが。
しかしこれ以上、他人の作った物語に惑わされたり、希望を裏切られたりしたいと思わない。常識や理にかなう物語から外れたとしても、私の思うような人生を描いている小説が必要だ。かつて誰も創っていないというのなら、私が創ることが使命なのかもしれない。物語と現実のあいだで、揺れた数日だった。
「ある行いをした後で、悩まされ、眼に涙をためて泣き叫ぶ。そのような報いを受ける行為は、してはならない。」(ダンマパダ)
常に正しいしい選択を、ということを心がけていたが、今になってもやはりどちらが正しいのか間違っているのか、迷うことがある。その時の自分の気持ちに正直になることだけが、賢明な選択であるとは限らないからだ。それは、誰か自分以外の相手に向ける言動である場合はなおさらである。その瞬間だけの感情に決して押されてはなるまい。考えるまでもなく、正しいとはいえないと行動する前に自覚する場合もあれば、考えさらに考え、結果、感情を抑えなければならないときもあるだろう。正しいとは思えないと判断された行いを為すことがないように。少なくとも自分自身を認めてくれている相手だからこそ、ここまで考えなければならない、それだけの価値があるのだから。誰に対しても、そして自分自身に対しても公平に振舞えるようになるために。
率直に言うと、恋多き人生を過ごしてきたかもしれない。恋をするというよりも、むしろ無闇に、無秩序に恋心を抱きやすい質だったのだ。恋と愛の違いとか、よく議論されたり、作家にも語られたりしているが、それぞれの定義などどうでも良い。今思えばあれは恋ではなかった、などと言うつもりもない。質の良い悪いはあったにせよ、その時々においては、全身全霊でその時の自分なりの恋にぶつかっていたのだから。愛とは何か、なんてわざわざ考えるまでもなく、恋をしているということはその対象に愛を見出しているわけで。気付かなかったのは、その愛と見なすものが、真の優しさからくるものなのか、あるいは単なる執着なのか。静かに、止まらない涙を流し続け、心の奥底からこみ上げる思いを抑えられない自分を認め、他人を愛することがそのにとっての幸せであり、ひいては他人の幸せが自己の幸せであると気付いた時に初めて、いわゆる本当の愛とは何かということが分かるのかもしれない。真実だと信じるものを謙虚に信じ、謙虚に生きる、それで良いのだと思う。
いつもどおりに一日が始まり、いつもどおりに過ぎていった。
昼は玉子丼。考えてみるまでもなく、普段食している玄米が、純粋に不味いことがわかる。数週間前、F氏が北米の玄米一口に、ものすごい反応を見せていたが、その時初めて、こんな不味いものに「耐えている」自分に気付いたのかもしれない。元々グルメな体質ではないが、本当に美味しいものと美味しくないものとを区別できなくなる、むしろ日本の食材がいかに口にあっていたか、いかに良いものに恵まれていたかを忘れるほうが問題だ。違いに気付いていようといまいと、慣れきってしまうのは怖い。実家にあるピアノは、実は4年以上調律していない。ここ数年のうちに、数えるほどの作品しかマスターしていないが、その間に音感が失われたあるいは狂いはじめただけではなく、本来作曲家が作り上げた曲からはかけ離れてしまい、間違ったものを、マスターしたつもりになっているのかもしれない。その曲に似ているに過ぎない音楽を、私が演奏する限りの本物として慣れきってしまっているのだと。
書くことがないので、いつもの癖で行を無駄に使う。昨日、Yves Rocherで買ったばらのオードトワレだが、これはばらのイメージというのではなく、もうばらの花びらそのものである。花粉さえ残っているような。ばらの花束に直接顔をうずめているような。失敗かと思ったが、数時間後には花束から開放され、まるでばら園にいるかのような、良い雰囲気をかもし出す。
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