昔むかし、その昔。私がまだ嫌な人間だったころ、少女の中で 私はひとり「欠陥少女」だった。
それはまるで、綺麗な花畑の中に置かれた、ねずみ色の、 形いびつな古代の種のようで。…決して花を咲かせない乾いた種は、 水をあげても育たない。
そういうわけで、花を諦めて、何が出来るか考え中で、結局そのまま 大きくなってしまったのが、私。水のかわりに、何をあげたら いいのかも分からないし、自分がどうなれば幸せなのかも分からない。
時間が経てば経つほど、私の中の欠陥少女は、どんどん悲しくなっていく。 自分で無視しただけだけど。
高校生の頃、家路の途中に坂があって、行きは上りで帰りが下りだった。
坂を上る時は、毎日遅刻すれすれの電車で通学だったので、いつも必死で 時間と戦って駆け上がっていた。いつも、駅に着いてから体中からどっと 汗が吹き出るのがとてもイヤだった。
坂道の、一番悲しいのは冬の帰り道。
坂から下には海が広がっている。その向うには何も見えない。 遠くて近い、自分の家の屋根と、その向うには、黒くうごめく波と、 白くくすんで、よどんだ空ばかりで。
坂を降りながら現実に帰るとき、いつもいつも、思っていた。 このままここで行き倒れたら、どんなに楽だろう。 次に目を覚ました時には、自分のベッドの中じゃないだろうか。 ここからトンと足を弾ませたら、自分の家の前まで跳べたらいいのに。 …このまま全てが終わってしまえば楽になるのに。
疲れていたり、だるい気持ちになっていると、それがあの時の気持ちと 重なって、とても冷たくかじかんで、硬くなる。…固くてもろい心になる。 それじゃダメなんだと毎回思うけれど、どこかでそういう自分を甘受して しまう自分がいて、そうして甘やかしているうちに、同じ事を繰り返して しまうのかも知れないと思う。
私はまたいつもの坂道に立っていて、とぼとぼ、下っていく。
この世界の中で、どれだけの人に批難されても、
私を許してくれる人が一握りでもいるのなら、その人の為に 生きていこうと、勇気が出るような気持ちがある。
そういう気持ちを起こさせてくれる人を、心から愛していたいと思う。
そういう気持ちには、老若男女は関係無いはずだと思うけれど、
それが何処まで本当かどうか、まだ何も分からない。
だけど、信じたい人がいればこそ、生きている意味もあるのかなぁと思う。
これだけたくさん人が居ると、自分の定規では決して計れない 人も、存在する。そういう人とは、どれだけ談義してもほとんど 相容れることが無い。
この世で一番悲しいのは、無視される事と水掛け論をすることだ。
そのどちらも自分が認められないし、そういう関係でいることは、 お互いにかん違いした世界観でしか生きられないということだ。
正義とか、正しいことを追求するのは難しい。 他人を理解するのも難しい。 未来を断言するのも難しい。
なんだか、世の中難しい事ばかりだなぁ、と思うとなんだかため息が 出る。私は自分自身でかん違いした勝手な世界で生きていて、 もしかしたら私と相容れない人も同じようでそうなのなら、 そんな自分に気付く事で、何かお互いが歩み寄れないかなあと思う。 だけどそれもやっぱり難しいから、うまくやるのってやっぱり 難しくて大変だな、と思う。
もっと、恋みたいに単純で純粋なものだけだったらいいのかも知れないけれど。
今日は、妹と少し話をした。
二十歳の妹は、人生の色々なことに悩んでは落胆する。 で、彼女と話していて感じたのは、彼女が悩む理由の一番大きな ものが、人生の「答え」に対する葛藤だと、いうことだ。
分りやすく言うと、「彼女は人生にはっきりとした終着点を求めている」 と言えるかも知れない。…何か、唯一絶対的な答えや終着点を、彼女は 求めている。けれど、万物が移り行く世界にただひとつの答えなどない。
ただひとつあるとしたら、それは全ての「果て」だと私は思う。
今のところ私が生きている中では、全てにおける悩みの終着点は 「納得する」という行為によってもたらされている。
これはこういう物なんだ、と思う。 こういう解決の方法もあるんだ、と思う。 こんな生き方があるんだ、と思う。
そうしながら、自分で納得しながら生きていかなければ 全ての問題に終わりはない。
この世であらゆる詩人が、「人生に終わりは無い」と言うけれど、本当に それはそうだろうと思う。生きている限り悩みはあり続け、悩み続けるかぎり 人は生きていると思う。もしそれを諦めたら、生きていることが薄くなる だろう。…私たちは進みつづけなければならない。仮に一時立ち止まっても、 終わりの無い、「果て」までの道を。
誰かの心の中で、ずっと消えない言葉を残したいと思う。
私の頭の中で、一生消えない言葉。
それは、愛してるとか、大好きだとか、大事にするとか そんな軽軽しい言葉ではなくて、
ずっと友達だとか、一生側にいるよとか、そんな薄っぺらい 言葉でもなくて、
だけど今はきっと、全然思いつかないようなそんなもの。
私の体の全ての分身が、あなたの中に残ればいい。
誰から見ても彼に大事にされてない女の子が誰かにそれを忠告されたとしても、 真実の言葉は、果たして彼女に届かない。
恋をする女の子には、どんなに明らかな事実も、「希望」という 愚かな恋心に邪魔をされる。…事実は明らかにならない。
誰かを好きになると、自分に都合の良い事実しか見えない。 「好き」だという気持ちが、冷静な判断力を失わせてしまう。
だけど、彼の為ならどれだけ傷ついても構わない、という勇敢なお嬢さんは、 無防備に「信頼」をまとって旅に出る。
彼女は果たして、その旅路で何に出会うだろう。
…彼女は果たして、気付くだろうか。
人は、傷つかなければ気付かない事がたくさんあるという事に。
…「信頼」のベールで彼を甘やかす彼女には、一生気付かない真実がある。 本当に手にしたい愛は、傷つけることを避けていては手に入らない。
求める真実の愛には、守るだけでは得られないものがある。
毎日幸せに暮らしたい。
朝は心地よく目覚め、昼に適度な運動、三度の食事は体を、環境は心を 満たし、毎晩布団に入るときには一日を後悔せずに眠りにつきたい。
頭の中は、理想という名の夢で一杯だ。
子供に夢を託す親。自分の非力を他人のせいにする人。 無意味に封建的な夫。嫁をいびるのが生きがいの姑。 親から自立できない大人。会話の乏しい形だけの家族。
世の中は悪い見本で一杯だ。
だけど私は、まだ、人間を諦めたくない。 自分を少しでもよりよくしたい。悪い見本が身近にあるからといって、 流されていてはいけないと思う。もう少し、もう少しの間、自分を 満足させてあげたいと思う。
私は、恋人に触られるのが好きだ。 ただ何もしないで、笑いあうのも好き。 Hするのも好きだし、手を繋いで歩くのも好き。
こういう事をしながら、一体何が、恋人とそうでない人を 分けるのかと考える。
その結果、こういう何でもない事を、何の気兼ねもなく 出来るところが違うのかな、という結論に達した。
私はそれでも、未だに急にお腹を触ると、ものすごくびっくり する彼を、とても好きだと思う。
そして、いつまでもこのままで居たいと思う。
2003年04月03日(木) |
Noone can be perfect |
ときどき、私と付き合ってくれる人に対して、 「どうして私なんかと仲良くしてくれるんだろう」と思う事がある。
こんなふうに思うのは、決まってなにか新しい事を始める前が多い。 何か新しい事をする時、行動する前に、私はふと後ろを振り返る。 新しい行動を起こすとき、人は必ず人生の分岐点に居る。そして片方の道に 決めて歩き出したとたんに、過ぎ去った分岐点が気にかかるのかも知れない。 そして、「今ならまだあそこに戻れるんじゃないだろうか」なんて思う。
そんなふうに自分に自信が無くなると、周りの人に聞いてまわりたくなる。 どうして私に優しいのだろうと。だけど、この言葉は口にだして聞かない ようにしている。それは、誰かと付き合う時に、人は理由を持たないと 思いたいから。相手のもたらす損得とは関係無いところにあるものを 私は友情とか愛情と呼びたいと思う。
私は自分に自信がなくなったとき、ある短い一文を思い出す。 それは英国でよく見かけた広告の一部分だ。 Noone can be perfect.
こういう素敵な言葉を、誰もが一つは心に持っていると良いと思う。
|