優しい心は、大切なのにすぐにどこかへ行ってしまって、 気が付くと留守。日々の生活に追われて、優しい心は、 すぐにハカナク消えてしまうの。さびしい。かなしい…?
忘れないように、心にとめておかないと。傷ついて泣いた夜も、 一人でうずくまる夜も、報われないでしょう。
大事なものほど、すぐに消えてしまうから、普段から 気を付けて見つけてあげなくちゃ。 自分のために、誰かのために。
私は意志の強い人が好きだ。私は、強く見えても本当はとてももろくて、怖がりだから、ただそこにいるだけで強くなれるような、綺麗な瞳をした人が好きだ。ただひたすらと前を見つめて、自分で道を創り、その道の真ん中を胸を張って歩ける、ぴんと背筋の延びた、指先まで、つま先まで魂が込められたような、そんな人になりたい。 意志を強く、というのはとても難しい事だ。なぜなら、意志の強さはそのまま、生まれ持った魂の強さだからだ。魂の色のはっきりしている人は、瞳の輝きもキラキラとして綺麗。魂の綺麗な人はカラダも強くて、しなやかだ。
そんな人に憧れている。
躰の関係は、それはそれでいいものなんだろうけど、そればかりでは 仕方がない。どうせやる事は同じなのに、それが特別に思えるという 現象は何故に起こるのか??では私が肉体を卑下しているかと言ったら そうでもないけど、それよりやはり心の占める割合が多いように思う。 誰かを特別に気に入るのは、ある程度の愛着と心の中身によるのだと 思う。躰はその次か。…躰の関係はとても便利だからね。プラトニック だけでは到底グロ過ぎて語り合えないほどのお話も、たしかにとりあえず 抱き合っていれば解消するということもある。それほど躰の関係は、 頭を使わずにうまく付き合っていけるための手段としては優れている。
かといって、本当に心だけで、それが躰と全く別の存在になったとしたら、 多分人は誰とも付き合っていけないのだろうとも思う。それほど、 プラトニックラブはキツイと思うよ。精神的な世界はそんなに甘く単純 じゃないから。躰が感じる一時的な悦楽は、生きていく為の麻薬的な 快楽であって、これがあるから人は生きていけるし、動物的で即物的な 面も維持していけてるのだと思う。そう思うと怖いね。どの辺りまでが 人間で、どこからが動物なのかというあたり。
心も躰も、適度なバランスが必要なのだと思う。
私は、今まで、後ろ向きに進んできた事の方が多い。よく言えば 過去を大事にすると言えるけど、悪くいうと過去にこだわり過ぎて いたと言える。私にとって過去にあった出来事や思い出は、何にも 変えがたい重要なもので、だから、それを執拗に大切に、大事に し過ぎていた。だけど、本当に大切なのは、大事な思い出にすがる 事では無くて、それを下敷きにしながらでも、今を大切にする事だと 今日思った。…今までこうだった、今まではこうして来た。昔の 自分は、これだけの事をしてきたのだと、繰り返し人に主張するより もっと大切なものがあるのだ。だから、私は少しだけ、過去を忘れ ようと思った。手放そうと思った。そうしないと、新たな自分が 見えて来ないからだ。
本当に大切なコトは、手放しても踏みつけても、自然と自分に ついて来るのだろう。何をしても無くならないものが、本当に 大切な自分なんだと、そう思った。
2001年04月24日(火) |
JERRY BEANS |
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世の中には、どうも「不幸病」という感染系の病気が 流行しているらしい。病気、というと言い過ぎか。 要するに、不幸だと思い込んでいる人が居るということだ。
本当に辛い境遇にあったら、のん気に「不幸だ」と人に アピールしている余裕は、無い。泣き事をいくら重ねたって お腹も心も膨らまないから、少しでも現状を良くしたり 維持する努力をするはずだ。
不幸病は感染病だから、不幸を気取っている人の近くに 居ると、なんと本当に不幸が近づいてくる。
そして、自分で不幸だと主張する人は、ある程度平凡な幸せ を既に提供されている人が多い気がする。 自分がどれだけ不幸かなんて、アピールしたって、もらえる ものは同情か憐れみだ。彼らは何も出来ないし、してくれ ないのに。
神様の言葉は、信じた人には聞こえるという。けれど、かつての 預言者たちは、はたして神様を心から崇拝して、信じていたから 御言葉を賜る事が出来たのだろうか?…答えは、否。 神様はランダムに人を選ぶ。そして、その人が悪人でさえなければ 言葉を与えてくれたのだと思う。つまり、神様は常に適当で不公平だ ということだ。だって、そうでなければ信じた人だけ助けなくても 良いんだもの。不思議な力がたくさんあるなら、その力で悪人を 改心させてあげたら良いのだ。
つらいのは、いつも心正しき者。人を思いやれる優しい人は、常に 傷ついて泣いているではないか。それでも彼らは幸せか?…? 神様は不公平。江尾Kひいきが得意で、信じた人だけ救ってくれる。
私は背徳者だから、神様の言葉は聞こえない。だけど、幸せだ。
彼氏の寝息が額にかかる夜は、私は一番幸せで不幸せだ。 おでこに近づく唇も、閉じた瞳も可愛くて、上目遣いで 寝顔を見ると、心臓をわし掴みにされたように、苦しい。 こいつの眉間によったしわの数をひとつでも減らせるなら、 なんだってしちゃうかも…。そう思うのと同時に、私は 一体、いつまでこいつを「好き」だろう、と思う。
時々、彼がどれだけ自分を好きか、試したくなる。だけど、 「好き」に尺度は無い。いつでも時価な愛に相場の値段を 付けようだなんて、本当、バカバカしいじゃない。
なのに、こういう夜に限って、私は女で、こんなに馬鹿馬鹿しい ことに夢中になってしまう。だから、ばかなんだろう。ねぇ。
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